よあけまえのキミへ

三咲ゆま

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二章 陸援隊編

第五十八話 天才と凡人

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 小屋の中は、外から見るよりもずっと広々として澄んだ空気が漂っていた。
 聞こえてくるのは虫や鳥のさえずりばかり。ほっと癒される場所だ。
 窓からかすかに漂ってくる草の匂いが頭の中をすっきりと保ってくれる。物書きさんにはもってこいの環境だろう。
 おじちゃんは囲炉裏に火をともして、豚肉と葱がたくさん入った鍋をふるまいながら、ゆっくりとこちらの話に耳を傾けてくれた。

「なるほどのう。美湖ちゃんは今、この男のところで世話になっとるのか」

「そうなの。雨京さんと交流のある人たちでね、そのツテで」

 陸援隊のことをありのまま話すといぶかしがられそうなので、軽くぼかしながら近況を語る。
 おじちゃんはいずみ屋にもよく遊びに来てくれていたから、神楽木家とも親交がある。雨京さんの紹介と聞けばそう悪い印象は受けないだろう。

「若造、美湖ちゃんを泣かすようなことだけは許さんぞ」

「泣かすどころか、毎日笑わせてやりますよ」

 大きなお椀に山盛りつがれたお鍋の具をぺろりとたいらげて、先輩は威勢よく胸をたたきながらそう答えてみせた。

「がっはっは! 言ったな! おぬし、名は?」

「田中顕助っす」

「顕助か! よく見りゃなかなかいい体をしとるな! よおおおし!! もっと食え! 肉を食え!!」

 短い問答で何かを感じ取ったのか、おじちゃんは先輩のことを気に入ったようだ。
 空になったお椀にふたたびこんもりとお肉をよそっている。
 いつも変わりばえしない弁当ばかり食べているせいだろう、先輩はぱっと目の色を変えて、小躍りしながらそれを受け取った。

 ……あれ? なんだか当初の目的を忘れつつあるような?

 昔語りと私の近況報告を終えて、なごやかに鍋をつつきはじめたその時。
 しびれをきらしたようにミネくんが口をひらいた。

「望月先生! ボク、ばかぢからくそたろうはすべて読ませていただいてます! 大好きです!」

「おお、そうか。小僧の名は?」

「峰吉といいます! 今日は花文堂さんから事情をうかがって、くそたろうの続刊の話をしに伺いました!」

 脇道にそれていた話題が、ここにきてようやく軌道修正された。
 ありがとうミネくん……! しっかり者で本当に助かるよ!

「ふぅぅぅむ。くそたろうの話か……」

 これまで機嫌よく話をしていたおじちゃんの表情は、一瞬にして曇ってしまった。
 気がすすまない話題だというのは一目見て明らかだ。
 けれど、今日ここに来た目的はくそたろうの交代絵師について妥協してもらうよう説得するためだ。
 無理にでも会話に応じてもらわなければ始まらない。

「おじちゃん、お父さんの挿絵でしか書かないって言ってるんでしょ? そこをどうにか他の人に任せられないかな」

「湖太郎(こたろう)が画を描かんのならば、わしも続きは書かん」

 ――湖太郎というのは、父の本名だ。
 父とおじちゃんはいつも本名で呼び合っていたし、私の前で込み入った話をすることはなかったので、仕事上の二人がどう向き合っていたのかはわからない。
 分からないけれど……

「お父さんだって、代わりの絵師を見つけて続きを書いてくれたほうがきっと喜ぶよ」

「どうじゃろうなぁ、そりゃあ」

「描きはじめたら、頭の中にある線の一本まで吐き出して、出しつくして、もう何も出てこなくなるまで筆を入れなきゃ終われないっていつも言ってたよ」

 一度はじめたからには、自分の中にあるものすべてを紙の上に出し尽くすべきだと、口癖のように父は言っていたっけ。
 だから何枚破り捨てても、筆を止めても、書きはじめたものは必ず完成させなければならないんだ。

