よあけまえのキミへ

三咲ゆま

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二章 陸援隊編

第三十七話 約束の夜空

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 おひさまの匂いのするふんわりとした布団を押し入れに収納すると、思わずそれに顔をうずめてため息を吐いた。

 今日はいろいろあって大変な一日だったな。
 こうして目の前に布団があると、すぐにでも眠ってしまいそうだ。

「そろそろメシにすんぞ。用意すっからここで待ってろ!」

 布団につっぷしてまどろみはじめた私の後頭部を軽くはたくと、田中先輩はそのまま部屋を出ていった。
 いけない。
 このままだと本当に寝てしまう。
 名残惜しく押し入れの襖をしめて、私は座布団に腰をおろした。
 もう夕餉の時間なんて、本当にあっという間だな。


 それから田中先輩が部屋に戻ってくるまでには、四半刻ほどかかった。
 あまりに遅いので、私は座ったまま頭をがくんがくんと揺らしながら睡魔に負けそうになっていたところだ。

「わりぃ、遅くなった! メシ持ってきたぜ!」

 と、勢いよく障子を開けて部屋に入ってくる先輩の声を耳にして、私はびくりと身をふるわせる。
 重いまぶたをあけてのぞいた先は、まだぼんやりとして夢の世界のようだ。

「田中先輩……遅かったですね」

「おう、おかずがななかなか集まんなくてよぉ。それと、こいつらも連れてきた」

 そう言って指された廊下のほうへ目を向けると、確かに人影がある。
 紹介されてぞろぞろと部屋に入ってきたのは、見慣れた顔の三人組だった。

「よう! お前、ここに住むことになったんだってな!」

「嬉しいよおぉぉ天野ちゃぁぁん!! 会いたかったよおぉぉ!!」

「今日からまた、よろしくス」

 あの夜一緒に戦った、ヤマダさんと西山さんと、太田さんだ。
 元気そうに弁当箱をかかえて部屋の中央にすわる三人を見て、なんとも言えない懐かしさがこみあげてくる。

「お久しぶりですみなさん! 怪我の具合はどうですか?」

「まだちょっと歩きづれーけど、少しずつよくなってくってよ。西山と太田も元気だ」

 ヤマダさんが足の傷をさすりながら二人のほうへ視線を向けると、彼らはうんうんとうなずいた。

「それならよかったです。ほかに怪我した人たちは……?」

「爆発に巻き込まれた奴らは、けっこうひどい傷を負っちまってるな……あとは、蛇に咬まれた村尾だ」

 弁当箱をこちらに手渡しながら、田中先輩が答える。
 そっか。蛇に咬まれた人……。
 あれからどうなったんだろう。

「それでその、村尾さんは無事なんですか?」

「一応峠はこえたって話だ。おめぇら、見舞いに行ったんだろ?」

 田中先輩が三人に話を振ると、彼らはそろって首を縦にふった。

「村尾ちゃん、寝てるみたいで話はできなかったんですよぉ……でも、このまま安静にしてれば元気になるって」

「そっかぁ。よかったです……ゆっくり休んで早く戻ってきてほしいですね」

「うん」

 一時は危険な状態だったようだけど、なんとか持ち直してくれたのなら、あとはむた兄たちに任せるだけだ。
 次に螢静堂に行く時には、村尾さんのお見舞いも忘れないようにしなきゃな。


