上 下
6 / 30
2章

前途多難な勉強会

しおりを挟む
「まず第一に、お前の鼻ははっきり言って馬鹿だ」
「なっ⁉」
「悠貴君、いきなりストレートパンチはマズイよ……」
「普段動物と過ごす時間が多いから仕方ないと思うが、基本的な香りの良し悪しがマヒしている。そうでなければ誰が香水の香りに魚臭さを混ぜようと思う?」
「そ、それは何も浮かばなくて苦し紛れに案を出しただけで……」
「だとしてもだ。調香師は鼻が命なんだ。ピアニストが指を、料理人が舌が命だというようにな。そこで、お前にはまず感覚よりも先に香水についての基礎知識から教えてやる」
「わ、わかりました」
「香水は主にアルコールと香料が含まれていることから「アルコリック・パヒューマリー」と呼ばれている。アルコリック・パヒューマリーはその中に含まれる香料の濃度、つまり賦香率によって香水やオードトワレなどと分類されるんだ。一般的なオードトワレが香料4~8%、オーデコロンが香料2~5%、そして香水(パルファム)が15~30%だ。ちなみに日本語の「香水」は厳密にはパルファムを指すんだが、一般的にはパルファムからオーデコロンまですべての濃度の香水類を指している。ここまでは理解したか?」
(……り、理解できるわけねぇ)
俺は星川さんの言葉の波に押しつぶされそうになりながら、必死にメモを取った。
「い、一応……。えっと、たしか今回は香水……つまりパルファムを作るんですよね?」
「そうだ。そして、香水には「匂い立ち」という現象がある。これは香りが時間の経過にともなって、次第に変化する性質によって発生する。お前は、香水を付けてすぐの香りと時間が立った時の香りが違って感じたことはないか?」
「たしかに。今までつけていた香水も、家を出る時に付けた時と帰る時でなんとなく違って感じたことがあります」
「あっそれ、俺も感じたことあるかも!」
「それが「匂い立ち」という現象だ。匂い立ちは3段階に分けられ、つけ始め5~15分をトップノート、3~4時間をミドルノート、そして半日から約一日をラストノートと呼ぶんだ。これらの各ノートの時間はあくまでも目安の時間で、香りのタイプや特徴によって異なるから参考程度に覚えておくといい」
「つまり俺たちはこの匂い立ちの変化も考えながら香りを決めないといけないってことですね」
「へぇ、意外と察しがいいじゃないか。その通り、俺たちは各ノートに適切な香料を配分し、その変化が自然でまるで音楽の美しい調べのような調和のとれた香りに仕上げなくてはいけないんだ」
「結構難しいですね……」
「俺が言うのもなんだが基本的な香りのタイプを覚えておけば、考えるのは難しくない。まずはこの12種類の香りを嗅いでみろ」
そう言うと、星川さんが机の上にペンケースぐらいの大きさの古い木箱を置いた。

寄木を組み合わせたような簡素な木箱は留め金が今にも取れそうなぐらいくたびれていた。恐る恐る木箱を開くと、中には小さな瓶が12個並んでおり、その中には液体が入っていた。
「これは……?」
「星川君らしくない箱だね」
「俺の商売道具の一つだ。この瓶一つ一つに香水の基本となる香りが入っている。そのまま嗅ぐと鼻がやられるからな、この布に一滴垂らして顔の前で振ってみろ」
「分かりました」
俺はコルクで止められた瓶を慎重に開くと、瓶の中の液体をスポイトで取り小さなガーゼに落とした。
フワッ
「これは……バラ?」
「さすがにバラは分かるか。これはシングルフローラルタイプといい、一種類の花をイメージした香りだ。そして、横にあるのがフローラルブーケ、つまり数種類の花の香りをイメージしている」
「ホントだ、確かに色んな花の香りがします」
「基本的な香水には花が使用されている物が多いが、そのほかにも果実や葉巻煙草のような香りが特徴的な香りもある。まあ、口で言うよりもとりあえず全部嗅いでた方が早いな」
俺は星川さんに言われた通り、小さな瓶を一つずつ開けると、香りを嗅いでみた。
(これは草原のような緑っぽいな……こっちは緑でも森が近そうだ。こっちはミントのような爽快感がある香り。うわっ、これはばあちゃんちの線香の香りがする!)
そうして何本目かの瓶の香りを嗅いだ瞬間。

