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白革の手帖
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昼間の曇天下、御薬袋(みない)雅人(まさと)は前夜、雨が降ったにも関わらず、特に足元に注意を促す事もなかったために、薄褐色の水溜りに足を嵌めてしまった。防水や撥水の機能のない安物スニーカーではあったが、不幸中の幸い、シューズの中にまでは浸水せず靴下まで濡れる事はなかった。それよりも反射的に下を向いて一瞥した御薬袋が気を止めたのは、水溜りの傍らに落ちていた湿った白革の手帖。
アスファルト上の濁った水に半分浸かった白革の手帖。
カバーが白革といっても薄汚れていて、さらに古びて変色しているので純白とは言い難いが、元は華美な白妙(しろたえ)を基調として高級なツヤ色を施していた面影がある。
御薬袋はそう感じると同時に、どこかで見た記憶があるな? という思いがよぎったため、手帖にまみれる汚濁を気にせず反射的にそれを拾ってしまった。
見た目ほど湿ってはいない。
手帖に触れた瞬間、御薬袋はそう直観したため、手帖の汚れも気にせず、中身を開いてみた。手帖の表面自体はそれほど濡れた感はなかったが、中の紙は水分を含んだ形跡があり、所々にメモがしてあった。だが、それらの文字の多くはインクの滲みになっていて、なかなか解読するのが困難であった。
下世話かつ醜聞的な内容の類いでも書いてないかな、といった気持ちで拾った手帖。言わば小学生時代にエロ本を道端で見つけた感覚。その程度の戯れ気分だったので、御薬袋はパラパラと捲った後、その手帖を投げ捨てる予定だった。これから予備校に通う用事もあるので、そんなに俺も暇じゃない、という思いも認(したた)めつつ。
だが、
「ん?」
手帖のページを繰る御薬袋の指が止まった。そして、立ち留まった。
横書き式の手帖の中身はほとんど内容が読みきれず、せいぜい電車の乗り降りの時刻を載せたような記述、または何らかの待ち合わせの時間を僅かに書き留めている程度で、メモの情報量としては少ない。飛び飛びの空欄や空白が目立つページが多い。
だが、最後のページにだけ人名が横書きの行に縦に並び綴ってあった。
上から下まで七行、つまり、七人ほどの名簿録。その内、上段の二人分の名前は×印が重ねられていた。×印の二人の人名は、岡井忠幸(おかいただゆき)、楠美春(くすのきみはる)と書かれ、そこから下の三人の氏名は牟田口洋子(むたぐちようこ)、加藤直人(かとうなおと)、佐藤優三郎(さとうゆうざぶろう)と記されていた。しかし、御薬袋が注目したのはそこではない。残りの下段の二行の人名である。そこには『御薬袋』の文字が二行、つまり、二人書いてあった。ただ、御薬袋、という名字だけで、名前の方は手帖が雨に濡れていた事もあってか、インクが雨水によって不鮮明になっていて、両方とも判読できなかった。
御薬袋なんて名字の人間はそうそういるもんじゃない。俺か俺の家の誰かを知っている奴が落とした手帖なのか?
御薬袋雅人はそう忖度する。確かに御薬袋という名字は珍しい。そこにたまたま拾った手帖に自分の珍しい名字が書かれてあったなら、それは興味を惹かれると同時に怪訝に思うのは道理でもある。
もしや、何らかの異性との運命の糸では……と御薬袋が妄想したわけではないが、どうにも簡単に手放す事を拒む自分がいて、不衛生ではあるが、まだ汚泥と湿気を帯びた、そのほぼ読解不能な白革の手帖を、予備校教材が入ったショルダーバッグに無造作に詰めておいた。そして、人ごみに溢れる街路を、こんな天気の悪い日にわざわざ外に出てくるなっての一般大衆、という思いを胸に秘めながら、御薬袋は俯き加減に無言のまま予備校へと向かった。
既に生濡れの白い手帖を拾った自らの椿事(ちんじ)に対しての感慨は御薬袋になくなっていた。予備校へ行く足取りがただ重く虚ろなだけ。
御薬袋雅人の大学浪人期間は三年目に入っていた。つまり、予備校通い三年生という事である。中学時代は成績優秀で地元の名門進学高校に推薦入学したものの、高校に入ってからは他の同級生の学習レベルについていけず、すぐにエリート・コースから脱落。自分の学力の限界を知ってからはロクに授業も聴かず、学校自体も親には登校するフリをしてサボるようになってきた。高校で没落した、かつて中学では神童と呼ばれていた天才少年、の典型的な末路。大学推薦は勿論もらえず、現役時代の一般大学入試は、全ての受験校が不合格。
御薬袋の両親は自分の息子の不甲斐なさをまざまざと見せられ、怒り心頭というよりは落胆の度合いがひどかった。少年時代は優秀な子として周りには褒められ、教師連中からは頭脳明晰と称えられた御薬袋雅人。それは両親にとっては自慢の息子だった。特に父親は自身も有名国立大学の出身で、学業に関しては人一倍プライドが高く、息子にもそのような人が敬うような高学歴の出自をもつような存在になってほしかった。
だが、そんな希望は呆気なく断たれ、一年どころか二年浪人生活をおくり、それでも何処の大学も受からず、三年目の予備校生通いを行なっている。
もはや二十歳を越えた御薬袋雅人。いっその事、大学進学を諦め何処かに就職して社会人になれば良いものだが、もはや御薬袋自身も含め両親もグダグダ状態で、そんな新しい岐路に目覚める活力もなく、ただただ惰性で、両親は予備校に何の考えもなしに授業料を出し、御薬袋はロボットのように学校に通っていた。大学合格が目標、というよりはもはや曖昧かつ無目的な生活が日常となり、御薬袋家は特に親子での諍いはないものの、逆にお互いに関心を持たず干渉もなく、暗澹な雰囲気のみが漂っている。家族関係に支障は至ってないが、もはや家族というよりは、ただのゲゼルシャフトに近い血縁共同体となっていた。
一応はその冷めてしまった家庭環境の原因は、自分自身の度重なる受験失敗にある、とは御薬袋雅人は理解していた。そこで三年目にして御薬袋は一計を講じた。御薬袋は理系の学生であったが、ここに来て文系に進路変更をしたのである。文系の授業なら記憶力で何とかなる部分があるから、という単純な理由ではあるが、実際に理系の科目で難儀していた学生が文系に変えてみて、一気に学力がアップしたという話も聞いたので、それを御薬袋も実践してみた。
今の所、御薬袋の文系転向は幾度かの模試の結果を見る限り、悪くはない判断の点数にはかこつけた。それでもまだ三流私立大学の一般入試に合格出来るか、出来ないかの瀬戸際といった状態で、予断が許されるものではなかった。成績的には劇的変化も見られないが、まだ理系の受験勉強をしていた頃よりかはマシか……それが御薬袋雅人の正直な感想だった。
生気のない表情で予備校に到着した御薬袋。空の雲行きはいまだに怪しい。妙に居心地のバツの悪さを感じる。
ここが俺の居場所なんて思いたくないな。
そんな思いを御薬袋は巡らしながら、最近ではサボる事も少なくなった予備校の門をくぐっていった。まずは自習室で復習。一コマ目の授業までには一時間余裕がある。ペットボトルのお茶を傍に置いて、シャープペンで昨日の授業の内容を無造作に白紙の紙に書き込み、頭に叩き入れ直す。アンダーラインが引いてある箇所は熟読し、赤シートを使って単語の暗記反復。僅かな雑談が響いているが、基本的に静寂に包まれている自習室。御薬袋にとっては家での勉強より、予備校での自習の方が効率は良かった。家庭内の居心地の煩わしさに比べれば、自習室での集中力の方が数段上回っていたからだ。
「あ、先輩。おはようございまっす」
そんな鋭意に勉強していた御薬袋の横に、軽薄な口調で挨拶しながら、御薬袋の隣りに一人の若者が座ってきた。片耳にピアス、スキニーパンツにビッグシルエットのカットソーを着こなし、耳にかかるぐらいのストレートの髪は脱色している。チャラさとカジュアルさをその若者は適度に纏っていた。
「よう、茂田か」
茂田準(しげたじゅん)。年齢は十九歳になったばかり。御薬袋よりも年下で浪人一年目。ただ茂田の兄と御薬袋は高校の同級生で、さらに偶然にも茂田の弟の準が大学浪人をして、御薬袋と同じ予備校に入校。お互い顔は知っていたので、その縁あって自然と予備校内でつるむようになった。ちなみに御薬袋の同級生の茂田準の兄は、某有名私立大学の医学部に現役合格した。
「俺も次の授業まで時間があるんで自習室で一勉強ですよ。どうっすか、センター対策とか始めました、先輩?」
慣れ慣れしい言葉遣いの茂田は、茂田の兄のツテもあり、御薬袋を先輩と呼ぶ。
「いや、俺は私立だけしか受けないから、センターはやらない」
「あ、そうでしたっけね」
茂田は肩を小刻みに揺らしながら、ラップを聞いているようなノリで、ナップサックからテキストとノートを取り出した。
一見すると真剣に勉強に励んでいないように見える茂田。浪人しているとはいえ、その茂田のプライベートの態度や姿勢からは、予備校での空き時間の振る舞いは余裕や遊びにすら感じる。
だが、御薬袋は知っている。茂田の兄に対する茂田準の恐ろしいほどの嫉妬心を。
茂田準は現役の時点でW大学という名門私立大学に合格していた。だが、茂田の兄はやはり名門私立大学のK大学の医学部に入学している。それが茂田準は気に食わなかった。茂田準は兄よりも圧倒的に高い偏差値の高い大学に入りたかった。表には見せないが茂田準は実は内心、兄に対して異常な対抗心を燃やしている、という事を御薬袋は茂田準との雑談する節々から察していた。勉強が出来る兄弟同士ゆえの水面下の競争か、と自分とはまた違った家庭状況の居づらさに置かれている、茂田準の隠れたルサンチマンを御薬袋は汲み取っていた。
それなので当初、茂田準はW大学に進学して授業を受けていたが、その兄へのライバル心からさらなる高学歴を求め、仮面浪人をして国立の超名門のT大学を受けるため予備校へ通い始める。だが、大学生と予備校生の二足の草鞋は受験勉強の妨げになると茂田準は考え、W大学は半年にして中途退学をして予備校通いに専念をする。W大学の入学費や授業料を既に完済した後に。さらに予備校の費用もT大学特別授業コースなので多額。どれだけ金があんだよ、と御薬袋は思うが、茂田家はいわゆる土地成金で裕福な一家である事は知っているので、それぐらいの資金を調達かつ手前の息子に投資する事は困難なものではないだろうとも忖度していた。
こんな如何にも不真面目な感じの今風の若者が、実は賢い頭の持ち主なんだもんな。最近の流行りではないがギャップってのが凄い。
実際、さっきまで軽佻浮薄な茂田準の態度だったが、いざ自習を始めたら目線はテキストに集中して無言、ノートには尋常じゃないスピードで事細かに書き込みをしている。その集中力と気迫には隣席する御薬袋も辟易する。茂田準に触発されてではないが、御薬袋も黙々と自習を再開した。
しばらくして御薬袋は机の上を片付け、荷物をまとめると、
「俺はそろそろ授業だから行くわ」
と言って立ち上がった。茂田は御薬袋とは目線を合わさず、テキストに視線を落としたまま、うぃっす、と呟いて返した。御薬袋は足早に自習室を出ると、まだ授業まで時間に余裕があったため、廊下の壁面に備え付けしてあった自販機で缶コーヒーを買って、その場で一服がてら飲み始めた。
茂田か……茂田邦(くに)明(あき)。高校時代は憂さ晴らしにアイツをしょっちゅうイジメていたのに、立場逆転というか、出世したもんだ。皮肉だな、クソ。
御薬袋はコーヒーを一気飲みすると、茂田準の兄であり、同級生だった茂田の兄の下の名前をいまだに覚えている事に、自嘲気味かつ妙な苛立ちを感じた。
*
「ようやく部長の内定をもらったよ」
夕飯の時間、御薬袋の父親が珍しく食事中に口を開いた。
「え? 本当ですか」
御薬袋の母親は一瞬、お新香にいっていた箸を止め、隣りに座るセルロイド素材のウェリントン型の黒縁眼鏡を、風呂場以外では常にかけ続ける父の顔を見た。片や、四角いテーブル、対面に席をとる御薬袋雅人は特に気にする事なく食事を進めていた。
母親はやや上気しながら口角を緩めて、
「てっきり年功序列的とかは関係ないと私は思っていたから、同期とはいえ年下の佐藤さんが昇進すると思っていたんですけどね。だって佐藤さんはT大学出身で中小企業診断士の資格も持っていて、順調に出世コースに乗っているとか、お父さん、言っていたじゃありませんか」
「私も佐藤君が部長の椅子に選ばれると思っていたよ。だけど、実際の人事ではやはり会社の貢献度というか、一応は今までの具体性のある論功行賞的なものを残してきた方に、会社は重きをおいたのかな。まあ、積み重ねた実績の結果が評価されたのだろう」
元より口数の少ない父が、しかも夕飯の最中に話している事に、御薬袋は違和感を覚えたが、普段通り、たった三人家族の間の会話にも加わらず、自身は父親の出世話に興味を持たないまま、黙々と切干大根を口に運んでいた。
「兎に角、おめでとうございます、あなた。やっぱり人間、T大学卒業とかの肩書きだけじゃ駄目なんですねえ。そう言えば雅人は最近どうなの、予備校の方は?」
御薬袋は内心、まただ、と毒づく。どこか学歴、学業的な話のキッカケがあると、少ない機会とばかりに、御薬袋自身の偏差値状況を窺ってくる。干渉している事が少ない母とはいえ、時折、ハッパをかけるというより嫌味的な意味で自分の成績について尋ねられる事に、御薬袋は不快な感情を抱いていた。
一方で父親とは完全に御薬袋について関心を持たず、一週間は一言も話をしていないという状況もしばしばあった。
「そこそこ順調だよ」
無味乾燥に御薬袋は答える。しかし、そんな無気力な息子の態度も推し量らずに母は質問を続ける。
「そう。今年から文系志望に変えたから、逆に分からない事だらけじゃないかって心配していたけど、その辺は大丈夫?」
「大丈夫だよ」
「ちゃんと理解している?」
「文系の方が記憶モノばかりだから、執拗に反復して暗記すればイイだけだから心配ないよ」
御薬袋はやや語気を強めて答えた。すると母も空気を察してか、
「そう、なら良いけど」
と言ってそれ以上の追及を止めた。御薬袋の父親は母親と息子のやり取りには一瞥もくれず、ずっと機械的にご飯と味噌汁を交互に口に入れていた。
御薬袋は食事を終えると、すぐに二階の自分の部屋へ行き、テキストやノートを机に並べた。そして、BGM代わりに椅子の背にあるテレビをつけて、集中力も散漫な受験勉強を始めた。
ペンを進めればすぐに頬杖をつき、テキストに目を通していれば、いつの間にか後ろを向いて瞳の焦点も合わさずテレビを視聴。受験勉強の仕方で言えば、予備校での学習姿勢の方が断然集中していた。一方、家での勉強になると極端にその学習意欲はなくなる。御薬袋の、所謂、宅勉は家庭というあまりにも痛烈なリアルが近すぎるので、どうにも勉強に気持ちが向けられなかった。御薬袋にとって予備校はある種の現実逃避の場であり、憩いの場とは言い過ぎだが、少なくとも家にいるよりは心地良く快適な勉強場所ではあった。
図書館で勉強する類いと変わらないが、ただでさえ辛辣な受験勉強をする分には、嫌々ながらもせめて身の回りの環境ぐらいは多少の快適さを御薬袋は求める。
その自分にとって環境の悪い実家での勉強中、やはり身に入る訳はなく、しばらく無意識状態のテレビ鑑賞が続く。
俺の知らない所で社会は動いているんだなあ、と他人事のように……実際に他人事なのだが、目に映るニュース番組を黙って御薬袋は見ている。別にニュースが見たい訳ではない。テレビのスイッチをつけてみたら、たまたまニュースがやっていたので、そのまま惰性で見ているに過ぎない。
〈今日、未明、東京I区に住む主婦でパート従業員の牟田口洋子さん四十八歳が自宅で倒れているのを、学校から帰宅した牟田口さんの長男が発見。病院に通報したものの既に死亡が確認され、死因は頚動脈の殺傷と腹部への刺傷と見られており、警察は殺人事件とみて捜査を始めた模様です……〉
そぞろに見ていたテレビのニュースだが、御薬袋はこの事件の現場が自分の住んでいる東京I区だったので、多少なり耳に響いた。
意外と近くで起こった事件なんだな。物騒な話だ、まったく。
そう御薬袋が思ったと同時に、
「牟田口?」
と一言漏らした。この少し変わった名字には覚えがある、と。
「あ……」
御薬袋は呟くと、予備校で使っているバッグから、今日徒然に拾った白革の手帖を取り出し、中身を捲った。
「やっぱり」
その独言には牟田口洋子の名前が、白い手帖に記されている事に理由があった。×印の二人の氏名のすぐ下に牟田口洋子の名がある。
「この×印ってのは、つまり……」
ここで御薬袋の脳裏に安易な考えが浮かんでくる。この×印とは消された人間を意味しているのではないか? と。
「となると、これで三つ目の×が刻み込まれて、三人の死者が出た、という事になるな。もしかして殺し屋の標的ノートでも拾っちまったのかな」
まさかね、とは思いつつ、御薬袋は一人薄ら笑いを見せたが、この名簿されている最後の二段には自分の名字である、御薬袋、が混ざっている事に対しては、一抹ではあるが不安と疑惑が入り交じった複雑な気持ちが交錯していた。
*
電車で予備校に通っている御薬袋。
今、乗車している時間は夕方。上りの電車なので今の時間は混雑しておらず、座席は空席ばかり。だが、御薬袋はあえてつり革片手に直立情態。また目線は古文の単語帳に落としている。古文の単語記憶は電車の通勤最中のみが勉強時間と自身に定めていたので、横目逸らさず単語帳を見開いていた。
それにしても文系に転向してから、我ながら予想以上に真面目に勉強しているな。
電車のドアの窓ガラスに映った自分に不意に気づき、御薬袋はふと己の奮闘ぶりに自賛の念を催した。事実、理系浪人時代の成績とは違って、そこそこの偏差値の伸びが結果として出ているのが、御薬袋の勉強するモチベーションになっていた。
今年は、いや、来年の受験は確実に落とせない。
勉学意欲のなかった御薬袋も、さすがに受験の時期が近づくにつれ、成績の向上やこれ以上浪人はしたくない、という強迫観念も相まって受験生としての自覚が出てきた。
「ん?」
空席が目立つ車内の中、ウォークマンを音漏れさせて聞きながら、肩を小刻みに揺らして座っている男の顔が、御薬袋の目に入った。
茂田じゃないか。
御薬袋がそこから見える茂田準の姿は、目を瞑って頭をフリフリ。隣りに乗客が座っていれば迷惑千万だが、茂田の周りには誰も座っていなかったので、特に問題となる動きではなかった。
茂田は実家住まいで、家は御薬袋と同じI区なので、同じ電車で鉢合わせになるのもしばしば。御薬袋は話しかけようと思ったが、どうせウォークマンで聴いている音楽は茂田好みのソウル・ミュージック。このタイミングで話しかけたら、これイイっすよ、と言いながらソウルなどに興味のない御薬袋に、茂田が強引にソウル音楽を推し進めてきて、ウザったくなるのは自明の理。御薬袋は予備校のある駅に到着するまでは、茂田に話しかけない事にした。だが、いざ駅に到着しても、御薬袋は茂田に声をかけようとしなかった。まだウォークマンを聴いているようだし、何だがお喋りしながら予備校に行くのも煩わしい……という御薬袋の思いもあったが、それよりも一つ頭に引っかかる事があった。
そう言えば、昨日の牟田口とかいう人が殺された事件って、茂田の家の近くじゃなかったか?