「おっしゃ! そろそろメシにすんぞ! おかずはたんまり調達したからよ! 皆、好きなだけ食ってくれ!」

「おおおおっ!!」

 田中先輩が輪の中心にずらりと三つの重箱を広げると、一気に場は沸き立った。

 すごい!
 どのお重にもたくさんの種類のおかずがぎっしりと詰まっている。
 まさによりどりみどりだ。

 ヤマダさんたちは大量のおかずをごはんの上にのせて、飢えた野良犬のようにがつがつと弁当箱の中身をかきこんでいる。

「すごい量ですねぇ。どうしたんですか? こんなに」

「隊士たちから少しずつ分けてもらったんだよ。んで、こっちのは中岡さんとハシさんから」

「わ、お二人も分けてくださったんですね!」

 差し出されたお重の中身に目をおとす。
 その重箱には中心に仕切りがあり、両側に煮物とお菓子が詰まっている。
 お菓子は大橋さんのものだとして……。

「この煮物は? おいしそうですねぇ」

 少しいただいて、ご飯の上によそう。
 どうやらできたてのようで、ほのかに湯気があがっている。

「それ、中岡さんが作ったんだぜ」

「ええ!? そうなんですか!? 中岡さんって、お料理とかするんですね……!」

「時間と材料があればな。見た目は大味っぽいけど、食ってみるとうまいんだよ」

 意外だなぁ。
 そういえば中岡さんは、一昨日も夕餉について一人で頭を悩ませていたっけ。
 隊長なのに自ら厨房に立とうとするなんて、すごい人だ。

 あらためて煮物に目をおとす。
 ざくざくと大きめに切った野菜と豆を煮込んだそれは、箸でつまむとほろりとやわらかくほぐれて、香ばしい煮汁がしみだしてくる。

「いただきまぁす!」

 ごはんと一緒に煮物を一口!
 ……おいしいっ!!
 味がよくしみてる! 中岡さん、料理上手だ!!

 おにぎりについては賛否両論だったけれど、この煮物には誰も文句なんてつけないだろう。
 どんなふうに料理してるのか、今度お手伝いがてら立ち合わせてもらおう。


 向かいに座るヤマダさんたち同様に、私もあちこちのおかずに手をのばして一心不乱に夕餉を堪能する。
 目をつけていたおかずが目の前で誰かにさらわれていくことが多いので、気になるものは箸ですくい上げてすぐさま弁当箱へと乗せていく。
 皆、慣れた手つきでそうやって食べている。
 習ったわけでもないのに、自然と身についてしまうものだ。
 私は中岡さんの煮物や、大橋さんのお饅頭や、目についた物を次々に弁当箱の中へ確保する。

「田中先輩、これは何のお肉ですか?」

 さっと煮込まれて軽く味つけしてあるそれは、やや筋ばったところもあるけれど、弾力があってなかなか美味しい。
 ただ、こういったお肉はあまり見かけないし、これまでに食べたこともない。

「牛の肉だ。屯所の近くを肉屋が通るから、それをおかずにする奴が多いんだよ」

「へぇ、牛ですかぁ……はじめて食べます」

「コレ食うと力がつくんだぜ。遠慮なくガンガン食えよ!」

「はいっ!」

 こうして大勢で一緒のおかずを囲んで食べるのは、なんだか楽しいな。
 みんなそれぞれ自分でおかずを用意して、仲間で分け合いながらわいわいと食事をとる。
 これまでの生活とはまるで違う習慣に、新鮮味を感じてしまう。


 ほどなくしてすぐに、重箱の底が見えた。きれいさっぱり完食だ。
 皆、空になった弁当箱を重ねてお腹をさすっている。
 最後のほうは壮絶なおかずの奪い合いに発展していたから、さぞ疲れたことだろう。


「――天野ちゃんさぁ、今うちの隊で話題になってるよ」

 一息ついて串団子を頬張りながら、西山さんがこちらにキラキラとした目を向けてきた。
 それに同調するように口をひらいたのはヤマダさんだ。

「女が隊にやってきたって、皆浮き足だってるよ。ここ女っ気全くなかったからよー」

「念のため、一人歩きはしない方がいいス」

 太田さんの言葉に、思わず首をかしげる。

「たしかに、あんまりうろちょろするなとは言われてますけど……やっぱりあちこち出歩くと迷惑ですかね?」

 そんな私の言葉にすぐさま返事をくれたのは、田中先輩だ。

「そうじゃねぇ。中には女に飢えた野郎も多いからよ、二人きりになれば変なことされちまうこともあるかもしんねぇっつうこった」

「変なこと……」

 ぽつりとつぶやいて輪になった面々を見渡すと、彼らはぶんぶんと一斉に首をふった。

「俺らは何もしねーよ!!」

「そ、そうだよ! あわよくば二人でじっくりお話したり茶屋とかに出かけてみたいとは思ってるけど……!」

「そういうのがダメなんだろーが!」

 ヤマダさんは容赦なく横から西山さんを蹴りたくる。
 そんな光景を横目に、太田さんはなんとも済まなそうな顔でこちらに頭を下げた。

「いえ、お話くらいは私もしたいですから……いつでも遠慮なく話しかけてください」

 西山さんの言ったことも、私としてはそんなに嫌なことじゃないんだけどな。
 それくらいなら、普通に人付き合いの範疇だと思う。
 ……さすがに、茶屋に行くときは二人きりじゃなくて他の人たちも誘いたいけど。

