色は思案の外

楽川楽

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番外編【樹】

SIDE:樹

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 瞼の裏から光を感じて目を覚ますと、黒く短い髪が視界に入り込んだ。目と鼻の先にあるそれに自身の鼻先を埋めると感じる、自分のものとは別の香り。
 切なくて、苦しくて、だけど大好きで……もう十年以上も己の心を締めつけるそれを、肺の中いっぱいに吸い込んだ。

「ん……ぅ……」

 漏れ聞こえた声に顔を覗き込んでみれば、目覚めが近いのかぴくりと揺れた短いまつ毛。
 別に小さくもなければ大きくもないその普通の目が、鋭く突き刺す凶器にもなれば、別の意味で殺傷能力を持つほどに蕩けることを……俺はもう、知っている。
 堪らない気持ちになって、思わず目の前の男を強く抱きしめた。

「んぁ……?」
「ごめん、起こしちゃった?」
「んむ……んぅぅ」

 眠気に勝てないのか何やらむにゅむにゅと口を動かしながら、囲われた腕の中で男が大きく身を捩る。が、逃げ出したい訳ではなかったのか俺の胸板にぴたりと頭をくっつけて収まると、そのまま再び寝息を立て始めた。

「はぁぁぁぁ……」

 ほんの一瞬。たったそれだけのやり取りがどれだけ俺を喜ばせるのか、彼はきっと分かっていない。
 ただの友人ではなく。その何歩も先の関係へと進むことができた今でも、過去を思い出すと当時の記憶が鮮明に蘇り、胸がぎゅっと痛んだ。



 自分の持つ容姿が、妬み、僻みをもたれやすいこと。普通以上に好まれやすいこと。そこに性別の垣根がないこと。
 それは物心がついた頃には自覚を持たざるをえない事実だった。幼い頃には不審者により危ない目にもあっていたので、自然と自衛の術を持つことになっていたし、周りから性の対象として見られるのも随分と早かった。
 自衛の中には護身術のほかに、必要以上に愛想を振りまかないことも含まれたため、笑顔が減り、人をあまり寄せ付けない癖がついた。

『赤座って、綺麗だけど近寄り難いよな』

 異性からは近寄りがたさも一つの魅力として映るようだが、同性からは敬遠されることが多い。
 だがそこに不便は特になく、面倒が増えるよりは良いと思って放置していた。だが、高校2年に上がったその日。見えていた景色が一気にガラリと姿を変えた。

「なに食ったらそんなイケメンになんの?」

 クラス替えの日。自分に割り振られた席でいつものように黙って本を読んでいたら、突然顔を覗き込まれそんなことを言われた。
 ほとんど話しかけられたことなく終えた一年間のせいで、すぐに反応できずにただ、目の前で目をくりくりに見開き自分を見つめる少年を眺めた。
 大抵の者はその反応に、ノリが悪いとか、感じが悪いとか何か良くない感情を抱き去っていく。だが目の前の少年は、黙ったままの俺にキョトンとした後、ニッカリと歯を見せて笑った。

「俺、葉桐裕太。今日からよろしくな~!」

 キラキラキラキラ、眩い光の粒が散る。
 この時真正面から見た彼の笑顔を、一生忘れることはない。



「なあ~樹ぃ~、マジでなに食ったらそんなイケメンになんのぉ? なに食ったらそんな背ぇ伸びんのぉ? 教えてくれよぉ~」

 少年、葉桐裕太こと裕太くんが、俺の首に腕を回して抱きついて叫ぶ。出会ってからほぼ毎日言われるこのセリフは、もはや彼と周りのお決まりのやり取りになっていた。
 彼は非常に人懐っこく、いとも容易く俺の懐に入り込んできた。
 一見ズカズカと踏み込んで来そうな彼は、しかし意外にも他人の機微に敏感で繊細。周りを照らすほどに明るい性格で話し好きでありながら、聞き上手でもある。
 あまり人と話すことが得意でなかった俺が苦もなく会話ができたのは、単に彼の性質のお陰だと言える。その上彼は甘え上手でもあったから、俺は裕太くんが可愛くて仕方なくなった。