そんな事を不意に思った瞬間、御薬袋の脳裏に妙な連想が浮かんだ。茂田という存在、反抗、手帖、メモ魔……一考すると何の関連性が乏しいワード。実際に御薬袋自身もそれらの言葉から具体的なイメージを喚起出来ない。
とりあえず予備校に着いたら、茂田に家の近くで殺人事件があっただろ? と話を振ってみるか。
御薬袋はそれ以上深く考える事なく、予備校まで歩を進める事にした。
予備校に到着した御薬袋。本日の受講は夜の六時からと遅め。基本的に時間に余裕をもって予備校に通っている御薬袋は、授業が始まるまで自習室で予習や復習をするスタイルをしている。家で勉強している以上に、予備校の自習室で机に向かっている方が、物覚え的にも精神衛生上的にも効率が良いからだ。そのやり方は茂田準も同じで、御薬袋とは受講コースが違っており、授業スケジュールも合わないものの、多々自習室では出会っている。やはり茂田も自習室で勉強していた。さすがに自習室では茂田もウォークマンをはずしている。ちょうど茂田の隣りの席も空いていたので、御薬袋は自然の流れで茂田の横に座り挨拶がてら小声で会話を始めた。
「おいっす」
「あ、先輩。お疲れっす」
「授業はこれからだろ?」
「はい。先輩も夕方始まりですか」
「ああ。なるべくなら午前中にびっしり受講科目で埋めて、午後は自習室にこもって集中して勉強をしまくるってのが一番良いペースなんだけど、夕方から予備校だと何かダレるよなあ。家じゃあんま勉強はかどらないし。たまに予備校始まるまで、近所の図書館とかでも勉強したりするけど、何か小汚いおっさんばっかで意外と席が埋まっていたりして、スポーツ新聞片手に声は小さいけど、喋りあってんのよ。結構その囁きが気になって勉強しずらいんだわ。定年退職組の老人どものサロンと化しているよ、最近の図書館は」
「はは、そうかも知れないっすね。何せ高齢化社会のど真ん中にいますからね、俺たち」
「あ、そうだ。いきなり話は変わるんだけどさ、昨日、お前ん家の近くで殺人事件なんて起こってなかった?」
御薬袋自身、さり気ない話のフリから、茂田に自分が持つ白い手帖に書いてあった、「牟田口洋子」と同名の名前を持つ犠牲者の殺人事件の云々を聞いてやったぞ、と我ながらの話術に一人悦に浸って、茂田に尋ねたつもりだった。一方の茂田はそんな御薬袋の自我称賛の念とは別に、ただただノートに書き込みをしながら、御薬袋とは視線も合わさず、また、さほどその質問に興味を示す様子もなく、
「殺人事件? そんなのあったかなあ」
と取り付く態度は見せず、素っ気なく答えた。御薬袋はその反応を見て若干肩を落とし、
「そうか」
「でも何で突然殺人事件の話になるんすか?」
「いや、深い意味はないよ。ただお前ん家の方で、そんな事件があったっていうニュースを、昨日たまたま聞いたからさ。だって人殺しだぜ。そんなのが近所で起こったら話題になるだろ。じゃあ、それほどお前ん家の近くで起こった事件でもなかったのかなあ」
「そうじゃないんすか。俺はてっきり先輩の知り合いが殺されたのかと思いましたよ」
「え?」
意表を突かれた表情になった御薬袋。ここで会話は途切れ、茂田はさらに黙々と自習に熱を入れ直していた。片や御薬袋はゆっくりとバッグから勉強道具を取り出し、釈然としない様子で自習を始めようとした。その時、机に出したテキストと一緒に例の白革の手帖が混ざっていた。
もちろん知り合い……ではない。牟田口洋子なんて女は聞いた事もない。だが、その見知らぬ女の名前とともにこの手帖には、御薬袋、という名字が一緒に羅列されている。そして、その牟田口洋子という手帖に書かれた女がどうやら殺されたらしい、というだけの話。いや、ただ同名なだけで、この手帖に書かれている女とは、別人の牟田口洋子という女が犠牲者だったのかも知れない。むしろその可能性の方が高いか……だが、何だろう、この妙な胸騒ぎは。変な不安感が襲っている。御薬袋、という名字はこの辺り、というか全国的にも少ない。この手帖、ページが雨水で汚れて下の名前まで確認できないが、それにしたって、御薬袋、という名字は確認できる。しかもお二人様ときてやがる。二つの、御薬袋、という名字に続く名前は、俺か親父かお袋か、それとも全くの別人か。それは分からない。と言うよりも、そもそもこの手帖に書かれている人名の規則性、というか内容やら意味が分からないし、分かるわけがない。そうだ、考えた所で何の答えは浮かばないんだ。
自習室の机に放り出された白い手帖を再確認して、熟慮の末、いっその事ゴミ箱に棄ててしまおうかと御薬袋は考えたが、その気持ちは思い留めて、再び薄汚れた白革の手帖をバッグに戻した。
さて集中して勉強をするか、と御薬袋は内心意気込んでみたが、後に始まる授業までに頭にこびりついた心許なさを拭う事が出来るだろうか? と一方では自らに疑いを持っていた。
*
誰かの死に対して敏感になる。そのような感情を人が持っているにしても、何ら自分とは関係のない他人にまで気を配るほど、御薬袋雅人は心のキャパシティーが広いわけではない。遠く離れた発展途上国の恵まれない子供たちが、病気に苦しむコマーシャルを見ても、ボランティアでワクチン代を出すような行動に移すような人格者ではない。だが、その誰かの死、赤の他人である死でも、それが殺人という形で自分の近辺で起こったならば、考え方も変わってくる。しかもその犠牲者が、果たして自らと全く縁のない人間かどうかと捉えてみて、ある種の共通項を持つ曖昧な関連性の間柄なら、放ってはおけない感情が募ってくる。
○月×日未明。会社員・加藤直人氏・六十一歳。I区の路上にて刺殺される。通り魔の犯行と見て警察は捜査中。
この事件の殺人事件現場は、御薬袋の住むI区でも自分の家のかなり近辺のため、すぐに御薬袋の耳にも入った。そして、実際に御薬袋は昨日に起きたその事件の現場へ、予備校あがりの夕方に駆けつけてみた。徒歩で行ける距離。既に犯行現場は諸々の処理が終わっており、普通の道路として機能し、警官や野次馬の姿など一切見られなかったが、御薬袋は一人電柱にもたれて佇んでいた。
牟田口洋子の死以来、殺人事件のニュースが耳に入ると、多少なりとも反応するようになった御薬袋雅人。そして、今回その殺人事件のネタがかなり自分に近くまで迫ってきた、とも解釈していた。
無関係の人間の死? いや、違う。縁もゆかりもない人間の死ではあるが、無関係とは言い難い。
御薬袋は頭の中で反芻する。
加藤直人。
彼の名は件(くだん)の白革の手帖に刻まれている一人。その事を御薬袋は覚えていた。そして、牟田口洋子の死から矢継ぎ早に、その名簿に記された加藤直人が死んだ。恐らく、殺人事件と間違う事がない状況下で。
「これじゃまるで、この手帖がリアル・デスノートじゃないか」
ユーモア含意の余裕をもった一人言のつもりだったが、内心、いよいよもって危機感を持ち始めた御薬袋。一方で、馬鹿馬鹿しい、と一蹴してしまう感情も渦巻いている。所謂、分かりやすい程の頭の混乱具合。ただ白い手帖に載っている名前の人物が、ここ最近連続して殺されている事実は真実。
警察にこの手帖を持っていこうか? この手帖に名前の載っている人たちが殺されていってるって。いや、ただのミステリー好きのアホが暇つぶしがてら、からかいに来てるだけだと思われて門前払いか。こんなモノ幾らでも面白半分に捏造できるし、せいぜいサスペンス・ドラマの見過ぎ野郎扱いだな。しかし、御薬袋、という名前が書いてあるのがどうにも引っかかる。もし、仮にこの手帖に書いてある、御薬袋、が俺の名前だとしたら……いや、それ以前にそんなに俺は人に殺されるほど憎まれるような事をしたか? 正直、思いつかないぞ。あ、だが、御薬袋、という名字は分かっていても、名前の方は字が読めなかったから、父親か母親が対象かも知れない。それにしたってあんな平々凡々とした両親が、殺されるほど人に憎まれているとは思えないが……。
御薬袋は電柱に寄り顎をさすりながら、探偵然として推理小説まがいに模索する。
待てよ。手帖に書いてあった牟田口洋子の名前の上に、二人ほど×印が付いた人名があったな。彼らは果たして本当に死んでいるのか?
×印がふってあった人間の名前を、勝手に死人としてカウントしていた事に、御薬袋自身は気づいた。
もしこの二人が存命していたら、何か空振った感じになるぞ。しかし、どうやって調べたらイイものか?
御薬袋はしばらくその場で思案した後、
「ネット、か」
ポツリと呟くと、早足で家に向かった。
調べ方は至極単純。ポータルサイトの検索窓にまずは手帖に記載されている、×印が重なっている人名である、岡井忠幸もしくは楠美春を入力する。そして、スペースを空けて第二検索ワードとして、殺人、と打ち込み、そして、最後に再びスペースを空けて第三検索ワードとして、事件、と入力。つまり、『人名 殺人 事件』という形でネットを使い検索するという方法。
実際にそれらのワードを打ち込んでみて、ほとんど関連性のないキーワードばかり出てきたのなら、それはそれでそれ以上の調べようがない。それ以上の術は一般市民の御薬袋雅人の調査スキルの範疇ではないし、他の方法も考えつかない。事実、御薬袋自身、帰宅後すぐにパソコンに向かってそのような検索を試みようとしたが、たいした成果は出ないだろうし、また岡井忠幸や楠美春の安否についてとことん追及しようとは思っていなかった。それこそ最近起きた殺人事件を、図書館にまでわざわざ行って、近況の事件簿が掲載されている様々な新聞を読破して、それらを体系的に網羅してまで調べようなんて露程もなく。ただ、万が一や一応の考えのみが働いて、なんちゃって刑事気分で調査がてら、特に何らかの期待も成果もなしに、とりあえず検索して様子を見るか、とその程度の軽い意識の持ちよう。
だが、そんな遊び半分の行為が、意外なリサーチ結果をもたらした。
岡井忠幸、楠美春とそれぞれ記して、殺人、事件とさらに検索ワードを入力すると、ヒット件数はさほど多くはないものの、それら同姓同名の殺人事件のトピックスが簡単に見つかった。しかも、それらの事件はネットの記事を見る限り、ここ半年間の最近の出来事。それに事件の犠牲者の順番も時系列で岡井忠幸、楠美春という順番。
「同じI区で起きた殺人事件ではないが、すぐ隣りの区の殺人事件だ。近辺である事は変わりないし、何よりも直近の出来事だ。こいつはマジで……」
ブツクサと独言を吐き、御薬袋はネット・サーフィンしながら、出来る限りこれらの事件に関連したニュースを探してみる。するとI区で先頃殺された牟田口洋子の名前も表れた。
「何なに、それぞれの犠牲者はほぼ殺人と断定されていて、その死因は殴殺や刺殺など画一性はないが、加害者は通り魔的な殺人犯という傾向が強く、一連の事件は同一犯とも予想される……やはり、警察の方でも殺人現場が近隣かつ短いスパンで起きてる殺人事件だから、色々と捜査の動きはしているんだな」
今まで受験勉強ばかりで近所の状況など見知らずにいた御薬袋だったが、近い範囲でこれだけ最近殺人事件が連続して起きていた事が分かって、改めて脅威を感じ始めた。それは自らが所持する白い手帖があるから、なお一層。
「意外と表面化している事件なんだな。これならあの白い手帖を警察に持って行っても、それなりに信憑性が出来そうなものだから、一応、参考品というか証拠品的な感じで預かってくれるかな」
ふと、御薬袋は警察へ手渡す事ぐらいは可能ではないか、と考えたが、よくよく思い直してみると例の白い手帖を渡した所で自分を保護してくれる訳ではない。いつ起こるか分からない、しかも確証性のないむしろ想像的な推理で、自らが犠牲者のリストになっている、という主張だけでは説得力がなさすぎる。
「仮に警察にあの手帖を見せた所で、多少なりとも関心を示したとしても、せいぜい被害者との関連性、つまりは、まだ殺されていない、えーと、佐藤優三郎と名字だけの御薬袋とを含めて、そして、今までの殺人事件の犠牲者も考えて包括的にちょいと調べてくれるにすぎないか」
声音は一人言の割にははっきりとした口調に変わってきた。一方で、警察に相談した所で、それが警察の警護による、自分の安全の確保につながるとは判断できないという結果を導いてもいた。
そもそも警察に駆け込んだ所で自分の保身を促す事が現時点では成立しない。そう、全ては俺の妄想でしかないかも知れないし、本当にたまたま恐ろしい偶然が重なって、この白い手帖に一連の殺人事件の犠牲者が列挙してあったに過ぎないとの可能性もある。それこそ手帖に書いてある人物と殺人事件の犠牲者は同姓同名なだけで、全くの別人であるとの奇遇も考えられる。そして、その手帖にこれまた、たまたま俺の名字が書き込んであるから、俺は過度に反応しているに過ぎない、とも捉えられる。
御薬袋は冷静に考え直して自らを納得させようとした。全ては自分が作り出した虚構、フィクションであり、三流推理小説なみの想像の産物にすぎない、と。
だが、
「この手帖に書かれた名前のリストの奴らの共通の関連性はないのか? この、御薬袋、という限りなく俺っぽい名字の人間も含めて」
眉間に皺を寄せて懐疑の念を無意識に口で出す。幾ら頭の中で奇妙な偶然の重なり、と理解してみても払拭しきれない、殺人の標的のリストではないかという思い。
根本的に自分と同じ、御薬袋、なんて珍しい名字が書かれている手帖を俺が拾う事自体が、ある意味出来すぎた偶然なのに。
神が与えた運命。
UFOや占い事など信じない御薬袋は、徐々に超常的な現象の真実味を覚え始めた。オカルトじみた今回の事件、事象に対して。ただこのまま奇怪な椿事(ちんじ)に拘泥していては、受験勉強の差支えになると思い、不承々々にテキストとノートを取り出して、無理に目をそれらに向けてペンを走らせた。
だが、その一見すると快活な筆さばきとは裏腹に、頭の中では身の回りに忍び寄っている感のある「死」という観念に集中していた。
*
御薬袋の近所で起こった加藤直人の殺人事件も、起首(きしゅ)は御薬袋家の近隣住人の間でも話題になったが、一週間も経たないうちに話題の遡上にはならなくなっていた。御薬袋自身もその後の事件展開は関心を示さないようにして、加藤直人個人の情報も骨董屋の主人であったぐらいしか聞いてなかった。白い手帖に名指しされている他の人間についても、率先的に個人情報を調べようとしている姿勢を見せない。無論、御薬袋が持っている白い手帖に書かれた犠牲者との関連性から紐解いて警察が捜査をしているかどうかなども知らないし、岡井忠幸や楠美春や牟田口洋子に連なる殺人事件の流れの、同一犯疑惑の絡みの可能性で調べているかなども知る由もない。ワイドショーやニュースの動向も分からない。
兎に角、御薬袋は一連の奇行からは一線を逸れ、受験勉強に集中していたかった。だが、加藤直人の殺人事件以来、地味ながら模試の成績が下がっているのが現状だった。不安や焦りが、受験以外の思慮として脳内に巡る状況を、御薬袋は打破したかった。だから何とか勉強に没頭するため、予備校の早朝特別受験コースの科目に参加するようになった。偏差値アップが目的ではあるが、その方が煩わしい事を考えずにいられる、というのが本音でもあった。
何せ夢にも手帖の夢が出てくるのだからな。
その内容は自分が何者かにメッタ刺しにされ殺される夢。早起きは辛いが、寝ている方が余程悪夢に苛まれる。半ば無理矢理の勉強方法によって御薬袋は、白い手帖の問題から離れようと試みたのである。
今朝はその早朝特別授業コースの日なので、御薬袋はショルダーバッグを背負って、朝食をとらないまま外へ出ようとした。するとリビングを通る最中に、空の湯呑み茶碗にハンカチと財布と黒革の手帖が、テーブルの上に規則的に並んであるのに気づいた。トイレの方で物音がする。
親父が用を足しているだろうから、多分、出勤前に忘れ物がないように、予め用意した行動だろう。空の湯呑みは出勤前に熱々の緑茶を一杯ってヤツで、すぐに飲むため準備済みって事か。俺が中学入る前からこのパターンは変わってないな。というかこの湯呑みまだ使っていたのかよ。何だか昔、どっかの古物市で買った年代物の品だとガキの頃に吹聴された気がするけど……そういや最近はあんまアンティークみたいな物を買ってきている感じはしないな。古物好きだったはずなのに。母親に無駄買いを注意でもされたか。
御薬袋は推し量る。と同時に、まだ父子親しく育んでいた思い出がよぎってしまった。だが、それを懐かしむ自分を御薬袋はすぐに否定し、
「相変わらず性格の細かい親父だ」
と仏頂面で一人吐き捨てるように呟いた。
兎に角、久しぶりに自分の登校時間と父親の出勤時間が重なり、前から続いている父親のルーティン化した行為に改めて、変わってないな、という印象をもった御薬袋。一方、変わった事もあるけど、とも思う。
父親も家で朝食をとらずに出勤し、駅ナカの立ち食い蕎麦屋で食事する。それは朝食をとらず、というより朝食を作ってくれるはずの母親が寝ているからだ。時刻は朝の七半時ぐらい。別段、早い出勤時間ではないのだが、いつの間にか母親は朝に起きる事なく、自分の夫の出社前の後ろ姿を見送らなくなっていた。高校時代までは普通に母親が朝食を作り、自分と父親を笑顔で玄関まで見送りに来ていた。だが、御薬袋が大学受験を失敗した頃から、母親は朝の雑事に対して疎かになってきた。
一昔前なら昼の弁当も作ってくれたものだが。
御薬袋は、我が家では家族という共同体意識すらも微妙に崩れかけている、という意識は感じていて、自分が両親の期待した青写真を破ってしまったのが原因なのかも知れない、と受け止めている部分もあった。だが、そんなのは大人の都合で、子供の自分には関係ない、という考えの方が余程強く、単に熟年夫婦のよくある冷え冷えとした環境だろ、と解釈していた。特に表面化するほど深刻な夫婦間の問題ではなく、ごくごく一般的な夫婦の、いや、家族全体の倦怠期だろう、と。実際、父親はそんな怠慢になった母親に対して諌めるような言動を発した姿を御薬袋は見た事がない。結局、物事はスムーズに進んでいるんだ、というのが御薬袋の本懐だった。
だが、テーブルに置かれた、まだ光沢の残る黒い手帖を見た時、御薬袋は本当にコトが順調に進んでいるのか? と不快感にも似た感情が湧いた。
白革の手帖を思い出させやがる。
御薬袋にとって受験勉強の妨げになる白い手帖の存在。これ以上は深く関わり合いたくない、という思い。だが、その反面、御薬袋はその白い手帖を手放していないし、むしろ予備校の勉強道具と一緒にショルダーバッグに入れっぱなしのまま、常に持ち歩いている。奇妙な矛盾。しかし、御薬袋にはその自覚はない。
トイレの方で水洗の流れる音がした。御薬袋は父親と会うのをきらい、テーブルに置かれた小物を横目に足早に外へと向かった。あえて父親との会話を避ける。それが自分と父親、ひいては家族間の違和と不和の一因である事だけは自覚していた。
早朝特別授業コースとはいえ、時間帯としては朝の出勤ラッシュにと重なる。御薬袋は満員電車に揉まれながら予備校のある駅に辿り着いた。静かな朝の遊歩道、とは無縁な仕事場に向かう人込み忙しい公道をすり抜けながら、御薬袋は駅前の街道を行く。予備校近く、社会人で混雑した道から離れると、人もまばら、ウォークマンを聞きながら肩を小刻み揺らしている長身の男の後ろ姿が、御薬袋の目に映った。
茂田だな。相変わらずのウォークマンを聞きながらの街歩きスタイルか。
茂田の受けているT大学特別授業コースは、早朝の専門講義も含まれているので、御薬袋のように早朝特別授業コースを別途としておらず、通常の受講として茂田は予備校入校当初から通っているので、朝早くの登校は珍しいものではなかった。だが、御薬袋が早朝特別授業コースを受けてから、登校中に茂田と合流するのは初めてだった。
普段なら予備校の通学途中に、ウォークマン姿の茂田を見つけたなら、現在聴いているであろう御薬袋の興味のないソウル音楽について、無遠慮に語ってくるので話しかけないはずだが、何故か御薬袋は今ばかりは茂田に声をかけたい衝動に駆られた。いや、茂田云々というより、誰かと話して、自分では認識しようとしては拒む何らかの矛盾した不安を解消したいため御薬袋は人の談話を望んでいた。
御薬袋は茂田の背後に近づいて肩を叩いて話しかけた。
「オハ」
突然に背後から肩を叩かれ、驚いた様子を見せた茂田だったが、後ろ振り向き様に御薬袋だと分かるとウォークマンのイヤホンを片方はずして、
「あ、オハっす、先輩。にしても早すぎないっすか、予備校来んの」
「いや、俺さ、早朝特別嬢業コースを受ける事にしてさ、だから朝一で授業なわけ」
「へえ、気合い入ってますね。あ、そんな事よりこれ聴いてくださいよ。マーヴィン・ゲイのホワッツ・ゴーイン・オンって曲なんですけど、超サイコーっすよ」
御薬袋の予想通り茂田は今自分が聴いているウォークマンの歌を御薬袋に薦めてきた。御薬袋もその行為は予定調和の織り込み済みだったので、茂田のウォークマンの片方のイヤホンを耳にはめた。
「やっぱソウル系の音楽か。好きだな、相変わらず」
「まあ、そうっすね。ソウル系っていうかモータウンのミュージックは俺のフィーリングに合ってますね。兎に角、マーヴィン・ゲイはイイっすよ。意外と若くして死んでしまったのが残念ですけど」
「へえ、事故か病気?」
「いや、殺されたんじゃなかったかな? えーと、確か……」
「……殺された」
御薬袋の顔面がにわかに蒼白になった。そんな御薬袋の気色に気づかず茂田は軽いノリの口調で話を続ける。
「別にミュージシャンが殺されるなんて、海外のアーティストでは珍しい事じゃないっすよ。ビートルズのジョン・レノンだって熱烈なファンに殺されたし、昔のロック・バンドでマウンテンっていうグループがいたんすけど、そのヴォーカリストのフェリックス……何とかって歌手は自分の奥さんにぶち殺されましたしね。それにローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズだって事故か他殺かっていう話が持ち上がって、今でも都市伝説的に……」
茂田が器用に喋っている内容は既に御薬袋の頭の中には入ってなかった。
殺された。
その言葉が御薬袋の心頭を支配して、それは白い手帖の殺人リストを連想させ、忘れかけていた自らに迫る死の危機感を再び抱かせた。
そうか。誰かに殺されるなんて特別な人間にも等しく起こり、別段、一般人とか有名人の区分けもなく、兎に角、ランダムに何処でも発生するような、無作為の事象にすぎない。殺人事件なんて珍しい事でなく、日常的に勃発していて、そいつは日々ニュースでも流れていて、決して非日常的なものではない。それが俺に関わって来るなんてのは、信じられない事と思っていたけど、考えてみればそれは確率的論な事であって、宝くじだって理由なんてなく大当たりするから、俺に死という災いが降りかかるのも決定論的観点からみれば、全くもって有り得る事で……。
完全に御薬袋の脳内は混沌としていた。傍目から見れば普通に歩行をしているが、瞳は一点を集中して瞬きはしておらず、血の気を引いた顔をしている。
「って、聞いてますか、先輩?」
「へ?」
隣りを歩いていた茂田が、御薬袋に軽く肘打ちして口調強めに問い、御薬袋は我に返った。茂田のツッコミがなく歩き続けていれば、御薬袋は自意識がなかったので転んでいた可能性があった、と御薬袋自身は忖度し、内心、茂田に感謝した
「スマン。あんま聞いてなかった」
「だから、最近ウチのアニキが妙に行動が怪しいって言ってたんですよ」
「アニキ? お前ってヤーさんの舎弟だったのか。つーか、それってお前の実のお兄ちゃんの邦明の事か?」
「そうっすよ。誰がヤクザの兄貴の話をしますか」
いつの間にか殺されたミュージシャンの話から、茂田準の兄であり御薬袋の高校の同級生であった茂田邦明の話題になっていた事など、御薬袋は露も知らずにいた。御薬袋は周りの状況も理解せずに、それほど自らに近しいと思える殺意に一心不乱になって徒歩を進めた事に、改めてやはり白い手帖の件は脳裏にこびり付いているのだな、と理解した。御薬袋自身、認めたくはないが。
御薬袋は仕切り直す風に服の袖を捲くって茂田に問い直した。
「で、その兄ちゃんの行動が怪しいってどんなもんなのよ?」
「んじゃ、また繰り返し言いますけど、最近ウチのアニキが夜な夜な家を出て、やたらと朝帰りが多いんすよ、カノジョもいないのに。それに言動とかも遅れてきた反抗期なのかどうかは分からないんすけど、やたら荒っぽくなってきたし。んで、さらに言うと、結構、近頃は近所でちょっとした暴力沙汰の事件が多発していて、絶滅危惧種と思っていたカラーギャングやらチーマーやらの、若いバカどもの類いがのさばり始めているとかで。今さら感はあるけどそういうガラの悪いのが周りに増えていて、ウチの両親は過保護だからアニキも何か絡んでるんじゃってないかって、余計な心配してるんすよね。俺的には杞憂だとは思いますけど。アニキは本来ビビりな性格だし」
「はは、遅れてきた反抗期ってのは合ってるかもな。アイツの高校時代は典型的な優等生タイプで、真面目の塊みたいな奴だったから、大学入って慣れてきたら少しは羽をのばしてみる的な感じになってきたんじゃないのか。それこそ大学デビューを図って自分のキャラをチェンジして……」
御薬袋は茂田の話を軽く聞き流して言葉を返しているつもりだったが、不意に茂田準の兄である茂田邦明についての高校時代の記憶が頭をよぎった。
そういえばアイツ、茂田邦明は高校時代から成績優秀な奴だったけど、常にフトコロに手帖を入れてたな。勉強に関しての備忘録として、何かいつもメモっていた気がする。そういう細かいメモ魔的な行為の積み重ねが、俺にとっては薄気味悪くて癪(しゃく)に障り、よくからかっていたけど、一度だけ無理矢理その手帖を取り上げようとした時、えらく俺を睨んで拒んだ事があった。あのいつも弱腰のヘラヘラした茂田が歯向かった的な、珍しい一面だった思い出がある。
そんな瞬間が高校時代にあった……と御薬袋は顧みたが、その時、奇妙な悪寒を背に感じた。
メモ? 手帖? いや、白い手帖?