スッ
「あっ……」
俺の周りを楽しそうに泳ぐペンギンたちの姿と、夏の海の香りが通り抜けた気がした。
「どうした?」
「柳瀬君、何か気が付いたの?」
「いえ……なんというか、これ海の匂いみたいだなっておもって」
「それはいわゆる海や水をイメージした香りでマリンタイプと呼ばれている」
「マリンタイプ……」
「マリンタイプといっても潮の香りではないだろう?それは複数の花の香りと樹木の香り、そしてわずかに果実の香りをブレンドしたものがマリンタイプの香水の基本になっている。海本来の香りとは違うが、独特の爽やかさと透明感が海を連想させるだろう?それがマリンタイプの特徴だ」
「俺、これにします」
バッ
「この香りを嗅いだ時、海の香りとペンギンたちの姿が見えた気がしたんです」
「これをペンギンの香水にしたいです」
俺は悩む星川さんを見ながらそう言った。
「なるほどな……単純だな」
ハッ
そう言うと星川さんは俺を見ながら鼻で笑った。
「ッ!なぜですか⁉俺は確かにこの香りにあいつらの姿を見たんです!」
「だから単純だと言っているんだ」
息まく俺を手で制すと、星川さんはぬるくなった紅茶を一口飲んだ。
「確かにマリンタイプの香りはペンギンたちにはぴったりだろう。氷の上で生活しているペンギンらしい爽快さと海の香りはまさに香水にするにはふさわしい」
「だったら!」
「だが、それは普通の店で売る場合の話だ。今回は水族館とのコラボがメイン、それでは他の香水と何ら変わらず、限定という特別感もなくなってしまう」
ハッ
(そうだった。今回は水族館という海に最も近い場所で売るんだ。ただ海の香りがするだけじゃ意味ないのか)
「星川さんの言う通りですね……」
「まあ、考え方は悪くない。ほかのエリアの香水もマリンタイプやウッディタイプが多いからな、そことは違うアプローチで作っていけばいいんじゃないか?」
「それが難しいから今なやんでるんじゃ?」
「いや、確かにそうなんだが……」
星川さんにしては珍しく言いよどむ姿に首をひねっていると、俺たちの様子を見ていた八代さんが近づいてきて耳打ちしてきた。
コソッ
「悠貴君、多分柳瀬君が落ち込んでると思って慰めようとしてるんじゃないかな?」
「えっ⁉あれでですか?俺には追い打ちかけてるようにしか見えないんですけど……」
「まあ、それが星川君の残念なところというか、可愛いところなんだよ」
「全然可愛くないですよ……」
「おい!お前らなにコソコソ話してるんだ」
あはは……
「な、何でもないよ~ちょっと柳瀬君と色々と、ね」
「そ、そうですよ!何でもないです」
「ならいいが……じゃあさっさと進めるぞ。お前のことだ、香りが決まるまでまだまだ時間はかかりそうだからな」
「お手数をおかけします……」

こうして、俺の日課に新たに勉強会が追加された。
バシッ
「なんでバラの香りに皮の香りを混ぜようと思ったんだ……お前はバラ園に本革のコートを着た渋いおっさんが立っていても違和感がない人間なのか?」
「本革のコート着たおっさんだってバラを見たいときはあるでしょう!」
「俺はそんなことを言ってるんじゃない!調和のとれた香りを作れと言ってるんだ」
「葉巻煙草や皮のような香りが特徴的なタバック・レザータイプは主張が激しいんだ。それなら単体で香りを楽しんだ方がいいだろう!」
「それだと面白みがないじゃないですか」
「面白さで香水は作れないんだ!」
バチバチッ
「悠貴君も柳瀬君も元気だねぇ~」

「おい、その花にはフゼアタイプの香料が合うだろう」
「なるほど。例えばなんですけど、この本に書かれているこの花とこのシプレータイプはどうですかね?」
「……そうだな。それなら確かにバランスもいいだろう」
口は悪いが香水のことになるときちんと教えてくれる星川さんのおかげで、俺はどんどん香水についての知識を増やしていった。

そして担当者になってから、もうすぐ1か月が来ようとしていたある夜。
「で、出来た~……」
「よし、これなら商品化できそうだな」
俺は星川さんの嫌味と八代さんの憐みの目に耐えながら、なんとか星川さんのオッケーをもらう香りが出来た。
「も、もう何の香りもしないです……」
「あれだけ原液に近い香料を長時間嗅いでいたんだ。そりゃあ馬鹿になるだろうな」
「明日が休みで良かった……」
「まあ時間はかかってしまったが、これで香りは決まったな。後は俺が調整すれば何とか形になるだろう」
星川さんはそう言いながら、机の上に散らばった紙片づけていた。
「よかった……それじゃあ俺の仕事は終わりですよね?」
ピタリ
「何言ってんだ」
ホッと胸をなで下ろした俺を呆れた顔で見ながら、星川さんは肩をすくめた。
「俺が調整するとは言え、最終的な決定はお前にかかってるんだぞ。調整まで急ピッチで進めても1週間はかかる。しかもその後は、香水を入れる瓶のデザインに試作、最終チェックまで考えたら期限の2ヶ月ギリギリまではかかる計算だ」
「ということで、まだまだお前の仕事は終わらないぞ」
「そ、そんな……」
 (ようやく香りも決まって一息つけると思ったのに!)
絶望的な顔で横を見ると、星川さんがあくどい笑みを浮かべながらこちらを見ていた。
ニヤリ
「まだまだ頑張れよ、責任者の柳瀬君」
「うっ……頑張ります」
「悠貴君、めっちゃ悪い顔してるよ」
「気のせいだ」
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