「バカ葉桐、食い物だけで赤座みたいになれるワケねーだろ」
「そうだよ、食い物でなんとかなるならとっくに俺もイケメンだわ」
「間違いねー!」

 高校生らしい笑い声に包まれる。
 裕太くんと仲良くなってから、毎日なんの身にもならない下らない話ばかりして、笑ってはしゃいで、一日が終わる。そんな日々が楽しくてたまらなかった。
 常に自分の隣には裕太くんがいて、裕太くんの肩にはいつも俺の手が乗っていて。今思えばあまり普通ではない距離感に、触れている場所から伝わる彼の体温に、今まで感じた事のない心地よさを覚えていたのだ。

「お前らほんと仲良いよな」
「まさか付き合ってんじゃねーだろな」

 そう言って揶揄われるのも日常的になっていた。
 面倒なことばかりだと思っていたのに、まさか人と連むことがこんなに楽しいなんて。瞳に映る世界は、裕太くんと出会った途端に目が眩むほどカラフルに色付いた。
 そうして人付き合いに抵抗がなくなって、半年ほどが経った頃。

「僕と、付き合って……くださいっ!」

 一学年上の、同性の先輩から告白を受けた。
 同性からハッキリとした好意を持たれたのは、幼少期に会った変質者以外ではこれが初めてだった。
 意外にも嫌悪感はなかった。それどころか、今まで付き合ってきた女の子よりもよほど、告白に緊張し小さくなっている姿が可愛く思えた。だからといって、その気持ちを簡単に受け取るほどの好意は持てなかったが。
 付き合うことはできないと断り、その場はそれで終わった。だがどうしてか家に帰ってからもモヤモヤとしたものが心に残る。

(あの先輩のことが、気になるのか?)

 告白をしてきた先輩を思い出そうとするが、顔をハッキリと思い出せない。その代わりになぜか思い浮かんだのは。

 ───ドクン

 跳ねた心臓に、思わず手で口を押さえた。

「なんで……」

 一度勢いを持ったそれはなかなか治らず、それどころか体中から熱が集まる。
 現実を見たくなくて瞑った瞳の裏に、いつか見た白い歯を見せて笑う彼の顔がはっきりと浮かんだ。

「なッ、嘘でしょ……?」

 自身の一部が一気に熱を持つ。我慢できなくなり、その熱に手をかけた。それは自分の期待を裏切り呆気ないほど簡単に果てた。

「どうするの……これ……」

 指に絡みつく醜い欲望。
 気付いたからといって、どうすることもできないのに。それでも一度気付いてしまえば、心は簡単にコロコロコロコロ……彼への欲望へと転がり落ちた。

 同級生と肩を組んでいる姿を見れば、その腕を振り払い自分の腕を絡めたくなったし、誰かと馬鹿話をして笑っている姿を見れば、無理矢理にでもその顔を俺の方へと向けたくなった。
 しゃべるたびに動くその柔らかそうな唇を喰んでみたかったし、その内の暖かさを味わいたいと思った。
 己の中にこんなにも強い欲望があったのかと、自分自身で驚いた。それと共に、どんな手を使ってでもずっと彼の側にいたいという想いが強くなる。
 それが例え、彼の優しさを利用するような卑怯な手であったとしても……。
 

 俺の部屋で、その部屋の主がどんな欲望を抱いているかも知らないで、裕太くんは床に寝転び寛ぎながら雑誌を読んでいる。

「ねえ、裕太くん」
「んー?」
「……俺さ、ゲイ寄りのバイなんだよね」

 それを聞いた裕太くんが、どんな反応をするかなんて分かりきっていた。案の定、雑誌のページを捲っていた手が不自然に止まった。少し間を置いて、ぎこちなく手を動かしながら「へぇ」と呟いた。この時裕太くんは、俺を振り返ることもしなかった。
 分かっていたはずだった。そんなことを言ったところで、彼にはまだ深く響かないことは。そのくせ言葉に出したのは、正しい意味で響かずとも、優しい彼の心に俺の言葉が魚の小骨のように引っかかり残るだろうという打算があったからだ。
 だがその無関心を装った一言、合わない視線。それが思いのほか俺の心を大きく傷付けた。バチが当たったのだ。