「まさか……」
無自覚の御薬袋の独言。既にウォークマンをポケットにしまって、御薬袋の隣りを歩いていた茂田準が訝しく思い、
「どうかしたんすか、先輩?」
「あ? いや、何でもない。ただアイツ、えーと、邦明の奴もイイ歳こいてんだから、色々と遊びたいんだろ。アイツ、今まで勉強一筋だったから、大学入って緊張感がなくなって、少し今は自分に対して緩くなっている時期っていうか、年頃なんだよ」
「ですかね。まあ、俺もそんな程度の事だと思うんすけど、ウチの親が甘々で温室育ちにアニキの事をかまってきたから過度に心配してるのがウザいんすよね。ま、それが反面教師になって俺はアニキとは逆に、両親にはある程度反抗して、緩々に今まで暮らしてきたつもりなんすけど」
確かに兄弟でもこれだけ性格が違うのは珍しい、とは御薬袋も感じていた。ただ兄弟の共通項として、二人共勉強が出来る、という事が御薬袋にとって苛立ちを覚えていたが。だが、それ以上に今の御薬袋の頭の中で巡っているのは、にわかに浮かんだ茂田邦明と白革の手帖との奇異な感じさえある連鎖。
いや、たかだか手帖というつながりで、茂田邦明を思い出す、というよりあの白い手帖の持ち主が実は茂田だと推測するって、それは、つまり、一連の殺人事件の犯人が茂田邦明であるって俺が疑惑を持っている事か?
どうにも居心地の悪い御薬袋の自問自答。御薬袋自身、おかしな精神状況に置かれていると自覚し留保しつつも、さらに思案を深める。
そんな事は有り得ないだろ。こんなアホみたいな偶然の二乗みたいな事は有り得ない。第一にこの手帖に書かれている連中と茂田の関係なんて俺が知るわけないし、それ以上に何で俺がそんな深読みをする必要が……ああ、御薬袋、という俺らしき名字が記されている事は茂田との関わりを連想させるか。それでも、もしここに書かれている、御薬袋、という名字が俺だと前提とするならばの話だ。たかだかそれだけなのにどうして俺は、茂田と手帖の関連性を探ろうとする……む? 手帖に書かれている人間が殺されている。それは犯人から何らかの恨みを買っているからだとする。それは単純に怨まれている、憎まれているの類いの情緒的な面でターゲットとされているなら、俺は……。
イジメ。
その三文字が唐突に御薬袋の頭に浮かんだ。
バカな。それこそ愚の真骨頂の考え方だ。俺が茂田邦明を高校時代にイジメていた、いや、イジメなんて程のレベルじゃない。奴を軽い使いっ走りぐらいに扱っていただけの話で、そんな大事なもんじゃない。だったら何か? 例の白い手帖に書かれている奴らは茂田が憎んでいた連中で、それこそ秘密裏に茂田が個人的に処刑していっているって事か? そんなのアホすぎる想像だ。B級アクション映画の復讐モノでもあるまいし。馬鹿馬鹿しい。
現実離れした思慮に、自分に対して当然のようにツッコミを、胸襟、入れる御薬袋。だが、なおもその空想にアンビバレンスにも似た疑念を膨らませていく。
いや、こういうイジメじみた出来事の類いは、加害者側は軽く思っているが、被害を受けた側はとことん根に持っているという話はよく聞く。俺と茂田の記憶の中では温度差が違うのかも知れない。だからと言って殺される程に憎まれるようなイジメ、というかトラウマになるほどの行為を俺は茂田邦明にしたものか? それこそ登校拒否なんて奴はしてないし、教室でもイジメ問題としてとり上げられた事なんてないし、俺個人だって担任に茂田をイジメてないか? なんて呼び出しをくらった事もない。ほぼ水面下で片付いていた、簡単な使いっ走りや軽い小突き程度ですんでいた話だ。少なくとも俺の中では……待てよ? あの白い手帖には、御薬袋、という名字が二つ並んでいたな。それ以上は汚れて読めなかったが、どうして、御薬袋、という名字が二つある必要がある。もしあの手帖が茂田の殺しのリストだと仮定しても……まさか、俺だけを憎んで殺すのではなく、家族全員もろともぶち殺そうとしているというのか? それほど俺への憎悪が募っていたというのか?
御薬袋の歩速が徐々に遅くなり、隣りを歩いていた茂田準との距離が広がってきた。
「何してんすか、先輩。遅いっすよ」
「え? ああ、ワリぃ」
御薬袋はどうにも意識が散漫になっている自分に、再度内心に喝を入れると足速に茂田に近づいていった。だが、茂田の後ろ姿を見ていると、御薬袋は思わぬ想像をした。
茂田準もグルなんじゃないか?
そんな虚妄に近い考えを。
まさか、茂田の弟もグルになってるんじゃないか。俺の動向を逐一アニキに報告してる、みたいな。いや、だが、茂田兄弟の仲の悪さ、というか茂田準の兄への嫉妬心はかなりあると俺は睨んでいたから、そんな兄弟協力的な仲良しプレイはしないはず。待て? その兄弟仲の探りも俺の勝手な想像にすぎないといえば、それはそうだ。実は仲良し兄弟だったなんてオチも有りうる。それで茂田邦明が弟を俺と同じ予備校に送り込んで、俺の殺人計画の一旦を担いでいる……じゃないとこの必然は、いや、今まで起きた数々の偶然の重なりはおかしすぎる。俺が白い手帖を拾う事以外は全て想定内の出来事で……。
御薬袋が茂田準の横に並んだ時は、茂田は御薬袋の拡大解釈気味の疑心を他所に、ラップ口調で一人勝手に体を揺らして小声で歌っていた。その姿を見て御薬袋は少しずつ平静さを取り戻していった。こんなチャラチャラした軽々しい男が殺人なんかに関与するものか、と。
被害妄想が肥大化しすぎているぞ、俺。それとも想像力がたくましいとでも言うものか。変な強迫観念に襲われているから、やたらとおかしな雑事を考えてしまうんだ。もう一度落ち着いて整理してみろ。白い手帖に書かれてある名前の連中が殺されていっているのは、結局はやはりただの奇妙な偶然で、そのリストの中に、御薬袋、という一般的には珍しい俺の名字が入っているから、やたら神経質になっているだけ。それに、いや、それこそ茂田兄弟の俺への暗殺計画の空想はひどすぎる。ここまで想像を広げてしまったら、もはや俺が心身耗弱の異常者になっちまうよ。
御薬袋が自律的に考えた、それが当然の従容とした脳内の結果だった。現実的に考えていけば、ないし論理的に考えていけば、そのような答えを出すのは、必然的な帰結であった。そして、胸三寸、もう何も気にするな、という言葉を添えて。
だが、なかなかそう簡単に拭いきれないのが、人の不安の情緒。
そうだ。よく外見が一般的な奴ほど、やる事が突発的で極端なパターンが多い。茂田の隠されたサイコパスの気質、そう、高校時代に奴の手帖を奪おうとした時に見せた鋭い眼光。手帖に対するあの執着。もしやあの時点でネチネチと自分をイジメた人間のリストやその復讐計画を書き込んでいたのかも知れない。だったらあの白い手帖に記入されている人名の連中は、何らかの形で茂田にとって恨みのある連中で、それで茂田が復讐のシリアル・キラーと化したとでも言うのか? 確かに殺人に至る程度なんて個人差がある。どんな些細な事でも当時者にとって温度差は違う。だから茂田邦明の怒りの沸点が異常に低かったら、さらにそれを溜め込んでいる時間が長かったら、つまり、わだかまりがずっと解消されず、むしろ時間をかけて醸造されていったら、いずれガスが溜まり爆発する。頭がイっちまう。
狂気には基準などない。御薬袋は改めて熟慮して果たして背筋に脂汗が流れた気がした。慄(おのの)きを知る。顔が青ざめていく感がある。目眩すら覚える。恐怖や不安の再認識。しかし、何とか御薬袋は平静を装い歩き続けた。
予備校に到着した二人。
「じゃあ、俺はすぐに授業なんで」
と茂田は言うと御薬袋と別れ自分の受講するクラスへと向かった。一方、御薬袋は普段から余裕をもって予備校に通っているので、意識高い系OLが出社前に北欧風カフェに寄るような、習慣化した勉強ブレイク・タイムを過ごすため、自習室へと向かった。
自習室のドアを開ける御薬袋。その部屋は独特な静けさと、閉じられた空間にして、それ故に透徹感が澄み渡っている。御薬袋にとってはやはり一番勉強がしやすい環境が自習室。実際に御薬袋もそれを自認しているから、最近では予備校に行って時間があったら率先して自習室へと通っている。先ほどまで抱いていた恐怖感や不安感も、自習室に入ると和らいできた。
予備校自体には、やはり安住の感がないのは否めないが、自習室は別物だな。いや、意外と俺の意識自体が変化して、予備校自体も包摂して良さを覚えてきているのかも知れない。受験にかける本気度が増してきた証拠かも。言わば俺って意識高い系予備校生。
御薬袋はポジティブな心構えで早速、予備校登校専用のショルダーバッグから勉強道具一式を出そうとした。だが、バッグの底に手を入れた瞬間、しなった感じの冊子が手に触れた。確認しないでも御薬袋には分かる。あの手帖だ、と。いまだに棄てきれない例の白い手帖だ、と。
御薬袋は気にせず勉強道具だけを取り出し、無言でテキストを見ながら、ノートに書き込みをしていく。しかし、頭の中では筆速く書いている、文章や英単語が一向に入ってこない。
まだふっ切れていないな……本当に受験勉強に差支えが出てきている、クソ!
表情には出さないが、内心、苛立ちを抱えたまま無理に頭の中に、様々な英文の語訳、古典の文法、歴史の年号を乱雑にインプットしようとするが、ペンを握るその手には、僅かながらも先ほど触れた手帖のたわわな不快感が残っていた。
*
遂に脅威が自らに事実として降りかかってきた、と御薬袋は思った。
受験勉強の妨げになると考え、白い手帖の件はなるべく忘れていようと試んでいた御薬袋の思いとは他所に、御薬袋雅人、いや、御薬袋の父親が暴行被害にあった。暴行後、すぐに病院に搬送され生命に別状はなかったが、帰宅の夜中、突然、暗がりで暴漢に襲われたとのこと。即、警察と病院の両方から連絡があり、着の身着のまま御薬袋の母は病院に向かい、たまたま予備校から帰宅して家にいた御薬袋も母親に同行した。それは父親の傷の程度が心配というよりは、恐れていた事が遂に始まったのか? というような白い手帖の殺人リストとしての信憑性を再確認する意味の方が強かった。
親父が襲われた。こいつはもはや俺の妄想ではない。確実にあの白い手帖通りに殺人が実行されている。今までは現実逃避してきたが、もうこの一連の事件を対岸の火事のように扱っては駄目だ。警察はアテになるか? いや、本気になんてならないだろう。やはり俺が自衛をしなければ。そう、母親だって危険だ。御薬袋、という名字は家族三人に当てはまるからな。
御薬袋は母親とタクシーで病院に向かっている最中、一人熟考する。御薬袋の母親は祈るような姿勢で額に両手をあて、目をつむっている。
しかし、気になる点が多少ある。確か、御薬袋、の名字の上には佐藤優三郎という名前があった。俺の知らないうちに佐藤優三郎という人間は殺されていたのか? それとも別に手帖に書いてある段通りの順番で殺人を行う事に拘泥はなかったのか? 兎に角、最近はネットで白い手帖の面子の名前をリサーチしていなかったから分からないが、佐藤優三郎の安否が気になるな。それは家に帰ったらまた佐藤優三郎、殺人、事件といったキーワードで調べてみるか。ただもう一つ気になる点、というかある意味盲点だったのは、どうやら親父は複数犯に襲われたという事だ。確かに通り魔的な犯行が多かったから単独犯と思っていたが、組織だったサイコパス集団ってのもなくもない。同一犯に見せかけて各々好きなように人を殺していく。今のネット社会ならそんな危ない嗜好をもった奴らを集めるのは簡単だ。狂気を共有したい仲間意識ってヤツか。一緒に自殺する連中も出会い系カキコミで募る世の中だ。それこそ一緒に犯罪しましょう、なんて茶飯事なもの。ただどうして俺の親父の時は集団リンチ的な犯行だったんだ? それとも今までの一連の殺人自体が一人と見せかけていただけで、その実は警察を翻弄するため集団的に計画的に行っていたのか。それに親父は直ぐに逃げ出せたらしいし、どうも詰めの甘さが気になる。何らかの御薬袋家に対しての威嚇行為? だとしたら相当に俺たちに対する恨みは根深いぞ。だが、そんなに御薬袋一家、家族全員単位で人様に迷惑をかけた事がるか? それも命を狙われるレベルの事を……何にせよ、親父が誰か犯人の顔でも目撃していたら、また状況は変わってくるかも知れないが。いや、どうせ暗がりで、しかも急に襲われたのだから、犯人の顔なんて判別してる余裕はなかっただろう。
タクシー内、母親が横で俯いたまま小刻みに震えているのとは対称的に、御薬袋は腕を組みじっとフロント・ガラスを見据え、今までの経緯の顧慮や今後の予想、また、様々な疑いに対して自問自答して、病院に到着するまでの時間、冷静に無駄なく思案に暮れていた。
病院に到着すると御薬袋の母は足速に治療を終えた父親の病室へ向かい、御薬袋も母の後背を追うようにやや駆け足で同行した。病室に着いて父親の姿を確認すると、御薬袋の母親は心配そうな表情ですぐに駆け寄り、御薬袋自身は父親には近づかず、病室のドア付近で佇んで待機していた。
「心配かけたね、すまん。だが、たいしたケガじゃなかったから」
御薬袋の父親がそう言うと、御薬袋の母親は目に薄らと涙を浮かべた。
父親は相部屋の病室で看護師一人を伴いベッドで半身を起こしており、見た程度には額と右腕に包帯を巻かれ、頬に多少の痣があり、量の多い出血の感はなかった。所謂、軽傷ぐらいの状態で、実際に骨や内臓も異常はないとのこと。ただし眼鏡は壊されてしまい、それが口惜しい、と父親は冗談めいて話した。看護師の一連の説明を聞くと、父親の意識もしっかりとしているので、即日退院。その後は体調を鑑みつつ、通院するとの予定になった。
「それじゃあ、家の方に早速帰りますか」
母親が父親の背中をさすりながら話しかけると、
「いや、一通り治療が終わって特に無理がないなら、警察の方で事情聴取をとりたいから署の方に来てくれって言われてるから、長引かせるのもなんなんでこのまま警察署に行こうと思っているんだ。会社の方は明日にでも連絡するけど」
「そうなの。じゃあ、私も念のために一緒に行くわね」
そんな御薬袋の両親のやり取りを他所に、御薬袋雅人は科学者が実験を観察するような目線で、俯き加減考えていた。
そして、
「じゃあ、俺は先に帰るから」
と淡白に一言残すと、両親の反応も気にせず、病室からさっさと離れ、タクシーを拾い、一人自宅へと帰ってしまった。
それからの御薬袋の行動は計画的で俊敏であった。
まずはパソコンを開き、「佐藤優三郎 殺人 事件」とワード入力して検索。だが、それにヒットした内容のトピックでは、白い手帖に書かれている佐藤優三郎に係る情報とは、御薬袋が推測できないモノばかりであった。
その流れから今度はネット・ショッピングのサイトに御薬袋はアクセス。
自衛のためには武器が必要だ。できれば拳銃でも手に入れたいものだが、そんな物を手に入れるルートは知らないからな。スタンガンが良いか? いや、もしイザという時に電池が切れていたら危ない。やはり常用としては刃物関係、バタフライナイフとかにしとくか。道端で警官に職質とかされたら困るけど。
カチカチと御薬袋の脳内アルゴリズムが動いた結果、即決してバタフライナイフを購入。品は二,三日で届くとのこと。
「後は俺の意識の問題だな。毎日を油断するな、だ」
椅子に深く腰掛けてようやく一休憩の状態になって呟く御薬袋。既に御薬袋の気構えは好戦的な状態。決着、という意識が高まっていた。不思議と恐怖感はない。むしろ自らの手を持って白い手帖に関わる、一連の殺人事件の終止符を打ってやる、という思いが募っていた。
その思いが芽生えたのは先ほどの両親の姿にあった、とは御薬袋自身は認めたくはなかったが、父親が怪我をして甲斐甲斐しく寄り添う母親の態度を病院で見て、御薬袋は冷め切っていたと思っていた両親の夫婦間だったが、その様が切実な仲睦まじい夫婦の情景に感じてしまった。
御薬袋家はもはや底冷えした家族だと決め付けていた御薬袋雅人。だが、まだ家庭の温もり、灯火は残っていた。御薬袋も意外ではあったが、そう思う自分に心地良さを感じていた。
だからこそ、俺が守る。俺自身と俺の両親を。
慮外の御薬袋の思案。しかし、御薬袋雅人はそのひょんな決意をもってして、家族を守る責任と義務を自らに課す。
そこにはたただの受験生であった御薬袋の面影はなかった。
*
勇み足気味。御薬袋家を守る、という使命感を急遽に抱いた御薬袋雅人だったが、御薬袋の父親が急襲され一ヶ月も経たないうちに、事件はあっさりと解決した。I区で最近多発していた暴行事件をきっかけに、若者グレーゾーン集団を一斉検挙。その連中がどうやら御薬袋の父親をオヤジ狩りよろしく襲ったとのこと。別件でホームレスを狙った暴力行為、老人を狙った金品強奪、夜道で若い女性を狙った婦女暴行などなど。大学生やフリーターが中心になった、その不良集団は以前から警察もマークしていて、呆気なく連中は足が出てしまい逮捕された。
さらに御薬袋が驚いた事は、そのグループの中に茂田邦明が入っていた事だった。まさか……と思い、茂田邦明の関連はないと判断していた御薬袋だったが、茂田準がまるで愉快な出来事のように、
「ウチのアニキも犯人グループの一員だったんですよ。まったく、本当にウチのアニキって馬鹿だったんだ。ウケる、ウケる。ウチの親は顔面蒼白ですけどね。個人的には我がアニキながら傾(かぶ)きすぎだよ。ギャッハッハ! これでアニキの人生終わったな。多分、大学からもこれから何らかの処分が出ると思うし。ヒャッハッハッ!」
と身内の恥を包み隠す事なく、むしろ自分の兄の醜聞を、これみよがしに自身にとってはご満悦の失敗談として御薬袋に暴露した。
茂田邦明が関わっていた……つまり、白い手帖との関連はあったのか、なかったのか。やはりあの手帖は茂田の復讐リストだったのか? だとしたら一連の不良集団の暴行事件は猟奇的な連続殺人事件にまで発展して大事になるぞ。しかし、どうにも中途半端な不良若者連中が殺人にまで行為を及ぼすものか? そんな度胸まで持ち合わせるとは思わないな。せいぜいストレス発散か暇潰し程度の軽い犯罪行為止まりなんじゃないか。まあ、大人しそうな生徒が同級生の首を切り落とすような世の中だから、人は見た目で判断できないし、むしろマトモそうな奴ほどデンジャラスなタイプが多いから、犯罪の軽重は関係ないかも知れないが……それにしても腰砕けのオチだ。警察が白い手帖の犠牲者とシンクロさせて、今回の一斉検挙を踏まえているとは思えないし。恐らく茂田たちはただの軽犯罪行為を繰り返して来た、よくあるチーマー事件の類いで片付けてしまうだろう。となると、白い手帖の件はどうなるんだ? どう解釈すればイイんだ? 確かに佐藤優三郎の名前はネットでちょいちょいチェックしているが、結局、それに関した記事は見つかっていない。つまり、加藤直人の死亡以降は白い手帖に書かれた人間の死は確認されない。あくまで俺の出来るリサーチ能力の範囲ではあるが……兎に角、いったん落ち着いた、いや、終わったと考えてもイイのだろうか。
数日前に届いたバタフライナイフをバッグの底に常備している御薬袋。バタフライナイフは無駄買いだったか……それにもう白い手帖とも訣別すべき時期なのか? と御薬袋は疑心に駆られつつも、今までの緊張感がほどけて一気に脱力感に襲われた。
白い手帖に書かれた連鎖殺人の終わりの根拠はない。だが、茂田邦明ら不良集団の逮捕の報を聞いて、どうにも御薬袋に神経疲れから、これで一応の区切りにするか、という思惑が強くなってきた。自分を、家族を守る、という使命感はまだ残っているものの、小休止して、これからはしばらく受験勉強に専念するか、という思いも。
詰まる所、御薬袋雅人は自然発生的な感情から安堵を得た、ということ。だからこそ御薬袋は、
「終わったんだろう、多分」
と予備校帰り、帰宅ラッシュの車内で、周りの目も気にせずあえて声大きめに一人言を、宣誓するように吐いた。周囲の人目も気にせずに。
自宅のある駅に到着。薄明かりの夜道を進む御薬袋。涼しい風がいつも以上に心地良く感じる、と御薬袋は不思議な錯覚をする。
いや、錯覚ではないな。本当に気持ち良い。風が、空気が、普段より爽やかに感じる。きっと精神的な束縛から解放されたからであろう。思えば俺は神経質にもヒステリックになりすぎていたのかも知れない。多分、受験というプレッシャーが心底にあって、それが異常にも白い手帖にまつわる偶発的な事件に対して、敏感に反応しすぎていたのだろう。そうだ。本来なら気にするべき事項ではなかったんだ。まあ、それでも今までの白い手帖に関わった、個人的な心理的経験は無駄じゃなかったな。少なくとも家族観みたいなものが、俺にとって見方が変わったような気がする。そう、今さらながらだが、自分自身が成長したみたいな……。
一つの節目として冷静に自己分析する御薬袋。一回り人間が大きくなった、と自己評価しているに近い思いを抱く。つまり、自信が湧いているという状態。それは人として健全な心情。
結局は白い手帖が何だったか、何を意味しているかは分からなかったが、終(つい)まで答えが出なかったブラック・ボックスとして心に留めておこう。
ゲーム・イズ・オーバー。全ては終わった。御薬袋は自身に改めてノーサイド、白い手帖に関する気懸りの終了の再確認を、深呼吸とともにしてみた。
そう、エンディングを告げたと思っていた。大団円を迎えたと感じていた。
だが、御薬袋の脳裏から白革の手帖の存在が完全には拭いきれていなかった。まだ何かが引っかかっていた。自覚的か無自覚的かは分からないが、心の奥底に秘めていたと言ってもおかしくない、どうにも納得しきれない齟齬が。
それは、この白革の手帖をどこかで見た記憶がある、という情緒。
御薬袋は白い手帖を拾った瞬間から僅かながら、既視感にも似た思いを白い手帖には抱いてはいた。それも今考えれば茂田邦明が高校時代、メモ魔で手帖を手放さないでいたから、その思い出との連想で生まれたものだった、と自分では捉えていた。
それならばやはり茂田邦明が一連の事件の犯人の可能性が高い、という判断をいまだに俺は考えているのか?
