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4章
鍵と傷
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それから俺は、一切星川さんと連絡を取らなくなった。
もちろん、星川さんからも連絡はこなかった。
(これで良かったんだ)
ここ最近の俺は予想外の事が起こりすぎて、少しおかしくなっていたのかもしれない。
「仕事だ。仕事だけやればいいんだ……」
「お、柳瀬君が真面目モードになってる。何かあったの?」
「クエッ」
「ああ、ヒデリもそう思うだろ?」
「クエーッ」
「あの~、柳瀬君?もしもし??」
「そうだよな、俺もそう思う」
「もう諦めたよ……。いいもん、今日は夜番だし、その間に柳瀬君よりヒデリと仲良くなってやるから。なっ、ヒデリ!」
「・・・クェ」
「すっごく嫌そう⁉もういいよ、俺拗ねちゃうからね!」
「……ん?誰かいたのか?」
「クエッ」
「まあ、いいか。それより仕事しなきゃだな」
「いい心がけだけど、頑張りすぎは身体に毒だよ」
「大丈夫だ、俺身体は頑丈な方だか、ら……えっ」
「やあ柳瀬君。この間はプレゼントをありがとう」
突然の言葉に驚いて振り向くと、島原館長がニコニコと笑いながら立っていた。
「島原館長……すみません、少し考え事をしてて……」
「ああ、いいんだよ。私こそ急に声をかけて悪かったね」
頭を下げる俺に軽く手を振ると、島原館長は俺の隣にいたヒデリを撫でる。
「やあ、ヒデリちゃん。今日も元気かい?」
「クエッ」
「そうかい、それはよかったよ」
「あの……何かあったんですか?」
ヒデリを撫でる館長の顔に少しの違和感を覚えてそう聞くと、ピタリと手が止まる。
「……星川君の事なんだけどね、店を閉めてるらしい」
「そう、なんですか」
ドキリと心が揺れる。
「ああ。店には「体調不良のため」と書かれているらしいが、私からの連絡もおざなりになっていてね。今までこんなことはなかったんだけど」
「……よほど体調が悪いとか」
「そうだね、誰しも体の不調は出るもの。きちんと休息をとれば大抵のものは治る。だけどね」
そう言うと館長は俺の顔をジッと見つめた。
「心の不調は気づきにくく、そして治るのが難しいものだよ」
「心の、不調ですか」
「君と彼は他の職員たちよりも仲がよさそうに見えていた。だから、何か知っているかと思ってね」
「それは……」
口ごもる俺を見ながら、館長はふっと優しく笑った。
「あの子は一見とっつき難く見えるかもしれない。だけど本当は繊細で優しく、そして純粋なんだよ」
「そう、ですね。俺もそう思います」
「私はね、君が彼の力になってくれればいいと思ってるよ」
「俺がですか?何でそこまで……」
戸惑う俺の肩を館長がゆっくりと叩く。
「この歳になると、言葉よりも勘のほうが当たることがあるからね。それに君は、あの子の状態を聞いて放っておくような性格じゃないと思ってね」
にこり
「……謀りましたね」
思わずじとりと見るが、館長は全く意を介していない様子だ。
「まあまあ、今日は早く上がっていいから様子を見てくれないかな」
そう言うと、館長はズボンのポケットから小さなカギを取り出した。
「これは?」
「星川君の店の鍵だよ。「自分に何かあったら使ってほしい」って預かっていたんだ」
「いいんですか?俺が悪用するかもしれないのに」
「いいや、君はしないよ。星川君は君の事を「超がつくほど真っすぐな男」だと評価していたんだ。彼にそう言わしめた君だからこそ、君にお願いしたいと思ったんだよ」
「……そうでしたか」
(星川さんがそんなことを……)
「あの人、ツンデレですよね」
「そうだね。彼ほど誤解されやすい人間を、私は見たことないよ」
「……館長」
「なんだい?」
「俺、あの人には幸せになってほしいと思ってます」
「奇遇だね。私もだよ」
「やれるだけ、やってみます」
「ああ、頼んだよ」
(俺にしかできないこと、か)
俺は渡されたカギをぎゅっと握りながら、最後に見かけた星川さんの顔を思い浮かべていた。
夕方。いつもなら客で賑わう時間だが、店の中は一切の光もなく、薄暗く陰湿な雰囲気を放っていた。
「本当に閉まってる……」
ガチャリ
俺は島原館長に借りた鍵を差し込むと、扉を開けた。
「星川さん?」
スマホの光を頼りに階段の下から声をかけるが返事はない。
(まさか本当に倒れてたりしないよな?)