「……うん」

 生まれて初めて男を抱いたのは、その翌週。いつの日にか俺に告白をしてきた一学年上の、卒業したばかりの先輩だった。
 喘ぐ声、揺れる硬い体、吐き出される欲望。記憶をたどり思い出すのは、どれも紛うことなく男のもので。

「……ふ、ふふ……うっ」

 好きでもない同性を抱いた。自身の下半身はしっかりと男相手に反応していたし、女を相手にするよりも快楽を拾っていた。自分の性的指向を改めてしっかりと認識させられ、ストンと胸に何かが落ちる。
 だがその心の伴わない行為のあまりの虚しさに───俺は、ただ泣いた。

 そこからの性生活は、どんどん酷いものとなっていく。側にいるだけで暴走しそうな彼への欲望を抑えるために、好きでもない相手を数え切れないほど相手にした。
 その度に胸の痛みは強くなり、隣で笑う彼に心は苦しくて堪らなくなる。しかし気持ちを伝える勇気は持てなかった。
 どんな形でもいいから、ずっと裕太くんの隣にいたかった。そのための手段だと自分に言い聞かせていた。そう、思い込ませていた。
 何年も後に、その行動を死ぬほど後悔するとも知らないで。






「なに、いつき……さむい……」

 いつの間にか、起き上がって裕太くんを眺めていた。そのせいで掛け布団がズレたのだろう、裕太くんが曝け出された肩を震わせた。

「ごめん、肩冷えちゃったかな」

 互いの体温で暖まっている布団をかけ直そうとすると気づく、その肩に残された噛み痕。昨夜に付けたばかりのそれが妙に色っぽくて、思わず吸い付くようなキスを落とした。

「ンぁ……」

 彼の口から漏れた吐息に、一気に下半身に血が昇った。それを向き合って眠っている裕太くんの肌に擦り付ければ、今度こそしっかりと瞼を持ち上げた彼が笑い声を上げた。

「なんだよさっきから。お前、朝からどんだけ元気なの」
「ごめん……」
「別に怒ってねーけど」

 こちらに向いていた体を仰向けに倒し、ふあ~と大きな欠伸をして両手を伸ばす。
 甘い時間もこれでおしまいか、そう思ったその時。

「今からする?」

 ───え?

 目を見開く俺に、裕太くんが顔だけで振り向きニヤリと笑う。

「俺もお前も、明日休みだろ? 今日は一日、要望に応えてやれるけど?」

 ああ、なんという甘美な誘いだろう。
 ずるい言葉で、まだ大人になりきれてない心に罪悪感を植えつけた罪人が、こんなご褒美をもらっていいものなんだろうか?

「するっ、一日中裕太くんの中にいたいっ!」
「いや、飯とトイレの時は出てけよ」

 え、それ以外の間は入りっぱなしでもいいの!?
 そんな思いが顔に出たのか、俺の顔を見た裕太くんは健康的な色をした肌を真っ赤に染めながら、俺の胸元に顔を隠して叫んだ。

「俺だって、たまには気が狂ったみたいにシたい日くらいあんだよッ!!」


 嗚呼……神様……。

 彼を抱けぬ代わりにと、適当な相手と重ねてきた関係に酷く後悔をした。
 なぜもっと早く、きちんと彼を手に入れなかったのか。
 どうして友人として側にいられると思っていたのか。
 どうして一度抱けば、彼を諦められると思ったのか。
 どこれもこれも無理すぎて頭が痛くなる。
 彼の熱を知る前から想像の中で抱いては溺れかけていたのに、本物の熱を知ってしまえばそれは想像の比ではなく。万が一にも手放す未来なんてなかったのだと、今ならよく分かる。

「俺は、裕太くんと出会ってから……ずっと気が狂ったままだ」

 胸に頭を抱きながら泣き言のように溢したそんな言葉に彼は、

「じゃあ、責任とってやんねぇとな」

 そう言って、笑って……。

 今も胸に感じる痛みは、だがもう昔とは種類が違う。その痛みを感じるたびに、泣きたくなるほどの幸せに包まれる。
 信じてもいなかった存在に天を仰ぐ。
 彼と出会い、こんなに近くで共に歩むことができる奇跡に……ただただ、感謝の祈りを捧げた。



END
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