月は見ている

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月は見ている

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「全ては一(いち)なるモノだったわけ」
 先の台詞の前に「つまり宇宙ってのはさあ……」という冠詞がある事が注釈。さらにそのC調の軽口に比して、樋口(ひぐち)俊介(しゅんすけ)の語る内容はやたらと大言壮語で空想的だ、と常々思う節がある常盤(ときわ)直子(なおこ)の心情もまた補説。
「そ、かなり最近までは俺らは全て特異点とかいう一なる点から始まった、と思われていたわけだ。ドカーンとビッグバンってヤツあってさ。だけどその前に実はインフレーションってのがあったらしくてな。そうすっとこれでまた宇宙の起源が分かんなくなってきてさ……あ、インフレって言ってもこれは通貨膨張のアレとは違うぞ。宇宙論でのインフレーションね。どっちも急激に膨張するっていう意味では同じだけど。ま、それはイイとして、兎に角、俺たちは密度が無限大で体積がゼロの特異点から生まれたわけ、とは今では言い難く、もしそうだったらちょいと悲しくないかい、と俺は思っちゃうわけよ。ここまではアンダースタン?」
「わっかんない」
 出来るだけ不機嫌そうに直子は答えてみせたが、樋口は構わずDJがスクラッチするように軽快な腕のジェスチャーを交え喋り続ける。
「だから何が言いたいかというと、その特異点という一なる点から時間も空間も始まった。畢竟するに俺らは元が何もかも一緒。そんなカントのコスモポリタンな感じの、人類皆穴兄弟的な考え方がインフレ理論によって否定されちゃうかも知れないんだぜ」
「はあ?」
 所在無くペン回しに勤しんでいた直子の指がふと止まる。そして、そのシャープペンを、テーブルに置いてあるルーズリーフの上で、苛立ちながら出鱈目に躍らせた。円線、斜線、放物線と歪曲した黒い幾何学模様がそれに描かれる。
「あの、本当に分かんないですけど」
 呆れ顔で樋口を覗く直子。樋口は動じず、「あ、そう」と淡々と返す。直子は大きく息を漏らすと、背もたれに深く腰掛けた。
〈マックの座席は硬くて、お尻に優しくない〉
 そんな些細な不満を直子は巡らせながら、
「ちゃんと真面目に考えてくれているの?」
 とさらにペンを小刻みにテーブルに打ちつけて樋口に問う。樋口は百円シェイクをすすりつつ、心のこもっていない相槌を二,三度打ち返す。しかも目線は隣の席で前日のミュージック・ステーションの話題でさえずっている、女子高生の一群に向いたまま。
「ちょっとでもアンタに頼ろうとした私がバカだったのね」
 再び深い嘆息を吐く直子。樋口は素っ気なく、
「ま、そういうことだな」
 と我関せずの音なしの構え。直子は特にその返答にリアクションする事なく、ただただ黙って樋口を見つめた。
〈相変わらずなヤツ〉
 午前十一時半のファーストフード店。昼前ではあるが学校が期末テスト期間中で早々と下校できるため、幾人かの女子高生が嬌声混じりに店内に居ついている。
〈テスト帰りのマック通いないしミスド通いは、いつの時代も同じ女子高生の王道行動パターンか〉
 と数年前までは自分も沿っていた馴染みの寄り道を、妙に感慨深く、また、懐かしみながら直子は回想した。それは同じ場所にいながら、当時との状況の違い、環境の違いのギャップに二日目の生理痛にも似た不快感を覚えたからだ。昔は良かった。至極シンプルにそう思う。
〈学生はただ学生だけしてればイイんだもんね〉
 私の学生猶予期間は残り少ないのだ、と自分では悲壮感にも似た覚悟で、これから来る学生時代最後の夏を飾るビッグイベント、大日本深刻超不況瀬戸際就職最前線に臨んでいる、次期キャリアウーマン候補の常盤直子でーす! だったのだが、目の前にいるこの男を見ていると気持ちが揺らぐ、というか緊張感が弛む。
〈まるで吟遊詩人、というかプータロー、その実フリーターなんだけど〉
 社会から半ドロップアウト状態。今時の若者と言ってしまえばそれまで。だが、この男、それとは一味違う。流行りのニートとフリーターの違い云々ではない。ありがちな夢をただひたすら追い、オストリッチ・ポリシーを講じる盲目青年、もしくはアイデンティティが確立されず、いつまでたっても大人になれない、燻っているピーターパン症候群系の若者、の類いでもない。
〈何だろう、ホント。いまだにキャラが掴めない〉
 樋口俊介。幼なじみでありながら、なかなかどうして厄介な奴。臍を噛む思い。一方で所在無さげに二階の禁煙席の窓から、外路の車の流れを見つめ、口角を上下運動(恐らくシェイクを口の中でさらにシェイクさせている)している樋口の様子を、頬を綻ばせて直子は眺めている。
〈あえて言えば天然系、なのかな。でもおバカさんって感じじゃないんだけどなあ〉
 夏期休暇前の大学のレポートの手伝いで樋口を呼んだのだが、案の定、具体的な成果は挙げられそうもない。そう案の定。別段、直子は樋口に対してレポート作成の助力を期待していた訳ではなかった。切羽詰った就職活動目下の学業行事。何かとストレスも溜まり、あくせくと日々は過ぎるだけ。そんな折、隔世の感を匂わせる佇まいを持った、樋口に会ってみるのもイイんじゃないかなあ、と直子は思ったのである。
〈ちょっと癒される気がする〉
 見た目、のん気にマイペースで生きている人間を観察すること。それは時に羨ましくも感じ、妬ましくも映るが、直子にとっては、ジーパンの穴の開いた膝の箇所に、「成田山、上等!」のステッカーを貼ってそれを手段としている、どうにもセンスと常識を疑う眼前の男を眺める事が、動物園のパンダ、それこそナマケモノを観ている感覚に等しかった。居るだけで、見るだけでエンターテインメント。
〈私にとってペットですか、アンタは〉
 内心で直子は一人、ノリツッコミを試みる。
 窓の外を眺めていた樋口は、ジュルジュルと音を立ててシェイクを飲むとストローでかき回し、中身がなくなった事を確認して、「あ、ポテトにシェイクを付けて食うと案外ウマかったんだよな」と一言添えた後、
「だいたいレポートのお題に『各地の国際紛争における日本の役割』なんてのを選ぶお前が悪い」
「それにしたって何で国際平和のお題から、宇宙がどーのって話になっちゃうのよ。飛躍しすぎ」
「モノゴトは広く見ないといかんのだよ、お嬢さん。学問それ然り。ん、そういえばお前の専攻って屁臭い生死ガクブだっけ?」
「何でオナラなのよ。国際政治学部です。国際政治学部グローバル・コミュニケーション学科」
「グローバル・コミュニケーションときたか。いかにも、な名称だな」
「いかにも? 何がいかにも、なの」
「少子化による学生の漸減、大学全入時代到来。今後の激化する大学同士の学生の奪い合いに、大学側が講じた受験生引き入れのための新設機関ってこと。わりと新しい学部だろ」
「まあ、私で三期生だけど」
「所詮は入学金や授業料だけを見込んだ、中身のない内容の学部だったんじゃないの。だってお前、もともと文学が勉強したいって言って大学行くって、文学部を目指してなかったっけ」
「そ、そうだけどさ」
 随分と古い話を持ち出すな、コイツ。何やら小骨が喉に引っかかった感触を直子は覚える。
「仕方ないでしょ。希望の大学が落ちちゃったんだから。浪人するのは嫌だし。だったらスベり止めの学校しかないじゃない。それに大学を中退したアンタにそんな事は言われたくない」
「ま、そうだわな」
 あっけらかんと特に怯む様子もなく返す樋口。その気色には春風(しゅんぷう)駘蕩(たいとう)たる面持ちが窺える。不満げな直子。
〈そうなんだよなあ、コイツには妙な意志があるからな〉
 大学を中退した。中退、というと聞こえは悪いが、詳らかなその実、樋口は高校時代にバイトで貯金した自費で入学金・授業料その他全てを賄い、また自らの「何か大学って思ってたのと違ったわ」の感覚に従い、誰もが羨む履歴書に書いておきたい(就職活動中の学生の)行列のできる高学歴某有名国立大学を辞した。大学中退の理由は、出席日数が少ない、単位が足りない、の類いではないし、大学進学の費用は親の金ではなく全額自らが負担したという自負からか、本人はいたって憚っている態度を持たない。それを依りとすると、何か大学って思ってたのと違ったわ、という姿勢も一見モラトリアム青年の単なる逃避行的ワガママに映るものの、全ての責任は本人に帰結しているので、それが免罪符となりうるのではないか? と直子は考えたりもするわけだが、
〈でもコイツ、大学辞めて何を言い出したかと思ったら、宇宙人を探す、だもんね。ホント、訳が分かんない〉
 とも思慮する。さらに一方で、これ貰ってイイか? イイな、と言って、勝手に直子のマックポテトを取り上げ、カップの底辺にこびりついたシェイクに、それをなすり付けて食す樋口俊介をぼんやりと眺める。
「ついてるよ」
「何が?」
「口にシェイクが」
「あ、そう」
「…………」
 直子が注意を促しても、樋口は相変わらず我関せずで、指に付いたポテトの脂を舐める作業の方に励んでいた。直子は大きく息を吐き、トレーの備え付きのナフキンを樋口の側に置く。
〈やっぱり天然系、不思議ちゃん系。というかただのお子ちゃまなのかな〉
 寛容な母性をもって愚息(樋口俊介を仮として)を見つめているような私、のアティテュードの常盤直子。樋口はそんな直子の視線も気にせず、また側に寄越したナフキンの存在も気づかず執拗に指を舐めている。
〈それにしても宇宙人を探すって、その一言をもってフツーに大学を辞めるかしら〉
 徒然なるまま凝視するに、フライドポテトに喰らいついている、もみあげ辺りの髪の毛が、寝ぐせよろしく跳ね上がっている目前のこの男は、かつて悠然とそう口上していたな、と常盤直子は記憶している。
 確かに樋口俊介は、子供の頃から宇宙にロマンを求める、夢見がちな空想少年の傾向はあった。小学校時代の夏休みや冬休みは、直子を連れ立って天体観測をしたりした。デネブ、ベガ、アルタイルと言った後はプロキオン、シリウス、ベテルギウスと口ずさむ。直子にとっては心の琴線に触れぬ、樋口のお付き合い行為ではあったが、理科の授業に微力ながらも補助となり、多少の便益にはなった。だが、それ以上に夜空について屈託なく饒舌に語る、樋口の横顔をぼんやりと眺めているのが何となくオキニだった。樋口曰く宇宙の魅力の一つに、身勝手にも無数に散らばる星々に思いを寄せて、そこで半ば強引に星と星とを線で結んだ星座という概念を発展させ、さらに神話へと体系づける人間のイマジネーションが凄い、とのこと。時折、「西遊記の猪八戒って天の川の管理をしていたんだぜ」というようなトリビアを交えつつ。
 宇宙(そら)に馳せる想い。
 何でそんな現実の生活とは無縁で、あまりにも遠く離れた事柄に対して熱くなれるのかな? 男の子って馬鹿なんじゃない。それが当時の直子の男性観。少女時代に一人前に男性観もないが、身近な同世代の異性の代表が樋口であったため、何やら足元を見ずに茫洋と途方もない物事に夢中になるのが、いわゆる『男の子』なんだと思っていた。だが、それが周りの同性の友達とは違い、そのあまりに打算のない発想が、ある種異性に対する興味となっていた。だから直子は、ある冬の夜、かじかんだ指で天体望遠鏡を覗き込み、いたずらに煌々と輝く月を見ながら、その側で月面のクレーターに関する薀蓄に弁を弄しつつも、そっと手の甲にホッカイロを当ててくれる樋口俊介の寒風焼けした頬、星空に向ける憧れにも似た眼差し、それらを保有する少年的な横顔は嫌いではなかった、と回顧するのだった。