またしても自分を省察する御薬袋。
いや、違うな。
意外にも自らの問いに即決する御薬袋。だが、即断したとはいえ自らの迷いに解決の糸口を見い出せていた訳ではなかった。ただ、何らかの何か、を漠然と抱いているだけで、正直、うやむやな胸間が御薬袋を覆っていた。しかし、一方で御薬袋はやはり余計な疑念を振り払おうとする。
もうイイ。つまらない怪訝に煩雑な思いを抱くのはただのストレスだ。早く家に帰って落ち着こう……家で落ち着く、か。まさか自宅が居心地の良い場所に成りうるとは、俺自身考えられなかった。予想だにもしてなかった。だけど親父が襲われた一件以来、何となくだが家族がまとまったというか、一家団欒なんて言葉とは程遠い我が家だとは思っていたけど、最近では母も朝食を作るばかりか、俺や親父に弁当をあてがう事を再開し出したし、それがシナジーして家族の会話も増えた感じがする。家庭的には良い雰囲気になりつつあるな。ある意味、例の襲撃事件がキッカケで俺の家はギクシャクしなくなったのかも知れない。
雨降って地固まる。そんな語句を添えながら御薬袋は心の安寧を得ようとした。夜空は雨が降るどころか、満天の星で輝く天井。暗雲一つない。月の光沢が眩い。清々しく御薬袋は歩を進める。
そんな煌く居待月が御薬袋の目に入った時だった。
光沢……新品の特徴。ん? もし、手帖を落としたらどうする? そうしたら新しい手帖を買うよな……普通。
そんな小学生レベルの連想の演算工程が御薬袋の頭によぎった。だが、自分自身が想起した思料とはいえ、あまりにも不意かつ意味不明な考えだったので、それ以上深くは巡らせなかった。既に家の玄関まで着いた事もあり。
御薬袋は鍵を取り出しドアを開けようとした。
「む?」
ドアに鍵はかかっていなかった。普段は防犯上、鍵はしっかりとかけている。
しかし、御薬袋は特に考える事もなしに、普段通りにドアを開け帰宅した。
玄関を上がれば廊下。廊下はトイレと風呂場に挟まれて、廊下の横脇には御薬袋の部屋と両親の寝室につながる二階への階段がある。一階の玄関から見た、数メートル伸びた廊下の先は、居間に続いている。そこには居間と廊下を仕切るドアがある。
今、そのドアが御薬袋の眼前では開いていて、白いワイシャツにグレーのパンツ、所謂、仕事帰り姿の父親が血まみれの包丁を拭きながら、聞こえないくらいの小さな独言を吐いて直立している情態があった。父親のワイシャツは所々赤色に染まっている。そして、父親の足元には母親がうつ伏せになって倒れている。母親は動じている感はなく、顔だけは御薬袋の方を向き、また、目は見開いていて、床一面がやはり父親のワイシャツと同様に朱に色付けされている。
血の海。
御薬袋は理性的に目の前に広がる、一連の紅の液体が滲んでいる光景を、そう分析する。そして、直感的に父親が母親を刺殺した事も落ち着いて判断する。御薬袋に焦った様子はないし、ヒステリックな状態も窺えない。ただ能面のまま突っ立ているだけ。
父親は包丁をタオルで拭きながら、御薬袋の方に顔を向けると、二度見して、
「お、帰っていたのか。お帰り」
と飄々としたいつもと変わらない口調で告げた。御薬袋は一度眉間の辺りを、右手の親指と人差し指でつまみ、顔を俯かせた。
つい先頃見た、親父の黒い手帖は新調していた。つまり、買ったばかりだったはずだ。そして、俺が今持っている白い手帖はどこかで見た記憶があると思っていたが、親父が以前使っていた手帖だったんだ。手帖を無くしたら、新しい手帖を買う……こんな意味不明の思考に引っかかっていたのは、深層心理的にその記憶があったからか。
やはり冷静に理性的に自分の衷心(ちゅうしん)を顧みる。
「親父……」
御薬袋は顔を上げ、まるで裁判所の被告のように、慎重に口を開こうとすると、すぐに御薬袋の父親が被せるように遮り、
「あ、驚かせちゃったかな。まあ、見ての通りお母さんの事をたった今殺しちゃってね。意外と返り血を浴びちゃってさ。もう何回か人を刺してはきたんだけど、やはり刃物で対象人物を殺傷するとなると、かなりの接近を試みるから、どうにも返り血は避けられないんだよね。父さんがアマチュアだからかな。ただ、幾つかの経験はこなしてきたんで、殺し方の手際はかなり良くなったと自分では思ってるんだ。脇腹を刺してから、首の頚動脈をすぐにかっ切る。このパターンが一番ポピュラーだけど、一撃での致死率が高くて、効率も良いんだ。一つ難点なのは脇腹を刺した時点で、その後に刃物がなかなか抜けず、前のめりになって刺した相手が倒れてきて、自分と接触してやはりそれで血が付着してしまうってのもあるけどね」
いつも母親と喋っているトーンと変わらない語り口の父親。平穏で単調で無拍子。だが、普段と違うのは、その澱みなく淡々ではあるが饒舌な様。常々、無口な父親がここまで多弁を弄する姿は、今まで御薬袋は見た事がなかった。
もう何回か人を刺してきた?
先ほど父親が述べた文節の一拍を御薬袋は不意に思い出すと、素早くバッグに手を入れて例の白革の手帖を取り出し、遠目の父親に呈示した。
父親は茂田邦明ら不良グループに壊された眼鏡から買い換えた、新しい黒縁眼鏡のテンプルの部分を指でつまんで、目を細めて御薬袋の方に目を向けると、ほんの一瞬だけ意表を突かれたような表情を見せ、
「うわ、驚いたな。このシチュエーションで驚くのは、君の方だと思っていたのに、逆に私が驚いてしまったよ。まさか君が私の落とした手帖を拾っていたなんて、恐ろしい、いや、面白すぎる偶然だな」
と言葉の内容とは裏腹に、無感情の平たい抑揚で台詞を述べた。
御薬袋は父親の反応に対してはさほど驚嘆する事はなく、むしろこの白い手帖に書かれた真意を聞きたかったので、直ぐ様に手帖に記載され名前を声に出して列挙しようとしたが、その御薬袋の思案を察していたかのように、
「岡井忠幸は私を蔑ろにしたスーツ専門店の店員。実に失礼な態度を客である私にしたので殺した。恐らく私がその時来店したスーツの身なりで私を値踏みして、金のない客と判断したから適当な扱いをしたのだろう、うん、うん。これは失礼千万、許せない事だね。楠美春は道すがら声をかけてきた、ウリ専門のただの売春女子大生だ。組織立った援助交際系のグループじゃなくて個人でやってたらしいんだけど、やたらと金をせびってきてねえ。それを断ったら私の妻に自分との関係を暴露する、と言ったのでとりあえず邪魔になるから殺した。まあ、売春女子大生の顧客の私は一人に過ぎなかったから、特に彼女の人間関係の上で警察の捜査線上には表れず、何のお咎めもなかったけどね。牟田口洋子もある意味、その延長線上の情事関係のトラブルかな。私は個人的性癖として、年増の女に赤ちゃんプレイを求めていたんだ。その際に、昼間のパチスロ屋で虚ろな目でパチンコを打っている中年女をちょうど発見したんだ。それが牟田口洋子。ちょっとナンパしてみたら、すぐに食いついてきてさ。なかなか父さんもモテるだろう、君。少しは見直したかな、はは。まあ、それも牟田口洋子がバツ一で子供もおらず、男日照りで中年女の性欲を持て余していたからかも知れないけど。ただ、こっちは赤ちゃんプレイ専用の、私にとっての性欲処理人間便所でしかなかったのに、牟田口洋子は何を勘違いしたか結婚を迫ってきて、これも面倒だったから殺しちゃった。中年独身女が老後に対して焦っていきなり求婚を迫ってくるのは理解できるけど、僅か出会って二週間でそんな状況に追い込まされるのは、ちょっとねえ。ま、逆にこれも二週間程度の牟田口洋子と付き合いだったから、深い人間関係にはならず特に警察から怪しまれる事もなかったけどね。後は……加藤直人。彼は骨董品の主人なんだ。だいぶ前に一度、丸谷焼の珍しい柄の陶磁器を手に入れたんで、鑑定してもらって買ってもらったんだが、どうやら奴は私を騙して思いっきり買値をぼったくっていたんだよ。そもそも真の丸谷焼ではなく、それを模した贋作の器とか放言した挙句、実は十九世紀の江戸期に仕上がっていた正真正銘の丸谷焼だったんだよねえ。私が無知すぎたのか。ある日、店のショーウィンドウで私が譲った丸谷焼のそれが、恐ろしい程の高値で売られていた光景を見た時はビックリしたよ。まあ、それを知ったのは後の祭り。だけど、そんな事実をたまたま知っちゃったら、やっぱり殺しちゃうよね。そんな道徳に反する非道な行為を、鑑定士という個人的には尊敬している職業の人間がやってしまったら、私の骨董熱も冷めちゃったよ。以来、古美術収集からは手を引いてね。だから私を騙したその行為は死に値したって感じかな。そして、佐藤優三郎か……彼は私と同じ会社で働く同期の社員でね。ああ、私が部長に昇進したって前に言ったかも知れないが、あれは真っ赤な嘘なんだ。騙していてすまなかったね。部長になったのは佐藤君のほう。ただ佐藤君も手練手管で権謀術数を巡らして出世したタマで、やたらと私を貶めるような評価を上司に告げ口して成り上がったんで、だから殺したんだ。やっぱりこれも許せないだろう。人を犠牲にしてキャリア・アップしていくなんて。だけど実を言うと既に半年前から会社から追い出し部屋みたいな所に私は移動させられていて、見えない圧力かけられて暗に自己都合退職を迫られていたんだ。そう、体裁の良い計画的リストラの典型だよね、うんうん。で、ここ半年間は実を言うとハローワークとかに通っていたんだけど……やはりこの歳になると仕事は見つからないもんで。そして、結局、私は会社からのプレッシャーに負けて退職を自ら申し込み、というかそのような行動をさせるように操作され、来月をもってクビになるんだ。三十五年も会社のために身を粉にした結果がこれだからね。最後っ屁に怨み深い佐藤君を殺したんだ。ただ佐藤君を殺すと私とは関係性的に、かなり接近している部分があるからリスクはあるとは思ってたんだけど、さらに追い討ちをかける事がさ……佐藤君の殺人は今日の会社帰りを狙ったんだけど、今回は脇が甘かったね、私の作戦。どうやら目撃者に出くわしちゃってさ。すぐに私は逃げたんだけど、多分これから警察が私の方に動き出してくると思うんだよね。今までそういうミスはしてこなかったんで、ちょっと慢心してしまっていたのかなあ。だから急遽、私の殺人計画がバレる前に、今晩中に全て遂行しようと思って、母さんをついさっき殺してしまったんだ。本来は佐藤君を殺した後は、私が逃走の準備をするためもう少し母さんの殺人は遅くする予定だったんだけど、状況が変わってしまったからね。最近は母さんも甲斐甲斐しく主婦業をし始めて、好感度が上がっていたんだけど、うーん、残念だったよね。あ、勿論、これから君も殺す予定だから。わざわざ自分の身内も手帖に殺人リストとして書き込むのも無粋、というか不要な事だけど、父さんは細かい性格だから、はは。いや、当たり前だけど、君や母さんには恨みや憎しみはないよ。最低限、家族だし。ただ父さんが殺人犯として手配されたら、君らに迷惑かけるだろう。だから気をきかせて君らを片付けようとね。あ、誤解しないでほしいんだけど、私は猟奇殺人の性分が元々あったわけではないからね。さっきも言ったけど半年前に会社の追い出し部屋に移されてから、私は壊れ始めたんだよ。何もない無難な社会人生活を続けられていられれば、私はこんな事をしなくてすんだはずだよ。実際、私が起こした全部の殺人事件はここ半年間の出来事だし。思うに私は凄いストレスを感じていたんだろうな。その反動だよ、一連のコロしは。だけど、この前に不良グループに襲われたじゃないか。ちょっとした心残りとしては、連中を復讐がてらぶち殺したかったな、という気持ちが湧いたりもするんだよね。もう奴らは警察に捕まっちゃって手出し出来ないけど、やっぱり今まで連続殺人してきた名残りか、人を殺すのってけっこう楽しいなって思ってきた自覚もあるんだ、はは。何だかんだ言って、父さんもなかなかの好き者なのかなあ。あ、無論、君を殺した後は、私は必死になって警察から逃げるよ。警察が私を疑い、今後追いかけてくるのは当然だから。けれど私は全身全霊、全精力をかけて逃げ切れるまで、逃げるつもりだから安心してくれよ。ん? ちょっとおかしな言い回しだったかな。これから君を殺すのに、はは」
と流暢にして長舌に諳んじる、否、説法するかの如く語る父親。アクセントのない声振。時折、失笑を加えてはいるものの、それが逆に平坦な父親の呂律において、不気味さを増さしている。
本人は自らの長台詞に違和感や狂気や錯乱を覚えていないのか?
御薬袋は率直に推し量る。と同時に御薬袋が今日まで抱いていた父親像が完全に粉砕した。
この男、完全にイカれてやがる。
目前の父親は深い溜息、というより気持ち良さ気に深呼吸をすると、眼鏡を外し布のレンズ・クリーナーで眼鏡のレンズを御薬袋の存在も気にせず、息を吹きかけながら拭いていた。その余裕ある佇まいは、まるでどこかのサスペンス映画で見た性格破綻異常者の様相を呈していた。
狂人。
御薬袋は自らの父親をそう評価する。
一方で、自分は目前の中年男の息子である、という奇妙にも迷妄にも似た感情を唐突に憶えた。
この男のDNAを俺は悲しいかな、受け継いでいるのか。目前のあの男の毒電波っぷりも、俺の心底の部分で染色されているのか?
父と子の縁(えにし)をこの異常な状況、逸脱した環境(シーン)でやにわに肚裏(とり)に浮かべる御薬袋。
「さて、と」
父親は一言そう呟くと、眼鏡をかけ直し首をコキコキ鳴らしてまわしながら、血まみれの包丁を持って御薬袋の方へとゆっくり向かった。その表情にはゆとりさえ窺える。
後方には白目剥き出しかつ口も半開きで、首から大量出血をして倒れている母親。その姿態はまるで蝋人形のよう。
気色を失っている父母の様子は一緒なのだが、生と死としての享受としては現在、互いは相対的な状況。幾分、その光景に対照的なシュール感を覚えた御薬袋。それと同時に鳥肌が肉体の皮相に走る。
殺される。
直感する御薬袋。恐らく父親は難なく楽に自分を殺せると思っているだろう。硬さなど微塵もなく、まるでリビングで寛ぎながら帰宅後、テレビの夜の天気予報のニュースをリラックスして視ているような、あの表情を見れば分かる。母親を迷う事なく殺した手前、息子を殺す事も何の躊躇もないだろう。御薬袋はそう承る。
奴は俺に抵抗する術はない、と考えているのか。実際、俺は対抗できないのか?
御薬袋は刹那、まな板の上の鯉的な死を覚悟した。だが、考え直す。
いや、ある。
御薬袋は思い出した。バッグの中にバタフライナイフがある事を。
戦える。抗える。殺(や)れる。
御薬袋は内心、武者震いをした。刺激を覚えた。血のたぎりを感じた。そして、自分の病的興奮に自身の父親を投影してみた。やはり俺もアイツと同じ穴のムジナだったのか、と。ただしその感情に絶望感はない。むしろ、絆、すら覚えた。今まで父と子の対話が足りなかった。だからこそ分かり合えなかった。しかし、今、とうとうお互い命懸けの、魂からの、血みどろの、無邪気かつ露骨なほどの、真剣な対話が始まる……御薬袋はほぼほぼ狂乱化した自らのそんな心地を、何ら疑う事なく許容する。
さあ、来い。
牛歩気味に近づいてくる父親。御薬袋は持っていた白革の手帖を床に落として、忙しくバッグに手を忍ばせると、バタフライナイフを探り当て手掴みし、腕を突っ込んだまま臨戦態勢になって気持ちを向上させた。バタフライナイフの存在は父親には報せない。心拍が昇り続ける御薬袋は、逸る思いを抑えきれず、近づいてくる父親に対して、土足のまま廊下に一歩足を上げた。しかし、それ以上は動かずあくまで迎撃体勢。父親は相変わらず無表情のまま徐に御薬袋に寄って行く。
だが、そんなエキセントリックな発奮をしている御薬袋の胸裏(きょうり)とは別に、どうしてか、かつて茂田準のウォークマンで僅かに耳にしたマーヴィン・ゲイのホワッツ・ゴーイン・オンが頭に流れていた。
ホワッツ・ゴーイン・オン。
ホワッツ・ゴーイン・オン。
どうして行かなければならないのか。
マーヴィン・ゲイの魂の叫びが木霊(こだま)する。だが、御薬袋はそのようには聞こえてなかった。いや、心理的には牛耳にそう錯覚を帯びて響いていた。
片や、そう納得してみても、御薬袋個人の底意ではそのようには聴こえなかった。御薬袋の内で流れていた歌詞はこうだった。
どうしてマーヴィン・ゲイは殺された。
誰にマーヴィン・ゲイは殺された。
WHO KILLED……?