「出し尽くせ……か。確かによく言われたのう。しかしわしは、湖太郎ほど世に求められてはおらん」

「それって、どういうこと……?」

「わしはもともと、戯作者になれるような才は持っておらんかったんじゃ――」

 そんなことはない、と叫ぼうとした私とミネくんを片手で制して、おじちゃんは滔々とその経歴について語り始めた。
 それはすべて初めて耳にする話で、私が今まで垣間見ることができなかったおじちゃんの戯作者としての苦悩をさらけ出す内容だった。
 長い昔語りだったけれど、その中で繰り返し強調されていたのは「湖太郎は天才でわしは凡人じゃった」という主張だ。

 どうしてそう感じるようになったのか。
 そこに至るまでの道のりを簡単に整理してみよう。


 父とおじちゃんの交流は、幼い時分に絵草紙屋の店先で知り合って意気投合したその日から始まった。
 すでに絵師や戯作者のまねごとをして遊んでいた二人は、お互いの作品を見せ合い「おれたちも絵草紙を作る人になろう」と誓い合ったそうだ。

 ちなみにおじちゃんは、ももんじ屋(獣肉店)の次男として生まれたとのこと。
 なるほど、獣肉好きなのはそのせいか。
 いっぽう私の父湖太郎は、染物屋の長男としてそれなりに裕福な暮らしをしていたらしい。
 しかしろくに家業を手伝わず幼い頃から絵ばかり描いており、画塾を転々としながら腕を磨いていたという。
 勘当寸前だった父は、十六のころから画材を買う費用を稼ぐために自ら版元と交渉して画の仕事を始めた。
 絵師「天野川光」はそれから少しずつ評判を上げ、玩具絵師として名を馳せていった。
 けれど実家は相変わらず絵仕事には反対で、染物屋を継ぐよう何度も父に迫ったそうだ。
 そんな父が最終的にどうしたかというと……

「湖太郎のやつ、惚れた女と駆け落ち同然に家を出やがった」

 おじちゃんが苦笑まじりに語ったその事実にミネくんは目を丸くし、先輩は興味深そうにお椀から顔を上げて箸を止めた。
 普通なら驚くような出来事なのだろうけど、私は幼い頃からそのあたりの話を聞かされて育ったので平静を保っていられた。

 私の母である美佐(みさ)は米問屋の末娘で病弱だったらしく、幼少期からほとんどを家の隅に閉じ込められて過ごしたらしい。
 唯一の楽しみは、月に一度絵草紙屋に買い物に連れて行ってもらうこと。その店先で父と出会ったのだそうだ。
 絵について話をするうちに二人は仲を深めていった。
 やがて両家の反対をおしきって夫婦となり、私が生まれた――のだけど、産後の肥立ちが悪く、母はすぐに亡くなってしまったのだった。


「すっげぇな、駆け落ちまでするとはよぉ。よっぽど好きあってたんだな」

 背徳的であまり報われない話だと思うのに、先輩は暗い表情を見せず、むしろ笑みすら浮かべている。
 変わってるな。ふつうは駆け落ちと聞けばいい顔はしないものなのに。

「父はいつも母のことを自慢していました。最高の嫁さんだったって」

「仲むつまじい夫婦じゃったからのう」

「……うん。私はお母さんのこと記憶にないけど、二人が最後まで幸せに暮らしていたみたいだから、そういう昔語りを聞くのは好きだったよ」

 しみじみと語る熊おじちゃんに向かって、私は明るく言葉を返す。
 周りが何と言おうと、自慢の両親だ。
 私の知らない二人の思い出話があるのであればいくらでも聞かせてほしいところだけど、今はまた別の用事で来ている。
 話を先に進めなきゃね。