俺は決意を固めると、ゆっくりと階段を上がった。
ギッ……ギッ……
扉の近くまで上がると、部屋の中から何かが割れる音が聞こえた。
「何の音ですか⁉」
「ひっ!」
「なんだ、これ……」
勢いよく扉を開けると、ベッドの上でシーツに包まる塊が悲鳴を上げる。
だが、それよりも俺の目を引いたのは、以前来た時と変わってしまった部屋の様子だった。
床に散らばる大量のガラス破片は、以前机に置いてあった香水瓶だろう。その上に散らばるドライフラワーとハンカチたち。まるで強盗にでもあったような部屋の惨状に、言葉が出てこない。
「これは、一体……」
「やな、せ……?」
小さい声で名を呼ばれ、部屋から目を離してベッドの方を見る。
そこには叱られた子供のようにシーツを被り、首だけを出した状態でこちらを見つめる星川さんの姿があった。
泣いていたのだろうか、色が白いせいで目元が真っ赤に腫れている。艶のあった髪は水分がなくなったようにハリを失い、まともに食事がとれていないのか頬が少しこけていた。
「星川さん何があったんですか……痛っ」
「何で、お前がここにいるんだ。鍵はかけてあったはずだけど……」
「館長にあなたの様子を見てきてほしいって言われて、鍵を預かったんです」
「島原さんが……」
「そんな事より、なにがあったんですか?」
俺は慎重にガラスを避けると、ベッドの上の塊に近寄った。
「……翔真が俺の店に頻繁に来るようになってな。営業妨害だと言っても「お前には俺の店もあるだろ」と言って聞きやしない。それで営業もままならなくなって、店を閉めたんだが、俺がここに住んでいることをどこからか聞いて待ち伏せるようになったんだ。それで、仕方なく部屋に入れたら、暴れだして……」
「そんな……怪我はしてないんですか?」
「ああ、少し腕を切ったが問題ない」
「問題ないわけないじゃないですか!見せてください」
「あっちょっ……」
俺はシーツに包まる星川さんを強引に引っ張りだした。ゆるりとしたTシャツにズボン姿の星川さんは、普段と違い細い首も手首も見えていた。
「これは、傷……?」
「っ!」
いつもは服で隠れた首元。
そこには肩から胸にかけて引き攣れたような痕と、首を囲むように入った傷があった。
「痛く、ないんですか?」
「昔の傷だ、気にするな」
(何かで無理やり切れたような傷……痕からするに、そう昔じゃないみたいだけど)
「日本に帰ってくる前だったか。あいつと大喧嘩した時にガラスで、な」
「そんな……いくら何でも喧嘩でこんな怪我をするなんて……」
「まあ、あいつ頭に血が上りやすいからな。昔の方がひどかったよ」
信じられない思いで、自嘲気味に鼻で笑う星川さんを見る。その時、襟に赤いものが見えた。
(まさか……)
「他には?他には怪我してないんですか?」
「それは……」
俺の言葉に一瞬目が泳いだ。明らかに嘘をついている。
「脱いでください」
「えっ」
「他にもケガしてるんですよね?いいから見せてください」
「うわっ、ちょっ……」
嫌がる星川さんの服を掴むと、俺は無理矢理Tシャツを脱がせた。やはりまともな食事をとっていなかったせいか、うっすらと肋骨が浮いている。
「これは翔真にやられたんだ。酷いもんだろ」
薄くなった身体には無数の噛み跡がついている。よほど強く噛まれたのか、歯型にそって所々血が滲んでいる。
「あいつ、あの日以来毎日のように店に押しかけて来てたんだ。お客さんにも迷惑がかかるからって言っても聞きやしなくてさ。それで、仕方なく体調不良って嘘をついて店を閉めたんだ。そうしたら、翔真も諦めて帰ってくれるって思って……」
「だけど、あいつは諦めなかった」
「毎日何時間も店の前にいるもんだから、仕方なく部屋に入れた。そしたら、いきなり押し倒されて……」
「星川さん、もういいです」