〈そうだ。コイツ、言っていたな。中米の何処かの洞窟に「宇宙人の恋人」とかいう浮き彫り壁画があるって。コイツにとって宇宙人というのは恋人なのかな?〉
 宇宙に夢見る樋口青年の自分探しならぬ宇宙人探し。
「ねえねえ、俊……樋口」
 俊介。樋口の「名前」で語りかけた直子だったが、あえて名字で呼び直した。樋口、と。
 子供の時は自然と樋口の事を「俊介」と呼んでいた。だが、徐々にではあるものの、意識的に樋口の事を名前ではなく、名字の「樋口」で問いかけるようになったのは、いつの頃からか。それは多分、高校時代辺りから。幼馴染みとはいえ異性を名前で呼ぶことに躊躇を覚えた、年頃乙女の直子。それは異性を名前で呼ぶ事は、男女の仲云々の深読みをしてしまうから。果たして樋口は意識的に樋口の事を「樋口」と呼ぶようになったワタシの変化に気づいているのか? と唐突に直子は思案した次第だったが、自意識過剰気味とも考え直す。
 そんなむずがゆい直子の思惑を他所に、
「ん?」
 と唇周りに付いたシェイクを舌で舐めながら、何ら気にする素振りもなく樋口は問い返す。
「アンタさあ、前に宇宙人を探す、とか言っていたけど、アレってどーいう意味なの?」
「何だよ、突然」
 直子はこめかみにシャープペンの先を軽く当てながら、
「いや、ちょっとさ。その後どうなったかなあ、と思って」
「まあ、文字通り宇宙人を探すっていう意味以外他意はないんだが……」
 と言って樋口は一つ咳払いをすると、
「逆に聞くけど、お前にとってグレイはいないのか?」
「グレイ?」
「だから宇宙人だよ、宇宙人」
「宇宙人が私にいるってこと? どういう意味よ。ますます分かんない」
 直子は唇を尖らせて見せたが、不満げな表情ではなかった。樋口が眉間をポリポリと掻き始めている。それは樋口がイキイキと直子にとってはくだらない、「ザ・男の子ロマン話」をし始める合図。その実、直子はそんな取りとめのない、口笛を吹くような樋口の語りが、案外気に入っているのである。
「あのな、宇宙人というのはロズウェル事件を筆頭に、多々目撃談があるわけよ。つまり最早我々とは親しく近しい存在なわけ、アンダースタン?」
「いえ、全然アンダースタンではないんですけど」
「分かんないかなあ、お前には。宇宙人ってのは俺たちにとって、切っても切れない関係であって、その存在そのものが必要であって身近であって、大事なパートナーであって……」
「それって恋人みたいなものなのかしら」
 別段、その直子の一言は意表を突くような指摘ではなかったのだが、樋口は一瞬声を詰まらせた。
「こ、恋人ってのはアレだけど、そう、まあ、宇宙人ってのはその、友達のような、はたまた神秘的な心の依りにでもなるような重要な存在ではある、うん」
 果たして樋口は納得した締めくくりを成したのだろうか。一人腕を組んで何度も頷いている。
「うーん、相変わらず答えになってない意味不明な説明だったけど、まあ、いいわ。兎に角アンタは現状に満足そうだし」
 まだ夢を見ている。このまま大人になって大丈夫なのかしら? と余計な危惧を抱いた直子だったが、樋口は不敵に笑うと、
「直子にはまだ分からないか」
 と大人びた諭しの口調で発した。いや、大人の口調というよりは、幼い娘が父親に「大きくなったらパパのお嫁さんになる」と言い、それに対して父親が返事した「ありがとう」の音感であり温感の言葉に似ている。樋口の台詞は煩わしくも、含羞(がんしゅう)の懐かしさにも似た思いを直子に促す。さらに何の屈託もなく「直子」と呼んだ、樋口の僅かに緩んだ口元に、ほんのりと動悸も覚えて。
「分からないわよ」
 樋口から視線を逸らし、なるべくつっけんどんに返して見せた直子。一方で手のひらに汗を感じる。それは甘酸っぱい微熱。
〈ん? 何か変だな〉
 直子はやや俯きかげんに一人照れ笑い、
「ホント、分からない」
 と言った後、樋口には聞こえないほどの声でさらに、「アンタって人が」と続けて呟いた。
「何か言ったか?」
「別に」
「まあ、何だ。お前の求めるものと俺の求めているものは違うかも知れんが、お前はお前でやるべきものを探すんだな」
「何よ、その生き甲斐を持て的なまとめ方は。自分探しの旅でもしろっての?」
「当座は大学のレポートを終わらせる事なんじゃないの」
「ぐっ! そーいう意味ですか」
 夢見がちと思っていたら、時折現実的な物言いもするからな、と思いつつ直子は苦虫を潰した表情で、手元のQooすっきり白ぶどう(Mサイズ)を飲んだ。容器に滲み出た結露が指先を濡らす。直子は水滴で濡れた親指と人差し指の腹同士を、所在無く擦り合わしながら、
「あーあ、レポート書いた所で、今年の夏は就活だしなあ。報われないよね。どうしてくれるのよ、学生時代最後の夏を。まだうら若き乙女なのにぃ」
 無意味な愚痴を甘ったるい声で、八つ当たり気味に樋口に放つ。
「成人式の時も似たような事言ってなかったか。私は二十歳を認めない。どうしてくれるのよ、成人式。まだうら若き乙女なのにってな、意味不明な発言を」
「だって本当だもん。勝手に年月が過ぎていってさ、強制的に社会に押し出されていくわけよ、これから。なーんか理不尽じゃない、こういうのって」
 樋口は鼻で笑うと、
「大人になるのが怖いんだな、お前は」
 と言って直子の目を覗いた。その眼差し、その視線に思わず直子は肩をすくめると、樋口は続けて、
「それとも大人になりたくないのか、かな」
「な、何よ、一人前に達観気取っちゃって。フリーターのアンタに言われたくないわよ」
 焦れた様子で直子はさらにジュースをすする。自然とストローをかみ締めて。一方、
「だな」
 と余裕の笑みを付しての樋口の簡潔一言返事。シャクに障る、直子。
〈何か、悔しい〉
 直子の飲むジュースがジュルジュルと音を立て始める。が、その効果音構わず、衆目気にせず、なおもしつこくストローを吸い続ける常盤直子女史。
「貧乏臭い女だな。もう、なくなっているだろ、ジュース」
「まだ残ってるの。ワタシ的には」
「潔くないぞ。最後は中に入っている氷をほお張れ。白ぶどう味の氷は爽やかでシメには良いんだぞ」
「なーによ、それ。そっちの方がビンボ臭いじゃない」
「だな」
 と樋口のやはり切るような返しの一言。そして、今度は己のシェイクをズルズルと音を立たせて飲む。
〈コイツって、ホントに……〉
 おちょぼ口にして、思いっきりストローに吸いつく樋口の姿を見て、直子は思わず面を綻ばせる。シェイクをゴーインに吸引する樋口の頬が凹み、それはまるで猿顔状態。
〈動物園のサル山のお猿さんですか、アンタは。やっぱり見てるだけでエンタメなのね〉
 失笑する直子。それに気づいた樋口は顔を俯きかげん、上目遣いで、どうしてか遠慮がちに尋ねる。
「な、何だよ、一人で笑って。気持ち悪い女だな」
「なーんでもない」
 直子は頬杖をついて、残り少ないシェイクを未練たらしく、また一所懸命に飲み続ける(吸い続ける?)樋口を、満足そうに眺めていた。さらに、うん、うん、と一人頷き。
 正午に差し掛かり、テスト帰りの学生他、若いOLらの昼食でざわめき始めた瀟洒なファーストフード店の店内。普段、直子は店内の殷賑に混ざる人々の、取り留めのない会話やざわめきが耳に障るのだが、「食べ終わったら、さっさと帰ってくんないかなあ。満席なんだけど」とでも言いたそうな、キャバ嬢風メイクのギャルの視線すらも気に留める事なく、テーブル上に文房具一式を無造作に広げたまま、ただただ周りの空気も読まず、樋口と中身のない喋りに興じていた。
「あ、でさ。一つ聞きたいんだけど」
 直子はペンでテーブルを小突きながら樋口に問う。
「ん?」
「さっきアンタさ、人類皆穴兄弟的って言ってたけど、穴兄弟ってどういう意味? ギリシャ神話の双子の兄弟か何かの話?」
「…………」
 屈託なく質問してくる直子の瞳に対し、樋口はさらにゴーインにストローを吸い続け、その視線から逃げた。
               *
 うら若き乙女が一人、カウンター越しで冷やしたぬきをすすっている姿は、太平洋戦争後、靴下とともに強くなったと言われる女子、つまりは現代日本女性の自立、婦人の近代的自我、それらを如実に象徴しているのではないか? ひいては平塚らいてう女史から連綿と続く、女性解放運動的ウーマン・リブを体現しているのではないか! と拡大解釈する常盤直子(求職中)が、炎天下、とある繁華街の立ち食い蕎麦屋にいた。乗じて、進学塾・予備校が濫立する文教地域ゆえ、夏期講習生や予備校生に混ざり、人目も気にせずたっぷりとセルフの入れ放題ネギを冷やしたぬき蕎麦に盛っているその様をして、私ってたくましくなったわ~、と一人納得する常盤直子(しつこいながら求職中)が、やはりとある繁華街の立ち食い蕎麦屋に直立しているのだった。
 直子はお冷をおかわりすると、水を飲みながら低いヒールを片方脱ぎ、黒のストッキングを露にして、もう片方の足のふくらはぎをつま先でポリポリと掻いた。はしたないとは思うものの、真夏に着込むリクルート・スーツが、女のたしなみを横着させる。ブラウスに染み込む汗が、ブラジャーに溜まる汗が、直子の女力(おんなりょく)を弱くさせる。着慣れたはずの紺のブレザーコートも、この暑さでは鉄の鎧。だが、ウーマン・リブ直子、いやさ、就職戦線に放たれている者ならば、それは戦に好都合なり、と謎めいた解釈で自らを奮い立たせる。さらにお冷をおかわりして。
 喉を潤し一息つくと、思わずオクビが出そうになり、直子はあからさまに口を開けようとした。だが、さすがにそれはまずいだろう、と女性本能が人間の生理活動の一環をいったん止めて、咳払いをしつつ、誤魔化しがちに再度ゲップを実行。最低限のマナーは守ったわ、と直子が得心していると、懐中の携帯電話がバイブした。相手は茂(しげ)森(もり)明日香(あすか)。大学の同窓生にして、中学時代から続く直子の友人。
「遅いよ、明日香。待ち合わせの駅で待っていても来ないし、電話はつながんないし、連絡ないから先に食べちゃったからね。我慢できなかったから~」
 直子は携帯電話片手に器用に丼を持ちながら、店の返却口にそれを戻すと、店員に軽く会釈をして、外へ出て行った。店を出た途端、外気の熱が、日差しが、直子のうなじに直射する。
【あ、そっちの会社説明会は終わってた? ごめん、ごめん。でもさ、だって、私のケータイの充電が切れちゃってさあ、急遽、デパートの充電器サービスのコーナーでえ、充電してたのよ。だから遅れちゃってえ。即席充電であんまり電池が持たないからさあ、話早く済ますけどお、えーと、じゃあ、いつものスタバに集合で良い?】
 そろりと間延びした馴染みの明日香の口調。
「分かった。じゃあ、後で」
 電話を切ると短い会話だったにも関わらず、携帯電話の液晶部分には脂汗の跡が残る。直子は、フィーバーした遊技機のパチンコ玉のように湧き出る、首筋からの汗を拭いながら、スタバにて最近ようやく飲めるようになったコーヒー(ずばりブラック)をもって水分補給しよう、と目論んでいた。

 ドアを開けると人工的な冷気が直子の腋に潜り込んできた。汗が一気にひいていく。クーラーの風、文明の利器を感じるな。直子は外のテラス席に座る客を横目に、この暑い中にわざわざ外でカフェなんて信じられない、という視線を醸し出しつつ、そう思った。
 満遍なく涼風が行き届いているスターバックス・コーヒーの店内。一見すると明日香の姿が見えない。二階の客席に行って見てみても同じ。
「ノド渇いたし、先に注文して待ってよ」