「それで、その後は? おじちゃんが自信をなくす原因になった出来事があったのかな?」

「おう。湖太郎が絵仕事を始めた後も、わしの書いた話は誰からも評価されずにおったんじゃ」

「おじちゃんも、子供の頃からずっと書き続けていたんだよね?」

「もちろんじゃとも。書くのが好きで、朝から晩まで机に向こうとった。あちこちに書いたもんを売り込みにも行った。それでもほとんど門前払いでのう」

「そうだったんだ……」

 そんなに長い間芽が出ずにくすぶっていたなんて。
 戯作者さんも大変なんだな。絵も草双紙も、よく売れるのは人気の作者さんが手がけたものばかりだもんね。
 無名から実力ひとつで成り上がっていくにはそうとうな努力と運が必要なんだろう。

「いっぽう湖太郎は、嫁さんをもらってますます筆がのった。絵に華が出て、女児向けの愛らしい玩具絵なんかも手がけるようになってのう」

「おじちゃんは、そんな差がつらかったのかな?」

「そらあ、そうとも。やつの成果を素直に褒めて一緒になって喜んで、その後家に帰って一人で机に向こうた時に、ふっと何かが折れるんじゃ。もうわしは書かんでもええんと違うか、とな」

「おじちゃん……」

 こうと決めた道で、評価されない辛さ。先が見えない怖さ。
 私には、そこまで入れ込んだこれという何かがないから、分からない。
 分からないながら、自分だったら、とも考える。
 私だったらとっくに筆を折っていただろう。
 絵心がないと諦めて、幼いころに絵筆を持つのをやめてしまった弱い私なら、きっと。


「でも、おっちゃんはこうやって立派に成功してるじゃないすか。どっかで誰かの目にとまったってことじゃねぇの?」

 どんよりとした空気を裂くように、いつものさっぱりとした口調で先輩が言葉をなげかけた。
 どう声をかけるべきか悩んでいた様子のミネくんも、その一言に同意してぶんぶんと首を縦に振る。

「いや、誰の目にも止まっとらんぞ。わしが仕事をもらえたのはすべて湖太郎のおかげじゃ」

「……どういうこと?」

「湖太郎は玩具絵の仕事をおもに請け負っとったが、ある日草双紙の挿絵の依頼が来てなぁ。条件も悪くなかったんじゃが、やつは躊躇なくそれを断りよった」

「そうなんだ。お父さん、もともと本の挿絵はあんまり描かなかったもんね。作者の意向を汲みながら何枚も描くのが苦手って言って」

 だから父の絵が入ったもので私の身の回りにあったのは、玩具がほとんどだった。
 くそたろうを初めて見た時は、こんな仕事もしていたんだと驚いたものだ。

「しかし、花文堂は天野川光に挿絵を描かせたがったんじゃ。諦めずに連日湖太郎の元に通ったらしい」

「うんうん。それで結局、お父さんは挿絵依頼を受けるんだね?」

「湖太郎はそこで、どうしてもと言うならこの話に絵をつけたいと、わしが書いたもんを差し出した。この作者の話以外に絵はつけんと言うてな」

「そんな流れなんだ……! それで、花文堂さんはおじちゃんのお話を気に入ってくれたわけだね!」

「いんや。くだらん話じゃから、手にとってはもらえんじゃろうと思い切り難色を示しおったわい」

 くだらない話、か……。
 思わずくそたろうの内容が頭をよぎる。
 たしかに、あれを出版するにはちょっと勇気がいるかもしれない。

「そのあと、どうなったの?」

「結局花文堂が折れて、一冊出してみることになったんじゃ。地獄の小便太郎っちゅう題の」

「小便太郎!! 持ってます、ぜんぶ読んでます!! 望月千夜の太郎モノ三部作の第一弾ですね!!」

 ミネくんの勢いがこれまでになく燃え上がっている。
 目を輝かせて立ち上がり、拳をにぎって興奮状態だ。すごい、本当に好きなんだな。
 それにしても小便太郎って……。
 おじちゃんの作品はシモ関連ばかりなのかな。