カタカタと震える身体を抱きしめる。一瞬身体を強張らせるが、俺が背中をあやすように叩くと星川さんは少し安心したようにすっと力を抜いた。
「こんな姿、お前には見せたくなかった。こんな弱い姿なんて……」
絞り出すような声でそう言うと、星川さんは静かに泣き出した。
それはまるで、泣き方を知らない赤子のようだった。
急に腕の中のこの人が、小さく見える。
今にも消えそうなその姿に、無性に胸がざわつき言葉がでない。
「俺を頼ってください」
ようやく口にできたのは、その一言だった。
「やな、せ?」
俺の言葉に驚いたように顔を上げる。キラキラと涙に濡れる瞳はまるで宝石のように輝いていた。
その輝きが綺麗だと、不謹慎にもそう思った。
「確かに星川さんから見たら、俺は年下だし頼りなく見えるのかもしれない」
「ですが、泣いてる星川さんを残してこのまま、はいさよなら、なんてことするほど、俺が薄情に見えますか?」
(俺は滝沢とは違う)
「俺ならあなたが苦しいときも辛いときもこうやって駆けつけますよ」
(そんな姿は見たくないから)
「なんたって」
ハッ
(なんたって……なんだ?)
今までこんな感情を他人に持ったことなどなかった。
誰かに頼られたいだとか、力になりたいという感情は不要なものだと思っていた。
人は打算や建前で本音を隠す。今まで好意を向けてきた女たちは皆、俺の外見とステータスのために俺に近づいてきた。優秀な息子だと見せびらかすために、膨大な量の勉強を課してきた母親、躾と称して叩く父親。
(すべてお前のためなんだ)
(私たちも辛いのよ)
そう言って、俺を屋根裏に閉じ込めたこともあった。
暗く寒い部屋で過ごす夜は長く、俺から期待という感情を捨て去るには十分だった。
だからこそ、俺は浅く狭い世界で十分だった。
時々、俺のテリトリーに入ってこようとする奴もいたが、皆諦めて出ていった。洋輔のように馬鹿がつくほどの正直者でない限り、俺が心を開くことはなかったのだ。
(それなのに……)
この人は俺とはまるで違った。不遜な態度や目つきは、自分の弱さを見せないため。俺よりも小さく狭いテリトリーを虚勢というツギハギで必死に守っていただけだったのだ。そしてそのツギハギを取ってしまえば、脆く、繊細な人間が現れる。
(一方は諦めで期待を捨て、もう一方は自分を守るために期待を隠した)
この人の事をもっと知りたい。いつか本当の姿を見てみたい。
この感情は何なのだろうか?
「柳瀬?どうしたんだ」
「……いえ、何でもありません」
黙った俺を心配そうに見上げる。俺は浮かんだ言葉を飲み込むと、星川さんの目に浮かぶ涙をそっと指で拭った。
「とにかく、これからは困ったら俺を呼んでください。遠慮なんていりませんから」
「でも……」
「俺は星川さんの仕事仲間で同じシェアハウスの住人です。困ったら支えあうのは当然ですよ」
「柳瀬……ありがとう。お前がいてくれて助かったよ」
安心したように笑う星川さんに俺も小さく笑い返す。
「それよりも、この部屋どうにかしないとですね」
「……」
「星川さん?」
「……今日は、この部屋にいたくない」
ポツリと呟きながら、星川さんの表情はまた暗くなっている。
その様子に俺はそっと手を握ると、星川さんの顔を覗き込んだ。
「なら、出かけましょう」
「でもどこに?もう夜も遅いし、こんな顔じゃ食事も……」
確かに、目の周りを赤くした、明らかに泣いた様子の男を連れてレストランに行けば、あらぬ誤解を受けそうだ。
となると人のいない静かな場所がいい。
それなら。
「いい場所があります」
不思議そうに見る星川さんの手を取りタクシーに乗り込むと、俺は携帯である人に連絡を入れた。
もちろん、星川さんからも連絡はこなかった。
(これで良かったんだ)
ここ最近の俺は予想外の事が起こりすぎて、少しおかしくなっていたのかもしれない。
「仕事だ。仕事だけやればいいんだ……」
「お、柳瀬君が真面目モードになってる。何かあったの?」
