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【1章】引きこもり魔女、森を出る
小さな魔女の小さな世界
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王都から少し離れた場所にある、街のはずれ。木漏れ日の優しい、森の中の小さな一軒家に、一人の年若い魔女が住んでいた。
「ミシェル、開けて」
凛とした声の少女が魔女の家の戸を叩く。栗色のソバージュと、大きな琥珀色の瞳が特徴的な少女は、滅多に来客のないこの家の数少ない馴染みだった。
少女の声掛けに魔女は杖を掲げる。ガチャっと軽快な音を立てて鍵が開き、次いで戸が開いた。
「お久しぶりです、ソフィア」
この家の主である魔女――――ミシェルはそう言って穏やかに微笑む。
ソフィアは「久しぶり」と口にしながら、ゆっくりと家の中に足を踏み入れる。古いがよく手入れがされた家を見回しながら、ソフィアは笑みを浮かべた。
「ケーキを焼いたの。ミシェルも一緒にどうかな、と思って」
そう言ってソフィアは、街から持参したカゴを掲げて見せる。
ソフィアの作る菓子は絶品で、カゴからはほんのりと甘い香りが漂う。シェルはウットリと微笑みながら、ソフィアに駆け寄った。
「ありがとうございます! 今、お茶を淹れますね」
「うん、よろしく」
ソフィアは慣れた様子で家の奥へ進むと、椅子へと腰を下ろす。けれど、椅子には先客がいた。ミャァ、という不機嫌そうな鳴き声に、ソフィアはすぐに椅子から飛び退いた。
「あら、いたの? トネール」
ソフィアはそう言って首を傾げる。彼女の目の前には金色の毛並みが美しい、一匹の猫が佇んでいた。
猫は碧色の瞳を不機嫌に歪め、真っ直ぐにソフィアを睨みつける。猫なのに高潔さの漂うその風貌に、ソフィアは小さく笑った。
「しかし、すっかり居ついちゃったのね、この猫」
「はい。私も意外でした」
ティーポットやケーキをテーブルに並べながら、ミシェルは感慨深げに呟いた。
トネールがこの家に来たのは今から2か月ほど前。ある嵐の夜のことだった。
森の真ん中、大きな楓の木に雷が落ちた。ミシェルの家から程近い場所だ。凄まじい衝撃で地面が揺れ、木からは大きな火の手が上がった。
その燃え盛る炎の中から現れた猫がトネールだった。
トネールは熱がるでも、痛がるでもなく、悠然とミシェルに向かって歩いてきた。
街で捨てられ、木の幹に隠れていたのだろうか。はたまた雷と共に現れたのだろうか。正体不明のその猫は、それ以来ミシェルの家に居ついてしまったのだった。
「まぁ、良いんじゃない?本人もここが気に入ってるみたいだし、可愛いし」
ソフィアはそう言ってトネールに向かって手を伸ばす。けれどトネールはフイとそっぽを向くと、ミシェルの膝へ静かに飛び移った。
「……どうやら、私のことはお気に召さないみたいね」
「すみません……基本的に私以外の人と接する機会がないのが理由だと思うんですが」
困った表情のミシェルを余所に、トネールはフンと鼻を鳴らす。それからミシェルに頬擦りをしながら、ギロリとソフィアを睨みつけた。鋭い視線だ。ソフィアは小さくため息を吐きながら、ゆっくりと紅茶を啜った。
「気にしてないわ、相手は猫だもの。ミシェルにとっては唯一の家族なんだし」
ソフィアの言葉に、ミシェルは少しだけ目を伏せた。トネールが咎めるような表情をソフィアに向ける。
「え……あぁ、ごめんなさい! しんみりさせたかったわけじゃないんだけど」
ソフィアが慌てたように口にすると、ミシェルは声を上げて笑った。