年上が敷かれるタイプの短編集

あかさたな!
BL
年下が責める系のお話が多めです。 予告なくr18な内容に入ってしまうので、取扱注意です! 全話独立したお話です! 【開放的なところでされるがままな先輩】【弟の寝込みを襲うが返り討ちにあう兄】【浮気を疑われ恋人にタジタジにされる先輩】【幼い主人に狩られるピュアな執事】【サービスが良すぎるエステティシャン】【部室で思い出づくり】【No.1の女王様を屈服させる】【吸血鬼を拾ったら】【人間とヴァンパイアの逆転主従関係】【幼馴染の力関係って決まっている】【拗ねている弟を甘やかす兄】【ドSな執着系執事】【やはり天才には勝てない秀才】 ------------------ 新しい短編集を出しました。 詳しくはプロフィールをご覧いただけると幸いです。

潜入した僕、専属メイドとしてラブラブセックスしまくる話

ずー子
BL
敵陣にスパイ潜入した美少年がそのままボスに気に入られて女装でラブラブセックスしまくる話です。冒頭とエピローグだけ載せました。 悪のイケオジ×スパイ美少年。魔王×勇者がお好きな方は多分好きだと思います。女装シーン書くのとっても楽しかったです。可愛い男の娘、最強。 本編気になる方はPixivのページをチェックしてみてくださいませ! https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=21381209

初体験

nano ひにゃ
BL
23才性体験ゼロの好一朗が、友人のすすめで年上で優しい男と付き合い始める。

雨の日に再会した歳下わんこ若頭と恋に落ちるマゾヒズム

倉藤
BL
田舎の家でひっそりと暮らしている伊津向葵。 実は伊津にはヤクザの組長に叶わぬ恋をし軟禁調教されていた過去があった。手酷く扱われた挙句に捨てられたために、傷心させられただけでなく、痛みで興奮を覚える変態マゾの身体にされてしまっていた。 静かに生きることが願いだったのだが、ある日突然命を狙われた若いヤクザ——本堂八雲が逃げ込んできた。 本堂は伊津がかつて在籍していた竜善組の現若頭だ。本堂は伊津を組に連れ戻したいと迫る。トラウマであるヤクザの世界には絶対に戻りたくないと最初は拒否していた伊津だが、男に痛みだけじゃないセックスと優しさを与えられ、心をぐずぐずに溶かされていく。 *わんこ系歳下攻め×歳上綺麗めおじさん受け(口が悪いです) *暴力表現、R18シーンは予告なく入りますのでご注意を *SM含みますが、最後は甘々ハッピーエンドです。 1日3回更新予約済み 支部にあげていた話の転載 全体で6万字ちょっとの短編です。

逢瀬はシャワールームで

イセヤ レキ
BL
高飛び込み選手の湊(みなと)がシャワーを浴びていると、見たことのない男(駿琉・かける)がその個室に押し入ってくる。 シャワールームでエロい事をされ、主人公がその男にあっさり快楽堕ちさせられるお話。 高校生のBLです。 イケメン競泳選手×女顔高飛込選手(ノンケ) 攻めによるフェラ描写あり、注意。

乙女ゲームの純粋王子様がクズ竿役男に堕ちるまで

嶋紀之/サークル「黒薔薇。」
BL
タイトル通りのアホエロです。 乙女ゲーム攻略対象な無垢王子様×ド変態のバリネコ淫乱おっさん。 純粋培養なノンケの王子様が、うっかりドクズの変態おじさんに目をつけられて、おじさん好みのドSクズ野郎に調教されてっちゃう感じの話。始終スケベしかしていません。 無垢なノンケがクズいバリタチに変貌していくシチュが好きな人、あるいはノンケを陥落させる淫乱おっさん受けが好きな人向け。 性癖お品書き ・攻めのオス堕ち、快楽堕ち、クズ化 ・ノンケの快楽堕ち、逆NTR ・淫乱受け、クズ受け ・淫語、♡喘ぎ、雄喘ぎ

【完結・BL】俺をフッた初恋相手が、転勤して上司になったんだが?【先輩×後輩】

彩華
BL
『俺、そんな目でお前のこと見れない』 高校一年の冬。俺の初恋は、見事に玉砕した。 その後、俺は見事にDTのまま。あっという間に25になり。何の変化もないまま、ごくごくありふれたサラリーマンになった俺。 そんな俺の前に、運命の悪戯か。再び初恋相手は現れて────!?

【完結】遍く、歪んだ花たちに。

古都まとい
BL
職場の部下 和泉周(いずみしゅう)は、はっきり言って根暗でオタクっぽい。目にかかる長い前髪に、覇気のない視線を隠す黒縁眼鏡。仕事ぶりは可もなく不可もなく。そう、凡人の中の凡人である。 和泉の直属の上司である村谷(むらや)はある日、ひょんなことから繁華街のホストクラブへと連れて行かれてしまう。そこで出会ったNo.1ホスト天音(あまね)には、どこか和泉の面影があって――。 「先輩、僕のこと何も知っちゃいないくせに」 No.1ホスト部下×堅物上司の現代BL。

処理中です...