「クエッ」
「ああ、ヒデリもそう思うだろ?」
「クエーッ」
「あの~、柳瀬君?もしもし??」
「そうだよな、俺もそう思う」
「もう諦めたよ……。いいもん、今日は夜番だし、その間に柳瀬君よりヒデリと仲良くなってやるから。なっ、ヒデリ!」
「・・・クェ」
「すっごく嫌そう⁉もういいよ、俺拗ねちゃうからね!」
「……ん?誰かいたのか?」
「クエッ」
「まあ、いいか。それより仕事しなきゃだな」
「いい心がけだけど、頑張りすぎは身体に毒だよ」
「大丈夫だ、俺身体は頑丈な方だか、ら……えっ」
「やあ柳瀬君。この間はプレゼントをありがとう」
突然の言葉に驚いて振り向くと、島原館長がニコニコと笑いながら立っていた。
「島原館長……すみません、少し考え事をしてて……」
「ああ、いいんだよ。私こそ急に声をかけて悪かったね」
頭を下げる俺に軽く手を振ると、島原館長は俺の隣にいたヒデリを撫でる。
「やあ、ヒデリちゃん。今日も元気かい?」
「クエッ」
「そうかい、それはよかったよ」
「あの……何かあったんですか?」
ヒデリを撫でる館長の顔に少しの違和感を覚えてそう聞くと、ピタリと手が止まる。
「……星川君の事なんだけどね、店を閉めてるらしい」
「そう、なんですか」
ドキリと心が揺れる。
「ああ。店には「体調不良のため」と書かれているらしいが、私からの連絡もおざなりになっていてね。今までこんなことはなかったんだけど」
「……よほど体調が悪いとか」
「そうだね、誰しも体の不調は出るもの。きちんと休息をとれば大抵のものは治る。だけどね」
そう言うと館長は俺の顔をジッと見つめた。
「心の不調は気づきにくく、そして治るのが難しいものだよ」
「心の、不調ですか」
「君と彼は他の職員たちよりも仲がよさそうに見えていた。だから、何か知っているかと思ってね」
「それは……」
口ごもる俺を見ながら、館長はふっと優しく笑った。
「あの子は一見とっつき難く見えるかもしれない。だけど本当は繊細で優しく、そして純粋なんだよ」
「そう、ですね。俺もそう思います」
「私はね、君が彼の力になってくれればいいと思ってるよ」
「俺がですか?何でそこまで……」
戸惑う俺の肩を館長がゆっくりと叩く。
「この歳になると、言葉よりも勘のほうが当たることがあるからね。それに君は、あの子の状態を聞いて放っておくような性格じゃないと思ってね」
にこり
「……謀りましたね」
思わずじとりと見るが、館長は全く意を介していない様子だ。
「まあまあ、今日は早く上がっていいから様子を見てくれないかな」
そう言うと、館長はズボンのポケットから小さなカギを取り出した。
「これは?」
「星川君の店の鍵だよ。「自分に何かあったら使ってほしい」って預かっていたんだ」
「いいんですか?俺が悪用するかもしれないのに」
「いいや、君はしないよ。星川君は君の事を「超がつくほど真っすぐな男」だと評価していたんだ。彼にそう言わしめた君だからこそ、君にお願いしたいと思ったんだよ」
「……そうでしたか」
(星川さんがそんなことを……)
「あの人、ツンデレですよね」
「そうだね。彼ほど誤解されやすい人間を、私は見たことないよ」
「……館長」
「なんだい?」
「俺、あの人には幸せになってほしいと思ってます」
「奇遇だね。私もだよ」
「やれるだけ、やってみます」
「ああ、頼んだよ」
(俺にしかできないこと、か)
俺は渡されたカギをぎゅっと握りながら、最後に見かけた星川さんの顔を思い浮かべていた。
夕方。いつもなら客で賑わう時間だが、店の中は一切の光もなく、薄暗く陰湿な雰囲気を放っていた。
「本当に閉まってる……」
ガチャリ
俺は島原館長に借りた鍵を差し込むと、扉を開けた。
「星川さん?」
スマホの光を頼りに階段の下から声をかけるが返事はない。
(まさか本当に倒れてたりしないよな?)