「おお、知っとったか。ダメでもともと出したそれが予想外に売れてのう。続刊を出したらまたそれなりに話題になり……っちゅう具合で、気づけば何作も書いておった」

「おじちゃんすごい! それって、おじちゃんの書くお話が面白いからだよ! くそたろうも最後まで笑いが止まらなかったもん!」

「美湖ちゃん、くそたろうを読んだんか。いかんぞ、年頃の娘さんがあんなもんを読んでは」

「作者本人がそんなこと言うなんて……」

 そこで、どっと笑いが起きた。
 おじちゃんは自分の書くものをいまだにくだらないって思っているのかな。人に見せられたものじゃないって。


「でもよ、おっちゃん! おっちゃんの書いたもんは世のちびっこに大人気らしいっすよ。いや、大人でも隠れた愛読者は多いと思うな。オレも大好きだし」

「そうですよ先生! 先生の本を囲んで笑い転げてる子供が、巷にはウヨウヨいますよ! 僕だってそうだ! くそたろうの続きが楽しみで仕方ないんです!!」

 先輩もミネくんも、絵草紙屋の前でたむろしている少年少女と同じ、夢にあふれた目をしている。
 二人がそうやって本心からおじちゃんの書いたものを欲してくれているのを見ていると、なんだか自分のことのように嬉しくなってしまう。

「おじちゃんはとっくに世の中に認められてるよ。どんな経緯で最初の一冊を手がけたにしろ、実力で成り上がって名を売ったのは事実なんだし。立派な戯作者さんだよ」

「美湖ちゃん……ありがとうよ。しかしな、湖太郎は最後までわしの作にしか挿絵をつけんかったんじゃ。わしも、他の絵師に挿絵は頼みとうない」

 目尻に涙を浮かべながら、おじちゃんはかすかに震える声でそう語ってくれた。
 ――父に、恩を感じているんだ。
 誰からも見向きをされない中で、ずっとずっと自分の一番の読者でいてくれた父に。
 夢をかなえるための、きっかけを作ってくれた父に。

 二人は親友だったから、あらたまってお互いの仕事について語り合ったりなんかはしなかったようだけど。
 でも、根っこの部分で職人の意地とこだわりみたいなものを共有していたのかもしれない。

「おじちゃん、お父さんに義理立てしてくれてありがとう。でもお父さんは、くそたろうの続刊が出るのをきっと一番楽しみにしていたよ」

 そう言って、持参した版下をおじちゃんの前に差し出した。
 墨一色で描かれた、くそたろうとおはなちゃんの絵。
 農村でののどかな日常。怪異の登場。そしてひとり戦いへと赴くくそたろう。
 ところどころ線がかすれて、震えて、弱弱しいけれど、それはたしかに父の絵だ。三枚とも魂がこもっている。

「おお……おお、湖太郎の絵じゃ。この三枚だけか?」

 床に並べた紙束に飛びつくように、おじちゃんはそれらを手に取った。
 かわるがわるめくりながら隅々まで目を通し、そして何かをせがむようにこちらへと目を向けた。

「三枚だけ。でも、最後まで筆を入れてた絵だよ。全部完成させられなくて悔しかったと思う」

「そうか……湖太郎のやつ、最後まで……」

「お父さんが最後の仕事に選んだのが、おじちゃんの本の挿絵なの。それってやっぱり、一番思い入れが深かったからじゃないかな。くそたろうの続きが世に出るのを心から楽しみにしてたんだよ」

「……」

 おじちゃんは、そこまで聞いてがくりとうなだれた。
 大きな体を丸めて、子供のように。
 けれど涙を流すわけでもなく、ただただひたすらにうつろな目で膝の上に乗せた父の絵を見つめ続けていた。

 ――何と言葉をかければいいだろう。
 この絵を見ておじちゃんが父の思いを汲み取ってくれるのを待つほかに、私たちができることなんて残っていないはずだ。
 そう思って、おとなしく沈黙に身を任せようと俯きかけたそのとき。