 そうして少しばかり困惑していると、口いっぱいに頬張っていたお饅頭をお茶で流しこんだ田中先輩が、声をかけてくれた。

「ま、気を遣われすぎんのも嫌だろうけどよ、あらかじめ隊士たちには、お前とは適度に距離をとるように言ってあるんだ」

「距離っていうと……」

「話をするくらいなら構わねぇが、あんましベタベタ触んなっつうこったな。普通に接する分にはなんも問題ねぇよ」

「それじゃあやっぱり、私からもあまり触らないほうがいいですか……?」

 こういうのはお互いに気をつけなきゃいけないことだよね。
 そう思ってなんとなく身を固くしていると、西山さんがすごい勢いで食いついてきた。

「触ってくれていいよ! むしろどんどん触ってほしい! 大歓迎だよ!!」

「気持ちわりーんだよテメー!」

 ずい、と体を乗り出した西山さんは、またしてもヤマダさんに側頭部をはたかれて、畳に転がった。
 すごいなこの人たち。いつもこんなノリなんだ……。

「まぁ、西山みてぇにアレな奴が大量にいるからよ、あんまし隊士に近づきすぎんのはやめとけ。触んのもよくねぇな。できるだけオレのそばから離れんな」

「はい、わかりました」

 とにかく、相手が女と見るや舞い上がってしまう人たちが多いという認識でいいのかな。
 もしかしたら対応に困ることになるかもしれないし、やっぱり田中先輩の近くにいるにこしたことはないな。

「いいなぁ兄さん……天野ちゃん独占できて」

「しかも部屋が隣同士か……オイシイっすね」

「変な目で見んな! メシも食ったし、おめぇらはそろそろ部屋に戻れ!」

 含みのある目線がいっせいに集まると、田中先輩は彼らを追い払うように手を振った。
 そんな反応を愉快そうに笑って受けとめた三人は、冗談まじりの軽口をたたきながら場の片付けにとりかかった。

「おかず、うまかったス。兄さんたちの弁当箱も運んでおきまス」

「湯飲みとかもまとめて片付けときますよぉ」

 彼らは手際よくあたりに散らばった重箱や湯飲みを回収して、立ち上がる。

「わ、すみません! 私も運びますっ」

 それくらいは自分でやらないと。
 私はあわててお茶を飲み干してその場を立った。

「いや、いいよぉ。初日だしこのくらいはさせて」

「疲れてんだろーし、今夜はもう寝ろよ。兄さんもおやすみっす」

「二人とも、おやすみなさいス」

 ヤマダさんは私の手から湯飲みを奪いとると、あとの二人と一緒に田中先輩に頭を下げて部屋を出ていった。

 私は、そんな彼らにお礼とおやすみなさいを言うだけで精一杯だった。


(また明日、あらためて三人にお礼を言わなきゃな)

 ふう、と小さく息をついて座布団に腰をおろす。


 ……なんだか急に静かになったな。
 気づけば田中先輩と二人きりだ。

「さてと。顔洗って歯ぁみがいて、寝るかぁ」

「はい、そうしましょう」

 田中先輩は立ち上がって自分の部屋へと戻り、すぐさま手拭いを肩にかけてこちらに戻ってきた。
 私も準備をしようっと。



 外に出るとあたりはすっかり暗くなって、ひんやりと心地の良い空気に包まれていた。
 井戸端で歯磨きをすませた私たちは、くっきりと彼方まで広がる星空を見上げながら屋敷へと戻っていく。

「明日も晴れそうだなァ」

「そうですね。空、すごくきれいです」

「だな。夜空っつうのは、家で見ると格別にわくわくすんだよ」

「あ、それ分かります! 私、毎晩窓から外を眺めるのが好きだったから」

 そんな日課のおかげで、あの晩中岡さんに会えたわけだ。
 ここのところ、じっくりと空や夜の町を観察することができなかったけれど、やっぱり満天の星空は見ているだけで心が洗われる。

「……ただ、なんでか一人歩きの帰り道とかだと、やけに不気味に見えたりすんだよな、夜空って」

「暗闇自体がすごく怖く感じるんですよね……それも分かります」

「たぶん、その時の気持ち次第なんだろうな。景色の見え方っつうのは」

「……そうかもしれませんね」

 今こうして見上げる空は、美しく澄みわたっていて一点の曇りもない。
 昼間の蒼天のような、どこまでも続く一色の清々しさとは違う。
 夕暮れの、闇へと塗りかわる瞬間の目をみはるような多重色とも違う。