俺は決意を固めると、ゆっくりと階段を上がった。
ギッ……ギッ……
扉の近くまで上がると、部屋の中から何かが割れる音が聞こえた。
「何の音ですか⁉」
「ひっ!」
「なんだ、これ……」
勢いよく扉を開けると、ベッドの上でシーツに包まる塊が悲鳴を上げる。
だが、それよりも俺の目を引いたのは、以前来た時と変わってしまった部屋の様子だった。
床に散らばる大量のガラス破片は、以前机に置いてあった香水瓶だろう。その上に散らばるドライフラワーとハンカチたち。まるで強盗にでもあったような部屋の惨状に、言葉が出てこない。
「これは、一体……」
「やな、せ……?」
小さい声で名を呼ばれ、部屋から目を離してベッドの方を見る。
そこには叱られた子供のようにシーツを被り、首だけを出した状態でこちらを見つめる星川さんの姿があった。
泣いていたのだろうか、色が白いせいで目元が真っ赤に腫れている。艶のあった髪は水分がなくなったようにハリを失い、まともに食事がとれていないのか頬が少しこけていた。
「星川さん何があったんですか……痛っ」
「何で、お前がここにいるんだ。鍵はかけてあったはずだけど……」
「館長にあなたの様子を見てきてほしいって言われて、鍵を預かったんです」
「島原さんが……」
「そんな事より、なにがあったんですか?」
俺は慎重にガラスを避けると、ベッドの上の塊に近寄った。
「……翔真が俺の店に頻繁に来るようになってな。営業妨害だと言っても「お前には俺の店もあるだろ」と言って聞きやしない。それで営業もままならなくなって、店を閉めたんだが、俺がここに住んでいることをどこからか聞いて待ち伏せるようになったんだ。それで、仕方なく部屋に入れたら、暴れだして……」
「そんな……怪我はしてないんですか?」
「ああ、少し腕を切ったが問題ない」
「問題ないわけないじゃないですか!見せてください」
「あっちょっ……」
俺はシーツに包まる星川さんを強引に引っ張りだした。ゆるりとしたTシャツにズボン姿の星川さんは、普段と違い細い首も手首も見えていた。
「これは、傷……?」
「っ!」
いつもは服で隠れた首元。
そこには肩から胸にかけて引き攣れたような痕と、首を囲むように入った傷があった。
「痛く、ないんですか?」
「昔の傷だ、気にするな」
(何かで無理やり切れたような傷……痕からするに、そう昔じゃないみたいだけど)
「日本に帰ってくる前だったか。あいつと大喧嘩した時にガラスで、な」
「そんな……いくら何でも喧嘩でこんな怪我をするなんて……」
「まあ、あいつ頭に血が上りやすいからな。昔の方がひどかったよ」
信じられない思いで、自嘲気味に鼻で笑う星川さんを見る。その時、襟に赤いものが見えた。
(まさか……)
「他には?他には怪我してないんですか?」
「それは……」
俺の言葉に一瞬目が泳いだ。明らかに嘘をついている。
「脱いでください」
「えっ」
「他にもケガしてるんですよね?いいから見せてください」
「うわっ、ちょっ……」
嫌がる星川さんの服を掴むと、俺は無理矢理Tシャツを脱がせた。やはりまともな食事をとっていなかったせいか、うっすらと肋骨が浮いている。
「これは翔真にやられたんだ。酷いもんだろ」
薄くなった身体には無数の噛み跡がついている。よほど強く噛まれたのか、歯型にそって所々血が滲んでいる。
「あいつ、あの日以来毎日のように店に押しかけて来てたんだ。お客さんにも迷惑がかかるからって言っても聞きやしなくてさ。それで、仕方なく体調不良って嘘をついて店を閉めたんだ。そうしたら、翔真も諦めて帰ってくれるって思って……」
「だけど、あいつは諦めなかった」
「毎日何時間も店の前にいるもんだから、仕方なく部屋に入れた。そしたら、いきなり押し倒されて……」
「星川さん、もういいです」