迫り来る父親を眼前にして、そんな訳詞のメロディが、御薬袋雅人の心に。
アスファルト上の濁った水に半分浸かった白革の手帖。
カバーが白革といっても薄汚れていて、さらに古びて変色しているので純白とは言い難いが、元は華美な白妙(しろたえ)を基調として高級なツヤ色を施していた面影がある。
御薬袋はそう感じると同時に、どこかで見た記憶があるな? という思いがよぎったため、手帖にまみれる汚濁を気にせず反射的にそれを拾ってしまった。
見た目ほど湿ってはいない。
手帖に触れた瞬間、御薬袋はそう直観したため、手帖の汚れも気にせず、中身を開いてみた。手帖の表面自体はそれほど濡れた感はなかったが、中の紙は水分を含んだ形跡があり、所々にメモがしてあった。だが、それらの文字の多くはインクの滲みになっていて、なかなか解読するのが困難であった。
下世話かつ醜聞的な内容の類いでも書いてないかな、といった気持ちで拾った手帖。言わば小学生時代にエロ本を道端で見つけた感覚。その程度の戯れ気分だったので、御薬袋はパラパラと捲った後、その手帖を投げ捨てる予定だった。これから予備校に通う用事もあるので、そんなに俺も暇じゃない、という思いも認(したた)めつつ。
だが、
「ん?」
手帖のページを繰る御薬袋の指が止まった。そして、立ち留まった。
横書き式の手帖の中身はほとんど内容が読みきれず、せいぜい電車の乗り降りの時刻を載せたような記述、または何らかの待ち合わせの時間を僅かに書き留めている程度で、メモの情報量としては少ない。飛び飛びの空欄や空白が目立つページが多い。
だが、最後のページにだけ人名が横書きの行に縦に並び綴ってあった。
上から下まで七行、つまり、七人ほどの名簿録。その内、上段の二人分の名前は×印が重ねられていた。×印の二人の人名は、岡井忠幸(おかいただゆき)、楠美春(くすのきみはる)と書かれ、そこから下の三人の氏名は牟田口洋子(むたぐちようこ)、加藤直人(かとうなおと)、佐藤優三郎(さとうゆうざぶろう)と記されていた。しかし、御薬袋が注目したのはそこではない。残りの下段の二行の人名である。そこには『御薬袋』の文字が二行、つまり、二人書いてあった。ただ、御薬袋、という名字だけで、名前の方は手帖が雨に濡れていた事もあってか、インクが雨水によって不鮮明になっていて、両方とも判読できなかった。
御薬袋なんて名字の人間はそうそういるもんじゃない。俺か俺の家の誰かを知っている奴が落とした手帖なのか?
御薬袋雅人はそう忖度する。確かに御薬袋という名字は珍しい。そこにたまたま拾った手帖に自分の珍しい名字が書かれてあったなら、それは興味を惹かれると同時に怪訝に思うのは道理でもある。
もしや、何らかの異性との運命の糸では……と御薬袋が妄想したわけではないが、どうにも簡単に手放す事を拒む自分がいて、不衛生ではあるが、まだ汚泥と湿気を帯びた、そのほぼ読解不能な白革の手帖を、予備校教材が入ったショルダーバッグに無造作に詰めておいた。そして、人ごみに溢れる街路を、こんな天気の悪い日にわざわざ外に出てくるなっての一般大衆、という思いを胸に秘めながら、御薬袋は俯き加減に無言のまま予備校へと向かった。
既に生濡れの白い手帖を拾った自らの椿事(ちんじ)に対しての感慨は御薬袋になくなっていた。予備校へ行く足取りがただ重く虚ろなだけ。
御薬袋雅人の大学浪人期間は三年目に入っていた。つまり、予備校通い三年生という事である。中学時代は成績優秀で地元の名門進学高校に推薦入学したものの、高校に入ってからは他の同級生の学習レベルについていけず、すぐにエリート・コースから脱落。自分の学力の限界を知ってからはロクに授業も聴かず、学校自体も親には登校するフリをしてサボるようになってきた。高校で没落した、かつて中学では神童と呼ばれていた天才少年、の典型的な末路。大学推薦は勿論もらえず、現役時代の一般大学入試は、全ての受験校が不合格。
御薬袋の両親は自分の息子の不甲斐なさをまざまざと見せられ、怒り心頭というよりは落胆の度合いがひどかった。少年時代は優秀な子として周りには褒められ、教師連中からは頭脳明晰と称えられた御薬袋雅人。それは両親にとっては自慢の息子だった。特に父親は自身も有名国立大学の出身で、学業に関しては人一倍プライドが高く、息子にもそのような人が敬うような高学歴の出自をもつような存在になってほしかった。
だが、そんな希望は呆気なく断たれ、一年どころか二年浪人生活をおくり、それでも何処の大学も受からず、三年目の予備校生通いを行なっている。
もはや二十歳を越えた御薬袋雅人。いっその事、大学進学を諦め何処かに就職して社会人になれば良いものだが、もはや御薬袋自身も含め両親もグダグダ状態で、そんな新しい岐路に目覚める活力もなく、ただただ惰性で、両親は予備校に何の考えもなしに授業料を出し、御薬袋はロボットのように学校に通っていた。大学合格が目標、というよりはもはや曖昧かつ無目的な生活が日常となり、御薬袋家は特に親子での諍いはないものの、逆にお互いに関心を持たず干渉もなく、暗澹な雰囲気のみが漂っている。家族関係に支障は至ってないが、もはや家族というよりは、ただのゲゼルシャフトに近い血縁共同体となっていた。
一応はその冷めてしまった家庭環境の原因は、自分自身の度重なる受験失敗にある、とは御薬袋雅人は理解していた。そこで三年目にして御薬袋は一計を講じた。御薬袋は理系の学生であったが、ここに来て文系に進路変更をしたのである。文系の授業なら記憶力で何とかなる部分があるから、という単純な理由ではあるが、実際に理系の科目で難儀していた学生が文系に変えてみて、一気に学力がアップしたという話も聞いたので、それを御薬袋も実践してみた。
今の所、御薬袋の文系転向は幾度かの模試の結果を見る限り、悪くはない判断の点数にはかこつけた。それでもまだ三流私立大学の一般入試に合格出来るか、出来ないかの瀬戸際といった状態で、予断が許されるものではなかった。成績的には劇的変化も見られないが、まだ理系の受験勉強をしていた頃よりかはマシか……それが御薬袋雅人の正直な感想だった。
生気のない表情で予備校に到着した御薬袋。空の雲行きはいまだに怪しい。妙に居心地のバツの悪さを感じる。
ここが俺の居場所なんて思いたくないな。
そんな思いを御薬袋は巡らしながら、最近ではサボる事も少なくなった予備校の門をくぐっていった。まずは自習室で復習。一コマ目の授業までには一時間余裕がある。ペットボトルのお茶を傍に置いて、シャープペンで昨日の授業の内容を無造作に白紙の紙に書き込み、頭に叩き入れ直す。アンダーラインが引いてある箇所は熟読し、赤シートを使って単語の暗記反復。僅かな雑談が響いているが、基本的に静寂に包まれている自習室。御薬袋にとっては家での勉強より、予備校での自習の方が効率は良かった。家庭内の居心地の煩わしさに比べれば、自習室での集中力の方が数段上回っていたからだ。
「あ、先輩。おはようございまっす」
そんな鋭意に勉強していた御薬袋の横に、軽薄な口調で挨拶しながら、御薬袋の隣りに一人の若者が座ってきた。片耳にピアス、スキニーパンツにビッグシルエットのカットソーを着こなし、耳にかかるぐらいのストレートの髪は脱色している。チャラさとカジュアルさをその若者は適度に纏っていた。
「よう、茂田か」
茂田準(しげたじゅん)。年齢は十九歳になったばかり。御薬袋よりも年下で浪人一年目。ただ茂田の兄と御薬袋は高校の同級生で、さらに偶然にも茂田の弟の準が大学浪人をして、御薬袋と同じ予備校に入校。お互い顔は知っていたので、その縁あって自然と予備校内でつるむようになった。ちなみに御薬袋の同級生の茂田準の兄は、某有名私立大学の医学部に現役合格した。
「俺も次の授業まで時間があるんで自習室で一勉強ですよ。どうっすか、センター対策とか始めました、先輩?」
慣れ慣れしい言葉遣いの茂田は、茂田の兄のツテもあり、御薬袋を先輩と呼ぶ。
「いや、俺は私立だけしか受けないから、センターはやらない」
「あ、そうでしたっけね」
茂田は肩を小刻みに揺らしながら、ラップを聞いているようなノリで、ナップサックからテキストとノートを取り出した。
一見すると真剣に勉強に励んでいないように見える茂田。浪人しているとはいえ、その茂田のプライベートの態度や姿勢からは、予備校での空き時間の振る舞いは余裕や遊びにすら感じる。
だが、御薬袋は知っている。茂田の兄に対する茂田準の恐ろしいほどの嫉妬心を。
茂田準は現役の時点でW大学という名門私立大学に合格していた。だが、茂田の兄はやはり名門私立大学のK大学の医学部に入学している。それが茂田準は気に食わなかった。茂田準は兄よりも圧倒的に高い偏差値の高い大学に入りたかった。表には見せないが茂田準は実は内心、兄に対して異常な対抗心を燃やしている、という事を御薬袋は茂田準との雑談する節々から察していた。勉強が出来る兄弟同士ゆえの水面下の競争か、と自分とはまた違った家庭状況の居づらさに置かれている、茂田準の隠れたルサンチマンを御薬袋は汲み取っていた。
それなので当初、茂田準はW大学に進学して授業を受けていたが、その兄へのライバル心からさらなる高学歴を求め、仮面浪人をして国立の超名門のT大学を受けるため予備校へ通い始める。だが、大学生と予備校生の二足の草鞋は受験勉強の妨げになると茂田準は考え、W大学は半年にして中途退学をして予備校通いに専念をする。W大学の入学費や授業料を既に完済した後に。さらに予備校の費用もT大学特別授業コースなので多額。どれだけ金があんだよ、と御薬袋は思うが、茂田家はいわゆる土地成金で裕福な一家である事は知っているので、それぐらいの資金を調達かつ手前の息子に投資する事は困難なものではないだろうとも忖度していた。
こんな如何にも不真面目な感じの今風の若者が、実は賢い頭の持ち主なんだもんな。最近の流行りではないがギャップってのが凄い。
実際、さっきまで軽佻浮薄な茂田準の態度だったが、いざ自習を始めたら目線はテキストに集中して無言、ノートには尋常じゃないスピードで事細かに書き込みをしている。その集中力と気迫には隣席する御薬袋も辟易する。茂田準に触発されてではないが、御薬袋も黙々と自習を再開した。
しばらくして御薬袋は机の上を片付け、荷物をまとめると、
「俺はそろそろ授業だから行くわ」
と言って立ち上がった。茂田は御薬袋とは目線を合わさず、テキストに視線を落としたまま、うぃっす、と呟いて返した。御薬袋は足早に自習室を出ると、まだ授業まで時間に余裕があったため、廊下の壁面に備え付けしてあった自販機で缶コーヒーを買って、その場で一服がてら飲み始めた。
茂田か……茂田邦(くに)明(あき)。高校時代は憂さ晴らしにアイツをしょっちゅうイジメていたのに、立場逆転というか、出世したもんだ。皮肉だな、クソ。
御薬袋はコーヒーを一気飲みすると、茂田準の兄であり、同級生だった茂田の兄の下の名前をいまだに覚えている事に、自嘲気味かつ妙な苛立ちを感じた。
*
「ようやく部長の内定をもらったよ」
夕飯の時間、御薬袋の父親が珍しく食事中に口を開いた。
「え? 本当ですか」
御薬袋の母親は一瞬、お新香にいっていた箸を止め、隣りに座るセルロイド素材のウェリントン型の黒縁眼鏡を、風呂場以外では常にかけ続ける父の顔を見た。片や、四角いテーブル、対面に席をとる御薬袋雅人は特に気にする事なく食事を進めていた。
母親はやや上気しながら口角を緩めて、
「てっきり年功序列的とかは関係ないと私は思っていたから、同期とはいえ年下の佐藤さんが昇進すると思っていたんですけどね。だって佐藤さんはT大学出身で中小企業診断士の資格も持っていて、順調に出世コースに乗っているとか、お父さん、言っていたじゃありませんか」
「私も佐藤君が部長の椅子に選ばれると思っていたよ。だけど、実際の人事ではやはり会社の貢献度というか、一応は今までの具体性のある論功行賞的なものを残してきた方に、会社は重きをおいたのかな。まあ、積み重ねた実績の結果が評価されたのだろう」
元より口数の少ない父が、しかも夕飯の最中に話している事に、御薬袋は違和感を覚えたが、普段通り、たった三人家族の間の会話にも加わらず、自身は父親の出世話に興味を持たないまま、黙々と切干大根を口に運んでいた。
「兎に角、おめでとうございます、あなた。やっぱり人間、T大学卒業とかの肩書きだけじゃ駄目なんですねえ。そう言えば雅人は最近どうなの、予備校の方は?」
御薬袋は内心、まただ、と毒づく。どこか学歴、学業的な話のキッカケがあると、少ない機会とばかりに、御薬袋自身の偏差値状況を窺ってくる。干渉している事が少ない母とはいえ、時折、ハッパをかけるというより嫌味的な意味で自分の成績について尋ねられる事に、御薬袋は不快な感情を抱いていた。
一方で父親とは完全に御薬袋について関心を持たず、一週間は一言も話をしていないという状況もしばしばあった。
「そこそこ順調だよ」
無味乾燥に御薬袋は答える。しかし、そんな無気力な息子の態度も推し量らずに母は質問を続ける。
「そう。今年から文系志望に変えたから、逆に分からない事だらけじゃないかって心配していたけど、その辺は大丈夫?」
「大丈夫だよ」
「ちゃんと理解している?」
「文系の方が記憶モノばかりだから、執拗に反復して暗記すればイイだけだから心配ないよ」
御薬袋はやや語気を強めて答えた。すると母も空気を察してか、
「そう、なら良いけど」
と言ってそれ以上の追及を止めた。御薬袋の父親は母親と息子のやり取りには一瞥もくれず、ずっと機械的にご飯と味噌汁を交互に口に入れていた。
御薬袋は食事を終えると、すぐに二階の自分の部屋へ行き、テキストやノートを机に並べた。そして、BGM代わりに椅子の背にあるテレビをつけて、集中力も散漫な受験勉強を始めた。
ペンを進めればすぐに頬杖をつき、テキストに目を通していれば、いつの間にか後ろを向いて瞳の焦点も合わさずテレビを視聴。受験勉強の仕方で言えば、予備校での学習姿勢の方が断然集中していた。一方、家での勉強になると極端にその学習意欲はなくなる。御薬袋の、所謂、宅勉は家庭というあまりにも痛烈なリアルが近すぎるので、どうにも勉強に気持ちが向けられなかった。御薬袋にとって予備校はある種の現実逃避の場であり、憩いの場とは言い過ぎだが、少なくとも家にいるよりは心地良く快適な勉強場所ではあった。
図書館で勉強する類いと変わらないが、ただでさえ辛辣な受験勉強をする分には、嫌々ながらもせめて身の回りの環境ぐらいは多少の快適さを御薬袋は求める。
その自分にとって環境の悪い実家での勉強中、やはり身に入る訳はなく、しばらく無意識状態のテレビ鑑賞が続く。
俺の知らない所で社会は動いているんだなあ、と他人事のように……実際に他人事なのだが、目に映るニュース番組を黙って御薬袋は見ている。別にニュースが見たい訳ではない。テレビのスイッチをつけてみたら、たまたまニュースがやっていたので、そのまま惰性で見ているに過ぎない。
〈今日、未明、東京I区に住む主婦でパート従業員の牟田口洋子さん四十八歳が自宅で倒れているのを、学校から帰宅した牟田口さんの長男が発見。病院に通報したものの既に死亡が確認され、死因は頚動脈の殺傷と腹部への刺傷と見られており、警察は殺人事件とみて捜査を始めた模様です……〉
そぞろに見ていたテレビのニュースだが、御薬袋はこの事件の現場が自分の住んでいる東京I区だったので、多少なり耳に響いた。
意外と近くで起こった事件なんだな。物騒な話だ、まったく。
そう御薬袋が思ったと同時に、
「牟田口?」
と一言漏らした。この少し変わった名字には覚えがある、と。
「あ……」
御薬袋は呟くと、予備校で使っているバッグから、今日徒然に拾った白革の手帖を取り出し、中身を捲った。
「やっぱり」
その独言には牟田口洋子の名前が、白い手帖に記されている事に理由があった。×印の二人の氏名のすぐ下に牟田口洋子の名がある。
「この×印ってのは、つまり……」
ここで御薬袋の脳裏に安易な考えが浮かんでくる。この×印とは消された人間を意味しているのではないか? と。
「となると、これで三つ目の×が刻み込まれて、三人の死者が出た、という事になるな。もしかして殺し屋の標的ノートでも拾っちまったのかな」
まさかね、とは思いつつ、御薬袋は一人薄ら笑いを見せたが、この名簿されている最後の二段には自分の名字である、御薬袋、が混ざっている事に対しては、一抹ではあるが不安と疑惑が入り交じった複雑な気持ちが交錯していた。
*
電車で予備校に通っている御薬袋。
今、乗車している時間は夕方。上りの電車なので今の時間は混雑しておらず、座席は空席ばかり。だが、御薬袋はあえてつり革片手に直立情態。また目線は古文の単語帳に落としている。古文の単語記憶は電車の通勤最中のみが勉強時間と自身に定めていたので、横目逸らさず単語帳を見開いていた。
それにしても文系に転向してから、我ながら予想以上に真面目に勉強しているな。
電車のドアの窓ガラスに映った自分に不意に気づき、御薬袋はふと己の奮闘ぶりに自賛の念を催した。事実、理系浪人時代の成績とは違って、そこそこの偏差値の伸びが結果として出ているのが、御薬袋の勉強するモチベーションになっていた。
今年は、いや、来年の受験は確実に落とせない。
勉学意欲のなかった御薬袋も、さすがに受験の時期が近づくにつれ、成績の向上やこれ以上浪人はしたくない、という強迫観念も相まって受験生としての自覚が出てきた。
「ん?」
空席が目立つ車内の中、ウォークマンを音漏れさせて聞きながら、肩を小刻みに揺らして座っている男の顔が、御薬袋の目に入った。
茂田じゃないか。
御薬袋がそこから見える茂田準の姿は、目を瞑って頭をフリフリ。隣りに乗客が座っていれば迷惑千万だが、茂田の周りには誰も座っていなかったので、特に問題となる動きではなかった。
茂田は実家住まいで、家は御薬袋と同じI区なので、同じ電車で鉢合わせになるのもしばしば。御薬袋は話しかけようと思ったが、どうせウォークマンで聴いている音楽は茂田好みのソウル・ミュージック。このタイミングで話しかけたら、これイイっすよ、と言いながらソウルなどに興味のない御薬袋に、茂田が強引にソウル音楽を推し進めてきて、ウザったくなるのは自明の理。御薬袋は予備校のある駅に到着するまでは、茂田に話しかけない事にした。だが、いざ駅に到着しても、御薬袋は茂田に声をかけようとしなかった。まだウォークマンを聴いているようだし、何だがお喋りしながら予備校に行くのも煩わしい……という御薬袋の思いもあったが、それよりも一つ頭に引っかかる事があった。
そう言えば、昨日の牟田口とかいう人が殺された事件って、茂田の家の近くじゃなかったか?