 直子はグレイのビジネス・トートバッグをソファ席に置き、予めテーブルを確保しておいてカウンターへと向かった。注文するはアイスな感じのコーヒー。
「サイズはどういたしますか?」
 店員はにこやかに自然な笑顔で尋ねてくる。だが、直子はコーヒーのサイズの問いに対して、毎度微妙な間を置いてから、
「あ、えーと、S(エス)サイズで」
 とやはりその都度S(ショート)を頼む。
 スタバのドリンクのサイズは小さい順にS、T(トール)、G(グランデ)、V(ベンティ)とそれぞれあるのだが、直子にはTとGとVのサイズの意味が分かっていない。直子のサイズの認識範囲はSとMとLのみ。そのような思考回路なのでいまいち掴みづらいサイズの呼び名(彼女にとっては)に、直子は毎回二の足を踏み、心中、地団太も踏み、自分でも理解できるSサイズを頼んでしまうのである。
「それとチョコレート・チャンク・スコーン下さい」
「温めますか?」
 温めるとチョコレートがトローリと溶けて、食感もまろやかにおいしくなるスコーン。店員の幾分の隙もない懇切丁寧なオススメなのだが、
〈この暑い中、あっためるわけないでしょ〉
 と直子は軽く内心ツッコミつつ、
「いえ、ケッコーです」
 とスマイルで大人の対応。コーヒーとスコーン。直子にとってのスタバ定食レギュラー・メニュー。
 二階の客席に戻る際、直子は軽く周りを見渡した。制服姿の学生はあまり見受けられない。どちらかというとスーツ着用、カジュアル服にしても二十代辺りの客層が多い。
〈マック、ミスドからスタバ、か〉
 大学に入って以来、よく通うようになったカフェ系のフランチャイズ店。純喫茶は何やら敷居が高そうで、勇気リンリンと行けないが、ライトな雰囲気のカフェならば、一人でも入れるようになった。これが私にとってのささやかなキャリア・パスってやつ? と階段を上る途中の踊り場に設置されてあった、全身鏡に映ったリクルート・スーツ姿の自分を垣間見て、一人疑問符付きの悦に浸る直子だった。
 チェア席ではなく、ややゴージャスにも、ふかふかなソファ席で寛いでいる直子。そんな直子が、所在無く、スコーンをポロポロとこぼしながら食べていると、
「ああ、ここに居たぁ」
 と媚びた感のある声で呼びかける人影が。その声の方に直子は目を向ける。つい最近ブリーチを元に戻した、不自然な黒色の光沢を放つ髪を横振りし、O脚気味にして内股歩きで直子に向かってくるその人こそは、茂森明日香であった。
「遅いよ、明日香」
「ゴメン、ゴメン。つーか、ケータイの電源が切れるみたいな、ありえない事が起こってえ、ちょっとパニくってさあ。デパートなら充電のサービスとかあるかなあ、と思って行ってみたらラッキーにもあったのよ」
「先に待ち合わせの場所に来てよね。その後一緒に行けば良かったじゃない」
 明日香はドンキの特売で買った、ヴィトンのハンドバッグを無造作にテーブルに置くと、ソバージュがかった髪を軽くかき上げて、
「充電切れてケータイが使えない状態なんて、マジありえないでしょ。一分、一秒でもさ。じゃ、何か注文してくる」
 と言いつつ踵を返し、今一度一階の注文カウンターへと向かった。シトラスのフレグランスの香りを撒きつつ。微妙に尖ったライムの残り香を直子は感じながら、テーブルに置かれたバッグを、自分のソファの側の隙間におさめ直した。
〈身なりは多少変えては見えるけど、ちゃんと会社の面接ではネコ被っているのかしら〉
 いらぬ老婆心を直子は募らせながら、こぼれたスコーンの欠片を無意識に集め、ナフキンで包み込み、トレーの隅にまとめた。
 しばらくすると、明日香がおぼつかない足取りで、商品でいっぱいのトレーを片手に戻ってきた。
「ちょっと、たくさん買ってきたわね」
 キャラメル・フラペチーノとシナモンロールは明日香のお決まりとして、さらにサンドウィッチが加わっている。
「だって私、お昼まだだもん。お腹チョー減ってるしぃ」
 そう言って明日香は座ると、すぐさまサンドウィッチにかじりついた。一口かじり終えると、直子と同じくスーツ姿の彼女は、徐に上着を脱ぎ、
「今日ってすっごく暑くない? 猛暑日ってやつ」
 とブラウスのボタンをはずし、鎖骨をはだけさせて直子に尋ねる。
「そうね。三十五度を上回るとか天気予報で言っていたし」
「流行りのヒート・アイランド現象ってヤツじゃん? マジありえなくない」
 いちいち語尾を上げて喋る明日香の口調。普段はさほど気にはならないのだが、常にフェーン現象に見舞われるS県K市並みの熱波がはびこる今日、直子は多少の苛立ちを覚えながら、「あーあ、マニキュアが禿げてきてるし」等々、会話の節々に脈絡のない愚痴を交える明日香のさえずりに耳を傾けていた。
 明日香はサンドウィッチ、シナモンロールと交互に食しながら、
「恵美にも声かけたんだけど、何かマジ就活にブルー入っててえ、会う気分じゃないなんて言うのよ。でもさ、就職活動中の夏休みに入っても、週に一回は会おうねって約束したのに、それってワガママじゃね? 恵美と友達やめよっかなあ」
「無理ないわよ。メグの両親って公務員でしょ。だから親的にはメグを公務員にさせたいんだけど、ほらメグって何かファッション関係の仕事したいって言ってたじゃない。デザイナーか何か。それでもし就職できなかったら、実家に戻って公務員の試験を受けさせられるとか言ってなかったっけ。それがイヤだから必死こいてメグは仕事探してるのよ」
「いいじゃんねえ、親が敷いたレールに乗るのも。コネだってあるんだからさあ。何を熱くなってるのかなあ、恵美って」
 そう言いながら明日香はブラウスの袖を捲った。露になったその手首には、横線の切り傷跡が数本浮き出ている。それは明日香が不定期に繰り返す、リストカットの残痕。所謂、ためらい傷。一週間前にやった。そう明日香に聞かされていた事を、直子は彼女の手首を見ながら思い出した。左様な直子の思案を他所に、明日香は一人駄弁(だべ)り続ける。
「不幸な私に比べれば、そんなのたいした事ないわよね。ねえ、思わない直子」
「え? ええ、まあ」
 直子は刹那の戸惑いを抱え曖昧に相槌をする。
〈不幸な私に比べれば、か〉
 ワタシって不幸だよね。それが茂森明日香の口癖だった。
 明日香の両親は彼女が少女時代から不仲で、毎朝明日香が起きると常にテーブルの上にはハムエッグと並んで判の押されてない離婚届の用紙が置いてあり、今もそれは継続中。そして、年の離れた兄は三十近くになっても無職で、明日香に遊び金を腐心してくる放蕩長男。さらに一つ上の姉は援助交際がばれて退学し、お水の仕事をしていて知り合った、フィリピン人実業家と駆け落ちし、現在元気に行方不明中。果てに妹は妹で、学校でイジメに遭い情緒不安定の引きこもり状態。ただしジャニーズのライブ日程はマメにチェックし、コンサートのその時ばかりは外に出かけるとのこと。また、弟はもうすぐ二十歳になるというのに、いまだ童貞らしく、明日香自身、その理由で勝手に頭を悩ます日々(彼女の中では十五歳を過ぎても性交渉がないという事は、それはオタクであり、イコールキモいという方程式が成り立ち、それが私の弟だなんてありえなーい! というアルゴリズムになる、らしい)。
 それらが少子化の今日では珍しい、大所帯の茂森ファミリーの実情。
 俎上にのせられた、それら諸々の家族間トラブル? を土台に、「ワタシって不幸だよね」の台詞をして、明日香は自分の存在を否定的に集約させていた。そして、度々のリストカットを、不幸のどん底に生きる己の慰みとして捉えつつ、また、手首を切った後流れ落ちる血が、たぎる様な生き甲斐であり生の実感になりうる、と月並みにしてお座なりではあるが、本人はいたって真面目に説く。そんなの思い込みだよ、と取り巻きは軽く返せない。
 だが、
〈明日香はそんな自分のシチュエーションを、特権的に見ているような感じがする〉
 と直子は慮る。プチ積木くずし的な状況のその茂森家の次女として、自分を悲劇のヒロインに比喩しているのではないか? とも。
 直子と明日香は中学以来の付き合いではあるが、仲間内の会話でその都度、「みんなはシアワセ者だもんね」とか「ワタシと違ってフツーに生きてるもんね」など明日香が語る際、その口調は被害者意識というよりも、ドラマティックな悲劇に見舞われるアクトレスとしての演出性を匂わせ、さらには自分がさも別格な位置に属しているセレブリティのような優越感をも帯びている……そのように直子には前々から明日香が映っていた
〈確かに明日香に同情の余地はあるけれど、何か自慢げに喋るんだもんね。やたらと饒舌だし〉
 直子の思いに沿うように明日香は多弁を弄する。
「だいたい恵美ってまだまだ自分が分かってないよねえ。男との経験が少ないからじゃない」
 普段は恵美の前では「ファッション・デザイナーになりないの? すっごーい! 夢があるって羨ましいなあ」と舌足らずの語調で目を輝かせて言うのだが、本人不在では言いたい放題。恐らく、明日香が企画していた、一週間に一度は会おうねプランを恵美が反故したから、それに対して女帝気質にして自己中心派の明日香は苛立っているのだろう。直子はそう忖度する。
「何で男性経験が関係あるのよ?」
「だってそうじゃない。色んな男と付き合わないと、女って自分が見えてこないよ。自分って思ったより自分の事が分からないから。だから相手がいて自分がどう映るか判断してもらうの。男の数が多ければ多いほど、女は磨かれるもんなのよ。それに自分というものが分かってくるし」
 明日香らしくない意外な答えにしてハキハキした喋り。なに、この女、少しはマトモな事考えているじゃん。直子は無礼にも、だが、率直に茂森明日香らしからぬ先の提言に、そのような印象を持った。
「へえ、ちゃんと考えている意見だね。それってフェミニズムか何かのこと?」
「ふぇ、ふぇみにずむ? なあに、それ。海外のバンドか何かあ?」
 本来の明日香の緩慢な口調。直子は奇妙な安堵感とともに、やっぱりここまでか、とやはり特異な諦念を抱きつつ、
「そうそう、海外のロックバンド」
 と適当に返した。
「何でバンドの話になるかなあ。オトコの話だったじゃん。フツーにガールズ・トークしてたじゃん」
「はいはい」
 興味なさげ、あしらうように返事し、直子は話を切り上げようとした。
「何よ、直子ぉ素っ気ないなあ。まさか新しい男でもできたとか?」
「この時期に恋する暇なんてあるわけないでしょ。出会いだってないし」
「何言ってるのよ。出会いなんて今の時期いっぱいあるじゃない。説明会に面接にぃ、スーツの男は選り取り見取りじゃん。結構、ネクタイ姿の男ってキモ面(めん)でもキリっと見えたりするのよねえ。私なんて面接とかの待合時間中にメアドとか聞かれたりしたけどなあ。それにディスカッションの後とか打ち解けたりして、そのままモンテローザ系の店へGOしちゃうとかもあったり……」
 明日香のオトコ転がし自慢がまた始まった。本人は自慢と意識しているかどうか分からないけど、聞いている側からしたらイヤミにしか聞こえないのよね。直子は鹿(しし)おどしよろしく、定期的に頷きながら回顧する。
「でもってぇ、一緒に井の頭公園行こうってしつこく誘われてさ。え、公園ってありえなくね? と思ってたんだけどお、実際行ってみたら、何かおっきな池みたいのがあって、意外とエキサしちゃってさあ」
 機械的に相槌を繰り返す直子。
〈男の人はやっぱり明日香みたいな性格の女子に騙されちゃうのかな。一見、おっとり型に見えて実は計算高いとか知らないで。かと言って同性からも嫌われているってわけじゃないのよね。基本あんまり親しくない友達の前ではネコ被っているし、オトコとか色々調達してくるし。明日香みたいな方が、案外、就職とかうまくいくのかな。処世術が巧みというか〉