「私の方こそスミマセン。いい加減慣れなきゃって思っているんですけど、中々……。でも、ソフィアの言う通り、私にはトネールがいますから」
ミシェルはそう言って、トネールの背をそっと撫でる。気持ちがいいらしく、トネールは目を細めながらミャァと小さく鳴いた。
けれど次の瞬間、トネールはピンと耳をそばだて、ミシェルの膝から飛び降りた。碧い瞳が険しく吊り上がり、尻尾をツンと屹立っている。
「あら? トネールったらどうしちゃったの?」
「あぁ……多分ですけど」
ミシェルが口を開きかけたその時、
「ミシェル!」
という呼び声と共に、家のドアが開いた。
家の前には一人の青年の姿。色素の薄いブラウンの髪を上品に切りそろえたその男性は、年の頃ミシェルの一つか二つ年上といった頃合い。スッキリとした目鼻立ちに均整の取れた身体つきをした、好青年の風貌をしている。
けれどトネールは真っ直ぐに男性を睨みつけると、荒々しい鳴き声を上げた。
「こんにちは、ミシェル!」
「やっぱりクリスだったのですね」
ミシェルはクスクス笑いながら、玄関へと向かった。
男の名はクリス。昔から付き合いのある、ミシェルの幼馴染だ。
「会いたかった……中々足を運べず、スミマセン」
クリスの手には、ミシェルへの手土産である小さな花束が握られていた。森では見られない美しい花々で構成されたそれを、クリスはそっとミシェルに差し出す。
けれどその瞬間、トネールがクリス目掛けて真っすぐに飛び上がった。次いで花びらがひらひらと宙を舞う。
「あぁ、お花が!」
「――――またやってくれましたね、トネール」
悲嘆の声を上げるミシェルとは裏腹に、クリスは穏やかに笑った。
床に散らばった花びらを見つめつつ、クリスはトネールを撫でる。不機嫌そうな表情を浮かべつつ、トネールはフンと鼻を鳴らした。
「ミシェル? お客さま?」
ミシェルの帰りが遅いことを心配したのだろう。ソフィアがひょこりと今から顔を出す。
「あぁ、スミマセン。長く待たせてしまって。今、紹介を――――」
「クリス様」
けれど、ミシェルが紹介するより先に、ソフィアがポツリと呟いた。心なしか頬が紅く染まって見える。思わぬことにミシェルは小さく首を傾げた。
「まさか……本当に、クリス様⁉」
そう口にするソフィアの瞳は、驚きと興奮で見開かれている。
「失礼、先客がいらしたのですね」
クリスは平然とした様子でミシェルに微笑みかける。ミシェルはコクリと頷きながら、ソフィアの隣に移動した。
「はい、私の友達ソフィアです。ちょっと前に、森の中で迷っていたのを見つけて。それ以来こうして、たまにここへ来てくれるんです」
「へぇ……」
そう言ってクリスは、ソフィアをまじまじと見つめた。どこか値踏みをするような、怪訝な表情に、ソフィアはたじろぐ。
追い打ちを掛けるかの如く、クリスの肩に飛び移ったトネールが、ソフィアを睨みつけた。四つの翠の瞳がソフィアに突き刺さる。ソフィアは居心地悪そうに、そっと顔を背けた。
「ちょっと二人とも、そんなに見つめたらソフィアに失礼ですよ」
「えっ……あぁ! すみません、少し考え事をしていたものですから」
クリスはそう言って微笑みながら、ソフィアの手を軽く握る。
「失礼いたしました、ソフィア嬢」
「いっ、いえ、そんな! 」
手の甲に口づけられ、ソフィアはウットリと瞳を輝かせる。
「あの、お二人はお知り合いなのですか?」
「いや」
ミシェルの問いかけに、クリスが首を横に振った。その瞬間、ソフィアは少しだけ残念そうに眉を顰めたが、すぐにニコリと微笑む。
「私が一方的に存じ上げてるだけ。っていうか、この辺りでクリス様を知らない人はいないわよ」