 月と無数の星で彩られたこの静かな夜空は、二つの顔を持っている。
 包み込んでくれるような優しさと、ぎらぎらとした刃物のような不穏さ。
 私はどちらも知っていて、だからこそ美しい星空に惹かれてしまうのだ。
 きっと、田中先輩もそうなんだろう。


 ――夜空が自身の気持ちを反映するものだというのなら。
 すっきりと澄みわたり、静かに光を放つこの無数の星々は、私の心の平穏をそのまま写し出しているのだろうか。

「安心しろ。ここにいる限りは、毎晩きれいな夜空を見せてやるよ」

「わ、どうしたんですか突然……!」

「ここでは不安な思いをさせねぇってイミだよ。いつでもオレがついてっから、心配すんな」

 田中先輩はくしゃりと私の頭に手を置いて、玄関口へと入っていく。
 一瞬どきりとして立ち止まったあと、私はあわててその背中を追った。



 三和土の上で片足立ちになり、手早く草鞋をぬいでかまちをまたぐ。

 ふと自室へ続く廊下の先に目をやれば、何やらぽつんと真っ白な毛玉が落ちている。
 大橋さんの部屋の前だ。

「せ、先輩! 何ですか、あの丸いの!」

 もののけのたぐいかと身を凍らせながら、あわてて先輩のうしろに身を隠す。
 何かあんな感じの、毛玉の妖怪がいるって絵草子で見たことある……!

「おう、葉月ちゃんじゃねぇか」

「はづきちゃん……?」

 毛玉を見てもひるむことなく、むしろ好意的な声をあげながら先輩はずかずかと廊下を進んでいく。

 そうして、まんまるのそれを掴みあげようとして毛先に触れると――

「フーーッ!!」

 突如立ち上がった毛玉に、手の甲を思いきり引っ掛かれた。
 四つ足で立つそれは先ほど見た毛の塊とは違い、見慣れた姿の生き物だった。

「わぁ、猫ちゃん!!」

 それも、子猫だ。
 片手に乗りそうなほどに小さく、ふわふわと柔らかそうな毛におおわれたその姿の愛らしさといったらもう……!!

「かわいいね、ちっちゃいねぇ。どこからきたの?」

 思わず間近に寄って手を差し出し、媚びるように甘い声を出してしまう。
 こんなにかわいい子を前にしてしまったら、でれでれになって当然だ。
 猫なで声とはよく言ったもので、意識せずとも自然にそんなしゃべり方になってしまう。

「無理やり触ったりすんなよ、引っかかれんぞ」

 すでに一撃を受けた先輩は、特に痛そうなそぶりも見せずに慣れっこのような顔つきで、その場に腰をおとした。

「嫌がる子を無理にさわったりはしません。この子、葉月ちゃんって言うんですか?」

「おう。生まれたばっかの頃に、ハシさんが拾ってそのままここで飼ってんだ」

「へぇ。じゃあ、ここの子なんですねぇ」

 ということは、毎日会えるんだ!
 一刻も早く仲良くならないと……!


「ここの子っつっても、ハシさん以外の人間にゃほとんど懐かねぇぞ」

「大丈夫です、私これでも無類の猫好きですから! すぐにお友達になってみせます!」

「好きだからって、相手からも好かれるとは限んねぇけどなァ」

「そんなことないですよぉ。ちゃんと思いは伝わるんです」

 何せ、私はこれまで目をつけた猫ちゃんとはすべて仲良しになってきた。
 野良でも、よその飼い猫でもだ。
 だから猫ちゃんとの距離の縮め方には、自信がある。

 私はめげずに甘い声で葉月ちゃんに呼びかけながら、手のひらを上下に揺らす。
 草とか紐とかがあれば、遊んであげられるんだけどな。


「葉月ちゃん、ちょっとだけなでてもいい?」

「……」

 返事なし。
 反応はないけれど嫌われてもいないようで、葉月ちゃんはくりくりとした大きな瞳で不思議そうにこちらを見上げている。

 か、かわいい……!
 上目遣いかわいすぎる!!