「先生!! 天野先生が残した挿絵をどうか無駄にしないでください! それを使って、本を出してください!!」

 ミネくんが大声を張り上げて、土下座した。
 最後の一押しにと、徹底的にへりくだって平身低頭頼み込んでいる。

 すごい熱意だ。
 ミネくんは、版元と、作品と、作者。すべてを等しく尊重してくれている。
 そういう本との向き合い方は、彼の家業のおかげでしみついたものなのかな。

 そんな姿を見せられたら、私だってじっとしてはいられない。
 父の最後の力作を無駄にしたくはないし、おじちゃんにもまたくそたろうの続きを書いてほしい。

「その三枚の続きを描いてくれる絵師さんは、私も一緒に探すから! おじちゃんが納得のいく絵を仕上げてくれる人を探そう!」

 そうだ。一から探していけばいい。
 長くかかっても構わない。京には優秀な絵師さんがたくさんいる。いつかはきっといい人が見つかるはずだ。


「なんなら天野が描いちまえよ! 父ちゃんが絵師なら、おめぇもけっこうイケんだろ?」

 いい感じの流れになってきたところで、先輩が余計な発言をぶちこんできた。
 ……言ってなかったっけ、私には絵心がないって。言ってないか。

「む、美湖ちゃん! 絵が上達したんか!?」

 おじちゃんが、はっと生気を取り戻した表情になって目を見開く。
 いやいやいや、そんな。
 おじちゃんは私が小さい頃からずっと、全然成長しない画力を見守ってくれていたじゃない。
 たった何月かで劇的に上手くなったりはしないよ。

「……ごめん、下手なままなの。私に絵師としての活躍は期待しないで」

「んだよおめぇ、諦めんな。ためしに何か描いてみろって。おっちゃん、紙と筆ねぇっすか?」

「おお、あるぞ! 待っとれ!!」

 ぐいぐいと話を推し進める先輩の勢いに後押しされて、ついにおじちゃんが立ち上がった。
 窓際にある文机の上から紙や筆など一式を抱えてこちらにドカドカと戻ってくる。
 先輩は自信なく肩をすぼめる私の背中をバシンと一叩きし、気合を注入した。
 ミネくんに助けを求めて視線を送ると、彼は期待に満ちた目でぐっと拳を握ってみせた。


「さあさ、美湖ちゃん準備はええぞ! 何でもええから描いてみい!」

 いつの間にか目の前には紙が広げられ、硯の中にはたっぷりと墨が満ちて、万全の体勢が整っている。
 これはもう逃げられないな。
 仕方ない。ありのままの実力を見てもらおう。

「じゃあ描くけど、見て驚かないでね。久しぶりに全力でやるよ」

 ――なんて、言ったあとではっとした。
 なんだかこれじゃ、ものすごい実力者が秘めていた力を解き放つ感じじゃないか。
 恐る恐る三人の顔を見渡せば、全員の期待感がこれ以上ないほどに高まっていた。

 ど、どうしよう。描きたくない。
 でもいまさら逃げ出すわけにもいかないし……。
 とりあえず、やろう。全力で。


 四半刻も経たずに、絵は完成した。
 この場で描くならもちろんくそたろうだと思い、私なりに父の絵を真似て仕上げてみた。
 けれど、我ながらひどい。
 人の体ってどう描けばいいの。
 なんかもういろいろとすごいことになっちゃってる。何箇所か骨折してる。
 そんな怪作をおずおずと彼らの前に差し出せば、三人は身を寄せ合って紙に目をおとした。

「おおお……」

「へぇぇ……」

「……マジか」

 三者の返事の短さから、感想を言いづらい出来なのだろうということがよく分かる。
 全員が引きつり笑いを浮かべているのもその証拠。
 分かってたよ、こんな反応は。
 子供の頃から何度もあった状況だから。慣れてるよ。

「天野、こいつってくそたろうか?」

「そうですよ。ふんどしが難しかったです」

「いや、ふんどし以前によぉ、なんで糞を握りしめてんだ? いくらくそたろうとはいえ、棒立ちで糞を掲げてる構図は攻めすぎだろ」

「どう見たらそうなるんですか! 持ってるのは大根ですっ! くそたろうはお百姓さんだから!」

 さすがにそんなからかい方はひどいよ!
 大根っぽく見えるように何度もなぞって形を整えたのに!!