 直子は、コーヒーの後味が微妙に不快に感じてきたので、セルフの冷水を貰おうと、席を立ち上がろうとした。
「ま、直子とかはフツーの恋愛でイイんだもんねえ」
 どのような話の経緯をもって、そのような台詞に行き着いたか、興味なく明日香の言葉に耳を傾けていた直子には知る由はないが、ただその一言に対しては直子の耳に障った。自らと相手の差異化をはかる、耳に慣れた例の明日香の口癖ではあるのだが。
「あのね、明日香。人を普通、普通って言って、自分を何だか特別な感じに持ち上げているクセがたまに出てるんだけど、それ止めた方がいいよ」
 中腰になったままの姿勢で、語気をやや荒らげて直子は言った。直子自身は、忠告のつもりで言った、と自覚していたのだが、内心、思わず余計な事言っちゃった、と瞬時に省みた。明日香は口に放ろうとしたシナモンロールの動きを止めて、
「何? マジギレってやつ。ちょっと寒いんだけど」
 半開きになっている口は七分咲きの笑顔の口角。だが、目は笑っていないし、喋り方も明日香ならぬ早口にして抑揚がない。直子は、ごめん、と言おうとした。普段の直子ならそう言って済ますはずだった。明日香に逆らうのは得策ではない。友達ネットワークは明日香の方がずっと広く、ハブにされると厄介だ。直子の脳内で打算と防衛本能が働く。だが、
「別に」
 寸前に残った強がり、矜持がその囁くように言った一言に凝固した。一方、明日香は直子を一瞥して、
「あ、そお」
 とつっけんどんな態度で返すと、そのまま目線を落としシナモンロールを口に運んだ。直子は直子で暫時の沈黙の後、お冷を頂戴するため席をはずした。
〈あーあ、何で面倒なこと言っちゃったかな。いつもの明日香のたわ言じゃない。何を熱くなっているんだか。ああ、そっか。今日がやたらと暑いからかな。それとも就活でちょっとナーバスになっているからかしら?〉
 自戒にして後悔。だが、階段を下る足取りが軽快なのに気づく。
〈でも、普通の何処がいけないのよってのも前からあったしなあ。確かに私は明日香の家とは違って両親の仲は良いし、一人っ子だから兄弟のいる気苦労とかは分からないけど、それだって全然良いじゃない。中流サラリーマン家庭の一人娘の何処が悪いのよ〉
 明日香に対してはっきり言ってやった事に、ある種の爽快感を直子は覚え始める。だが、その即席の痛快感もお冷をグラスに注ぐまで。再び二階の席に戻って気まずい空気を払拭し、まるで何事もなかったように振舞うのに、いささかの不安がよぎる。
〈女社会って面倒臭い〉
 いや、実社会もきっとこんなもんなのね。とりあえず表面では笑って、私たちの間柄は順調ですって事を装い、人間関係をキープし続けるという意味では。直子はそんな冷めた悟得をする。また、どうせすぐに皮相的ではあるけど、ノーマルな空間になる事は分かっているし、社会に巣立つための予習としても一つ頑張ってみるかなあ、と若干の決意をもって階段に足をかける。その前に気つけ代わりのお冷の一気飲みを、誰にともなく披露して。

 夕焼けの木漏れ日の趣を味わえる。
 直子は一人、公園でブランコにもたれながらそう思った。
〈だいぶ、気温が落ち着いてきた〉
 今日は猛暑日とはいえ湿度はなくカラっとした気候。夕暮れに差し掛かってからは微風も吹き始め、すっかり温くなってしまったカルピス・ウォーターも喉に通りやすくなってきた。徐々に一日がクールダウンしていき、自分もまた平静になっていくのが分かる……と直子は沈静化する暑中を実感しつつも、噴水の近くで手ぬぐいを片手に青空将棋を興じる一行を見ると、
〈こんな日にわざわざ外で将棋とかするかな。UVとか気にならないのかしら〉
 と自分も同じ外に出ているにも関わらず、眉間に皺を寄せて彼らに視線を送る。そんな直子の眼差しも気にせず、市井の棋士達は禿げ上がった頭をナデナデ、二手指しがどーのこーのと吠えながら、汗ばんではみ出た脇毛も露に、駒を打つことに熱中している。
〈タフだなあ、オジさんって〉
 直子は半ば呆れながらも、缶ビールと団扇一つで暑さを凌いでいる赤ら顔のオジサマ達の姿に、高度経済成長期を乗り切ってきたしたたかさを垣間見た。
 明日香と別れ近場の公園に来てから、三十分が過ぎた今になっても、直子はアルミ缶を相棒に所在無くブランコを揺らしていた。半ズボンを履いた少年がブランコに乗りたいのか、不機嫌そうな面持ちで直子を見つめている。だが、直子は園内に一つしかないブランコを占拠しながら、イイ大人が子供の遊具と戯れているんじゃねーよ、と言いたそうな無垢な子供の瞳にめげる事なく、やはり神経図太く居座り続けた。やがて根負けして少年は、ダッシュしてスベリ台へと向かうに至る。
「夕方のブランコは、物思いにふけるための、大人の優先席なのよ。ふう」
 直子、深い嘆息。
〈就職活動はストレスが溜まるから、週に一回はみんなで集まりパーっとしようとか言っておいて、余計に疲れてどうすんのよ〉
 明日香と一緒にいる空間は決して心地よいものではない。いや、明日香に限ったことではない。男女問わず多くの友達全般に対してそうだ。不快というほどではないが、心底リラックスできるという状態ではない。それはいつの頃からだろう。子供の頃はいちいち対人関係に気を使うことも、また、それについて考える事もなかった、と直子は記憶している。
〈あ、そうか。佐和子がいじめにあってから、人間関係を慎重に考えるようになったんだ〉
 中学時代の友人の佐和子。その佐和子が校内で勢力のある女子グループのリーダー格が片思いしている男の子に対して色目を使っている、という噂がたった。そこでリーダー格の女子は手練手管、あることないこと吹聴し佐和子を貶める情報を広めた。行き着いたとどめの伝令は「直子、今度から佐和子の事はムシね」だった。直子は戸惑いながらも頷くしかなかった。その台詞の裏には「佐和子と口聞いたらゼッコーだから」という暗黙の条件があることを知っていたから。
〈でも本当は谷本君の方が佐和子のことが好きで、夏美が嫉妬交じりに佐和子を仲間はずれにしたんだよね〉
 直子は事実を知っていた。いや、仲間内の女子のほとんどがそれは知っていた。だが、誰も逆らいはしない。自然と発生していく女子のヒエラルキー。特に学校内という狭いコミュニティでは、雰囲気的にトップな存在の女子の意見は汲み取らなければならない。でなければ自分が村八分。
 直子はその出来事から社会の仕組みの基礎を知った気がした。以来、この男子はあの女子が好きだから気をつけて接しようとか、彼女はあのバンドが好きだからあの歌を批難するのはよそうとか、あの子の家庭は某宗教団体に入信しているから発言には気をつけようとか……言ってしまえば相手の顔色を窺う生き方をするようになってしまった、ということ。
〈生き方って言うと大げさだな。人並みに相手を推し量るようになったってことね。それって大人のマナーだし〉
 兎にも角にも、他者とのアプローチの仕方を成長するに従い学んでいき、その結果、直子が得たものは、何だか息苦しい、だった。いつの間にか気の置けない仲間もいなくなり、移り変わる友達は何処か距離を保って関係を維持。長い付き合いの友人もいるが、そのつながりはタイトロープ。少しでも波風を立たせてみれば、プッツリと切れる危うさを常に孕んでいる。決して絆にはならない。最初は女同士だから脆いのかな、と直子は解釈してはみたが、少ないとはいえ自身の男女の間柄を経た上でも、性別関係なく浅薄な人間関係のそれは拭えなかった。人間同士、分かり合えるのは、理解し合えるのはここまでが限界なのかもね。曖昧で抽象的な線引きをもって、やるせない諦念を抱く直子。別段、ご近所付き合いは回覧板だけの希薄なネットワークと言われる現代社会。従ってそれに対して悲嘆に暮れるほど、直子はシリアスに受け止めてはいない。ただ時折そんな状況というか環境というか、「ああ、結局独りなのね」と思ってしまう事自体に、冷めていく自分を感じる。
 ずっとは一緒にいられそうにない。
 そんな想いに対して嫌悪感と一抹の虚無感を直子は覚えてしまう。
 握りしめていた空っぽのアルミ缶が、手のひらから滑るように落ちた。ワンテンポ遅く直子はそれに気づく。
「ダメだ、ダメだ。考え込んじゃダメだ」
 オーバーリアクション気味に直子は顔を横に振ると、力ないその指をして缶を拾い上げ、もう一度強く握りしめる。アルマイトの缶の表面は生温かい。
〈春から就活準備して、実際はまだ内定一つも貰ってないから、そりゃあ気落ちもするけど、ネガティブ思考はダメだよね。ポジティブにいかないと〉
 直子はうん、うんと一人頷首すると、
「だな」
 と張りのある声で呟いた。アレ? 誰かさんの口癖だったぞ。直子はすぐに、口を尖らせて一所懸命にストローに吸いつく、猿顔の問題児を思い出す。
〈そういえば、アイツはポジティブな奴だよなあ。ん? でもちょっと違うかな。どっちかというとノー天気な性格の持ち主というか、のん気に生きている。世の中の一線から半歩踏み外れていて、自分で勝手に作った我が道を往くって感じ。結局、アイツは世の中を見ていないから、マイペースで生きていくのかなあ〉
 同じ景色を見てきたと思っていた。同じ季節を駆け抜けてきたと感じていた。それなのに徐々に違う方向をお互いは進んでいる気がする。
「俊……」
 思わず口から漏らしかけた、禁忌(タブー)なる殿方の姓ならぬ名のほう。寸止めで踏ん張ったものの、一方でそれは直子が認めざるをえない、不安と寂しさの裏返し。樋口俊介と自分が見ている光景は全く異質のものであり、皮膚感覚で伝わってくる世知辛い風も、違う角度で感じているのではないか、と。
〈俊介と私は別個の存在になってきている〉
 漠然とではあるが、そんな不思議な感覚にとらわれている自分に直子は気づく。気持ちが分かり合えないといった類いの、おセンチな心の隔たりではない。それは共感としての齟齬。
〈性別で括れば、男女の違いはある。だけど同じ人間として捉えてみれば一緒よね。それこそ同じ地球人じゃない。同じ日本人じゃない。そうよ、グっと近くなる〉
 直子は樋口との広がりつつある空間(と直子が勝手に妄想する)を狭くしようと考える。不可解かつ強引な比喩をして。
〈でも私と同世代の人なら、圧倒的に私の心情、というか状況に近い人の方が多いはずよね。全然当たり前の、何ら変哲のない、ごくごく一般的な青春のハシカ的な悩みの一つよね。ううん、悩みなんてレベルじゃない。ただの疲れ、ストレス。だいたいアイツがオンリーワンすぎるのよ。というかそもそも何で私が、アイツと同じじゃなきゃダメ的な事を考えなきゃいけないのよ〉
 手前勝手な雑念に終止符を打とうとする直子。空のアルミ缶をゴミ箱へ投げ入れると見事に収納。気分を良くし、成人女子、ブランコを人目憚らず漕ぎ始める。脚力で勢いをつけて、前へ後ろへ。微かに風を切る、振り子の運動。
〈摩擦や空気抵抗がなければ永久に揺れ続けるんだけどなあ。このままずっと〉
 まるでその軋むブランコをして、渚を走る白のクーペに乗り「このままずっと走れれば良いのにね」と青臭い文句を謳っているような直子の心の吐露。しかし、ここでも、
〈そういえばフーコーの振り子は地球の自転を証明するために使われたとか何とかって、アイツが言っていたな〉
 とまたも樋口俊介の残滓が浮いてくる。樋口の無駄にして冗長な語りを聞きたいのか。それは自分にとって大人の子守唄なのか。
〈大人の子守唄ってのもな。何か演歌みたい〉