いつになく瞳をギラギラと光らせながら、ソフィアがそう力説する。
「そう、なのですか……」
「そうなの! だって、クリス様といえば、文武両道だし、とってもカッコよくて素敵だし。何より――――」
「まぁまぁ、僕のことはそのぐらいにしておいてください」
クリスはそう言って穏やかに笑いながら、ミシェルの肩を優しく叩く。
ミシェルはクリスを家の奥へ案内しながら小首を傾げた。
狭い狭いミシェルの世界の中、クリスは数少ない外への扉だった。
この世に生を受けてからの十四年間、ミシェルはこの森から一度も出たことがない。祖母から強くそう言いつけられていたからだ。
その上、森の奥深くにある一軒家を訪れるものなど殆どいないし、何よりも祖母が来客を嫌がった。普段温厚で優しい祖母だが、街から迷い込んだ人間がミシェルと言葉を交わすだけで、酷く狼狽え声を荒げる。だから、ミシェルが人生の中で会話をした人間は、両手の指で足りるほど。
けれど、外の世界の話を聞くのも、森の中を駆けまわるのも、クリスと一緒ならば祖母は何も言わなかった。
(私、クリスが有名人なことも、カッコよくて素敵に見えるってことも、全く知りませんでした)
小さくため息を漏らしながら、ミシェルは隣に腰掛けたクリスを覗き見る。
書物から学び取った判断基準が全てだったミシェルにとって、何かを客観的・相対的に判断することは難しい。
だから、クリスが美しいだとか文武両道だと言われると、そうなのか、といった感想になってしまうのである。
「ところでミシェル。あなたは数か月前、森の中で知らない人間を数人見たと言っていましたね」
クリスはティーカップを手に、何やら思案顔を浮かべている。
「あっ、はい。よく覚えてましたね」
ミシェルは自身のカップをテーブルに置きながら、天を仰いだ。
「だけど、あの方々を見かけたのは一度きりです。恐らくは興味本位で森に入られたのだと思います」
「そうですか」
クリスはそう呟きつつ、小さくため息を吐いた。祖母の心配性が移ったのだろうか。何やら心配そうな表情だ。トネールもクリスに同調するかのように、ミシェルに擦り寄り、顔を見上げてくる。
「二人とも、大丈夫ですよ。こんなところまで悪い方がいらっしゃるわけがありませんから」
ミシェルはそう言ってクスクスと笑い声を上げる。
トネールはしばらく黙ってミシェルを見つめていたが、ややしてクリスの膝に飛び移った。ミシェルに向ける愛らしい表情とは打って変わり、ふてぶてしい表情でクリスを睨みつけている。
ソフィアが紅茶を啜りながら、小さく首を傾げた。
「ねぇ、トネールはクリス様のことが嫌いなの?」
「うーーん、どうなのでしょう?」
ミシェルも一緒になって首を傾げる。
クリスが家を訪れる度、不機嫌に喉を鳴らすのは確かだし、今だってお世辞にも好意を向けているようには見えない。けれど、どことなく気はあうように見えるし、トネールがクリスを嫌っているかと問われると、返答に困ってしまうのだ。
「トネールって、クリス様には身体を触らせるのよね。私のことは避けるくせにさ」
「あぁ! そういえばそうですね」
言われてみればそうだと、ミシェルは息を呑んだ。
トネールはこれまで一度だって、ソフィアに身体を触らせていない。いつも絶妙に距離を取って、彼女を避け続けていた。
けれどクリスに対しては、あんなにもふてぶてしい表情を向ける割に距離が近い。今だって彼の膝の上に収まって、黙って身体を撫でさせている。言われてみればそれは、不思議なことだった。
「きっとトネールは、本当はクリスのことが大好きなんですよ。それに、結構頻繁に会っていますし。ソフィアもきっと、そのうち仲良くなれますよ」