「え、どう見てもうんこだよね」

「わしも、野糞直後の絵を描いたんかと……」

 ミネくんとおじちゃんも、気まずそうに先輩に同意する。
 やめてよそんな、汚い単語を真顔で連呼しないでよ……。

「うそ! 大根でしょ、ちゃんと! 形を見て!」

「形も何も、線が重なりまくってて真っ黒だろうがよ」

「あ……え、ああ……そう言われてみれば」

 大根に白い部分はほとんど残っておらず、全面真っ黒になっていた。
 それっぽい形にしようとどんどん墨を上塗りしていったのがいけなかったのかな。
 これじゃたしかに勘違いされてしまうかも……。

 おじちゃんが声をかけづらそうに顎をさすっているのを見て、思わずため息が漏れた。
 やっぱり私じゃだめだ。悔しいけど、どうにもならない。

「おじちゃんごめんね、やっぱり私に画才はないよ。ゆきちゃんみたいに上手くかけたらって思うけど」

「ゆきちゃん……? おお、大坂に行ったゆきちゃんか、懐かしいのう」

「あ、覚えてる? ゆきちゃんね、今むた兄と一緒に京に戻ってきてるんだよ。絵もものすごく上達してた!」

 ゆきちゃんのことは、おじちゃんもよく知っている。
 彼女は子供好きなおじちゃんによく懐いていて、しょっちゅう一緒に遊んでもらっていたっけ。

「なるほど、そうか。湖太郎も、ゆきちゃんが一番弟子だと褒めておったしのう」

「うん。ゆきちゃんは、今でもお父さんの一番弟子だよ」

 実の娘として、焼きもちをやいたこともあったけど。
 それでも、ゆきちゃんは毎日飽きずに父に絵を習って、描いた絵に助言をもらって、それはそれは楽しそうに筆を動かしていた。
 描くことをやめなかった。離れていてもずっと。
 そうやって没頭できることこそが、才というものなのだと思う。

 才があって、一番弟子で、おじちゃんのことをよく知っていて――。
 あれ? これだけ条件が揃っているなら、この場合……


「じゃあいっそ、ゆきちゃんに挿絵を頼もうぜ!」

 そうだよね、そうなるよね、と。
 名案をひらめいて膝を打った先輩の言葉にうなずいてみせる。

「先生、ボクはさっきゆきちゃんの絵を見ましたけど、どこか天野先生の筆はこびに通じるものがあるように見えました! 彼女ならきっといけます!」

 つづいてミネくんのお墨付きが加わる。
 長いこと父の挿絵で展開されるくそたろうを愛読していた彼が言うのだから、説得力がちがう。

「おじちゃん、ゆきちゃんの絵は私からもおすすめできるよ。一度見てみてくれないかな?」

「ううむ……そこまで言うならそうじゃのう、わしも見てみたい。しかし、ゆきちゃんの意見をまだ聞いておらんからのう」

「そこは説得するから! 近いうちに絵をもって、ゆきちゃんとここを訪ねてみてもいい?」

「それは歓迎じゃ。久しぶりにわしも、ゆきちゃんに会いたいしのう」

「わ、やったぁ! それじゃ決まり! おじちゃん、ありがとうっ!!」

 思わず、幼い頃のようにおじちゃんに飛びついた。
 よかった。まずは一歩前進。
 かすかに口元をゆるめるおじちゃんも、どこか肩の力が抜けたように穏やかだ。
 挿絵の新しい絵師を探すことに、前向きになってくれている。