そんな事を不意に思った瞬間、御薬袋の脳裏に妙な連想が浮かんだ。茂田という存在、反抗、手帖、メモ魔……一考すると何の関連性が乏しいワード。実際に御薬袋自身もそれらの言葉から具体的なイメージを喚起出来ない。
とりあえず予備校に着いたら、茂田に家の近くで殺人事件があっただろ? と話を振ってみるか。
御薬袋はそれ以上深く考える事なく、予備校まで歩を進める事にした。
予備校に到着した御薬袋。本日の受講は夜の六時からと遅め。基本的に時間に余裕をもって予備校に通っている御薬袋は、授業が始まるまで自習室で予習や復習をするスタイルをしている。家で勉強している以上に、予備校の自習室で机に向かっている方が、物覚え的にも精神衛生上的にも効率が良いからだ。そのやり方は茂田準も同じで、御薬袋とは受講コースが違っており、授業スケジュールも合わないものの、多々自習室では出会っている。やはり茂田も自習室で勉強していた。さすがに自習室では茂田もウォークマンをはずしている。ちょうど茂田の隣りの席も空いていたので、御薬袋は自然の流れで茂田の横に座り挨拶がてら小声で会話を始めた。
「おいっす」
「あ、先輩。お疲れっす」
「授業はこれからだろ?」
「はい。先輩も夕方始まりですか」
「ああ。なるべくなら午前中にびっしり受講科目で埋めて、午後は自習室にこもって集中して勉強をしまくるってのが一番良いペースなんだけど、夕方から予備校だと何かダレるよなあ。家じゃあんま勉強はかどらないし。たまに予備校始まるまで、近所の図書館とかでも勉強したりするけど、何か小汚いおっさんばっかで意外と席が埋まっていたりして、スポーツ新聞片手に声は小さいけど、喋りあってんのよ。結構その囁きが気になって勉強しずらいんだわ。定年退職組の老人どものサロンと化しているよ、最近の図書館は」
「はは、そうかも知れないっすね。何せ高齢化社会のど真ん中にいますからね、俺たち」
「あ、そうだ。いきなり話は変わるんだけどさ、昨日、お前ん家の近くで殺人事件なんて起こってなかった?」
御薬袋自身、さり気ない話のフリから、茂田に自分が持つ白い手帖に書いてあった、「牟田口洋子」と同名の名前を持つ犠牲者の殺人事件の云々を聞いてやったぞ、と我ながらの話術に一人悦に浸って、茂田に尋ねたつもりだった。一方の茂田はそんな御薬袋の自我称賛の念とは別に、ただただノートに書き込みをしながら、御薬袋とは視線も合わさず、また、さほどその質問に興味を示す様子もなく、
「殺人事件? そんなのあったかなあ」
と取り付く態度は見せず、素っ気なく答えた。御薬袋はその反応を見て若干肩を落とし、
「そうか」
「でも何で突然殺人事件の話になるんすか?」
「いや、深い意味はないよ。ただお前ん家の方で、そんな事件があったっていうニュースを、昨日たまたま聞いたからさ。だって人殺しだぜ。そんなのが近所で起こったら話題になるだろ。じゃあ、それほどお前ん家の近くで起こった事件でもなかったのかなあ」
「そうじゃないんすか。俺はてっきり先輩の知り合いが殺されたのかと思いましたよ」
「え?」
意表を突かれた表情になった御薬袋。ここで会話は途切れ、茂田はさらに黙々と自習に熱を入れ直していた。片や御薬袋はゆっくりとバッグから勉強道具を取り出し、釈然としない様子で自習を始めようとした。その時、机に出したテキストと一緒に例の白革の手帖が混ざっていた。
もちろん知り合い……ではない。牟田口洋子なんて女は聞いた事もない。だが、その見知らぬ女の名前とともにこの手帖には、御薬袋、という名字が一緒に羅列されている。そして、その牟田口洋子という手帖に書かれた女がどうやら殺されたらしい、というだけの話。いや、ただ同名なだけで、この手帖に書かれている女とは、別人の牟田口洋子という女が犠牲者だったのかも知れない。むしろその可能性の方が高いか……だが、何だろう、この妙な胸騒ぎは。変な不安感が襲っている。御薬袋、という名字はこの辺り、というか全国的にも少ない。この手帖、ページが雨水で汚れて下の名前まで確認できないが、それにしたって、御薬袋、という名字は確認できる。しかもお二人様ときてやがる。二つの、御薬袋、という名字に続く名前は、俺か親父かお袋か、それとも全くの別人か。それは分からない。と言うよりも、そもそもこの手帖に書かれている人名の規則性、というか内容やら意味が分からないし、分かるわけがない。そうだ、考えた所で何の答えは浮かばないんだ。
自習室の机に放り出された白い手帖を再確認して、熟慮の末、いっその事ゴミ箱に棄ててしまおうかと御薬袋は考えたが、その気持ちは思い留めて、再び薄汚れた白革の手帖をバッグに戻した。
さて集中して勉強をするか、と御薬袋は内心意気込んでみたが、後に始まる授業までに頭にこびりついた心許なさを拭う事が出来るだろうか? と一方では自らに疑いを持っていた。
*
誰かの死に対して敏感になる。そのような感情を人が持っているにしても、何ら自分とは関係のない他人にまで気を配るほど、御薬袋雅人は心のキャパシティーが広いわけではない。遠く離れた発展途上国の恵まれない子供たちが、病気に苦しむコマーシャルを見ても、ボランティアでワクチン代を出すような行動に移すような人格者ではない。だが、その誰かの死、赤の他人である死でも、それが殺人という形で自分の近辺で起こったならば、考え方も変わってくる。しかもその犠牲者が、果たして自らと全く縁のない人間かどうかと捉えてみて、ある種の共通項を持つ曖昧な関連性の間柄なら、放ってはおけない感情が募ってくる。
○月×日未明。会社員・加藤直人氏・六十一歳。I区の路上にて刺殺される。通り魔の犯行と見て警察は捜査中。
この事件の殺人事件現場は、御薬袋の住むI区でも自分の家のかなり近辺のため、すぐに御薬袋の耳にも入った。そして、実際に御薬袋は昨日に起きたその事件の現場へ、予備校あがりの夕方に駆けつけてみた。徒歩で行ける距離。既に犯行現場は諸々の処理が終わっており、普通の道路として機能し、警官や野次馬の姿など一切見られなかったが、御薬袋は一人電柱にもたれて佇んでいた。
牟田口洋子の死以来、殺人事件のニュースが耳に入ると、多少なりとも反応するようになった御薬袋雅人。そして、今回その殺人事件のネタがかなり自分に近くまで迫ってきた、とも解釈していた。
無関係の人間の死? いや、違う。縁もゆかりもない人間の死ではあるが、無関係とは言い難い。
御薬袋は頭の中で反芻する。
加藤直人。
彼の名は件(くだん)の白革の手帖に刻まれている一人。その事を御薬袋は覚えていた。そして、牟田口洋子の死から矢継ぎ早に、その名簿に記された加藤直人が死んだ。恐らく、殺人事件と間違う事がない状況下で。
「これじゃまるで、この手帖がリアル・デスノートじゃないか」
ユーモア含意の余裕をもった一人言のつもりだったが、内心、いよいよもって危機感を持ち始めた御薬袋。一方で、馬鹿馬鹿しい、と一蹴してしまう感情も渦巻いている。所謂、分かりやすい程の頭の混乱具合。ただ白い手帖に載っている名前の人物が、ここ最近連続して殺されている事実は真実。
警察にこの手帖を持っていこうか? この手帖に名前の載っている人たちが殺されていってるって。いや、ただのミステリー好きのアホが暇つぶしがてら、からかいに来てるだけだと思われて門前払いか。こんなモノ幾らでも面白半分に捏造できるし、せいぜいサスペンス・ドラマの見過ぎ野郎扱いだな。しかし、御薬袋、という名前が書いてあるのがどうにも引っかかる。もし、仮にこの手帖に書いてある、御薬袋、が俺の名前だとしたら……いや、それ以前にそんなに俺は人に殺されるほど憎まれるような事をしたか? 正直、思いつかないぞ。あ、だが、御薬袋、という名字は分かっていても、名前の方は字が読めなかったから、父親か母親が対象かも知れない。それにしたってあんな平々凡々とした両親が、殺されるほど人に憎まれているとは思えないが……。
御薬袋は電柱に寄り顎をさすりながら、探偵然として推理小説まがいに模索する。
待てよ。手帖に書いてあった牟田口洋子の名前の上に、二人ほど×印が付いた人名があったな。彼らは果たして本当に死んでいるのか?
×印がふってあった人間の名前を、勝手に死人としてカウントしていた事に、御薬袋自身は気づいた。
もしこの二人が存命していたら、何か空振った感じになるぞ。しかし、どうやって調べたらイイものか?
御薬袋はしばらくその場で思案した後、
「ネット、か」
ポツリと呟くと、早足で家に向かった。
調べ方は至極単純。ポータルサイトの検索窓にまずは手帖に記載されている、×印が重なっている人名である、岡井忠幸もしくは楠美春を入力する。そして、スペースを空けて第二検索ワードとして、殺人、と打ち込み、そして、最後に再びスペースを空けて第三検索ワードとして、事件、と入力。つまり、『人名 殺人 事件』という形でネットを使い検索するという方法。
実際にそれらのワードを打ち込んでみて、ほとんど関連性のないキーワードばかり出てきたのなら、それはそれでそれ以上の調べようがない。それ以上の術は一般市民の御薬袋雅人の調査スキルの範疇ではないし、他の方法も考えつかない。事実、御薬袋自身、帰宅後すぐにパソコンに向かってそのような検索を試みようとしたが、たいした成果は出ないだろうし、また岡井忠幸や楠美春の安否についてとことん追及しようとは思っていなかった。それこそ最近起きた殺人事件を、図書館にまでわざわざ行って、近況の事件簿が掲載されている様々な新聞を読破して、それらを体系的に網羅してまで調べようなんて露程もなく。ただ、万が一や一応の考えのみが働いて、なんちゃって刑事気分で調査がてら、特に何らかの期待も成果もなしに、とりあえず検索して様子を見るか、とその程度の軽い意識の持ちよう。
だが、そんな遊び半分の行為が、意外なリサーチ結果をもたらした。
岡井忠幸、楠美春とそれぞれ記して、殺人、事件とさらに検索ワードを入力すると、ヒット件数はさほど多くはないものの、それら同姓同名の殺人事件のトピックスが簡単に見つかった。しかも、それらの事件はネットの記事を見る限り、ここ半年間の最近の出来事。それに事件の犠牲者の順番も時系列で岡井忠幸、楠美春という順番。
「同じI区で起きた殺人事件ではないが、すぐ隣りの区の殺人事件だ。近辺である事は変わりないし、何よりも直近の出来事だ。こいつはマジで……」
ブツクサと独言を吐き、御薬袋はネット・サーフィンしながら、出来る限りこれらの事件に関連したニュースを探してみる。するとI区で先頃殺された牟田口洋子の名前も表れた。
「何なに、それぞれの犠牲者はほぼ殺人と断定されていて、その死因は殴殺や刺殺など画一性はないが、加害者は通り魔的な殺人犯という傾向が強く、一連の事件は同一犯とも予想される……やはり、警察の方でも殺人現場が近隣かつ短いスパンで起きてる殺人事件だから、色々と捜査の動きはしているんだな」
今まで受験勉強ばかりで近所の状況など見知らずにいた御薬袋だったが、近い範囲でこれだけ最近殺人事件が連続して起きていた事が分かって、改めて脅威を感じ始めた。それは自らが所持する白い手帖があるから、なお一層。
「意外と表面化している事件なんだな。これならあの白い手帖を警察に持って行っても、それなりに信憑性が出来そうなものだから、一応、参考品というか証拠品的な感じで預かってくれるかな」
ふと、御薬袋は警察へ手渡す事ぐらいは可能ではないか、と考えたが、よくよく思い直してみると例の白い手帖を渡した所で自分を保護してくれる訳ではない。いつ起こるか分からない、しかも確証性のないむしろ想像的な推理で、自らが犠牲者のリストになっている、という主張だけでは説得力がなさすぎる。
「仮に警察にあの手帖を見せた所で、多少なりとも関心を示したとしても、せいぜい被害者との関連性、つまりは、まだ殺されていない、えーと、佐藤優三郎と名字だけの御薬袋とを含めて、そして、今までの殺人事件の犠牲者も考えて包括的にちょいと調べてくれるにすぎないか」
声音は一人言の割にははっきりとした口調に変わってきた。一方で、警察に相談した所で、それが警察の警護による、自分の安全の確保につながるとは判断できないという結果を導いてもいた。
そもそも警察に駆け込んだ所で自分の保身を促す事が現時点では成立しない。そう、全ては俺の妄想でしかないかも知れないし、本当にたまたま恐ろしい偶然が重なって、この白い手帖に一連の殺人事件の犠牲者が列挙してあったに過ぎないとの可能性もある。それこそ手帖に書いてある人物と殺人事件の犠牲者は同姓同名なだけで、全くの別人であるとの奇遇も考えられる。そして、その手帖にこれまた、たまたま俺の名字が書き込んであるから、俺は過度に反応しているに過ぎない、とも捉えられる。
御薬袋は冷静に考え直して自らを納得させようとした。全ては自分が作り出した虚構、フィクションであり、三流推理小説なみの想像の産物にすぎない、と。
だが、
「この手帖に書かれた名前のリストの奴らの共通の関連性はないのか? この、御薬袋、という限りなく俺っぽい名字の人間も含めて」
眉間に皺を寄せて懐疑の念を無意識に口で出す。幾ら頭の中で奇妙な偶然の重なり、と理解してみても払拭しきれない、殺人の標的のリストではないかという思い。
根本的に自分と同じ、御薬袋、なんて珍しい名字が書かれている手帖を俺が拾う事自体が、ある意味出来すぎた偶然なのに。
神が与えた運命。
UFOや占い事など信じない御薬袋は、徐々に超常的な現象の真実味を覚え始めた。オカルトじみた今回の事件、事象に対して。ただこのまま奇怪な椿事(ちんじ)に拘泥していては、受験勉強の差支えになると思い、不承々々にテキストとノートを取り出して、無理に目をそれらに向けてペンを走らせた。
だが、その一見すると快活な筆さばきとは裏腹に、頭の中では身の回りに忍び寄っている感のある「死」という観念に集中していた。
*
御薬袋の近所で起こった加藤直人の殺人事件も、起首(きしゅ)は御薬袋家の近隣住人の間でも話題になったが、一週間も経たないうちに話題の遡上にはならなくなっていた。御薬袋自身もその後の事件展開は関心を示さないようにして、加藤直人個人の情報も骨董屋の主人であったぐらいしか聞いてなかった。白い手帖に名指しされている他の人間についても、率先的に個人情報を調べようとしている姿勢を見せない。無論、御薬袋が持っている白い手帖に書かれた犠牲者との関連性から紐解いて警察が捜査をしているかどうかなども知らないし、岡井忠幸や楠美春や牟田口洋子に連なる殺人事件の流れの、同一犯疑惑の絡みの可能性で調べているかなども知る由もない。ワイドショーやニュースの動向も分からない。
兎に角、御薬袋は一連の奇行からは一線を逸れ、受験勉強に集中していたかった。だが、加藤直人の殺人事件以来、地味ながら模試の成績が下がっているのが現状だった。不安や焦りが、受験以外の思慮として脳内に巡る状況を、御薬袋は打破したかった。だから何とか勉強に没頭するため、予備校の早朝特別受験コースの科目に参加するようになった。偏差値アップが目的ではあるが、その方が煩わしい事を考えずにいられる、というのが本音でもあった。
何せ夢にも手帖の夢が出てくるのだからな。
その内容は自分が何者かにメッタ刺しにされ殺される夢。早起きは辛いが、寝ている方が余程悪夢に苛まれる。半ば無理矢理の勉強方法によって御薬袋は、白い手帖の問題から離れようと試みたのである。
今朝はその早朝特別授業コースの日なので、御薬袋はショルダーバッグを背負って、朝食をとらないまま外へ出ようとした。するとリビングを通る最中に、空の湯呑み茶碗にハンカチと財布と黒革の手帖が、テーブルの上に規則的に並んであるのに気づいた。トイレの方で物音がする。
親父が用を足しているだろうから、多分、出勤前に忘れ物がないように、予め用意した行動だろう。空の湯呑みは出勤前に熱々の緑茶を一杯ってヤツで、すぐに飲むため準備済みって事か。俺が中学入る前からこのパターンは変わってないな。というかこの湯呑みまだ使っていたのかよ。何だか昔、どっかの古物市で買った年代物の品だとガキの頃に吹聴された気がするけど……そういや最近はあんまアンティークみたいな物を買ってきている感じはしないな。古物好きだったはずなのに。母親に無駄買いを注意でもされたか。
御薬袋は推し量る。と同時に、まだ父子親しく育んでいた思い出がよぎってしまった。だが、それを懐かしむ自分を御薬袋はすぐに否定し、
「相変わらず性格の細かい親父だ」
と仏頂面で一人吐き捨てるように呟いた。
兎に角、久しぶりに自分の登校時間と父親の出勤時間が重なり、前から続いている父親のルーティン化した行為に改めて、変わってないな、という印象をもった御薬袋。一方、変わった事もあるけど、とも思う。
父親も家で朝食をとらずに出勤し、駅ナカの立ち食い蕎麦屋で食事する。それは朝食をとらず、というより朝食を作ってくれるはずの母親が寝ているからだ。時刻は朝の七半時ぐらい。別段、早い出勤時間ではないのだが、いつの間にか母親は朝に起きる事なく、自分の夫の出社前の後ろ姿を見送らなくなっていた。高校時代までは普通に母親が朝食を作り、自分と父親を笑顔で玄関まで見送りに来ていた。だが、御薬袋が大学受験を失敗した頃から、母親は朝の雑事に対して疎かになってきた。
一昔前なら昼の弁当も作ってくれたものだが。
御薬袋は、我が家では家族という共同体意識すらも微妙に崩れかけている、という意識は感じていて、自分が両親の期待した青写真を破ってしまったのが原因なのかも知れない、と受け止めている部分もあった。だが、そんなのは大人の都合で、子供の自分には関係ない、という考えの方が余程強く、単に熟年夫婦のよくある冷え冷えとした環境だろ、と解釈していた。特に表面化するほど深刻な夫婦間の問題ではなく、ごくごく一般的な夫婦の、いや、家族全体の倦怠期だろう、と。実際、父親はそんな怠慢になった母親に対して諌めるような言動を発した姿を御薬袋は見た事がない。結局、物事はスムーズに進んでいるんだ、というのが御薬袋の本懐だった。
だが、テーブルに置かれた、まだ光沢の残る黒い手帖を見た時、御薬袋は本当にコトが順調に進んでいるのか? と不快感にも似た感情が湧いた。
白革の手帖を思い出させやがる。
御薬袋にとって受験勉強の妨げになる白い手帖の存在。これ以上は深く関わり合いたくない、という思い。だが、その反面、御薬袋はその白い手帖を手放していないし、むしろ予備校の勉強道具と一緒にショルダーバッグに入れっぱなしのまま、常に持ち歩いている。奇妙な矛盾。しかし、御薬袋にはその自覚はない。
トイレの方で水洗の流れる音がした。御薬袋は父親と会うのをきらい、テーブルに置かれた小物を横目に足早に外へと向かった。あえて父親との会話を避ける。それが自分と父親、ひいては家族間の違和と不和の一因である事だけは自覚していた。
早朝特別授業コースとはいえ、時間帯としては朝の出勤ラッシュにと重なる。御薬袋は満員電車に揉まれながら予備校のある駅に辿り着いた。静かな朝の遊歩道、とは無縁な仕事場に向かう人込み忙しい公道をすり抜けながら、御薬袋は駅前の街道を行く。予備校近く、社会人で混雑した道から離れると、人もまばら、ウォークマンを聞きながら肩を小刻み揺らしている長身の男の後ろ姿が、御薬袋の目に映った。
茂田だな。相変わらずのウォークマンを聞きながらの街歩きスタイルか。
茂田の受けているT大学特別授業コースは、早朝の専門講義も含まれているので、御薬袋のように早朝特別授業コースを別途としておらず、通常の受講として茂田は予備校入校当初から通っているので、朝早くの登校は珍しいものではなかった。だが、御薬袋が早朝特別授業コースを受けてから、登校中に茂田と合流するのは初めてだった。
普段なら予備校の通学途中に、ウォークマン姿の茂田を見つけたなら、現在聴いているであろう御薬袋の興味のないソウル音楽について、無遠慮に語ってくるので話しかけないはずだが、何故か御薬袋は今ばかりは茂田に声をかけたい衝動に駆られた。いや、茂田云々というより、誰かと話して、自分では認識しようとしては拒む何らかの矛盾した不安を解消したいため御薬袋は人の談話を望んでいた。
御薬袋は茂田の背後に近づいて肩を叩いて話しかけた。
「オハ」
突然に背後から肩を叩かれ、驚いた様子を見せた茂田だったが、後ろ振り向き様に御薬袋だと分かるとウォークマンのイヤホンを片方はずして、
「あ、オハっす、先輩。にしても早すぎないっすか、予備校来んの」
「いや、俺さ、早朝特別嬢業コースを受ける事にしてさ、だから朝一で授業なわけ」
「へえ、気合い入ってますね。あ、そんな事よりこれ聴いてくださいよ。マーヴィン・ゲイのホワッツ・ゴーイン・オンって曲なんですけど、超サイコーっすよ」
御薬袋の予想通り茂田は今自分が聴いているウォークマンの歌を御薬袋に薦めてきた。御薬袋もその行為は予定調和の織り込み済みだったので、茂田のウォークマンの片方のイヤホンを耳にはめた。
「やっぱソウル系の音楽か。好きだな、相変わらず」
「まあ、そうっすね。ソウル系っていうかモータウンのミュージックは俺のフィーリングに合ってますね。兎に角、マーヴィン・ゲイはイイっすよ。意外と若くして死んでしまったのが残念ですけど」
「へえ、事故か病気?」
「いや、殺されたんじゃなかったかな? えーと、確か……」
「……殺された」
御薬袋の顔面がにわかに蒼白になった。そんな御薬袋の気色に気づかず茂田は軽いノリの口調で話を続ける。
「別にミュージシャンが殺されるなんて、海外のアーティストでは珍しい事じゃないっすよ。ビートルズのジョン・レノンだって熱烈なファンに殺されたし、昔のロック・バンドでマウンテンっていうグループがいたんすけど、そのヴォーカリストのフェリックス……何とかって歌手は自分の奥さんにぶち殺されましたしね。それにローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズだって事故か他殺かっていう話が持ち上がって、今でも都市伝説的に……」
茂田が器用に喋っている内容は既に御薬袋の頭の中には入ってなかった。
殺された。
その言葉が御薬袋の心頭を支配して、それは白い手帖の殺人リストを連想させ、忘れかけていた自らに迫る死の危機感を再び抱かせた。
そうか。誰かに殺されるなんて特別な人間にも等しく起こり、別段、一般人とか有名人の区分けもなく、兎に角、ランダムに何処でも発生するような、無作為の事象にすぎない。殺人事件なんて珍しい事でなく、日常的に勃発していて、そいつは日々ニュースでも流れていて、決して非日常的なものではない。それが俺に関わって来るなんてのは、信じられない事と思っていたけど、考えてみればそれは確率的論な事であって、宝くじだって理由なんてなく大当たりするから、俺に死という災いが降りかかるのも決定論的観点からみれば、全くもって有り得る事で……。
完全に御薬袋の脳内は混沌としていた。傍目から見れば普通に歩行をしているが、瞳は一点を集中して瞬きはしておらず、血の気を引いた顔をしている。
「って、聞いてますか、先輩?」
「へ?」
隣りを歩いていた茂田が、御薬袋に軽く肘打ちして口調強めに問い、御薬袋は我に返った。茂田のツッコミがなく歩き続けていれば、御薬袋は自意識がなかったので転んでいた可能性があった、と御薬袋自身は忖度し、内心、茂田に感謝した
「スマン。あんま聞いてなかった」
「だから、最近ウチのアニキが妙に行動が怪しいって言ってたんですよ」
「アニキ? お前ってヤーさんの舎弟だったのか。つーか、それってお前の実のお兄ちゃんの邦明の事か?」
「そうっすよ。誰がヤクザの兄貴の話をしますか」
いつの間にか殺されたミュージシャンの話から、茂田準の兄であり御薬袋の高校の同級生であった茂田邦明の話題になっていた事など、御薬袋は露も知らずにいた。御薬袋は周りの状況も理解せずに、それほど自らに近しいと思える殺意に一心不乱になって徒歩を進めた事に、改めてやはり白い手帖の件は脳裏にこびり付いているのだな、と理解した。御薬袋自身、認めたくはないが。
御薬袋は仕切り直す風に服の袖を捲くって茂田に問い直した。
「で、その兄ちゃんの行動が怪しいってどんなもんなのよ?」
「んじゃ、また繰り返し言いますけど、最近ウチのアニキが夜な夜な家を出て、やたらと朝帰りが多いんすよ、カノジョもいないのに。それに言動とかも遅れてきた反抗期なのかどうかは分からないんすけど、やたら荒っぽくなってきたし。んで、さらに言うと、結構、近頃は近所でちょっとした暴力沙汰の事件が多発していて、絶滅危惧種と思っていたカラーギャングやらチーマーやらの、若いバカどもの類いがのさばり始めているとかで。今さら感はあるけどそういうガラの悪いのが周りに増えていて、ウチの両親は過保護だからアニキも何か絡んでるんじゃってないかって、余計な心配してるんすよね。俺的には杞憂だとは思いますけど。アニキは本来ビビりな性格だし」
「はは、遅れてきた反抗期ってのは合ってるかもな。アイツの高校時代は典型的な優等生タイプで、真面目の塊みたいな奴だったから、大学入って慣れてきたら少しは羽をのばしてみる的な感じになってきたんじゃないのか。それこそ大学デビューを図って自分のキャラをチェンジして……」
御薬袋は茂田の話を軽く聞き流して言葉を返しているつもりだったが、不意に茂田準の兄である茂田邦明についての高校時代の記憶が頭をよぎった。
そういえばアイツ、茂田邦明は高校時代から成績優秀な奴だったけど、常にフトコロに手帖を入れてたな。勉強に関しての備忘録として、何かいつもメモっていた気がする。そういう細かいメモ魔的な行為の積み重ねが、俺にとっては薄気味悪くて癪(しゃく)に障り、よくからかっていたけど、一度だけ無理矢理その手帖を取り上げようとした時、えらく俺を睨んで拒んだ事があった。あのいつも弱腰のヘラヘラした茂田が歯向かった的な、珍しい一面だった思い出がある。
そんな瞬間が高校時代にあった……と御薬袋は顧みたが、その時、奇妙な悪寒を背に感じた。
メモ? 手帖? いや、白い手帖?