ミシェルの言葉に、ソフィアは小さく頷いた。クリスとトネールは、そんな二人の様子を静かに眺めている。
「いけない、そろそろお暇しないとね」
ソフィアが徐にそう切り出した。
森の日が落ちるのは早い。窓の外を見ると、空はあっという間に茜色に染まっていた。
森の出口へ急ぐソフィアの後姿を、ミシェルは静かに見送った。
「――――ねぇ、ミシェル。そろそろここを出ませんか?」
ミシェルの後ろでポツリとクリスがそう漏らす。
祖母が亡くなってからの数か月、もう何度も提案されてきたことだ。ミシェルの心臓が小さく疼いた。
「クリス……ありがとうございます。けれど私はここにいます。おばあ様との約束がありますから」
目を閉じれば、祖母の姿が浮かび上がり、声が聞こえる。
『おまえは外の世界に出てはいけないよ』
祖母の掛けた魔法は強力だ。とてもじゃないが解けそうにない。
「もう、あなたを縛るおばあ様はいらっしゃいませんよ」
クリスはそう言って首を横に振る。手のひらを握りながら、真っ直ぐにミシェルを見つめていた。
「……決心が付いたらいつでも知らせてください。住むところも、身の振り方も、私がいくらでもお手伝いしますから」
「ありがとうございます、クリス」
ミシェルは穏やかに微笑みながら、そっとクリスの手を握り返した。
「人の心を変える魔法を見つける……か」
街への帰路につくクリスの後姿を見つめながら、ミシェルは小さくそう呟く。
それは遠い昔、顔も分からない誰かがミシェルに向かって呟いた言葉だ。祖母を失い、この森を出るという選択を提示されて以降、その時の記憶が度々ミシェルの頭に浮かんでは消える。
「ねぇ、トネール。私は『寂しい』のでしょうか?」
ミシェルの瞳に、真っ赤に燃える夕陽が映る。
「私は『自分の心を変えたい』と、そう思ってる?」
答えが返ってこないと分かっていて、ミシェルは尋ねる。腕の中の猫が、ミャァ、と小さく鳴き声を上げた。
「ミシェル、開けて」
凛とした声の少女が魔女の家の戸を叩く。栗色のソバージュと、大きな琥珀色の瞳が特徴的な少女は、滅多に来客のないこの家の数少ない馴染みだった。
少女の声掛けに魔女は杖を掲げる。ガチャっと軽快な音を立てて鍵が開き、次いで戸が開いた。
「お久しぶりです、ソフィア」
この家の主である魔女――――ミシェルはそう言って穏やかに微笑む。
ソフィアは「久しぶり」と口にしながら、ゆっくりと家の中に足を踏み入れる。古いがよく手入れがされた家を見回しながら、ソフィアは笑みを浮かべた。
「ケーキを焼いたの。ミシェルも一緒にどうかな、と思って」
そう言ってソフィアは、街から持参したカゴを掲げて見せる。
ソフィアの作る菓子は絶品で、カゴからはほんのりと甘い香りが漂う。シェルはウットリと微笑みながら、ソフィアに駆け寄った。
「ありがとうございます! 今、お茶を淹れますね」
「うん、よろしく」
ソフィアは慣れた様子で家の奥へ進むと、椅子へと腰を下ろす。けれど、椅子には先客がいた。ミャァ、という不機嫌そうな鳴き声に、ソフィアはすぐに椅子から飛び退いた。
「あら、いたの? トネール」
ソフィアはそう言って首を傾げる。彼女の目の前には金色の毛並みが美しい、一匹の猫が佇んでいた。
猫は碧色の瞳を不機嫌に歪め、真っ直ぐにソフィアを睨みつける。猫なのに高潔さの漂うその風貌に、ソフィアは小さく笑った。
「しかし、すっかり居ついちゃったのね、この猫」
「はい。私も意外でした」
ティーポットやケーキをテーブルに並べながら、ミシェルは感慨深げに呟いた。
トネールがこの家に来たのは今から2か月ほど前。ある嵐の夜のことだった。
