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5章

気付いた気持ち

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それは突然だった。

仕事が終わり、帰り支度をしながら携帯を開くと、画面に1件の通知が表示されていた。
「星川さんからの不在着信……?」
通知は5分ほど前。
いつもなら電話は面倒だとメッセージを送ってくる星川さんが、今日に限って電話をしてきた。
(何かあったのか?)
嫌な予感がする。
俺は急いで荷物をまとめると、水族館を飛び出しタクシーを呼び止めた。
「リュクスという店までお願いします!」
どくどくと嫌な音が頭の中で鳴り響く。
プルルルル、プルルルル……
一向に繋がらない電話に、嫌な汗が止まらない。
(ただの杞憂であってくれ……)
プルルルル……ガチャッ
何度目かのコールの後、ようやく電話が繋がった。

《はい、星川ですが》
電話に出たのは、星川さんではない別の声だった。
その低く威圧感のある声に、俺は全身から嫌な予感が当たったことを悟った。
「何であなたが電話に出るんですか、星川さんはどこです?」
《その声……もしかしてこの間の奴か》
「答えてください!」
《うるせぇな、怒鳴らなくても聞こえてる》
《翔真ッ!お前、誰と話してるんだ……!》
滝沢の後ろから星川さんの声がする。
とりあえずは声が出せる状態であることにホッとしながらも、なかなか進まないタクシーに焦る気持ちが抑えられない。
《あー……たしか柳瀬とか言ったな。心配しなくても悠貴はここにいる》
《柳瀬、俺は大丈夫だから!だから……っ》
《チッ、うるせえな》
《ぐっ!》
舌打ちと共に、何かが倒れる音とくぐもった声が電話から聞こえた。
「あんた、なにやってんだよ⁉」
《これはこいつと俺の問題だ。部外者が口出してくるんじゃねえ》
《やな、せ……》
「ふざけるな!」
俺の叫び声にチラチラと運転手の視線を感じる。だが、そんなことは今はどうだっていい。ただ、星川さんの事だけが心配だ。
 「いいか、これは警告だ。これ以上首を突っ込むな」
《柳瀬……たすけ、っ!》
「星川さん!」
微かな声を最後に唐突に電話が切れる。
「運転手さん、まだ付きませんか⁉」
「あと10分はかかるかと……」
「急いでください!」
《柳瀬……たすけ、っ!》
(早く行かないと……っ)
逸る気持ちを抑えながら、俺は切れた携帯電話をずっと握りしめていた。

バンッ!
「星川さん!」
「や、なせ……」
店の前に着き、階段を駆け上がるとすでに滝沢の姿はなかった。
いたのは、頬に殴られたような痛々しい跡をつけてぐったりと横たわる、星川さんだけだった。

その光景に目の前が赤く染まり、腹の奥から沸騰するような感情が沸き上がる。
「滝沢は……あいつはどこに行ったんですか⁉」
「あいつは……もういない。俺を殴って帰ったからな」
星川さんはそう言うと、ゆっくりと起き上がり俺を見上げた。
「この痣はその時のですか?」
「ああ。大方、俺がお前に反応したのが気に食わなかったんだろう」
「星川さん、警察に行きましょう。こんなの立派な犯罪ですよ」
俺がそう言うと、星川さんは首を横に振った。
「ゲイの痴話喧嘩なんて警察が対応すると思うか?それに、あまり大事にしたくない」
「ですが……」
「それより、お前がすぐに気づいてくれてよかったよ。あいつの一瞬の隙をついて連絡しから、ちゃんと不在着信が残ったのか心配だったから」
そう言うと、星川さんは力なく笑った。

「……なんで笑えるんですか」
「柳瀬?」
「こんなに酷い事されてなんで……何で!」
「そんなにあいつのことが好きだったんですか⁉こんなことをされても忘れられないくらいに⁉」
俺の怒号に星川さんの顔がぴしりと固まる。
(ああ、そんな顔させたい訳じゃないのに……)
殴られて傷つけられボロボロにされても、この人は滝沢をどこか許してしまう。それは過去の想い出のせいなのか、それとも心の奥底にはまだアイツへの未練があるのではないか。
そんなことを考えていると、俯いた星川さんがぼそりと呟いた。
「あいつは俺の初恋だったんだ」
「え……」
「学生時代、俺は恋愛とは無縁の生活をしていた。幼いころに母親のドレッサーの上にあった香水に心を奪われた俺は、早く調香師になりたくて必死だったんだ」
「調香師の専門学校にいる時に、技術講師としてきていた先生に目をかけてもらい、卒業後はすぐにその先生の元に行った。その時に一緒に行ったのが翔真だったんだ」
星川さんはそう言うと、深くため息をついた。
「最初は同じ道を歩む仲間だと思っていた。人付き合いの苦手な俺は、先生に気に入られているという事で、他の弟子からはずいぶんと嫌われていてな。そんな時はいつも翔真が前に立って庇ってくれた」
「段々と時間を共にするうちに、俺は翔真の事が気になり始めた。最初は戸惑ったよ、まさか俺が同性に惹かれるとは思っていなかったからな。でも同時に、これまで女性に一切惹かれなかったのは、そのせいだったのかと納得もした」
「それからの俺は翔真について回った。あいつが悩んでいれば一緒に悩んだり、あいつが望むことは全部叶えてやりたいと思った」
「そんな時、翔真に言われたんだ。「お前、俺の事が好きなのか?」って」
「……それで、星川さんはなんて答えたんですか?」
「俺は何も答えなかった。でも、あいつはとっくに分かってたんだろうな。俺はあいつが俺にキスするのも、服を脱がすのも止めなかった」
淡々と話す星川さんを見ながら、ずきりと心が痛む。
「あいつは俺が他の男に目が行くことを許さなかった。少しでも視線があいつから逸れれば浮気だと言われ、必要に連絡を迫った。そうすることで、俺が自分の元から逃げないように縛り付けたんだ」
「その頃には完全に俺は翔真の操り人形だった。あいつと一緒に調香をして香水を作り上げることこそ、一番の喜びだと思っていたんだ」