「まさか……」
無自覚の御薬袋の独言。既にウォークマンをポケットにしまって、御薬袋の隣りを歩いていた茂田準が訝しく思い、
「どうかしたんすか、先輩?」
「あ? いや、何でもない。ただアイツ、えーと、邦明の奴もイイ歳こいてんだから、色々と遊びたいんだろ。アイツ、今まで勉強一筋だったから、大学入って緊張感がなくなって、少し今は自分に対して緩くなっている時期っていうか、年頃なんだよ」
「ですかね。まあ、俺もそんな程度の事だと思うんすけど、ウチの親が甘々で温室育ちにアニキの事をかまってきたから過度に心配してるのがウザいんすよね。ま、それが反面教師になって俺はアニキとは逆に、両親にはある程度反抗して、緩々に今まで暮らしてきたつもりなんすけど」
確かに兄弟でもこれだけ性格が違うのは珍しい、とは御薬袋も感じていた。ただ兄弟の共通項として、二人共勉強が出来る、という事が御薬袋にとって苛立ちを覚えていたが。だが、それ以上に今の御薬袋の頭の中で巡っているのは、にわかに浮かんだ茂田邦明と白革の手帖との奇異な感じさえある連鎖。
いや、たかだか手帖というつながりで、茂田邦明を思い出す、というよりあの白い手帖の持ち主が実は茂田だと推測するって、それは、つまり、一連の殺人事件の犯人が茂田邦明であるって俺が疑惑を持っている事か?
どうにも居心地の悪い御薬袋の自問自答。御薬袋自身、おかしな精神状況に置かれていると自覚し留保しつつも、さらに思案を深める。
そんな事は有り得ないだろ。こんなアホみたいな偶然の二乗みたいな事は有り得ない。第一にこの手帖に書かれている連中と茂田の関係なんて俺が知るわけないし、それ以上に何で俺がそんな深読みをする必要が……ああ、御薬袋、という俺らしき名字が記されている事は茂田との関わりを連想させるか。それでも、もしここに書かれている、御薬袋、という名字が俺だと前提とするならばの話だ。たかだかそれだけなのにどうして俺は、茂田と手帖の関連性を探ろうとする……む? 手帖に書かれている人間が殺されている。それは犯人から何らかの恨みを買っているからだとする。それは単純に怨まれている、憎まれているの類いの情緒的な面でターゲットとされているなら、俺は……。
イジメ。
その三文字が唐突に御薬袋の頭に浮かんだ。
バカな。それこそ愚の真骨頂の考え方だ。俺が茂田邦明を高校時代にイジメていた、いや、イジメなんて程のレベルじゃない。奴を軽い使いっ走りぐらいに扱っていただけの話で、そんな大事なもんじゃない。だったら何か? 例の白い手帖に書かれている奴らは茂田が憎んでいた連中で、それこそ秘密裏に茂田が個人的に処刑していっているって事か? そんなのアホすぎる想像だ。B級アクション映画の復讐モノでもあるまいし。馬鹿馬鹿しい。
現実離れした思慮に、自分に対して当然のようにツッコミを、胸襟、入れる御薬袋。だが、なおもその空想にアンビバレンスにも似た疑念を膨らませていく。
いや、こういうイジメじみた出来事の類いは、加害者側は軽く思っているが、被害を受けた側はとことん根に持っているという話はよく聞く。俺と茂田の記憶の中では温度差が違うのかも知れない。だからと言って殺される程に憎まれるようなイジメ、というかトラウマになるほどの行為を俺は茂田邦明にしたものか? それこそ登校拒否なんて奴はしてないし、教室でもイジメ問題としてとり上げられた事なんてないし、俺個人だって担任に茂田をイジメてないか? なんて呼び出しをくらった事もない。ほぼ水面下で片付いていた、簡単な使いっ走りや軽い小突き程度ですんでいた話だ。少なくとも俺の中では……待てよ? あの白い手帖には、御薬袋、という名字が二つ並んでいたな。それ以上は汚れて読めなかったが、どうして、御薬袋、という名字が二つある必要がある。もしあの手帖が茂田の殺しのリストだと仮定しても……まさか、俺だけを憎んで殺すのではなく、家族全員もろともぶち殺そうとしているというのか? それほど俺への憎悪が募っていたというのか?
御薬袋の歩速が徐々に遅くなり、隣りを歩いていた茂田準との距離が広がってきた。
「何してんすか、先輩。遅いっすよ」
「え? ああ、ワリぃ」
御薬袋はどうにも意識が散漫になっている自分に、再度内心に喝を入れると足速に茂田に近づいていった。だが、茂田の後ろ姿を見ていると、御薬袋は思わぬ想像をした。
茂田準もグルなんじゃないか?
そんな虚妄に近い考えを。
まさか、茂田の弟もグルになってるんじゃないか。俺の動向を逐一アニキに報告してる、みたいな。いや、だが、茂田兄弟の仲の悪さ、というか茂田準の兄への嫉妬心はかなりあると俺は睨んでいたから、そんな兄弟協力的な仲良しプレイはしないはず。待て? その兄弟仲の探りも俺の勝手な想像にすぎないといえば、それはそうだ。実は仲良し兄弟だったなんてオチも有りうる。それで茂田邦明が弟を俺と同じ予備校に送り込んで、俺の殺人計画の一旦を担いでいる……じゃないとこの必然は、いや、今まで起きた数々の偶然の重なりはおかしすぎる。俺が白い手帖を拾う事以外は全て想定内の出来事で……。
御薬袋が茂田準の横に並んだ時は、茂田は御薬袋の拡大解釈気味の疑心を他所に、ラップ口調で一人勝手に体を揺らして小声で歌っていた。その姿を見て御薬袋は少しずつ平静さを取り戻していった。こんなチャラチャラした軽々しい男が殺人なんかに関与するものか、と。
被害妄想が肥大化しすぎているぞ、俺。それとも想像力がたくましいとでも言うものか。変な強迫観念に襲われているから、やたらとおかしな雑事を考えてしまうんだ。もう一度落ち着いて整理してみろ。白い手帖に書かれてある名前の連中が殺されていっているのは、結局はやはりただの奇妙な偶然で、そのリストの中に、御薬袋、という一般的には珍しい俺の名字が入っているから、やたら神経質になっているだけ。それに、いや、それこそ茂田兄弟の俺への暗殺計画の空想はひどすぎる。ここまで想像を広げてしまったら、もはや俺が心身耗弱の異常者になっちまうよ。
御薬袋が自律的に考えた、それが当然の従容とした脳内の結果だった。現実的に考えていけば、ないし論理的に考えていけば、そのような答えを出すのは、必然的な帰結であった。そして、胸三寸、もう何も気にするな、という言葉を添えて。
だが、なかなかそう簡単に拭いきれないのが、人の不安の情緒。
そうだ。よく外見が一般的な奴ほど、やる事が突発的で極端なパターンが多い。茂田の隠されたサイコパスの気質、そう、高校時代に奴の手帖を奪おうとした時に見せた鋭い眼光。手帖に対するあの執着。もしやあの時点でネチネチと自分をイジメた人間のリストやその復讐計画を書き込んでいたのかも知れない。だったらあの白い手帖に記入されている人名の連中は、何らかの形で茂田にとって恨みのある連中で、それで茂田が復讐のシリアル・キラーと化したとでも言うのか? 確かに殺人に至る程度なんて個人差がある。どんな些細な事でも当時者にとって温度差は違う。だから茂田邦明の怒りの沸点が異常に低かったら、さらにそれを溜め込んでいる時間が長かったら、つまり、わだかまりがずっと解消されず、むしろ時間をかけて醸造されていったら、いずれガスが溜まり爆発する。頭がイっちまう。
狂気には基準などない。御薬袋は改めて熟慮して果たして背筋に脂汗が流れた気がした。慄(おのの)きを知る。顔が青ざめていく感がある。目眩すら覚える。恐怖や不安の再認識。しかし、何とか御薬袋は平静を装い歩き続けた。
予備校に到着した二人。
「じゃあ、俺はすぐに授業なんで」
と茂田は言うと御薬袋と別れ自分の受講するクラスへと向かった。一方、御薬袋は普段から余裕をもって予備校に通っているので、意識高い系OLが出社前に北欧風カフェに寄るような、習慣化した勉強ブレイク・タイムを過ごすため、自習室へと向かった。
自習室のドアを開ける御薬袋。その部屋は独特な静けさと、閉じられた空間にして、それ故に透徹感が澄み渡っている。御薬袋にとってはやはり一番勉強がしやすい環境が自習室。実際に御薬袋もそれを自認しているから、最近では予備校に行って時間があったら率先して自習室へと通っている。先ほどまで抱いていた恐怖感や不安感も、自習室に入ると和らいできた。
予備校自体には、やはり安住の感がないのは否めないが、自習室は別物だな。いや、意外と俺の意識自体が変化して、予備校自体も包摂して良さを覚えてきているのかも知れない。受験にかける本気度が増してきた証拠かも。言わば俺って意識高い系予備校生。
御薬袋はポジティブな心構えで早速、予備校登校専用のショルダーバッグから勉強道具一式を出そうとした。だが、バッグの底に手を入れた瞬間、しなった感じの冊子が手に触れた。確認しないでも御薬袋には分かる。あの手帖だ、と。いまだに棄てきれない例の白い手帖だ、と。
御薬袋は気にせず勉強道具だけを取り出し、無言でテキストを見ながら、ノートに書き込みをしていく。しかし、頭の中では筆速く書いている、文章や英単語が一向に入ってこない。
まだふっ切れていないな……本当に受験勉強に差支えが出てきている、クソ!
表情には出さないが、内心、苛立ちを抱えたまま無理に頭の中に、様々な英文の語訳、古典の文法、歴史の年号を乱雑にインプットしようとするが、ペンを握るその手には、僅かながらも先ほど触れた手帖のたわわな不快感が残っていた。
*
遂に脅威が自らに事実として降りかかってきた、と御薬袋は思った。
受験勉強の妨げになると考え、白い手帖の件はなるべく忘れていようと試んでいた御薬袋の思いとは他所に、御薬袋雅人、いや、御薬袋の父親が暴行被害にあった。暴行後、すぐに病院に搬送され生命に別状はなかったが、帰宅の夜中、突然、暗がりで暴漢に襲われたとのこと。即、警察と病院の両方から連絡があり、着の身着のまま御薬袋の母は病院に向かい、たまたま予備校から帰宅して家にいた御薬袋も母親に同行した。それは父親の傷の程度が心配というよりは、恐れていた事が遂に始まったのか? というような白い手帖の殺人リストとしての信憑性を再確認する意味の方が強かった。
親父が襲われた。こいつはもはや俺の妄想ではない。確実にあの白い手帖通りに殺人が実行されている。今までは現実逃避してきたが、もうこの一連の事件を対岸の火事のように扱っては駄目だ。警察はアテになるか? いや、本気になんてならないだろう。やはり俺が自衛をしなければ。そう、母親だって危険だ。御薬袋、という名字は家族三人に当てはまるからな。
御薬袋は母親とタクシーで病院に向かっている最中、一人熟考する。御薬袋の母親は祈るような姿勢で額に両手をあて、目をつむっている。
しかし、気になる点が多少ある。確か、御薬袋、の名字の上には佐藤優三郎という名前があった。俺の知らないうちに佐藤優三郎という人間は殺されていたのか? それとも別に手帖に書いてある段通りの順番で殺人を行う事に拘泥はなかったのか? 兎に角、最近はネットで白い手帖の面子の名前をリサーチしていなかったから分からないが、佐藤優三郎の安否が気になるな。それは家に帰ったらまた佐藤優三郎、殺人、事件といったキーワードで調べてみるか。ただもう一つ気になる点、というかある意味盲点だったのは、どうやら親父は複数犯に襲われたという事だ。確かに通り魔的な犯行が多かったから単独犯と思っていたが、組織だったサイコパス集団ってのもなくもない。同一犯に見せかけて各々好きなように人を殺していく。今のネット社会ならそんな危ない嗜好をもった奴らを集めるのは簡単だ。狂気を共有したい仲間意識ってヤツか。一緒に自殺する連中も出会い系カキコミで募る世の中だ。それこそ一緒に犯罪しましょう、なんて茶飯事なもの。ただどうして俺の親父の時は集団リンチ的な犯行だったんだ? それとも今までの一連の殺人自体が一人と見せかけていただけで、その実は警察を翻弄するため集団的に計画的に行っていたのか。それに親父は直ぐに逃げ出せたらしいし、どうも詰めの甘さが気になる。何らかの御薬袋家に対しての威嚇行為? だとしたら相当に俺たちに対する恨みは根深いぞ。だが、そんなに御薬袋一家、家族全員単位で人様に迷惑をかけた事がるか? それも命を狙われるレベルの事を……何にせよ、親父が誰か犯人の顔でも目撃していたら、また状況は変わってくるかも知れないが。いや、どうせ暗がりで、しかも急に襲われたのだから、犯人の顔なんて判別してる余裕はなかっただろう。
タクシー内、母親が横で俯いたまま小刻みに震えているのとは対称的に、御薬袋は腕を組みじっとフロント・ガラスを見据え、今までの経緯の顧慮や今後の予想、また、様々な疑いに対して自問自答して、病院に到着するまでの時間、冷静に無駄なく思案に暮れていた。
病院に到着すると御薬袋の母は足速に治療を終えた父親の病室へ向かい、御薬袋も母の後背を追うようにやや駆け足で同行した。病室に着いて父親の姿を確認すると、御薬袋の母親は心配そうな表情ですぐに駆け寄り、御薬袋自身は父親には近づかず、病室のドア付近で佇んで待機していた。
「心配かけたね、すまん。だが、たいしたケガじゃなかったから」
御薬袋の父親がそう言うと、御薬袋の母親は目に薄らと涙を浮かべた。
父親は相部屋の病室で看護師一人を伴いベッドで半身を起こしており、見た程度には額と右腕に包帯を巻かれ、頬に多少の痣があり、量の多い出血の感はなかった。所謂、軽傷ぐらいの状態で、実際に骨や内臓も異常はないとのこと。ただし眼鏡は壊されてしまい、それが口惜しい、と父親は冗談めいて話した。看護師の一連の説明を聞くと、父親の意識もしっかりとしているので、即日退院。その後は体調を鑑みつつ、通院するとの予定になった。
「それじゃあ、家の方に早速帰りますか」
母親が父親の背中をさすりながら話しかけると、
「いや、一通り治療が終わって特に無理がないなら、警察の方で事情聴取をとりたいから署の方に来てくれって言われてるから、長引かせるのもなんなんでこのまま警察署に行こうと思っているんだ。会社の方は明日にでも連絡するけど」
「そうなの。じゃあ、私も念のために一緒に行くわね」
そんな御薬袋の両親のやり取りを他所に、御薬袋雅人は科学者が実験を観察するような目線で、俯き加減考えていた。
そして、
「じゃあ、俺は先に帰るから」
と淡白に一言残すと、両親の反応も気にせず、病室からさっさと離れ、タクシーを拾い、一人自宅へと帰ってしまった。
それからの御薬袋の行動は計画的で俊敏であった。
まずはパソコンを開き、「佐藤優三郎 殺人 事件」とワード入力して検索。だが、それにヒットした内容のトピックでは、白い手帖に書かれている佐藤優三郎に係る情報とは、御薬袋が推測できないモノばかりであった。
その流れから今度はネット・ショッピングのサイトに御薬袋はアクセス。
自衛のためには武器が必要だ。できれば拳銃でも手に入れたいものだが、そんな物を手に入れるルートは知らないからな。スタンガンが良いか? いや、もしイザという時に電池が切れていたら危ない。やはり常用としては刃物関係、バタフライナイフとかにしとくか。道端で警官に職質とかされたら困るけど。
カチカチと御薬袋の脳内アルゴリズムが動いた結果、即決してバタフライナイフを購入。品は二,三日で届くとのこと。
「後は俺の意識の問題だな。毎日を油断するな、だ」
椅子に深く腰掛けてようやく一休憩の状態になって呟く御薬袋。既に御薬袋の気構えは好戦的な状態。決着、という意識が高まっていた。不思議と恐怖感はない。むしろ自らの手を持って白い手帖に関わる、一連の殺人事件の終止符を打ってやる、という思いが募っていた。
その思いが芽生えたのは先ほどの両親の姿にあった、とは御薬袋自身は認めたくはなかったが、父親が怪我をして甲斐甲斐しく寄り添う母親の態度を病院で見て、御薬袋は冷め切っていたと思っていた両親の夫婦間だったが、その様が切実な仲睦まじい夫婦の情景に感じてしまった。
御薬袋家はもはや底冷えした家族だと決め付けていた御薬袋雅人。だが、まだ家庭の温もり、灯火は残っていた。御薬袋も意外ではあったが、そう思う自分に心地良さを感じていた。
だからこそ、俺が守る。俺自身と俺の両親を。
慮外の御薬袋の思案。しかし、御薬袋雅人はそのひょんな決意をもってして、家族を守る責任と義務を自らに課す。
そこにはたただの受験生であった御薬袋の面影はなかった。
*
勇み足気味。御薬袋家を守る、という使命感を急遽に抱いた御薬袋雅人だったが、御薬袋の父親が急襲され一ヶ月も経たないうちに、事件はあっさりと解決した。I区で最近多発していた暴行事件をきっかけに、若者グレーゾーン集団を一斉検挙。その連中がどうやら御薬袋の父親をオヤジ狩りよろしく襲ったとのこと。別件でホームレスを狙った暴力行為、老人を狙った金品強奪、夜道で若い女性を狙った婦女暴行などなど。大学生やフリーターが中心になった、その不良集団は以前から警察もマークしていて、呆気なく連中は足が出てしまい逮捕された。
さらに御薬袋が驚いた事は、そのグループの中に茂田邦明が入っていた事だった。まさか……と思い、茂田邦明の関連はないと判断していた御薬袋だったが、茂田準がまるで愉快な出来事のように、
「ウチのアニキも犯人グループの一員だったんですよ。まったく、本当にウチのアニキって馬鹿だったんだ。ウケる、ウケる。ウチの親は顔面蒼白ですけどね。個人的には我がアニキながら傾(かぶ)きすぎだよ。ギャッハッハ! これでアニキの人生終わったな。多分、大学からもこれから何らかの処分が出ると思うし。ヒャッハッハッ!」
と身内の恥を包み隠す事なく、むしろ自分の兄の醜聞を、これみよがしに自身にとってはご満悦の失敗談として御薬袋に暴露した。
茂田邦明が関わっていた……つまり、白い手帖との関連はあったのか、なかったのか。やはりあの手帖は茂田の復讐リストだったのか? だとしたら一連の不良集団の暴行事件は猟奇的な連続殺人事件にまで発展して大事になるぞ。しかし、どうにも中途半端な不良若者連中が殺人にまで行為を及ぼすものか? そんな度胸まで持ち合わせるとは思わないな。せいぜいストレス発散か暇潰し程度の軽い犯罪行為止まりなんじゃないか。まあ、大人しそうな生徒が同級生の首を切り落とすような世の中だから、人は見た目で判断できないし、むしろマトモそうな奴ほどデンジャラスなタイプが多いから、犯罪の軽重は関係ないかも知れないが……それにしても腰砕けのオチだ。警察が白い手帖の犠牲者とシンクロさせて、今回の一斉検挙を踏まえているとは思えないし。恐らく茂田たちはただの軽犯罪行為を繰り返して来た、よくあるチーマー事件の類いで片付けてしまうだろう。となると、白い手帖の件はどうなるんだ? どう解釈すればイイんだ? 確かに佐藤優三郎の名前はネットでちょいちょいチェックしているが、結局、それに関した記事は見つかっていない。つまり、加藤直人の死亡以降は白い手帖に書かれた人間の死は確認されない。あくまで俺の出来るリサーチ能力の範囲ではあるが……兎に角、いったん落ち着いた、いや、終わったと考えてもイイのだろうか。
数日前に届いたバタフライナイフをバッグの底に常備している御薬袋。バタフライナイフは無駄買いだったか……それにもう白い手帖とも訣別すべき時期なのか? と御薬袋は疑心に駆られつつも、今までの緊張感がほどけて一気に脱力感に襲われた。
白い手帖に書かれた連鎖殺人の終わりの根拠はない。だが、茂田邦明ら不良集団の逮捕の報を聞いて、どうにも御薬袋に神経疲れから、これで一応の区切りにするか、という思惑が強くなってきた。自分を、家族を守る、という使命感はまだ残っているものの、小休止して、これからはしばらく受験勉強に専念するか、という思いも。
詰まる所、御薬袋雅人は自然発生的な感情から安堵を得た、ということ。だからこそ御薬袋は、
「終わったんだろう、多分」
と予備校帰り、帰宅ラッシュの車内で、周りの目も気にせずあえて声大きめに一人言を、宣誓するように吐いた。周囲の人目も気にせずに。
自宅のある駅に到着。薄明かりの夜道を進む御薬袋。涼しい風がいつも以上に心地良く感じる、と御薬袋は不思議な錯覚をする。
いや、錯覚ではないな。本当に気持ち良い。風が、空気が、普段より爽やかに感じる。きっと精神的な束縛から解放されたからであろう。思えば俺は神経質にもヒステリックになりすぎていたのかも知れない。多分、受験というプレッシャーが心底にあって、それが異常にも白い手帖にまつわる偶発的な事件に対して、敏感に反応しすぎていたのだろう。そうだ。本来なら気にするべき事項ではなかったんだ。まあ、それでも今までの白い手帖に関わった、個人的な心理的経験は無駄じゃなかったな。少なくとも家族観みたいなものが、俺にとって見方が変わったような気がする。そう、今さらながらだが、自分自身が成長したみたいな……。
一つの節目として冷静に自己分析する御薬袋。一回り人間が大きくなった、と自己評価しているに近い思いを抱く。つまり、自信が湧いているという状態。それは人として健全な心情。
結局は白い手帖が何だったか、何を意味しているかは分からなかったが、終(つい)まで答えが出なかったブラック・ボックスとして心に留めておこう。
ゲーム・イズ・オーバー。全ては終わった。御薬袋は自身に改めてノーサイド、白い手帖に関する気懸りの終了の再確認を、深呼吸とともにしてみた。
そう、エンディングを告げたと思っていた。大団円を迎えたと感じていた。
だが、御薬袋の脳裏から白革の手帖の存在が完全には拭いきれていなかった。まだ何かが引っかかっていた。自覚的か無自覚的かは分からないが、心の奥底に秘めていたと言ってもおかしくない、どうにも納得しきれない齟齬が。
それは、この白革の手帖をどこかで見た記憶がある、という情緒。
御薬袋は白い手帖を拾った瞬間から僅かながら、既視感にも似た思いを白い手帖には抱いてはいた。それも今考えれば茂田邦明が高校時代、メモ魔で手帖を手放さないでいたから、その思い出との連想で生まれたものだった、と自分では捉えていた。
それならばやはり茂田邦明が一連の事件の犯人の可能性が高い、という判断をいまだに俺は考えているのか?