「フラれそうじゃねぇかよ」

「まだまだこれからです! 今日だめでも明日があります、根気よくコツコツとです!」

「一度嫌われちまうとなかなか立て直せねぇから気ぃつけろよ。オレなんか顔見ただけで威嚇されっからな」

「それってきっと、先輩が強引だからですよ」

 うちの父も動物に嫌われる類の人だったから、なんとなくわかる。
 動物……特に猫ちゃんは、とっさに大声を出したり抱き上げようとしたりする人を怖がるものだ。
 ゆっくりと優しく接してあげないといけない。


 そんなふうに座り込んで粘りながら呼びかけを続けていると、ふいに葉月ちゃんが立ち上がって、とたとたと廊下を駆け出した。
 向かう先に視線をむければ、奥のほうから大橋さんが歩いてくる。

「にゃあにゃあ! にゃあ!」

 葉月ちゃんは嬉しそうに大橋さんのもとへと駆け寄り、足もとに額をすり付けて甘えだした。

「ものすっごくなついてますね……」

「だろ? ハシさんだけは別格なんだよ」

 完敗だ。
 なんだか本当にふられてしまったような気持ちになって、がくりと肩を落とす。

「二人とも、こんなところでどうしたのです?」

 葉月ちゃんを抱き上げて優しくその頭を撫でながら、大橋さんが部屋の前まで到着した。
 葉月ちゃん……じっとここを動かなかったのは、大橋さんの帰りを待っていたからだったんだ。

「かわいい猫ちゃんがいたので、お話してました」

「そうですか。かまってもらえてよかったですねぇ、葉月」

 大橋さんが指先で喉元をさすると、葉月ちゃんは気持ちよさそうにぐるぐると喉をならす。

 いいなぁ、大橋さん。あんなにさわらせてもらえて。
 私も、あのふわふわの毛並みを一撫でしてみたい……!


「けどやっぱ、天野にもたいして懐かねぇみたいだぜ。難しい子だなァ、葉月ちゃんは」

「そうですか……? 慣れもあるでしょう。最近はたまに中岡さんの部屋に遊びに行くこともあるようですし」

「え!? 本当ですか!? いいなぁ、中岡さん!!」

「私がよく部屋を訪れるので、葉月も場所を覚えたのかもしれませんね」

「だったら大橋さん、私の部屋にも来てください!」

 そうしていずれ葉月ちゃんの巡回経路に私の部屋が組み込まれれば、最高に幸せだ。

「……天野さんは、猫がお好きですか?」

 くすりと小さく笑って、大橋さんが問う。

「大好きです!」

「……そうですか。でしたら明日の朝餉はご一緒にどうです? 葉月は朝方、私の部屋にいますから」

「いいんですか? 大橋さんのお部屋にお邪魔しても……」

「もちろんです。お待ちしていますね」

「はいっ!! 楽しみにしてます!!」

 やったぁ、と小さく拳をにぎる。

 嬉しいな。
 慣れない場所でも、たしかな癒しが目の前にあれば気の持ちようも変わってくる。
 身近に動物がいる生活というのは、それだけで楽しみも増えるし、心の拠り所になってくれるものだ。


「んじゃ、オレも朝はハシさんのとこで食うかな」

「そうしましょう、先輩!」

 はずんだ声でそう告げると、田中先輩はやれやれといった顔つきで口角を上げた。

 葉月ちゃんのほうへと目を向けると、いつしか大橋さんの腕の中で眠りについていた。
 まっしろで愛らしいお腹を上下にゆらして、寝息を立てている。

 かわいいなぁ。
 廊下に立つ私たち三人は、思わず顔をほころばせてその姿に見入る。
 なんだか、自然に場の空気がほわんとゆるんでしまいそうだ。


「それでは二人とも、おやすみなさい。あまり長話をすると葉月が起きてしまいますので……」

 そう言って片手を上げると、大橋さんは大事そうに抱いた葉月ちゃんを揺り起こさないように、そっと障子をあけて部屋の中へと戻っていった。



「はぁ……幸せなひとときでしたね、先輩」

「おめぇが一方的に話しかけてただけだけどな」

「いいんです、片思いは片思いなりに幸せなんです」

「ま、いつか振り向いてもらえるように頑張れよ」

「はいっ!」

 自室へと続く廊下を歩きながら、そんな言葉を交わす。
 いつしか肩の力は抜けきっている。
 気をつかいすぎることもなく、受け答えもあるがまま。自然体だ。

 初めて会ったときは、先輩のことが怖くて仕方なかったのにな。
 不思議なものだ。
 本当は優しくて頼りになる人だって、何度か顔を合わせるうちに分かったから。

 これからは、そばにいていろんなことを教えてもらおう。
 毎晩、きれいな星空をくれると約束してくれた、この先輩に――。



 おやすみの挨拶をして自室に戻ると、すぐに布団をしいて横になった。
 灯りのない部屋で一人きりになるのは少し心細いけれど、すぐ隣の部屋に田中先輩がいてくれると思えば、いくらか心強い。