 一人所得顔の直子。大の大人がぽつねんとした状況下、ブランコを漕いで笑っている姿は、はたから見ればアブない光景である。だが、時分も進み落陽の園内。薄明かりを頼りに三々五々、公園の臨時の客人たちは帰路に着こうとしている。直子を取り巻く烏合は少ない。
〈あ、何だかもうお腹が空いてきたな〉
 一瞬、樋口と一緒に夕飯でも、と直子は考えたが、すぐに内心キャンセルした。しょっちゅう会って変な誤解されるのもなあ、と条件反射にも似た自意識過剰のそれをして。だが、不意に直子は想起する。
〈何となくだけど、アイツとなら、別に幼馴染みだからとかじゃなくて、ただフツーに気兼ねなく、ずっと一緒にいられるような気が……〉
 とそこまで憶(おも)ってはみたが、すぐに思考停止。そして、いかん、いかん、と首を横に振る。
「やっぱり夕方とはいっても夏だもんね。暑いもんね」
 と謎めいた独り言を大きな声で吐く。実感ではだいぶ凌ぎ易い気温になっているのにも関わらず。
〈乙女心は複雑で困る〉
 直子は果たして一人照れ笑いをして、夕闇の中、なおもいたずらにブランコを漕ぎ続けていた。
              *
「御社の企業理念に大変共感し……御社の経営方針に大変感銘を受けまして……ううん、何か違うな」
 朝のラッシュ時のピークが過ぎたとはいえ、まだまだ込み合っている通勤・通学電車内。小声ながらも夢遊病のように直子は「御社の」という台詞を繰り言していた。
〈今日の面接は落とせないぞ〉
 書類選考の時点で落とされるだろうと踏んでいた某大手IT企業。そのように高を括ってきた、チープ革命の潮流に乗る旬なIT系の会社から、まさかの面接のプロセスが。そして、事はとんとん拍子に進んで、さらにまさかの最終面接の一歩手前の第三次面接。瓢箪から駒、棚からぼた餅、と最初は射幸心気分で、今まで面接室のパイプ椅子に座っていたのだが、ここまで展開してくると否が応でもテンションが上がってくる。話が現実味を帯びてくる。直子、気分上々、意気揚々。
〈失礼のない対応を。隙のない返答を〉
 直子は今朝、家を出て駅に向かう途中にも、踵を鳴らして歩くクセを止めて背筋をピンと張り、粗相のない姿勢を心がけた。誰が見ているか分からない。何処に面接官が潜んでいるか分からない。遠足は家に着くまでが遠足、の精神で面接に臨まないと。就職戦線、ちょっとした油断も許されないのだ! と被害妄想にも近い意識をもって、勝手に己に檄を飛ばす常盤直子、二十二歳・独身。
 従って、
「私は……いや、自分を指す言葉はもっとへりくだって言った方が良いかな。小生は……愚生は……拙者は……」
 と完全なる面談を決め込むため、ブツブツと独言を続けながら、彼女は応答の模索をしている。車内の人込みも気にせず、というか衆目に気づかず。兎に角、自分の世界に没頭して。だが、吊り革に手をかけ隣に立っている、新人類世代と思しきオッサンのポマードの匂いが、直子の鼻にかかった。直子は自分の手の甲の辺りの匂いを嗅ぐと、
〈うん、私はオッケーだな。適度な芳香。スマートなコロンの付け方だ。うん、うん〉
 身だしなみもダイジョーブ、と車窓に薄く映る自分の姿を見て、一人納得。揺れる車内、隣の乗客とぶつかりながら、袖触れ合いつつ、静かに(いや、それほど静かではない)闘志を燃やしている気分の直子。やにわに隣の乗客の顔を覗いてみる。新卒社員らしき背広姿の彼は、俯いたままに虚ろな目で携帯電話のモバゲーを勤しんでいる。
〈彼も兵士なんだな〉
 いつもは車内で疲れきった表情を浮かべている中年サラリーマンやOL諸氏に対して、それらはフィクションのような世界、として直子は捉えていた。だが、今は違う。同属意識が萌芽している。いや、戦友として彼ら、彼女らを見ている。私もこれからTゾーンのケアも忘れて、仕事に没頭して色を失った表情のまま働いていくんだな。悲壮感を込めた直子なりの覚悟。しかし、それは彼女にとっては悲観的な将来像ではない。皮肉でもない。あくまでも前向きな決意なのである。これから仕事上、取引先や上司に対して同僚の社員と共に、オシャレなイタメシ屋でランチをつつき愚痴をこぼしていくだろう。オヤジ部長からささやかなセクハラも受けるだろう。イケメンな同期と恋仲になり、お局女子事務員に睨まれたりもするだろう。雇用の液状化の進む今日、派遣社員との軋轢もあるだろう。
〈だけどそれら全ては心地よい疲労になるはず。充実したストレスなのよ、うん〉
 既に社会人になったつもりの直子。彼女にとっての労働観は希望的観測ではあるが、見通しは明るい。勝ち戦気分。
〈そうそう。就職戦線の段階ではまだまだブートキャンプ。戦地、つまり現場に配属されてからが実戦なのよ!〉
 両手で吊革を強く握りしめて、僅かに足を浮かせて思わず軽く懸垂。気合いの証左。顔が徐々に上気していく。それは蝉が声高々と謳い上げる夏の晩期の隆盛、車内の蒸せる熱気から起こった生理現象ではない。うまく進んでいなかった就職活動に対して、企業戦士になりうる資格が自分にはないのだろうか? と危惧していたこの頃、ついぞやって来た赤紙の通知。戦場に立てる準備は整った、という緊張感。つまり社会に飛び立つ助走の時は来ている。そんな発奮の思いが、体の内側から直子を熱くさせる。
〈あとは甲種か乙種か丙種か、徴兵検査を乗り切るだけ。ディス・イズ・ザ・面接を〉
 社会イコール戦場の図式がやたら強烈なイメージにある彼女。どうにも大仰で発想が古いのだが本人は気づかず、いたって真摯に幹部クラスが待ち受ける第三次面接に臨むのであった。
〈死して屍拾う者なし! 一人一殺!〉
 直子はもう一度胸中、そのように意気を上げた後、
「御社は……御社の……御社に……」
 と件(くだん)の言葉を魔法のように、また、密かに唱え始めた。

 某IT系企業の本社。今までは支社の方で面接を受けてきたので、実際に本社に来るのは第三次面接の今回が初めて。遂にラスボスの城までたどり着いたか、と鼻息を上げて直子は乗り込んだものの、本社ビルのファサードからエントランスにいたるまで、その作りは支社のそれと寸分違わないものではなかったか、と思い返しどうしてかテンションが下がった。いや、この会社のビルだけではない。この界隈に軒並み建っている、バベルの塔を匂わす高層ビル群は、ほとんどが同じに映る。どうしてだろう?
〈そんなこと気にしている余裕はないでしょ〉
 と直子は再び自分に活を入れる。だが、不意に浮かんだ、一考するに無意味な、その疑問符が妙に引っかかる。とはいえ今、新入社員らしきキャリアウーマン候補的な女性に、面接室まで案内されている状況下、背筋から指先まで整っている彼女に対して憧憬の眼差しを送っているのも事実。
〈私もデキる女になるぞ〉
 一方、十三階段を上り行く心持ちで足を運んでいる大理石模様の渡り廊下。お互いのヒールの音が交差しながら、虚しく残響して直子の耳に聞こえるのもまた真理。そして、何気なく眺めていた案内係の彼女の肩。ピンとのばした張りのある背面。イルカが水面から飛び出した時の、しなっている形状のようなうなじから続く、流線的な撫で肩。それが何処か寂しげで、また、悲しげに直子には見えた。
〈寝不足なのかしら、この女の人?〉
 第五会議室というプレートがはられたドアの前で、直子が寝不足ながらもデキる女と認める彼女は立ち止まり、
「どうぞ、こちらです」
 と優しい声で入室を促す。部屋の前には他の就職活動学生が待ち合っている姿は見えない。一人ひとりに対しての入念な面談なんだ、ともう一度帯をギュっと握りなおす思いの直子。
〈ガチンコ勝負、か〉
 喉が渇く。一度化粧室に行って、トイレの洗面所の水でいいから喉を潤したい、という心境。
〈もう、遅いか。賽は投げられたもんね〉
 音を出して唾を飲み込み、喉の渇きを誤魔化す。ドアノブに手をかける。その時、
〈あ、ダメだ、ダメだ。まずはノックしないと〉
 と思い出し、
「あの、もう入室してよろしいのでしょうか?」
 と側でモナリザの雰囲気を醸す不敵な笑みを浮かべている、キャリアウーマン女史に直子は神経質にも尋ねる。
「ええ、どうぞ」
 ウィスキーの「ウィ」の笑顔で彼女は答える。フランチャイズ店で見かける営業スマイルだ、と刹那感じつつも直子は彼女に軽く会釈し、ドアをノックする。どうぞ、と扉の向こう側から声が聞こえた。
「失礼します」
 すると扉を開けた瞬間、スーパーの鮮魚売場の生臭いニオいが、直子の鼻に入った。
〈え?〉
 一瞬、鼻腔をくすぐった不快な異臭。だが、二人の面接官が座る椅子と長机、それと面談者が座るパイプ椅子だけが配備され、整理され簡素かつ、空調機器も正常作動し適温を保つ室内。その臭いはこの部屋には不釣合いすぎる。セピア色の遮光カーテンが、さらに落ち着いた雰囲気と清潔感を彩っているにも関わらず。直子は、このシチュエーションに似つかわしくない臭気を疑い、静かに鼻で息を吸ってみる。先ほどの臭いは感じられない。
〈気のせいか〉
 直子はすぐさま気を取り直し、恐らく重役であろう中年の面接官と、中間管理職の地位についたばかりであろう(直子が勝手に想像するに)三十代前半と思しき面接官に向かって、昨晩風呂上りに全身姿見の前で頑張って練習した、四十五度の会釈を試みた。意中、ばっちりの角度だ、と得心していると、
「どうぞ、お座り下さい」
 と歴代総理大臣の遺影のごとく、眼鏡をかけ白髪交じりの如何にもな風格の中年面接官は、その姿に合ったバリトンの声で着席を促した。直子は再び黙礼をして椅子に腰を掛けた。
「今日はよろしくお願いします。私は人事部で部長をしている小松と言います。あちらは情報処理部で統轄をしている上田次長です」
 小松と名乗った中年面接官が、柔和ではあるがドスの効いた声域で自己紹介をすると、隣に座っていた上田と呼ばれた面接官は、机上に置いてあった履歴書のコピーを一瞥した後、直子に向かって軽く頭を下げた。
〈履歴書の原本はあの威厳のあるオジサマの側にある。重役クラスの大物はアッチか〉
 やはり幹部との面接だわ。直子は腹に力を入れて、一度立ち上がり、
「今日はよろしくお願いします。常盤直子と申します!」
 と張りのある声で答えた。小松は微笑を漏らすと、
「ああ、どうぞ座って、座って。リラックスしていきましょう。私はあなたと面接ではなく、会話をしていきたいんですよ」
 場の空気を和ませる一言。あ、この人良い人だ、と直子は直感し、
「失礼します」
 としとやかに座り直した。そして、心の内で「御社の」を復唱。
「えーと、常盤直子さん」
 小松は机上に肘を乗せ、揉み手をしながら、ゆっくりと口を開いた。
「はい」
 直子は勢い任せではなく、きっちりとした抑揚で返事する。
「今回は我が社の面接を受けていただいて、ありがとうございます。まず月並みですが、何故常盤さんは我が社に興味をもたれたのですか?」
「はい」
 と直子は滑舌よく答え、つま先に力を込めると、
「御社のIT業界に置けるビジネスの展望が、明快かつ有望に見えたからです。現状では閉塞感のあるITビジネスの中で、ブログやプロフなどのウェブサイト・ツール、ウェブ2.0やオープン・ソースの概念などに、インターネットの意義を見出し、また、呈示し、それらが可能性のある事業であることを喝破した所に、共感を得ました」
 よし、台本通りすんなりと言えた。直子は正直、パソコンやインターネット関連の知識などないし、興味もないのだが、ほぼ一夜漬けのパッチワーク的学習が功を奏し、内心得意顔になった。
「常盤さんはブログとか、自分のホームページとか作ったりしてるの?」
 とここで隣に座して沈黙していた上田からの不意打ち的な質問。上田は履歴書のコピーに目線を落としたまま、直子の方は見ていない。