 それから私たちは、和やかな雰囲気で鍋をつつきながら談笑した。
 いくらか明るい展望が見えて、皆が上機嫌。
 笑顔の絶えないひとときに、おじちゃんの心も氷解してくれたようだ。


 ――やがて鍋の中身もからっぽになった頃、長居しすぎた私たちはそっと腰を上げるのだった。

 戸口を抜けて垣根の外までおじちゃんは見送りに出てくれた。
 うっすらと橙に色づきはじめた空の下、私は足を止めて頭を下げる。

「それじゃおじちゃん、また来るね。今度はゆきちゃんも一緒に」

「おう。待っとるぞ、美湖ちゃん」

「うん! これから頑張っていこうね。もうヤケ酒とかしちゃだめだよ」

「おうとも。美湖ちゃんも達者でのう。顕助! 美湖ちゃんのことを頼んだぞ!」

 私の隣に立つ先輩に、おじちゃんが少しいじわるな顔をしながら肘うちをした。
 加減はしたのだろうけど、先輩はわずかに肩を揺らしてそれを受け止める。

「任せてください。オレがそばにいて守りますから!」

 にっと笑って、先輩は拳で胸を叩いてみせた。
 そうやって当たり前に返してくれる言葉の頼もしさに、なぜだかきゅっと胸の奥がしめつけられるような嬉しさと気恥ずかしさを感じてしまう。
 先輩、ほんとうにいつもありがとうございます、なんて心のうちで小さくお礼をつぶやいた。

「よしよし。峰吉もまた遊びに来いよ。今度来たら小便太郎以前の話も読ませちゃる」

「うわーー!! 本当ですか!? もう毎日来たいくらいです! 先生、ありがとうございます!!」

「がはははは! おうおう、いつでも来い!」

 褒めちぎられておじちゃんはご満悦のようだ。
 そういえば書き手にとって、熱心な読者と面と向かって話をする機会なんてほとんどないはずだもんね。
 こうやって直に熱い感想を聞かせてもらえたら、自信なさげにしていたおじちゃんも少しは自分の作品の魅力に気づいてくれるだろう。

「それじゃ、今日のところはこのへんで。おじちゃん、またね!」

「おお!! 美湖ちゃん、気をつけて帰るんじゃぞ!」

「はぁい!!」

 幼い頃に戻ったような気分で、別れを惜しみながら大きく手を振る。
 望月先生の正体が熊おじちゃんでよかった。
 おかげで話もはずんだし、こちらの提案も受け入れてもらえた。
 私の口から話したことで、挿絵に対する父の思い入れの深さもきちんと伝わったはずだ。
 ここまで来たら、最後まで引かずに話を進めるのみ。


 ――さて、残る課題はひとつだけど……


「ゆきちゃん、請け負ってくれっかな?」

 山裾の庵を出て、目に入る風景から少しずつ緑が抜けはじめたころ。
 先輩が眉をひそめてうなりながら首をかしげてみせた。

「それだよねぇ。昼間は思いっきり、絵仕事はしないって吠えてたからさぁ」

 ミネくんも同じく不安げに肩をすぼめてみせる。
 三人ともほとんど無言で歩きながら、なんとも言えない沈んだ雰囲気でここまで来た。
 三者三様、知恵を搾り出すように眉間にしわを寄せて。
 一度火がついた勢いを消すまいとトントン拍子に話を運んでみたものの、よく考えてみればかなり厳しい約束を結んでしまったことになる。
 
「私、昼はゆきちゃんに無理強いしないって言ってたはずなのに……どうしましょう」

「どうもこうもねぇよ。こうなっちまった以上説得するっきゃねぇだろうが」

「そうですよね。やっぱり父の仕事を継ぐ絵師さんは、父の絵の良さを知っていて、こだわりを尊重してくれる人がいいって思うんです」

「おめぇから見てそれがゆきちゃんなら、正直に話して頼み込むしかねぇな」

「はい」

 絵を描くのが好きで、そこらの絵師と比べても見劣りしない実力を持っていて。
 けれど、名声にはまるで興味を示さないゆきちゃん。
 いや、興味をもたないというより、拒絶しているようにすら感じる。
 何がそんなに嫌なんだろう。
 職にしてしまうことで、気軽に楽しめなくなってしまうことかな。
 それとも、絵仕事に追われて診療所の手伝いが疎かになってしまうこと?