(大丈夫だ。さすがのりくも、ここまでは追ってこないはず――)

 彼らから逃れるためにここまで来たんだ。
 この部屋にいれば安全だ。

 そう自分に言い聞かせながら、目を閉じる。

 昨夜はこの暗闇が恐ろしくて仕方がなかった。
 命を狙われているという強烈な危機感と恐怖心に支配されて、心が休まらなかった。

 今夜はさすがにそう取り乱したりすることはないけれど、それでもこうして一人きりで横になれば、無意識に鼓動が高鳴る。

 ――早く寝てしまおう、と。

 そう思った矢先、ふいに隣の襖が開いた。
 私はびくりと跳ね起きて、布団から飛び出す。

 かすかな灯りがさす隣室へと目を向ければ、鴨居の下に田中先輩が立っていた。

「天野、眠れそうか?」

「あ、はい……今寝ようとしてたところで……」

 ばくばくと、破裂してしまいそうに胸の奥が悲鳴を上げている。
 田中先輩の顔を見た瞬間、ほっとして膝から崩れ落ちそうになった。

 ――やっぱり私は、未だに怯えている。
 襖や障子が突然開けば、すぐさまりくの顔が頭をよぎってしまう。

「昨夜は大変だったらしいしよ、もしかしたら安心して眠れねぇんじゃねぇかと思ってな」

「……大丈夫です」

「っておめぇ、オレが襖開けただけで、布団蹴散らしてあわてふためいてんじゃねぇか」

「それはその……びっくりしたからです」

「……本当に平気か? なんならここの襖開けとくぜ?」

 田中先輩は私の枕元に行灯を置くと、部屋に戻って開いた襖に手をかけた。

 どくりと、もう一度大きく胸が脈うつ。
 その襖が閉まってしまうのが、なんだか無性に名残惜しく、恐ろしかった。

「待ってください……! あの、開けたままでいてください!」

 ついさっきまで元気だった自分が、一人になった途端にこんなに弱々しく変わってしまうことが、正直恥ずかしかった。
 けれど、田中先輩はこうして気にかけて手を差しのべてくれた。
 今は、その気持ちに甘えさせてもらおう。

「分かった、開けとく。せっかくだし布団こっちに寄せろよ」

 先輩は襖を開け放つと、自分の布団を敷居すれすれまでぴたりと寄せてきた。

「えっと……はい」

 同じように、私の布団も敷居のそばまで引っ張っていく。
 結果、先輩の布団と隣り合わせになった。
 お互いの布団の間には、四、五寸ほどの隙間しかない。

「いざとなったらオレが守ってやっから、心配すんなよな」

 先輩はそう言って、ごろりと横になる。
 そしてごそごそと掛け布団の奥から何かを取り出して、片手で抱き抱える。

 それは、寝床で手にするには似つかわしくないものだった。

「それって、あのときの銃ですか?」

 矢生一派から取り返した、例の長銃だ。

「おう。あれ以来寝る時は肌身離さず持ってんだ」

「間違って引き金を引かないように気をつけてくださいね」

「いや、弾は入ってねぇ」

「なんだ、そうなんですか」

 だったら安心だ。
 身を守るためというより、単に盗られないように抱いて寝てるんだな。


 私は一息ついて行灯を二人の間に置くと、静かに布団にもぐりこんだ。
 先輩がそばにいてくれるとたしかに安心なんだけど、男の人と隣り合わせで寝るというのはまた違った意味で緊張してしまう。