「あ、えーと、私自身は……」
 そこまで直子は喋ってはみたが、いったん言葉を詰まらす。パソコンに疎い直子。一応は自分のパソコンを所持しているが、せいぜい小説の真似事でワードを使っているぐらいで、その機能はストップ。ネット・サーフィンもほとんどせず、デジカメや音楽の編集にパソコンを使用することもなく、ハードディスクドライブの空き容量は一向に埋まらない。そんな直子は何とか頑張って、IT用語に付帯した言葉を強引に捻り出そうとする。カタカナ語の連発を試みる。
「その……ワープロ、ではなくてワードを主に使っていまして、その……ウィンドウズはやはり凄いなあ、と感心する部分が多々ありまして……いや、時折インターネットでヤフーにアクセスしては、多くのチャットに参加をする始末。それに電子メールの使い方に関していえば、これはハッカー並みでありまして、非常に得意分野であると自分では思っております。それにNXパッドとマウスのダブル・クリックの捌き方といえば……」
 兎に角、おぼろげに記憶しているパソコン付随用語をいたずらに羅列させ、私はかなりキーボードをブラインド・タッチできるんだぞ、と意味不明にも相手に思わせたい直子。全くもって支離滅裂だが、何にせよデジタル世代のメカに詳しい女をアピールしようと奮闘する。
〈パソコン、パソコンと言えば……モバイル、半導体、光通信、マイクロ・ソフト、ムーアの法則、AI、二0三八年問題、週刊アスキー、出会い系サイト、2ちゃんねる、アルファ・ブロガー、ツイッター、インスタ映え、グーグル・アース、ファミコン……あれ? ファミコンってパソコンだっけ。ファミコンってプレステじゃなかったっけ? え、プレステって何だっけ? あ、そうかプレステってニンテンドーDSってやつか。CMでやってたもんね。冴えてる、冴えてる。でも、セガ・サターンってのもあった気が……〉
 いきなり頭に詰め込んだ即席知識ゆえの混乱。カテゴライズされてない用語が脳内に入り乱れる。どの単語を抽出していいか分からない。だが、直子はひとまずの括りを着けようとする。
「……でありますから、ブログなどは炎上を引き起こすものと考えていますので、アルファブロガーになるのは至難の技かと考える次第であります。ですからこれからのネット社会の展望は、ツィッターでぼやく事に可能性があるのではないかと思われます、はい」
 何とかまとまった、と本人は感無量。直子は面接官二人のリアクションを見る。上田はカミソリ負けした顎をさすりながら、静かに「うーん」と唸り、小松はクラシック鑑賞するかの様子で悠長に目をつむり、僅かに俯いて首を横に振っている。両者、その表情からは底意は窺えない。だが、小松の眼鏡が曇ったように映った。上田は履歴書のコピーからいったん目を遠ざけ、所在なさげにカーテンの隙間から覗ける窓の方に視線をやった気がした。
 やってしまったかな。直子がそう憂慮し始めると、
「そうですか」
 小松は暫時の間の後、トーンダウン気味にそう呟いた。そして、大きく息を吐いた。その時、直子の鼻に再び先ほど感じた異臭が、いや、腐臭がかすった。
〈また……〉
 瞬間、直子によぎった怪訝な思いを他所に、小松は目を急に見開き、直子を舐めるように見回した。まるでキャバクラ店のキャバ嬢達のプロフィール写真を物色するかのように。
〈ん? 何か……〉
 意識しすぎているのだろうか? と直子は顧みたが、どうにも小松の瞳孔の動きが忙しい、というかイヤらしい。自分が値踏みされている感が否めない。それに隣に座っている上田も小松を瞥見すると、脂っぽい微笑を浮かべた。それは「また始まったか」と言いたげな、悪い癖を見抜き、また、許容する貌(かお)。
〈何か、変だぞ〉
 直子は恐縮した。それは面接の緊張感からではない。ただ模糊とした懸念が広がっていく。
「そうですか。なかなかユニークな見解ですね。常盤直子さんらしさが出ている個性的な話なのですが、我が社はその個性、つまり個人に重点を置く会社を根差しているんです。個を尊重し、個を大切にする事によって、組織は息づき成長していくものなのですよ。だからもっと詳しくあなたについて尋ねたいんですが……」
 とそこまで小松は言うと、眼鏡のブリッジを軽く押し上げ、
「常盤さんは電車とかの女性専用車両を普段は使いますか?」
 と奇妙な質問をしてきた。と同時に例の腐臭が今度は明確に直子の鼻に伝わってきた。
「え? 女性専用車両ですか」
「はい、そうです。いえね、男女雇用機会均等法の改正法も施行されたのですが、やはりまだまだ会社というのは男性が多く占めるオーガナイゼーションなんですよ。そこで常盤さんにおける女性と男性の対置的な意識というか、ひいては異性観。あなたが男性社会に身を委ねて働く、それらの認識を知りたいのですよ」
 要領がつかめない小松からの問い。言っている意味がよく分からないが、答えを窮するのはマイナスであると直子は危ぶみ、
「あ、えーと、そうですね、私は特に女性専用車両に、頻繁に乗る方ではないと思うんですが……」
「それはチカンというリスクに遭っても構わないという事ですか?」
「は?」
 さらに意表を突く小松からの質問。そして、小松が何らかのアクションをすると件(くだん)のニオいが残る事に直子は気づく。
〈この人の口臭? それともワキガ?〉
 直子は手を一度口に当てて咳払いをする。一方、小松は食い入るように眼鏡を通して直子を見つめる。
「え、いやあ、構わないという事はないのですが……」
 と直子が便秘気味の腸に、無理やり力を入れるかのように絞り出した声で答えると、小松は間髪入れず、
「そうですかあ、常盤さんは別に男性からのボディタッチを気にするような、器の小さな女性ではないのですね。いやあ、男性社会の荒波に負けない、素晴らしい気概が感じられますねえ。女性的強さを覚えますよ。仕事に対する情熱というか、ヤル気も窺えますね。そうヤル気がね」
 一人何度も頷き、自己満足の小松。隣の上田は相変わらず履歴書のコピーに目を向けたまま、薄ら笑いを浮かべている。そして、「スキだな、部長も」と囁いた声が確実に直子の耳に入った。瞬刻、直子の内に暗雲が湧き上がる。
「それでえ、それで、常盤さんは付き合っている男の人とかいるのかな? いや、この質問はね、あなたの社会人の女性としての習熟度を知るためのね……」
 鼻息も荒く小松は一方的な質問を直子に浴びせる。その口調は慇懃ではあるがどんどん砕けていって、忘年会の無礼講、いや、合コンでアルコールが入り親しさを主張するようなノリ。
〈あ、ホントに面接でこういうのがあるんだ〉
 直子は驚きと発見の入り混じった、不可思議な諦観をする。膝の上に添えられた軽い握りこぶしの手の中では、粘着性の強い汗が吹き出る。スカートの三角地帯を覗かれているのではないかと疑い、思わず太腿に力を入れる。そして、多少の歯軋り。
「はい、そうですね」
 直子は苦笑いしながら、目くるめく小松からの質疑に応答する。小松が喋れば喋るほど、室内に不快な臭気が充満していく。隣に座るニヤけ顔の上田は足を組み、小刻みに貧乏ゆすりをし始めた。直子は引きつった口を強引に開き、何とか笑顔で対応している自分に感心しつつ、キャリアウーマンに映った先の案内係の彼女の目じりのファウンデーションに、大福の表面のようなヒビがあった事を思い出した。

 直子が街路に行き交う背広姿の人々とすれ違う度に、自分の立ち位置と彼らとの隔たりを覚え始めたのは、死臭に満ちた室内が存在する会社ビルを出てから間もなくだった。
「はあ」
 思わず大きく溜め息。全身から発散する例えようのないダルさはなんなのだろう?
〈今までは他の会社の面接もそうだったし、複数での面談やディスカッション方式だったからアレだけど、個別の面接まで行き着くとあんな風になるのは常套なのかしら〉
 だとしたらあのエロ部長がしてきた質問に対する私の対応は落第点だったな。直子は省みる。強張った笑顔、曖昧な受け答え、何よりも自分を殺しきれなかった内に秘めた怒り。
〈だけど、やっぱり、あんなのって〉
 反省しようとしても納得できない。あのような生理的不快感を促す状況を堪える事が、面接の意義なのであり試練なのだろうか。彼ら面接官は敢えてセクハラまがい、嫌がらせまがいの質問を浴びせて、自分を試したのだろうか。直子はそう深読みしてみる。しかし、あの中年面接官が質問の合間に漏らす下卑た笑い、その度に口元に寄る老木の樹皮のような皺、眼鏡のレンズの裏から覗ける歪んだ双瞳(そうしょう)。積極的に質問はして来なかったが、コバンザメのようにエロ部長に引っ付き、常時隣で小刻みに体を揺らしながら、息を殺した笑みをちらつかせていたヤギ顔の次長。その二人の行動、言動を見ていると、どうも瀬踏みのそれは窺えそうにない。動物的、本能的なものからくる、単純な下心審問。
〈最初はイイ感じに見えた気がしたんだけど〉
 やはり空気が変わったのは、上田からの「ブログとかするの?」の問いで、無茶な答えをしてからではないか。直子は思い返す。あの時、ちゃんとした返答をしていれば、その後の流れは変わっていたのではないか、とも。つまり、
〈あの時点であいつらは私を見限ったんじゃないかな。この女は使えそうにない、みたいな。だから興味の対象を社会人としての私じゃなく、ただの女としての私に切り替えてしまったんだろうな。それこそエンコーさせてくれそうな女子高生よろしく、この女ならどれだけエロい事が許されるんだろうと値踏みして〉
 もし入社したらあいつらの下半身担当が私の部署になるのかしら。何だかブラのホックの辺りがむずむずする。直子はブラウスの襟周りを掴み、バタつかせ扇いでみる。
〈結局、あんな短時間じゃ向こうは表面的なことしか見えないんだろうな。見てくれだけの判断。ま、私だってあの会社のブランドぐらいにしか履歴書を送った理由はないし。そうか、お互い様か。どっちも何も見えなかったし、見ようとしなかったんだ〉
 直子はコンタクトレンズのPRのティッシュ配りから、ポケットティッシュを無意識に受け取ると、
「やっぱダメだわ、色んな意味であの会社」
 と開き直り気味に一人吐いた。
〈何だか私の夏は終わった気がする。さらば熱闘甲子園かな〉
 蝉声に湧く並木の遊歩道。そこに跋扈するタンクトップ姿の若者たち。真夏の音を、盛夏の風景を横目に直子はただただ分かり易く凹んだ気分に浸る。身に起きた事を悲劇としてとらえカタルシスを求める。とその時、携帯電話が鳴った。相手は明日香だった。話をするのも億劫だったが、また後で電話をかけ直すのも煩わしいと思い、乗らない気分で電話に出てみた。
「もしもし」
【あ、どーだったの直子ぉ】
 緩慢ではあるが、甲高い明日香の声。直子は思わず舌打ちをするが、それは電話をちゃんと離して。
「どうだったのって?」
【面接よ、面接。言ってたじゃん、今日は大事な面接があるって】
「え? 私、明日香に言ってたっけ」
【あー、ヒっどーい。直子、忘れてるんだあ。冷たいぃ。私たちの仲で知らない事があるわけないじゃん】
 明日香お得意の親友アピール。この台詞は誰にでもこぼす事を直子は知っている。
「あ、ごめん、ごめん。そうだね、この前サイゼで会った時に話したっけ。で、面接は無理っぽいかな。何かいまいち実力を発揮できなかった感じだし。それに相手の面接官がキモい質問とかしてきてね……」
【まあ、イイわ。今さ、エッちゃんとトモとかといるんだけど、これから一緒に遅めのお昼にしない? ショッピング兼ねて調度そっちの方に向かっているんだあ】