 詳しいところは話してくれないから分からない。
 ゆきちゃんに挿絵を頼むなら、まずはそこを突き止めて、解決してあげなくちゃならない。
 いざとなったら私がゆきちゃんの代わりに螢静堂のお手伝いをする覚悟でいよう。


「明日、螢静堂に行ったときに私から話してみます。話がまとまったらミネくんにも報告にいくね」

「うん、みこちゃん頑張って。くそたろうの新作が出たら、みんなで読もう!」

「そうだね。今日はいろいろとありがとう、ミネくん!」

 できる限り前向きに話をまとめて、私たちは頷き合った。
 そして、少しづつ夜の気配を含み始めた空に背中を押されるようにして、帰路をたどる足取りを速める。

 ――今日もまた、長い一日だったな。
 先輩たちと出会ってからは毎日が濃厚で新鮮で、たくさんの喜怒哀楽で満たされている。
 明日やるべきことも決まった。きっと今日よりもっともっと大変な一日になる。
 がんばろう。やれるだけ、全力で。


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感想 2

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みんなの感想(2件)

180まひろん
2020.07.02 180まひろん

とても楽しく読ませて頂いています
少しだけ気になったのでお伺いします
51話最初の方の文章中に失踪中とありますが疾走中の間違いではないでしょうか?
差出口でしたらすみません

解除
神桜
2019.05.13 神桜

初めまして!
読んだ最初から心をわしずかみにされました!
今日まで読むと感動の1場面でさいっこうでした!(*゜ー゜)ゞ⌒☆
更新これからも頑張ってください!

三咲ゆま
2019.05.13 三咲ゆま

神桜さん初めまして!!
心をわしづかみなんて、嬉しいお言葉本当にありがとうございます!!
今日までで一区切りついたので、そこまで読んでいただけたことが嬉しくてたまりません(〃´ω`〃)

これから新しい展開になりますので、少し準備してからまた更新頑張ろうと思います!!
引き続き楽しんでいただけますように!

解除

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本作のあらすじ: 平安の昔、六条町にある呉服問屋の女主として切り盛りしていた・有子は、四人の子供と共に、何不自由なく暮らしていた。 ある日、織物の生地を御所へ献上した折に、時の帝・冷徳天皇に誘拐されてしまい、愛しい子供たちと離れ離れになってしまった。幾度となく抗議をするも聞き届けられず、朝廷側から、店と子供たちを御所が保護する事を条件に出され、有子は泣く泣く後宮に入り帝の妻・更衣となる事を決意した。 御所では、信頼出来る御付きの女官・勾当内侍、帝の中宮・藤壺の宮と出会い、次第に、女性だらけの後宮生活に慣れて行った。ところがそのうち、中宮付きの乳母・藤小路から様々な嫌がらせを受けるなど、徐々に波乱な後宮生活を迎える事になって行く。 ※ずいぶん前に書いた小説です。稚拙な文章で申し訳ございませんが、初心の頃を忘れないために修正を加えるつもりも無いことをご了承ください。

朝敵、まかり通る

伊賀谷
歴史・時代
これが令和の忍法帖! 時は幕末。 薩摩藩が江戸に総攻撃をするべく進軍を開始した。 江戸が焦土と化すまであと十日。 江戸を救うために、徳川慶喜の名代として山岡鉄太郎が駿府へと向かう。 守るは、清水次郎長の子分たち。 迎え撃つは、薩摩藩が放った鬼の裔と呼ばれる八瀬鬼童衆。 ここに五対五の時代伝奇バトルが開幕する。

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