 昨日の晩、雨京さんと同じ部屋で寝たときは何とも思わなかったのにな。
 雨京さんは家族みたいなものだからかな……。

 一人どきどきしながらあれこれ考えていると、すぐ隣から声がかかった。


「天野は、なんか好きなもんとかあんのか?」

「すきなもの、ですか?」

「食いもんとか、趣味とかよぉ」

「あ、そういうことなら……」

 猫ちゃんとか、お菓子とか、釣りとかいろんなものが浮かぶけれど。
 今いちばん熱いものといえば一つしかない。

「やっぱ猫か?」

「それも大好きですけど、今気になってるのは写真です」

「げっ、マジかよ。やめとけって、見覚えのねぇブスが写るぜ?」

「そんなの撮ってみなきゃ分からないじゃないですかぁ」

 ひどいな。
 田中先輩みたいに実物とかけ離れた写り方をする人のほうが、きっと珍しいはずなのに。

「いや、オススメしねぇな。おめぇもひでぇ写りしてみりゃ分かんだよ、生きることに絶望すんぞ」

「どれだけ傷ついてるんですか先輩……!」

 そのどんよりして生気の抜けた表情は、写真に写っていた先輩の姿にそっくりだ。
 ここにきて、やっぱりあれは本人だったんだと確信する。


「ま、そんなに気になるんなら一度撮りに行ってみてもいいかもな」

「はい。かすみさんと一緒に行こうって約束してるんです」

「そっか。んじゃ、かすみさんが元気になってからだな」

「……はい」

 私は少しうつ向いて、布団に顔をうずめる。

 ――今日はお見舞いに行けなかったけれど、かすみさんは元気かな?
 ふとその寝顔を思い出して、ずきりと心が痛む。

 早く目を覚ましてほしい……。
 またいつも通りの優しい笑顔を見せてくれたら、他にはもうなにもいらない。


「……ところで、おめぇ歳は? 十四、五か?」

 かすみさんの名が出たとたんに静かになった私を気遣ってくれているのか、先輩はごろりとこちらに背を向けて、新しい質問を投げかけた。

「十七です」

「マジか!?」

 うそだろ、と先輩はふたたび寝返りをうって、まじまじとこちらを凝視する。
 こんな反応が返ってくるのはいつものことだ。
 私は歳より幼く見られがちだから。

「まじです。香川さんは、初対面で当ててくれましたよ」

「あいつ、女に関しては異常に鋭いからなァ」

「田中先輩は、二十歳くらいですか?」

「いや、二十五」

「ええええ!?」

 見えない。まったくそうは見えない!
 どう見ても二十歳そこそこだ。

「オレも若く見られがちなんだよな。ざっくり額出したりして大人っぽくしてるつもりなのによぉ」

「髪型の問題じゃないと思いますけど……」

 そういえば、毎朝時間をかけて今の髪型を作ってると言っていたっけ。
 それって、大人っぽく見せるための努力だったんだ……。

「じゃ何だよ?」

 他には何一つ思いあたるフシがないといった調子で、田中先輩は眉根をよせる。

「げ、言動とか……?」

「いや、おめぇには言われたくねぇな!」

「う……私ってやっぱり、子供っぽいですか?」

 よく言われることだ。
 いずみ屋の手伝いをしていた頃も、お客さんたちからは完全に子供扱いされていた。
 十七といえば、子供がいてもおかしくない年齢だというのに。

「……多分、そのへんの十七よりはガキっぽいんじゃねぇか?」

「うーん、やっぱりそうなんでしょうか」

 同じ年頃のゆきちゃんなんかは、たしかに私よりずっとしっかりしている。

「ちなみに、初恋はいくつの時だ?」

「え!? 初恋……ですか!? えっと……うーん……」

 あったかな、そんな思い出。
 小さい頃は、ゆきちゃんと一緒に近所の男の子ともよく遊んでいたけれど。
 今となっては付き合いもないし……。

「おい、まさかまだなのかよ!? 思い出せ、近所の兄ちゃんになんとなく懐いてたとか、そんな話でいいんだよ!」

「……うーん……好きになった猫ちゃんならたくさんいたんですけど」

「おいおいマジかよ! 最近の町娘は菓子と男の話しかしてねぇって噂は嘘っぱちだったのか! 皆えげつねぇ遍歴持ちばかりだと思ってたぜ……」

「どんな偏見ですか! そんなの一部だけですよぉ」

 目から鱗といった反応で、まじまじとこちらに見入る先輩から目をそらす。