森の真ん中、大きな楓の木に雷が落ちた。ミシェルの家から程近い場所だ。凄まじい衝撃で地面が揺れ、木からは大きな火の手が上がった。
その燃え盛る炎の中から現れた猫がトネールだった。
トネールは熱がるでも、痛がるでもなく、悠然とミシェルに向かって歩いてきた。
街で捨てられ、木の幹に隠れていたのだろうか。はたまた雷と共に現れたのだろうか。正体不明のその猫は、それ以来ミシェルの家に居ついてしまったのだった。
「まぁ、良いんじゃない?本人もここが気に入ってるみたいだし、可愛いし」
ソフィアはそう言ってトネールに向かって手を伸ばす。けれどトネールはフイとそっぽを向くと、ミシェルの膝へ静かに飛び移った。
「……どうやら、私のことはお気に召さないみたいね」
「すみません……基本的に私以外の人と接する機会がないのが理由だと思うんですが」
困った表情のミシェルを余所に、トネールはフンと鼻を鳴らす。それからミシェルに頬擦りをしながら、ギロリとソフィアを睨みつけた。鋭い視線だ。ソフィアは小さくため息を吐きながら、ゆっくりと紅茶を啜った。
「気にしてないわ、相手は猫だもの。ミシェルにとっては唯一の家族なんだし」
ソフィアの言葉に、ミシェルは少しだけ目を伏せた。トネールが咎めるような表情をソフィアに向ける。
「え……あぁ、ごめんなさい! しんみりさせたかったわけじゃないんだけど」
ソフィアが慌てたように口にすると、ミシェルは声を上げて笑った。
「私の方こそスミマセン。いい加減慣れなきゃって思っているんですけど、中々……。でも、ソフィアの言う通り、私にはトネールがいますから」
ミシェルはそう言って、トネールの背をそっと撫でる。気持ちがいいらしく、トネールは目を細めながらミャァと小さく鳴いた。
けれど次の瞬間、トネールはピンと耳をそばだて、ミシェルの膝から飛び降りた。碧い瞳が険しく吊り上がり、尻尾をツンと屹立っている。
「あら? トネールったらどうしちゃったの?」
「あぁ……多分ですけど」
ミシェルが口を開きかけたその時、
「ミシェル!」
という呼び声と共に、家のドアが開いた。
家の前には一人の青年の姿。色素の薄いブラウンの髪を上品に切りそろえたその男性は、年の頃ミシェルの一つか二つ年上といった頃合い。スッキリとした目鼻立ちに均整の取れた身体つきをした、好青年の風貌をしている。
けれどトネールは真っ直ぐに男性を睨みつけると、荒々しい鳴き声を上げた。
「こんにちは、ミシェル!」
「やっぱりクリスだったのですね」
ミシェルはクスクス笑いながら、玄関へと向かった。
男の名はクリス。昔から付き合いのある、ミシェルの幼馴染だ。
「会いたかった……中々足を運べず、スミマセン」
クリスの手には、ミシェルへの手土産である小さな花束が握られていた。森では見られない美しい花々で構成されたそれを、クリスはそっとミシェルに差し出す。
けれどその瞬間、トネールがクリス目掛けて真っすぐに飛び上がった。次いで花びらがひらひらと宙を舞う。
「あぁ、お花が!」
「――――またやってくれましたね、トネール」
悲嘆の声を上げるミシェルとは裏腹に、クリスは穏やかに笑った。
床に散らばった花びらを見つめつつ、クリスはトネールを撫でる。不機嫌そうな表情を浮かべつつ、トネールはフンと鼻を鳴らした。
「ミシェル? お客さま?」
ミシェルの帰りが遅いことを心配したのだろう。ソフィアがひょこりと今から顔を出す。
「あぁ、スミマセン。長く待たせてしまって。今、紹介を――――」
「クリス様」