 直子の台詞を途中で遮り、自分の要件を優先する明日香。直子は開いていた口をゆっくり閉じると一息漏らし、唇を尖らせた後再び電話機に問いかける。
「あれ、メグはいないの?」
【恵美? 知らない。今何やってるか分かんないから、電話してないし。一人でどっか頑張ってるんじゃないの】
 明日香は他人事のように吐き捨てる。切った、か。直子の第六感が働いた。
 少しでも自分に気にいらない事をされると、明日香はすぐに自らの縄張りから仲間を追い出す。追いやられた本人は気づかないうちに蚊帳の外。あくまで明日香は水面下で事を進める。挨拶程度、すれ違う分には笑顔で対応。いつまでも友達を装うが、しっかりと周りには手回しをして、外堀を固めて締め出しを行う。いつの間にか狙われた女の子は一人ぼっち。そんな光景を直子は何度も見てきた。だから直子は余計な波風を立てず、無難に明日香との仲は保ってきたわけなのだが。
【ね、OKでしょ。今から行くね】
「…………」
【直子?】
「ごめん、用があるから無理だわ」
【え? ちょっと……】
 明日香が問い返すのを他所に直子はすぐに電話を切った。プツン。電源のボタンを押した時に残ったその音が、どこか紐が切れるそれとダブったように直子には聞こえた。
〈これでいい〉
 強がりと不安が入り混じった複雑な感情。詮ずる所、それは戸惑い。夏の八つ時、これから用事などない。ただただ、そぞろ歩き。けれども、エッちゃんのバイト先の愚痴話も聞きたくないし、トモの彼氏自慢ももううんざり。何よりも明日香に会いたくない。直子は言葉に出してもう一度納得する。
「これでいい、これでいいのよ」
 とマニフェストのごとく。寄せて上げる天使のブラの効果も空しく、フラットな胸を張って闊歩する直子。せめて力強く歩いていこう、と心がける。だが、まだ頭にしこりが残る。再び明日香から電話がかかってきたら急に電話を切った事を、電波が悪かった、と答えて言い訳したい情動が襲う。実は用なんてないから一緒にベッカーズかどっかでお昼しよう、と言いたい衝動に駆られる。ごめんね、と許しを請いたい本願が湧き上がる。しかし、携帯電話の音は鳴らないし震えない。ブルーメタリックのボディの携帯電話は、その静態を頑なに崩そうとしない。
〈いっそこっちから電話を……〉
 と弱気にも直子が再び携帯電話を開いた時、通りの並びにユニクロが見えた。
『せめて、ユニクロ・ファッションにしなさいよ。アンタは洋服が高い高いと言うけど、ユニクロならリーズナブルなお値段で一式買えるから』
 不意にそんな台詞を直子は思い出す。とある過去、その助言めいた言葉を発した主は直子本人。「アンタ」という対象は宇宙人探しに没頭中の樋口俊介。
「樋口……」
 ショーウィンドウ越しに覗ける夏物Tシャツ処分の五百円のセールのワゴン。思わず直子はその場に樋口の姿を見ようとした。無論、樋口の気配はない。
 既にオープンしている折りたたみ式のマイ携帯電話。バッテリーの残量は三分の一を示している。「充電切れてケータイが使えない状態なんて、マジありえないでしょ」と前に明日香が言った台詞を直子は思い返した。
〈ありえる。携帯電話の電池が切れたって怖くなんかない。後悔なんかしない〉
 直子は電話を強く握りしめる。アドレス帳から茂森明日香、ではなく樋口俊介の名を引っ張り上げてくる。
〈久しぶりの電話だから、別に、ねえ〉
 そして、ほんのりと自分に弁明して発信をプッシュ。呼び出し音が一回、二回と続くにつれ直子の胸が高鳴る。ひどく緊張している。そんな自分を奇妙に感じると同時に、はにかむ思いを抱いていることにも気づく。
【何だよ】
 案の定、ぶっきら棒な声。いつものアイツの声。相変わらず態度が悪い、と思いつつも直子は安堵した面持ちで電話に話しかける。
「何だよ、じゃないわよ。折角、久しぶりに電話をしてあげたのにさ。どうせヒマなくせして」
【俺のヒマは常に宇宙と人生におけるセマンティックスを考える時間に割いてるの。だから時間に余裕はあっても、時間に無駄はないのだよ、お嬢さん】
 いつも通りの意味不明な理屈。淡白に喋ってはいるが、その言葉遣いは冗談めいている。直子をちょっと小バカにして話しているのか、それとも樋口が天然バカなのか。しかし、その経常のシャベリが直子のツボを突いている。
「セマンティ……ってよく分からないけど、ヒマには変わりなそうね」
【ヒマといえばヒマだが、お前のヒマに付き合っているヒマはないぞ】
「何を言うか。この就職戦線の最前線に立っている私が、どうしてプータローのアンタにヒマを指摘されなければならないのよ」
【だったら何用ですかな、お嬢さん】
「え? それは、そう! 暑中見舞いよ。暑中見舞い代わりの電話よ。感謝しなさい」
【書中見舞いってハガキか手紙だろ普通。暑中見舞い代わりの電話に俺はどう答えりゃいいわけよ】
「もう、いちいちうるさいなあ。何なのよ、用がなければ電話しちゃダメだっていうの?」
【へ?】
「あ……」
 今の台詞、まずかったかなあ。直子は振り返る。用がなければ電話しちゃダメなの? それ即ち、話なんていいから、アナタの声が聞きたいの~というラブリー方程式が成立、と思わず深読み連想。誤解するなよ、樋口俊介! そう直子は心奥(しんおう)けん制しつつ、
「えーと、その、そうよ。どうなのよ、えーと……」
 何とか話の用件を繕おうとするが、なかなか言葉が出てこない。強引に話題を作ろうとするが、うまい文句が浮かばない。つらい気分だったから、少し寂しくなったから、なんておセンチな台詞は絶対に吐けない。どうにかして直子は電話した理由を、自分の心情から切り離した外部の事情に委ねようと求める。
〈樋口、樋口といえば、そうだ。宇宙人だ〉
 ビンゴした、と直子は直感する。そして、
「そうそう、そろそろ見つかったのかなあ、宇宙人さんは、と思ってね」
 茶化し、からかい半分に尋ねる。
【お前なあ、またそうやって馬鹿にした感じで言ってくるけど、それがどれだけ重要な事か分かってないな、相変わらず。我々人類が何故宇宙人を探し求めるのか、その意義を。それこそ宇宙にロケットを飛ばす理由を。宇宙ステーションの建設の……】
「分かるわけないじゃない。ただのお金の無駄遣い。妙なロマンのために国民の税金がいっぱい使われているなんて、迷惑以外の何ものでもないわよ」
 直子は樋口の台詞に割り込み、あえてケンカ口調でふっかける。そうした方が樋口の呂律は回り、冗舌になるのを知っているから。
【そうだな。確かに金はかかる。例えばアポロ計画では当時二百五十四億ドルという莫大な費用をつぎ込み、ベトナム戦争下のアメリカ経済に多大な影響があったのは否めないし、それこそロシア、当時のソ連との冷戦中、政治的な思惑がかなり介入しているのも事実。だがな、お嬢さん。宇宙に対するそれは決して、金だけをモノサシにできないし、一概にロマン云々の精神論的なものに片付けられる訳でもないんだ。そうだな、お前さ、谷川俊太郎の二十億光年の孤独っていう詩は知ってるか? ガルシア=マルケスの百年の孤独とは違うぞ】
「知らない」
 なるべく興味なさげ、無愛想に答えてみせる直子。だが、心の内では、母親ではなくたまに会社から早く帰ってきた父親に、寝る前の絵本を読んでもらっている少女の気持ち。つまり、ワクワク。
【地球人ってヤツはね、時々火星に仲間を欲しがったりするのよ。それでな、万有引力というものは、ひきあう孤独の力なわけなんだわ。そんでもって、宇宙はどんどん膨らんでいるから不安になっちゃうわけよ。そんな感じの詩。アンダースタン?】
「ノット・アンダースタンで」
【孤独ゆえに人は引き合う、というと本当に詩的表現になってしまうものの……つまりな、万有引力っていうと、星の重力のそれだけと勘違いしてしまうが、質量をもつモノなら全てその相互間に働く作用なんだ。だから俺とお前の間にもそれはある。問題は何故引き合うか。いや、引き合わなければならないのか。そこに俺は相対的な関係の重要性、というか相補の重要性かな。他という存在がいて、互いは補完しあえるのではないかと思うわけだよ、お嬢さん。ここまではアンダースタン?】
「うーん、何となくアンダースタン、の方向で」
 いつもの変てこな理屈、とは思うものの、何やら含蓄のあるようなコトを言っているのでないかなあ、と雰囲気的に直子は感じ取る。
【だからこそ宇宙人が必要なわけだ、我々地球人にとって。もしこの広い宇宙で地球人が、地球人であるのみだったら、これ以上の発展はないぞ、相補の重要性に従えば。宇宙人がいれば地球人はその宇宙人からすれば宇宙人になるが、地球人が……そうだな、妙な言い方だが、地球人が一人ぼっちだったら、宇宙人になりえず地球人はずっと地球人のまま。それはどうだろう、悲しいことではないかい?】
「悲しいこと?」
【うーむ、何というか、相手がいなければお互いに刺激しあい、成長できないというか、地球そのもの、地球人そのものがさらなる進化を遂げないというか。だから地球自体のためにも、宇宙人との出会いが重要なのではないかと思うんだよね。自己と他者。そう、相対的にモノゴトが成り立っているならさ】
 樋口は勝手に喋り切り、溜飲を下げたのか。彼の吐息の漏れる音が携帯電話越しに直子の耳に入った。語り尽くした感のある樋口であったが、直子は正直樋口が何を言いたかったのか分からない。ただぼんやりと、
〈宇宙人という相手が、何か必要なのね、地球人にとって〉
 と解釈する。樋口俊介が紡ぎだす一大SF叙事詩ここに極まり、と全巻完結。直子はちょっとしたスペース・オペラを読んだ満足感に浸る。
「それが、そのアンタが前に言っていた、宇宙人が大事なパートナーである理由なのかしら?」
【そうじゃないかしら】
 おどけた態度で樋口は答える。それは声のトーンで分かる。直子は自然と微笑を零す。
「ふふ、見つかるといいね、宇宙人」
【だな】
 だな、と切るように答えた樋口の明るく澄んだ声。それはいつもの馴染みの台詞にして、変わらぬ抑揚。迷いがなく、純粋無垢。だが、それが時として直子をやきもきさせたりもする。
〈だって絶対樋口は世の中の荒波に揉まれてないもん。お気楽生活してさ、人の顔も窺わず、自由気ままに俺様ペースなはずだもん。そりゃあ、子供の頃の純情なハートのまま、じゃないけどさ、何かキレイだよね。どっかが〉
 樋口に対するやっかみ。一方で直子は、このままでいてね、と願っていたりもする。とはいえ直子はそんな自由な樋口に息巻きたい気分。その感情は彼女の甘えであり、弱さのアリバイ。自分でも気づかない程心の隅に隠れていた、樋口への依存の思い。だが、単純に、樋口俊介のナマケモノ、という答えに結びつける。
「宇宙人探しに没頭できる、か。あーあ、樋口はノー天気でいいよね。勝手気まま、着の身着のまま、場当たり的でさ。自由に人生謳歌してそうだもんね。オネーサンからすればまったくもって楽しそう」
【…………】
「樋口?」
【別にそんな楽しかねえよ】
「え?」
 突き放すような樋口の語気、まるで他人の言い振り。直子の背筋に悪寒にも似た感覚が走る。その時、直子の携帯電話からヒステリックな信号音が鳴った。それはケータイの充電が切れる合図。
「あ、ちょっと電池が……樋口、あ」
 電話が自動的に切れ、ミニーマウスの待ち受け画面の映像も消えた。
「あ、切れちゃった、か」
 直子は唇を尖らせながら、携帯電話を閉じた。
〈ま、いいか〉
 何事もなかったように歩き出す直子だったが、電話が切れる寸前に樋口が言った、別にそんな楽しかねえよ、という台詞が気になる。あの声が引っかかる。暑い最中、早足気味だった直子の歩みは、次第に牛歩となり、顔も俯きがちになっていった。樋口の風呂敷の大きい話を聞いた後の、充足した気持ちもどんどんしぼんでいく。一方、ただ徒にストッキングの足裏は汗が染みていく。