 男の人から見た町娘の印象って、そんなに歪んでるんだ……。
 中岡さんたちからもそんなふうに思われていたら嫌だなぁ。

「まぁ、それ聞いて安心したぜ。そんじゃ、気になる奴ができた時は教えてくれよな」

「はい……あの、ちなみに田中先輩の初恋は?」

 私だけ根掘り葉掘り聞かれるのもなんだか居心地が悪い。
 こうなったらこちらからもぐいぐい踏み込んでしまおう。


「おう、オレの初恋は五歳の時だ!」

 よくぞ聞いてくれましたと言わんばかりの歯切れのよさで、先輩は爛々と目を輝かせる。

「五歳って、早すぎませんか!?」

「相手は近所に住む人妻でなー。二十八くらいのイケイケ熟れ熟れの美人でよぉ」

「年上すぎです……しかも人妻!?」

 なんかもう、すごい。
 この人、初恋から突き抜けてる!


「まぁ、聞いてくれよ。話せば長くなるんだが、オレの登場によってその人妻が離縁寸前まで行くんだよ」

「どれだけ熱烈に求愛したんですか……!? 五歳ですよね!?」

「いや、それがよぉ……」

 そうして語り出した先輩の話は、それはもう長かった。
 相づちをうちながらなんとか眠気と戦うものの、次第に意識はまどろみはじめ……

「んで、その息子とオレが決闘する流れになっちまってよぉ……オイ、聞いてっか?」

「……」

 先輩の語りを子守唄代わりにして、私はいつしか深い眠りに落ちていた。




 目覚めた時には、縁側から朝日が差し込んで、部屋の中を明るく照らしていた。
 私はゆっくりと体をおこし、目をこする。

 ふと隣を見ると、田中先輩の布団がなくなっている。
 部屋の中にもいないみたいだ。

 もしかして寝坊しちゃった!?
 いま何時だろう……!?

 私は慌てて飛び起きて、布団をたたんで押し入れにしまう。
 そして、櫛で髪をとかしながら廊下へと出た。

「よう天野。起きたかよ?」

「あ、先輩! おはようございます」

 ばったりと部屋の前で出くわした先輩は、二段重ねの重箱と白木の弁当箱を抱えている。

「朝餉の用意できたぜ。顔洗ってこい!」

「……わかりました」

 どうやら、朝餉の時間を寝過ごしてしまったわけではないらしい。
 私はほっと胸をなでおろす。

「支度できたらハシさんの部屋に集合な!」

「はぁい!」

 元気に返事をして、玄関へと駆けていく。
 よく眠れたからか、頭の中はすっきりしている。

 昨夜、明るい話でたくさん笑わせてくれた田中先輩に感謝しなきゃ。
 おかげで気持ちが落ち着いて、安心して眠ることができたから。



 外に出て顔を洗っていると、井戸の水を汲みにきた隊士さんたちと鉢合わせた。

「おー! あんたが噂の、かぐら屋のお嬢さんか!」

「可愛いなオイ!」

 彼らは、わらわらと私を取り囲んで物珍しそうな視線を向けながら、あれこれ言葉を投げかけてくる。

「あの、初めまして! これからここでお世話になります、天野美湖です。よろしくお願いしますっ」

 ぺこりと頭を下げると、よろしくの大合唱が巻き起こった。

「なーなー、キミ、中岡隊長のお気に入りって本当?」

「えっ!?」

 なんのことだか分からず、一瞬固まる。

「いや、俺は坂本さんの女だって聞いたぞ!?」

「いや、兄さんだろ? 昨日一日中べったりだったって聞いたぜー」

「はぁ? 陸奥さんとデキてるって噂だけど?」


 なんの話をしているんだろうこの人たちは……!
 とにかく、どれもこれも根も葉もない噂話だ!

「あの、それ全部誤解ですから! その手の噂は信じないでくださいね……! それじゃ、もう行きます」

 ふたたび頭を下げて、足早に屋敷へと戻る。
 これ以上あそこに留まれば、更なる質問攻めにあうこと間違いなしだ。
 とにかく撤退、撤退!



 草鞋をぬいで屋敷の廊下を数歩歩いたところで、長いため息をつく。
 なんだかたった一晩で、とんでもない噂が広まってしまったようだ。

 しかも一貫性がない……!
 複数人との仲が疑われている!

 このままだと、昨晩田中先輩が語った町娘像のような、とんでもない遊び人だと思われてしまいかねない……!
 ちょっと、これからの言動は気をつけていかなきゃな。


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