魚上氷

楽川楽

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 嘔吐中枢花被性疾患───通称『花吐き病』。

 片想いを拗らせると発症するという、俺たちが生まれるより遥か昔から言い伝えられているお伽噺に近い奇病を、まさか目の前で目撃するとは。

「ゲホッ、ゴホっ」

 バサバサと本当に喉の奥から這い上がった花が、口からこぼれ落ちる。
 ぜぇぜぇと肩で息をする男の額には薄っすらと汗が浮かび、その目は床に落ちた花を見つめていた。
 人形の様に整った男の顔はいつも無表情で、何を考えているのかさっぱり分からない。そう、いつもは全く分からないのに、この時吐き出された花を見つめる男の瞳の熱に、俺は気付いてしまった。
 嗚呼、この男は確かに……誰かに密かな想いを抱いている。

 奇しくも花を吐いたその男は、自分の旦那であったのだけど。




うおこおりをいずる





 ピカピカに磨かれた大理石が敷き詰められた廊下、その上にひらりと落とされた一枚の花弁。それを、指先でそっとつまみ上げた。
 薄紅に色づいたそれは、光を透かすとなんとも言えない美しさで光る。まるであの人の心そのものを見ているみたいだと思った。

「───、──────!」

 聞こえてきた高い声に視線だけで窓の外を見下ろせば、新芽の鮮やかな緑に囲まれた庭の中に見知った顔がふたつ、仲良さげに並んでいた。
 何を話しているのかまでは聞こえないが、会話はとても弾んでいて楽しそうだ。
 片方は、幼い頃から隣で見てきた太陽のような眩い笑顔。そしてもう一つは、

「あの人、笑うんだ」

 この半年間、同じ屋敷で暮らしてきた自分には一度も見せたことのない顔をしていた。


 半年前、俺はひとりの男と結婚をした。
 同性同士の結婚など、三十年ほど前ならどんな冗談だと笑われるような話だが、今では当たり前になりつつある。
 子供をつくることも、専用の蟲を手に入れる財力さえあれば、リスクは伴うが不可能ではなくなったからだ。
 だから本当なら、一般的な結婚生活を送れるはずなのだ。……これが、恋愛結婚であったなら。

昌樹まさき、お前に縁談がきている』

 普段は挨拶さえしない父親が、珍しく話しかけてきたかと思ったらコレだ。

『……は? 相手は?』
『阿須間家の御子息だ。馬鹿なお前でも名前くらいは知っているだろ』
『あすま……? まさか、阿須間澄人あすますみと!?』

 俺たち資産家の世界で『阿須間』といえば知らぬ人間はいない、泣く子も黙る超富裕層の一族だ。その一族の中でも、俺たちより五つ年上である阿須間澄人の資産運用の能力はずば抜けていて、投資家などからは神のように崇められていると聞く。
 そしてそんな男は、金儲けに有能なだけではなかった。
 曽祖父から受け継いだであろう髪はプラチナブロンド。同じ色の睫毛に縁取られた瞳は、美しい南国の海の上に金箔を散りばめたように輝いている。
 黙っていると冷たく見えるその美貌と、プロのモデル顔負けのスタイルを合わせ持った、まさに神に愛された存在だった。

『いやいやいや、なんで俺?』
高辻うちだけじゃない。岩崎家、南條家にも話は来ている』
『全員男だけど』
『そういう趣味なんだろう』

 神に愛され、神と崇められる男の伴侶として選ばれたのは、なぜか俺とその幼馴染たち。
 確かに面識はあるが【青年会】なんてダサい名前の集まりで何度か挨拶を交わした程度だ。

『まあ、南條家からはすでに断りの返事が返されたようだが』
『だろうな。貴文たかふみが男と結婚なんてありえない。……じゃあ、詩央しおに決まりだろ』

 阿須間澄人が神に愛された存在なら、岩崎詩央いわさきしおは天使に愛された存在だ。性別は男であるが、今年成人したいまでも美少年と呼ぶに相応しい外見。華奢で、小柄で、男が全力で守りたくなるようなそんな存在。
 光が溢れるような笑顔に、過去何人の男たちが虜になってきたか分からない。
 もう一人の候補者である南條貴文なんじょうたかふみも、詩央とは全く違うタイプではあるがかなりの美男だ。だがどう考えても同性に守られるタイプではない。オマケに酷い女好きだった。
 いくら同性婚が当たり前になりつつあっても、全ての人間が同性を愛せるわけではない。それは昔から変わらない。案の定、貴文は秒であの貴公子からの縁談を断った。
 だとすると、選ばれる可能性があるのはただひとり。
 格だけでいえば俺の家の方が若干上だが、伴侶選びとなればそれだけでは勝てないだろう。そう、勝てない。
 例え俺が昔からあの人に憧れ、いつの日からか憧れを逸脱し色づいた感情を持っていたとしても……金持ちな実家しか取り柄のない、平凡で退屈な男が、あの人に選ばれる訳がないのだ。
 だが、蓋を開けたら選ばれていたのは俺で。
 疑いようのない政略結婚が、そこに固く結ばれていた。



 半年前の、この家に嫁いだ日のことを思い出す。
 美貌の無表情ほど怖いものはなく、何を考えているのかわからない夫の横は座っているだけでも緊張して死ぬ思いだった。
 俺と彼との結婚が決まってから、詩央はずっと泣いていた。どうして、どうしてと泣いていた。それもそうだろう、縁談の話が出てからというもの、詩央は彼の元へと足繁く通っていたのだから。
 逆に俺はというと何もしなかった。本当に、何も。努力したところで詩央に勝てる訳がないからと、一度たりとも彼には会いに行かなかったし、彼からの誘いもなかった。
 結婚の話などなかったものとして心を閉ざしていたのに、なぜか選ばれたのは俺だった。理由は、ただ一つ。
 彼は自身の想いを殺し犠牲にして、高辻家との繋がりを選んだのだ。その証拠に、あの人の形の良い唇からは毎日苦しい想いが形となって吐き出されている。
 切ない恋の欠片が、こうして屋敷の片隅に残されている。

 明日は俺の二十歳の誕生日、結婚してから半年が経つ。だがその後ろを振り返って見ても……俺たちの間には、何も残されてなんていなかった。
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