カタカタと震える身体を抱きしめる。一瞬身体を強張らせるが、俺が背中をあやすように叩くと星川さんは少し安心したようにすっと力を抜いた。
「こんな姿、お前には見せたくなかった。こんな弱い姿なんて……」
絞り出すような声でそう言うと、星川さんは静かに泣き出した。
それはまるで、泣き方を知らない赤子のようだった。
急に腕の中のこの人が、小さく見える。
今にも消えそうなその姿に、無性に胸がざわつき言葉がでない。
「俺を頼ってください」
ようやく口にできたのは、その一言だった。
「やな、せ?」
俺の言葉に驚いたように顔を上げる。キラキラと涙に濡れる瞳はまるで宝石のように輝いていた。
その輝きが綺麗だと、不謹慎にもそう思った。
「確かに星川さんから見たら、俺は年下だし頼りなく見えるのかもしれない」
「ですが、泣いてる星川さんを残してこのまま、はいさよなら、なんてことするほど、俺が薄情に見えますか?」
(俺は滝沢とは違う)
「俺ならあなたが苦しいときも辛いときもこうやって駆けつけますよ」
(そんな姿は見たくないから)
「なんたって」
ハッ
(なんたって……なんだ?)
今までこんな感情を他人に持ったことなどなかった。
誰かに頼られたいだとか、力になりたいという感情は不要なものだと思っていた。
人は打算や建前で本音を隠す。今まで好意を向けてきた女たちは皆、俺の外見とステータスのために俺に近づいてきた。優秀な息子だと見せびらかすために、膨大な量の勉強を課してきた母親、躾と称して叩く父親。
(すべてお前のためなんだ)
(私たちも辛いのよ)
そう言って、俺を屋根裏に閉じ込めたこともあった。
暗く寒い部屋で過ごす夜は長く、俺から期待という感情を捨て去るには十分だった。
だからこそ、俺は浅く狭い世界で十分だった。
時々、俺のテリトリーに入ってこようとする奴もいたが、皆諦めて出ていった。洋輔のように馬鹿がつくほどの正直者でない限り、俺が心を開くことはなかったのだ。
(それなのに……)
この人は俺とはまるで違った。不遜な態度や目つきは、自分の弱さを見せないため。俺よりも小さく狭いテリトリーを虚勢というツギハギで必死に守っていただけだったのだ。そしてそのツギハギを取ってしまえば、脆く、繊細な人間が現れる。
(一方は諦めで期待を捨て、もう一方は自分を守るために期待を隠した)
この人の事をもっと知りたい。いつか本当の姿を見てみたい。
この感情は何なのだろうか?
「柳瀬?どうしたんだ」
「……いえ、何でもありません」
黙った俺を心配そうに見上げる。俺は浮かんだ言葉を飲み込むと、星川さんの目に浮かぶ涙をそっと指で拭った。
「とにかく、これからは困ったら俺を呼んでください。遠慮なんていりませんから」
「でも……」
「俺は星川さんの仕事仲間で同じシェアハウスの住人です。困ったら支えあうのは当然ですよ」
「柳瀬……ありがとう。お前がいてくれて助かったよ」
安心したように笑う星川さんに俺も小さく笑い返す。
「それよりも、この部屋どうにかしないとですね」
「……」
「星川さん?」
「……今日は、この部屋にいたくない」
ポツリと呟きながら、星川さんの表情はまた暗くなっている。
その様子に俺はそっと手を握ると、星川さんの顔を覗き込んだ。
「なら、出かけましょう」
「でもどこに?もう夜も遅いし、こんな顔じゃ食事も……」
確かに、目の周りを赤くした、明らかに泣いた様子の男を連れてレストランに行けば、あらぬ誤解を受けそうだ。
となると人のいない静かな場所がいい。
それなら。
「いい場所があります」
不思議そうに見る星川さんの手を取りタクシーに乗り込むと、俺は携帯である人に連絡を入れた。
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