またしても自分を省察する御薬袋。
いや、違うな。
意外にも自らの問いに即決する御薬袋。だが、即断したとはいえ自らの迷いに解決の糸口を見い出せていた訳ではなかった。ただ、何らかの何か、を漠然と抱いているだけで、正直、うやむやな胸間が御薬袋を覆っていた。しかし、一方で御薬袋はやはり余計な疑念を振り払おうとする。
もうイイ。つまらない怪訝に煩雑な思いを抱くのはただのストレスだ。早く家に帰って落ち着こう……家で落ち着く、か。まさか自宅が居心地の良い場所に成りうるとは、俺自身考えられなかった。予想だにもしてなかった。だけど親父が襲われた一件以来、何となくだが家族がまとまったというか、一家団欒なんて言葉とは程遠い我が家だとは思っていたけど、最近では母も朝食を作るばかりか、俺や親父に弁当をあてがう事を再開し出したし、それがシナジーして家族の会話も増えた感じがする。家庭的には良い雰囲気になりつつあるな。ある意味、例の襲撃事件がキッカケで俺の家はギクシャクしなくなったのかも知れない。
雨降って地固まる。そんな語句を添えながら御薬袋は心の安寧を得ようとした。夜空は雨が降るどころか、満天の星で輝く天井。暗雲一つない。月の光沢が眩い。清々しく御薬袋は歩を進める。
そんな煌く居待月が御薬袋の目に入った時だった。
光沢……新品の特徴。ん? もし、手帖を落としたらどうする? そうしたら新しい手帖を買うよな……普通。
そんな小学生レベルの連想の演算工程が御薬袋の頭によぎった。だが、自分自身が想起した思料とはいえ、あまりにも不意かつ意味不明な考えだったので、それ以上深くは巡らせなかった。既に家の玄関まで着いた事もあり。
御薬袋は鍵を取り出しドアを開けようとした。
「む?」
ドアに鍵はかかっていなかった。普段は防犯上、鍵はしっかりとかけている。
しかし、御薬袋は特に考える事もなしに、普段通りにドアを開け帰宅した。
玄関を上がれば廊下。廊下はトイレと風呂場に挟まれて、廊下の横脇には御薬袋の部屋と両親の寝室につながる二階への階段がある。一階の玄関から見た、数メートル伸びた廊下の先は、居間に続いている。そこには居間と廊下を仕切るドアがある。
今、そのドアが御薬袋の眼前では開いていて、白いワイシャツにグレーのパンツ、所謂、仕事帰り姿の父親が血まみれの包丁を拭きながら、聞こえないくらいの小さな独言を吐いて直立している情態があった。父親のワイシャツは所々赤色に染まっている。そして、父親の足元には母親がうつ伏せになって倒れている。母親は動じている感はなく、顔だけは御薬袋の方を向き、また、目は見開いていて、床一面がやはり父親のワイシャツと同様に朱に色付けされている。
血の海。
御薬袋は理性的に目の前に広がる、一連の紅の液体が滲んでいる光景を、そう分析する。そして、直感的に父親が母親を刺殺した事も落ち着いて判断する。御薬袋に焦った様子はないし、ヒステリックな状態も窺えない。ただ能面のまま突っ立ているだけ。
父親は包丁をタオルで拭きながら、御薬袋の方に顔を向けると、二度見して、
「お、帰っていたのか。お帰り」
と飄々としたいつもと変わらない口調で告げた。御薬袋は一度眉間の辺りを、右手の親指と人差し指でつまみ、顔を俯かせた。
つい先頃見た、親父の黒い手帖は新調していた。つまり、買ったばかりだったはずだ。そして、俺が今持っている白い手帖はどこかで見た記憶があると思っていたが、親父が以前使っていた手帖だったんだ。手帖を無くしたら、新しい手帖を買う……こんな意味不明の思考に引っかかっていたのは、深層心理的にその記憶があったからか。
やはり冷静に理性的に自分の衷心(ちゅうしん)を顧みる。
「親父……」
御薬袋は顔を上げ、まるで裁判所の被告のように、慎重に口を開こうとすると、すぐに御薬袋の父親が被せるように遮り、
「あ、驚かせちゃったかな。まあ、見ての通りお母さんの事をたった今殺しちゃってね。意外と返り血を浴びちゃってさ。もう何回か人を刺してはきたんだけど、やはり刃物で対象人物を殺傷するとなると、かなりの接近を試みるから、どうにも返り血は避けられないんだよね。父さんがアマチュアだからかな。ただ、幾つかの経験はこなしてきたんで、殺し方の手際はかなり良くなったと自分では思ってるんだ。脇腹を刺してから、首の頚動脈をすぐにかっ切る。このパターンが一番ポピュラーだけど、一撃での致死率が高くて、効率も良いんだ。一つ難点なのは脇腹を刺した時点で、その後に刃物がなかなか抜けず、前のめりになって刺した相手が倒れてきて、自分と接触してやはりそれで血が付着してしまうってのもあるけどね」
いつも母親と喋っているトーンと変わらない語り口の父親。平穏で単調で無拍子。だが、普段と違うのは、その澱みなく淡々ではあるが饒舌な様。常々、無口な父親がここまで多弁を弄する姿は、今まで御薬袋は見た事がなかった。
もう何回か人を刺してきた?
先ほど父親が述べた文節の一拍を御薬袋は不意に思い出すと、素早くバッグに手を入れて例の白革の手帖を取り出し、遠目の父親に呈示した。
父親は茂田邦明ら不良グループに壊された眼鏡から買い換えた、新しい黒縁眼鏡のテンプルの部分を指でつまんで、目を細めて御薬袋の方に目を向けると、ほんの一瞬だけ意表を突かれたような表情を見せ、
「うわ、驚いたな。このシチュエーションで驚くのは、君の方だと思っていたのに、逆に私が驚いてしまったよ。まさか君が私の落とした手帖を拾っていたなんて、恐ろしい、いや、面白すぎる偶然だな」
と言葉の内容とは裏腹に、無感情の平たい抑揚で台詞を述べた。
御薬袋は父親の反応に対してはさほど驚嘆する事はなく、むしろこの白い手帖に書かれた真意を聞きたかったので、直ぐ様に手帖に記載され名前を声に出して列挙しようとしたが、その御薬袋の思案を察していたかのように、
「岡井忠幸は私を蔑ろにしたスーツ専門店の店員。実に失礼な態度を客である私にしたので殺した。恐らく私がその時来店したスーツの身なりで私を値踏みして、金のない客と判断したから適当な扱いをしたのだろう、うん、うん。これは失礼千万、許せない事だね。楠美春は道すがら声をかけてきた、ウリ専門のただの売春女子大生だ。組織立った援助交際系のグループじゃなくて個人でやってたらしいんだけど、やたらと金をせびってきてねえ。それを断ったら私の妻に自分との関係を暴露する、と言ったのでとりあえず邪魔になるから殺した。まあ、売春女子大生の顧客の私は一人に過ぎなかったから、特に彼女の人間関係の上で警察の捜査線上には表れず、何のお咎めもなかったけどね。牟田口洋子もある意味、その延長線上の情事関係のトラブルかな。私は個人的性癖として、年増の女に赤ちゃんプレイを求めていたんだ。その際に、昼間のパチスロ屋で虚ろな目でパチンコを打っている中年女をちょうど発見したんだ。それが牟田口洋子。ちょっとナンパしてみたら、すぐに食いついてきてさ。なかなか父さんもモテるだろう、君。少しは見直したかな、はは。まあ、それも牟田口洋子がバツ一で子供もおらず、男日照りで中年女の性欲を持て余していたからかも知れないけど。ただ、こっちは赤ちゃんプレイ専用の、私にとっての性欲処理人間便所でしかなかったのに、牟田口洋子は何を勘違いしたか結婚を迫ってきて、これも面倒だったから殺しちゃった。中年独身女が老後に対して焦っていきなり求婚を迫ってくるのは理解できるけど、僅か出会って二週間でそんな状況に追い込まされるのは、ちょっとねえ。ま、逆にこれも二週間程度の牟田口洋子と付き合いだったから、深い人間関係にはならず特に警察から怪しまれる事もなかったけどね。後は……加藤直人。彼は骨董品の主人なんだ。だいぶ前に一度、丸谷焼の珍しい柄の陶磁器を手に入れたんで、鑑定してもらって買ってもらったんだが、どうやら奴は私を騙して思いっきり買値をぼったくっていたんだよ。そもそも真の丸谷焼ではなく、それを模した贋作の器とか放言した挙句、実は十九世紀の江戸期に仕上がっていた正真正銘の丸谷焼だったんだよねえ。私が無知すぎたのか。ある日、店のショーウィンドウで私が譲った丸谷焼のそれが、恐ろしい程の高値で売られていた光景を見た時はビックリしたよ。まあ、それを知ったのは後の祭り。だけど、そんな事実をたまたま知っちゃったら、やっぱり殺しちゃうよね。そんな道徳に反する非道な行為を、鑑定士という個人的には尊敬している職業の人間がやってしまったら、私の骨董熱も冷めちゃったよ。以来、古美術収集からは手を引いてね。だから私を騙したその行為は死に値したって感じかな。そして、佐藤優三郎か……彼は私と同じ会社で働く同期の社員でね。ああ、私が部長に昇進したって前に言ったかも知れないが、あれは真っ赤な嘘なんだ。騙していてすまなかったね。部長になったのは佐藤君のほう。ただ佐藤君も手練手管で権謀術数を巡らして出世したタマで、やたらと私を貶めるような評価を上司に告げ口して成り上がったんで、だから殺したんだ。やっぱりこれも許せないだろう。人を犠牲にしてキャリア・アップしていくなんて。だけど実を言うと既に半年前から会社から追い出し部屋みたいな所に私は移動させられていて、見えない圧力かけられて暗に自己都合退職を迫られていたんだ。そう、体裁の良い計画的リストラの典型だよね、うんうん。で、ここ半年間は実を言うとハローワークとかに通っていたんだけど……やはりこの歳になると仕事は見つからないもんで。そして、結局、私は会社からのプレッシャーに負けて退職を自ら申し込み、というかそのような行動をさせるように操作され、来月をもってクビになるんだ。三十五年も会社のために身を粉にした結果がこれだからね。最後っ屁に怨み深い佐藤君を殺したんだ。ただ佐藤君を殺すと私とは関係性的に、かなり接近している部分があるからリスクはあるとは思ってたんだけど、さらに追い討ちをかける事がさ……佐藤君の殺人は今日の会社帰りを狙ったんだけど、今回は脇が甘かったね、私の作戦。どうやら目撃者に出くわしちゃってさ。すぐに私は逃げたんだけど、多分これから警察が私の方に動き出してくると思うんだよね。今までそういうミスはしてこなかったんで、ちょっと慢心してしまっていたのかなあ。だから急遽、私の殺人計画がバレる前に、今晩中に全て遂行しようと思って、母さんをついさっき殺してしまったんだ。本来は佐藤君を殺した後は、私が逃走の準備をするためもう少し母さんの殺人は遅くする予定だったんだけど、状況が変わってしまったからね。最近は母さんも甲斐甲斐しく主婦業をし始めて、好感度が上がっていたんだけど、うーん、残念だったよね。あ、勿論、これから君も殺す予定だから。わざわざ自分の身内も手帖に殺人リストとして書き込むのも無粋、というか不要な事だけど、父さんは細かい性格だから、はは。いや、当たり前だけど、君や母さんには恨みや憎しみはないよ。最低限、家族だし。ただ父さんが殺人犯として手配されたら、君らに迷惑かけるだろう。だから気をきかせて君らを片付けようとね。あ、誤解しないでほしいんだけど、私は猟奇殺人の性分が元々あったわけではないからね。さっきも言ったけど半年前に会社の追い出し部屋に移されてから、私は壊れ始めたんだよ。何もない無難な社会人生活を続けられていられれば、私はこんな事をしなくてすんだはずだよ。実際、私が起こした全部の殺人事件はここ半年間の出来事だし。思うに私は凄いストレスを感じていたんだろうな。その反動だよ、一連のコロしは。だけど、この前に不良グループに襲われたじゃないか。ちょっとした心残りとしては、連中を復讐がてらぶち殺したかったな、という気持ちが湧いたりもするんだよね。もう奴らは警察に捕まっちゃって手出し出来ないけど、やっぱり今まで連続殺人してきた名残りか、人を殺すのってけっこう楽しいなって思ってきた自覚もあるんだ、はは。何だかんだ言って、父さんもなかなかの好き者なのかなあ。あ、無論、君を殺した後は、私は必死になって警察から逃げるよ。警察が私を疑い、今後追いかけてくるのは当然だから。けれど私は全身全霊、全精力をかけて逃げ切れるまで、逃げるつもりだから安心してくれよ。ん? ちょっとおかしな言い回しだったかな。これから君を殺すのに、はは」
と流暢にして長舌に諳んじる、否、説法するかの如く語る父親。アクセントのない声振。時折、失笑を加えてはいるものの、それが逆に平坦な父親の呂律において、不気味さを増さしている。
本人は自らの長台詞に違和感や狂気や錯乱を覚えていないのか?
御薬袋は率直に推し量る。と同時に御薬袋が今日まで抱いていた父親像が完全に粉砕した。
この男、完全にイカれてやがる。
目前の父親は深い溜息、というより気持ち良さ気に深呼吸をすると、眼鏡を外し布のレンズ・クリーナーで眼鏡のレンズを御薬袋の存在も気にせず、息を吹きかけながら拭いていた。その余裕ある佇まいは、まるでどこかのサスペンス映画で見た性格破綻異常者の様相を呈していた。
狂人。
御薬袋は自らの父親をそう評価する。
一方で、自分は目前の中年男の息子である、という奇妙にも迷妄にも似た感情を唐突に憶えた。
この男のDNAを俺は悲しいかな、受け継いでいるのか。目前のあの男の毒電波っぷりも、俺の心底の部分で染色されているのか?
父と子の縁(えにし)をこの異常な状況、逸脱した環境(シーン)でやにわに肚裏(とり)に浮かべる御薬袋。
「さて、と」
父親は一言そう呟くと、眼鏡をかけ直し首をコキコキ鳴らしてまわしながら、血まみれの包丁を持って御薬袋の方へとゆっくり向かった。その表情にはゆとりさえ窺える。
後方には白目剥き出しかつ口も半開きで、首から大量出血をして倒れている母親。その姿態はまるで蝋人形のよう。
気色を失っている父母の様子は一緒なのだが、生と死としての享受としては現在、互いは相対的な状況。幾分、その光景に対照的なシュール感を覚えた御薬袋。それと同時に鳥肌が肉体の皮相に走る。
殺される。
直感する御薬袋。恐らく父親は難なく楽に自分を殺せると思っているだろう。硬さなど微塵もなく、まるでリビングで寛ぎながら帰宅後、テレビの夜の天気予報のニュースをリラックスして視ているような、あの表情を見れば分かる。母親を迷う事なく殺した手前、息子を殺す事も何の躊躇もないだろう。御薬袋はそう承る。
奴は俺に抵抗する術はない、と考えているのか。実際、俺は対抗できないのか?
御薬袋は刹那、まな板の上の鯉的な死を覚悟した。だが、考え直す。
いや、ある。
御薬袋は思い出した。バッグの中にバタフライナイフがある事を。
戦える。抗える。殺(や)れる。
御薬袋は内心、武者震いをした。刺激を覚えた。血のたぎりを感じた。そして、自分の病的興奮に自身の父親を投影してみた。やはり俺もアイツと同じ穴のムジナだったのか、と。ただしその感情に絶望感はない。むしろ、絆、すら覚えた。今まで父と子の対話が足りなかった。だからこそ分かり合えなかった。しかし、今、とうとうお互い命懸けの、魂からの、血みどろの、無邪気かつ露骨なほどの、真剣な対話が始まる……御薬袋はほぼほぼ狂乱化した自らのそんな心地を、何ら疑う事なく許容する。
さあ、来い。
牛歩気味に近づいてくる父親。御薬袋は持っていた白革の手帖を床に落として、忙しくバッグに手を忍ばせると、バタフライナイフを探り当て手掴みし、腕を突っ込んだまま臨戦態勢になって気持ちを向上させた。バタフライナイフの存在は父親には報せない。心拍が昇り続ける御薬袋は、逸る思いを抑えきれず、近づいてくる父親に対して、土足のまま廊下に一歩足を上げた。しかし、それ以上は動かずあくまで迎撃体勢。父親は相変わらず無表情のまま徐に御薬袋に寄って行く。
だが、そんなエキセントリックな発奮をしている御薬袋の胸裏(きょうり)とは別に、どうしてか、かつて茂田準のウォークマンで僅かに耳にしたマーヴィン・ゲイのホワッツ・ゴーイン・オンが頭に流れていた。
ホワッツ・ゴーイン・オン。
ホワッツ・ゴーイン・オン。
どうして行かなければならないのか。
マーヴィン・ゲイの魂の叫びが木霊(こだま)する。だが、御薬袋はそのようには聞こえてなかった。いや、心理的には牛耳にそう錯覚を帯びて響いていた。
片や、そう納得してみても、御薬袋個人の底意ではそのようには聴こえなかった。御薬袋の内で流れていた歌詞はこうだった。
どうしてマーヴィン・ゲイは殺された。
誰にマーヴィン・ゲイは殺された。
WHO KILLED……?
迫り来る父親を眼前にして、そんな訳詞のメロディが、御薬袋雅人の心に。
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