けれど、ミシェルが紹介するより先に、ソフィアがポツリと呟いた。心なしか頬が紅く染まって見える。思わぬことにミシェルは小さく首を傾げた。
「まさか……本当に、クリス様⁉」
そう口にするソフィアの瞳は、驚きと興奮で見開かれている。
「失礼、先客がいらしたのですね」
クリスは平然とした様子でミシェルに微笑みかける。ミシェルはコクリと頷きながら、ソフィアの隣に移動した。
「はい、私の友達ソフィアです。ちょっと前に、森の中で迷っていたのを見つけて。それ以来こうして、たまにここへ来てくれるんです」
「へぇ……」
そう言ってクリスは、ソフィアをまじまじと見つめた。どこか値踏みをするような、怪訝な表情に、ソフィアはたじろぐ。
追い打ちを掛けるかの如く、クリスの肩に飛び移ったトネールが、ソフィアを睨みつけた。四つの翠の瞳がソフィアに突き刺さる。ソフィアは居心地悪そうに、そっと顔を背けた。
「ちょっと二人とも、そんなに見つめたらソフィアに失礼ですよ」
「えっ……あぁ! すみません、少し考え事をしていたものですから」
クリスはそう言って微笑みながら、ソフィアの手を軽く握る。
「失礼いたしました、ソフィア嬢」
「いっ、いえ、そんな! 」
手の甲に口づけられ、ソフィアはウットリと瞳を輝かせる。
「あの、お二人はお知り合いなのですか?」
「いや」
ミシェルの問いかけに、クリスが首を横に振った。その瞬間、ソフィアは少しだけ残念そうに眉を顰めたが、すぐにニコリと微笑む。
「私が一方的に存じ上げてるだけ。っていうか、この辺りでクリス様を知らない人はいないわよ」
いつになく瞳をギラギラと光らせながら、ソフィアがそう力説する。
「そう、なのですか……」
「そうなの! だって、クリス様といえば、文武両道だし、とってもカッコよくて素敵だし。何より――――」
「まぁまぁ、僕のことはそのぐらいにしておいてください」
クリスはそう言って穏やかに笑いながら、ミシェルの肩を優しく叩く。
ミシェルはクリスを家の奥へ案内しながら小首を傾げた。
狭い狭いミシェルの世界の中、クリスは数少ない外への扉だった。
この世に生を受けてからの十四年間、ミシェルはこの森から一度も出たことがない。祖母から強くそう言いつけられていたからだ。
その上、森の奥深くにある一軒家を訪れるものなど殆どいないし、何よりも祖母が来客を嫌がった。普段温厚で優しい祖母だが、街から迷い込んだ人間がミシェルと言葉を交わすだけで、酷く狼狽え声を荒げる。だから、ミシェルが人生の中で会話をした人間は、両手の指で足りるほど。
けれど、外の世界の話を聞くのも、森の中を駆けまわるのも、クリスと一緒ならば祖母は何も言わなかった。
(私、クリスが有名人なことも、カッコよくて素敵に見えるってことも、全く知りませんでした)
小さくため息を漏らしながら、ミシェルは隣に腰掛けたクリスを覗き見る。
書物から学び取った判断基準が全てだったミシェルにとって、何かを客観的・相対的に判断することは難しい。
だから、クリスが美しいだとか文武両道だと言われると、そうなのか、といった感想になってしまうのである。
「ところでミシェル。あなたは数か月前、森の中で知らない人間を数人見たと言っていましたね」
クリスはティーカップを手に、何やら思案顔を浮かべている。
「あっ、はい。よく覚えてましたね」
ミシェルは自身のカップをテーブルに置きながら、天を仰いだ。
「だけど、あの方々を見かけたのは一度きりです。恐らくは興味本位で森に入られたのだと思います」
「そうですか」
クリスはそう呟きつつ、小さくため息を吐いた。祖母の心配性が移ったのだろうか。何やら心配そうな表情だ。トネールもクリスに同調するかのように、ミシェルに擦り寄り、顔を見上げてくる。