「そうして1年が経った頃、あいつは言葉だけではなく、力で俺を押さえつけた」
その言葉にざわりと心が揺れる。
「気に入らないことは全てお前のせいだと罵られ、セックスのたびに首を絞められた李縛り付けられたりした。歯向かえばもっと痛いことをされると分かっていたから、俺は素直に股を開いたんだ」
「星川さん、もう……」
「毎日のように続く暴力に俺は段々と耐えられなくなった。そんな時、島原さんから連絡が来た。そして思ったんだ、これは別れを切り出す最後のチャンスだと。だけど、そう簡単には別れられなかった」
「俺が別れたいと言ったら、翔真はキッチンから包丁を持ってきて俺の首を切りつけた。血を流す俺を見下ろしながら、翔真は言ったんだ。そんなことはさせないと。お前は俺のものだ、と……」
「もういいです、それ以上は……」
「いや、聞いてくれ。お前には……お前だけには聞いてほしいんだ」
カタカタと震える肩を掴んでやめさせようとするが、星川さんは首を振ると話を続けた。
「それでも俺は首を振らなかった。どんなに乱暴に抱かれても、首を絞められてもな」

「翔真は俺を部屋に閉じ込めてどこにも行けないようにした。俺の物にならないなら、部屋からは出さないって言って。そんな生活が1週間ほど続いた時、勉強に来ない俺を心配した先生が俺の惨状を知ったんだ」
「先生はショックを受けていたよ。どうしてもっと早く気づいてあげられなかったんだと。そして翔真に内緒で俺を日本に逃がしてくれた。俺を調香師と認めてくれて、店を出す許可ももらった」
「先生は最後に俺に言った。「幸せになりなさい」と。だから俺は日本に帰って、翔真を断ち切るように店を出したんだ」
「島原さんのおかげで店も順調に進み、帰る場所も見つけた。そうして俺はあいつを忘れられたと思っていたんだ。あいつがあの日、店に来るまでは……」
「星川さん……」
いつの間にか零れていた涙を、俺はそっと拭う事しかできなかった。するりと顔を寄せながら、星川さんは俺の手に自身の手を重ねた。
「俺、おかしいのかな……あいつが迎えに来たと言った時、あれだけ忘れたいと思っていたはずなのに、嬉しい気持ちもあったんだ。こいつにはまだ俺が必要なんだ、俺しかいないんだって思っ、て……」
「もういいっ……」

止めどなく流れる涙を見ながら、俺は星川さんにキスをした。驚いたように逃げようとする躰を引き寄せる。
「な、に……んっ」
戸惑ったように口を開く星川さんの口に再度口づけを落とすと、口唇にゆっくりと舌を侵入させる。
「んぁ……っは」
奥に逃げる舌を宥めるように追いかけると、ゆっくりと絡ませてくる。星川さんの後頭部に手を当て、さらに奥に進もうとすると、慌てて引きはがされた。
「なに、するんだ……」
「泣きやみましたね」
「は……?」
「俺、星川さんの泣き顔は見たくないんです」
さっきまで零れていた涙は、いつの間にか止まっていた。
理解できないという顔でこちらを見る星川さんに愛しさがこみ上げる。唇を指でそっとなぞると、ようやく理解したのか、顔を真っ赤にさせながらこちらを睨む。
「だ、だとしてもキスで止める必要なかっただろ……」
「でもこれが一番だと思ったんで」
「馬鹿、だなお前……」
フッ
「星川さんは泣き顔よりも、そうやって睨んでる方がいいと思います」
「……それもどうなんだよ」
俺の言葉にむくれる星川さんに、俺はもう一度キスをした。
「もう泣いてない、のに」
「これからは、星川さんが泣くたびにキスします」
「……ハッ、ならお前のまでは絶対に泣かないからな」
「ええ、そうしてください」
俺の言葉に耳まで赤く染めながらこちらを睨む星川さんを見ながら、俺はようやく理解した。

(俺、この人の事が好きだ……)
人を揶揄うときのネコのような目も、仕事をしているときの嘘くさい笑みも。
取り繕っているがその実とても繊細な所も、過去に涙する姿さえ全てが愛おしく感じる。
(これが、恋……なんだな)
(案外、悪くないかもしれないな)
俺は目の前の星川さんを見ながら、胸の奥がじんわりと暖かくなるのを感じていた。

「そうしてください」
そう言って柳瀬はふわりと笑った。
(こいつ、こんな笑い方してたっけ……)
珍しい表情に、胸がどきりと脈打つ。
この感覚は懐かしく、そして覚えがあった。
(きっとこいつは勘違いしているだけだ。一度肌を重ねたから、だから……)

願わくば、こいつがその感情に気が付かないように。
そう思いながら、俺は心の奥で顔を出していた感情に鍵をかけた。
(もう恋はしない、そう決めたんだ)

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