「二人とも、大丈夫ですよ。こんなところまで悪い方がいらっしゃるわけがありませんから」
ミシェルはそう言ってクスクスと笑い声を上げる。
トネールはしばらく黙ってミシェルを見つめていたが、ややしてクリスの膝に飛び移った。ミシェルに向ける愛らしい表情とは打って変わり、ふてぶてしい表情でクリスを睨みつけている。
ソフィアが紅茶を啜りながら、小さく首を傾げた。
「ねぇ、トネールはクリス様のことが嫌いなの?」
「うーーん、どうなのでしょう?」
ミシェルも一緒になって首を傾げる。
クリスが家を訪れる度、不機嫌に喉を鳴らすのは確かだし、今だってお世辞にも好意を向けているようには見えない。けれど、どことなく気はあうように見えるし、トネールがクリスを嫌っているかと問われると、返答に困ってしまうのだ。
「トネールって、クリス様には身体を触らせるのよね。私のことは避けるくせにさ」
「あぁ! そういえばそうですね」
言われてみればそうだと、ミシェルは息を呑んだ。
トネールはこれまで一度だって、ソフィアに身体を触らせていない。いつも絶妙に距離を取って、彼女を避け続けていた。
けれどクリスに対しては、あんなにもふてぶてしい表情を向ける割に距離が近い。今だって彼の膝の上に収まって、黙って身体を撫でさせている。言われてみればそれは、不思議なことだった。
「きっとトネールは、本当はクリスのことが大好きなんですよ。それに、結構頻繁に会っていますし。ソフィアもきっと、そのうち仲良くなれますよ」
ミシェルの言葉に、ソフィアは小さく頷いた。クリスとトネールは、そんな二人の様子を静かに眺めている。
「いけない、そろそろお暇しないとね」
ソフィアが徐にそう切り出した。
森の日が落ちるのは早い。窓の外を見ると、空はあっという間に茜色に染まっていた。
森の出口へ急ぐソフィアの後姿を、ミシェルは静かに見送った。
「――――ねぇ、ミシェル。そろそろここを出ませんか?」
ミシェルの後ろでポツリとクリスがそう漏らす。
祖母が亡くなってからの数か月、もう何度も提案されてきたことだ。ミシェルの心臓が小さく疼いた。
「クリス……ありがとうございます。けれど私はここにいます。おばあ様との約束がありますから」
目を閉じれば、祖母の姿が浮かび上がり、声が聞こえる。
『おまえは外の世界に出てはいけないよ』
祖母の掛けた魔法は強力だ。とてもじゃないが解けそうにない。
「もう、あなたを縛るおばあ様はいらっしゃいませんよ」
クリスはそう言って首を横に振る。手のひらを握りながら、真っ直ぐにミシェルを見つめていた。
「……決心が付いたらいつでも知らせてください。住むところも、身の振り方も、私がいくらでもお手伝いしますから」
「ありがとうございます、クリス」
ミシェルは穏やかに微笑みながら、そっとクリスの手を握り返した。
「人の心を変える魔法を見つける……か」
街への帰路につくクリスの後姿を見つめながら、ミシェルは小さくそう呟く。
それは遠い昔、顔も分からない誰かがミシェルに向かって呟いた言葉だ。祖母を失い、この森を出るという選択を提示されて以降、その時の記憶が度々ミシェルの頭に浮かんでは消える。
「ねぇ、トネール。私は『寂しい』のでしょうか?」
ミシェルの瞳に、真っ赤に燃える夕陽が映る。
「私は『自分の心を変えたい』と、そう思ってる?」
答えが返ってこないと分かっていて、ミシェルは尋ねる。腕の中の猫が、ミャァ、と小さく鳴き声を上げた。
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