 再度、明日香の「充電切れてケータイが使えない状態なんて、マジありえないでしょ」という言葉が脳裏によぎった時、直子は自分が心細くなっているのに気づいた。
〈ありえないこと、だったの?〉
 後悔。そして、イヤな予感が女の勘として募り始める。
「樋口」
 直子は立ち止まり、黙って携帯電話を見つめた。

 後日、直子は樋口の携帯電話にメールを送ってみた。だが、返信はなかった。さらに後日、直子は樋口の携帯電話に直接電話をかけてみた。だが、電話はつながらず、ただ今おかけになった電話は、電波が入らない場所にあるか、電源が入っていません……と例のメッセージが返ってくるだけ。
 苛立ちが不安に変わる頃、直子の胸騒ぎは高鳴りよりも鮮やかに、彼女自身を刺激し始めた。
              *
 父親が上機嫌にビールを注いでくる姿を目の当たりにすると、これで良かったのかなあ、と直子は逡巡しつつも、無理に得心。
「いやあ、良かった、良かった。やはり何だかんだいっても就職するなら金融機関だよ。いつの時代もある程度の安定感があるからね。直子はIT系の企業に就職したがっていたけど、実は父さんはあまり賛成じゃなかったんだよねえ。IT系は今だけの企業で、インフラが整えられないまま、すぐに成熟した業界になって、あまり良い展望が見えなかったからさ、僕には。今だから言える話だけど。いや、でも本当に良かった。直子がしっかりとした銀行に就職してくれて」
 直子の父は満面の笑みで、直子の持つコップにビールを注ぐ。
「ちょっと、お父さん。溢れちゃうって」
「お、スマン、スマン」
 直子は表面張力によって気張っているビールの泡を、コップからこぼれる前に口に含んだ。
〈苦い。やっぱり私はカクテルじゃなきゃダメだな〉
 と思いつつも、父からの就職祝いの祝杯のビール。杯を拒むわけにはいかない。
 普段は口数の少ない父だが、今夜はよく舌が回る。いつもは寡黙なお父さん。その姿勢は父親としての威厳を保つ云々のポーズではなく、娘とのコミュニケーションを何処か照れている節があるため、自然と物静かな父親像を象ってしまったのではないか、と直子は推察する。そんな父親を直子は時折、チワワを眺めるような、小動物系を愛でる視線で捉えてしまう。
 末伏(まっぷく)から幾日を過ぎた残暑の頃。常盤家に直子の就職の採用通知の報が届いた。父親は会社からの夕飯前の帰るコールの際、その知らせを聞いて残業も早く切り上げ、ビールとカツオの刺身を片手に帰宅。そして、今、台所で鳥のから揚げとシーザーサラダを作っている母親を他所に、直子は父親と二人で、平素は酌み交わさない父娘同士、不慣れな手つきで探り探りの酒宴。炊飯器からは赤飯の匂いが薫りたち、大げさだなあ、と直子は心に含みつつも、今夜は飲み屋の女将よろしくお父さんに晩酌をしてあげるか、と殊勝にもOL予備軍の顔を覗かせる。
「お、ありがとう」
 父親は破顔一笑、直子のビールを快く受け取ると、うーん、と唸りながら、まるで抹茶を嗜むように深く飲んで、その後、うまい、と小さく呟いた。その表情を窺うに、心底娘の就職を喜んでいるように見える。だが、当の一人娘の直子は複雑な心境。第一希望の会社、第二希望の会社と色々と並行して就職活動をした結果、唯一生き残った会社が、今日採用通知が届いた某金融機関であって、特に直子の意向は反映されてない。かといって件(くだん)のIT企業の最終面接は通らず、就職活動の期日も押し迫ってきた現状、直子の心裡は既に戦線終息モードに入っていた。そして、あのエロ面接官からはどうやら女としても見限られようだし、学生としての賞味期限も残り少なくなってきたし、とややネガティブな思考を踏まえた上で、
〈この辺りが引き際かな〉
 と自身の就職に見切りをつける。これじゃ大学を決めた時と一緒だな、と直子は嘆いてみるが、傍らで父親がワイシャツも着替えず、ネクタイを緩めたまま、ほころんだ顔で飲んでいる様子を見ていると、やはり達成感が湧いてくるのも事実。
〈ま、正解だよね〉
 と直子は胸の内で結び、今はただ欣快に堪えない気色で祝ってくれている父親とともに、同じ波長で、同じ仕草でお酒を飲んでみようと試みる。ほろ苦いビールを。
「うーん、ビールの苦さって人生の苦味だよね、お父さん」
「おお、直子もビールの味が分かってきたか、うん、うん」
 直子の父は一人何度も頷首(がんしゅ)し、笑みを絶やさない。また、イスの背もたれに掛けられたタバコ臭さを放つ父の背広。それを直子は眺めていると、これから私もお父さんと同じ社会に出るのか、と身が引き締まる思いと、畏懼(いく)の念も抱く。さらに発展、敷衍してこれからの自分の人生を妄想、連想。
〈就職してキャリアウーマンになったら、順調に昇進して……いや、違うな。結婚して子供を生んで家庭に入って……ん? その前に彼氏を作らないと〉
 とそこまでイマジネーションを直子は膨らますと、「別にそんな楽しかねえよ」という言葉も、どうしてか同時に頭に浮かぶ。刺身を取ろうとした箸が止まる。
「ん? どうした直子」
「え、ううん、何でもない」
「そうか、そうか。おーい、母さんも早く一緒に食事しよう」
 と父は言うと、娘の微妙にシリアスな表情を察することなく、一人満足そうな顔をして、テレビの野球中継に目をやった。
「から揚げがもうすぐできるから待ってて」
 油のはじける音に紛れて、台所からの母親の返事。だが、直子にはその声が届かなかった。
 
 両親との笑顔に満ちた夕餉も終え、胃袋も心も膨れたはずの直子。そして、二階の自分の部屋に戻りいつも通り、腹ごなしのケータイ小説の読書。ケータイ小説は文学じゃない! いや、文学だ! と一人葛藤して読むのが、最近の彼女の日課。
〈でも、ケータイで小説を書いたり読んだりするのは今っぽいよね。私ももうちょっと若かったら、書いてたかなあ〉
 一頃を惜しんで、文士崩れの酔いに浸る直子。久ぶりに趣味、というかディレッタント気分で書いている小説の真似事でもしようと、彼女はパソコンを立ち上げてみる。だが、いざワードの画面を前にすると、ケータイ小説の書き方に難儀し始めた。改行の多用による行間の空白の何たるか。ミニマルな形容詞の効用とは何たるぞや。横文字文学のその趣とは如何なるものか。何よりも絵文字やギャル文字のうまい使い方が分からない。直子は、やっぱ私にはムリか、と観念しパソコンをシャットダウンする。
〈うん、うん。やっぱり時代が違う。オバさんの感性じゃとても書けないわ。潮時、潮時〉
 自らをそう見切って、再び読書にアタック。読んでいる方がよっぽど楽しい。そう首肯して。しかし、どうも頭に入らない。飼い猫の顎を擦ってみても、どうも気が晴れない。オーディオをつけて、背伸び音楽のチック・コリアのソロ・ピアノを聴いてみても同じ。そぞろに目が携帯電話にいってしまう。ケータイ小説への未練。否、こちらの発信を無視し、返信を寄こさないよこしまな態度を続ける、某成人男子を気にするがゆえ。
〈何でアイツ、返事よこさないのよ〉
 樋口俊介と連絡が取れなくなって二週間は経ったのだろうか。一向に電話も、メールも返ってくる気配がない。別にいいけどさ、と直子はうそぶくが、アイツの家に行ってみようかな、と考えたりもする。だが、ちょっと酔っているな、飲み馴染んでないビールだったし、と逃げ向上して、すぐに払拭。手の甲を頬に当てて、火照っていることを確認。うん、酔っている、酔っている、と。
「なーんで、わざわざ私がアイツの家に行かなきゃならないのよ」
 と大きな声で独言すると、携帯電話が鳴った。パブロフの犬よろしく直子はすぐにそれを取った。着信相手も確かめずに。
「もしもし!」
【な、何よ、その切羽詰った声。びっくり~】
 いきり立った直子の声と対照的に、返事したのは脱力感が漂うヌけた声音。
「何だ、明日香かあ」
 直子はクラウチング・スタートのような状態で電話をしていた姿勢を崩し、クッションを背に当てうなだれて答えた。
【何だとは失礼ねえ。せっかく就職のお祝いの電話をしてあげたのにぃ】
「あ、メール読んでくれた」
【読んだ、読んだ。良かったじゃん、決まって。オメデトです。恵美の方も決まったし、これで私ら全員就職浪人は避けられたね】
「メグは結局デザイナーの方は諦めて、販売の方に決めたの? 何かショップ店員に進路変更したって聞いたけど」
【らしいわよ。とにかくアパレル関係にはしがみつきたいって言ってた】
「頑張るなあ、メグ」
【恵美らしいよね】
 明日香のサバサバとしてはいるが険のない一言。
「……明日香」
【なあに?】
「ありがとう」
【何よお、しんみりと言っちゃって】
 その後、しばらく直子は明日香とムダ話に歓を尽くした。
 結局、友達というものはそうそう切れるものではない、と直子は判断する。仲違いをした、ケンカをしたと自分では思ってみても、それがあからさまに表面化しなければ、ダラダラとお互いの仲は続くもの。仲間内、ひどく退屈で思い通りにならなくても、一時のすれ違いの集積だけでは、離れることはあまりない。どちらかが何となく連絡を取り、連絡をもらった相手も何となく対応する。玉虫色の曖昧な関係というのは、特に女同士では延々と継続するものなのね、と直子は改めて思う。
〈メグも戻ってきたし。今度みんなでお祝い兼ねてディズニー行くし。まあ、明日香にもイイ所あるし〉
 直子は明日香と就職話関係なく、一頻りケータイのデコメのこだわりについて語り合うと、お互い「オツです」と言って電話を切った。
〈元の木阿弥ってヤツかな〉
 匙を投げるように、ケータイをベッドに放る直子。人間同士の難しさを、やにわに直子は覚えると、その煩わしい所懐を誤魔化すためテレビをつけた。テレビでは報道特集として、現代の若者をクローズアップしていた。ニートやネット難民。短期集中的にバイトで稼いだ資金を元に海外に出かけ、バックパッカーのような生活を送る若年者達の、引きこもりとは対置的に外こもりと呼ばれる現象。それに自殺サイトによる集団自殺の問題など、現代若者にまとわりつく様々な事象がつるべ打ち。ゴールデンタイムらしからぬコンテンツが一方的に放映される。あまり食指が動かない内容だな、と直子は思い番組を変えようとするが、「自殺者が年間三万人を超える昨今、十代,二十代の占める割合は全体の十三パーセント弱ですが、生きていて楽しくないという理由だけで自ら命を絶つ、安直的な若者が増えつつあり……」というナレーションが耳に入ると、
〈まさか樋口……〉
 と暗澹とした懸念が湧いた。俄然、テレビのリモコンを手に取った動きが止まる。だが、すぐにチャンネルを変え、ゴールデンタイムに相応しい、絶品B級グルメ食べ放題! というバラエティに気を向けた。画面の中では、見た目脂のたっぷり乗った(実はコラーゲン)豚骨醤油のラーメンが映し出されている。夕飯を食べたばかりだから興味が湧かないのかな、となかなかテレビに集中できない自分に気づく直子。
〈いや、ずいぶん前から落ち着かないな……って、なあに? アイツが自殺でもしたって思っちゃってるの、私は。明日香のリストカット趣味じゃあるまいし。あのチャランポランがそんな追い詰められるわけないじゃん。うーん、でも樋口って男の子はたまに物事を深く考える傾向があるからなあ。変に勉強とかできる奴って、人のあずかり知れない所で、勝手に悩んで苦しんでいたりするし。アイツもどっちかって言うと、内に悩み事とか溜めこんじゃうタイプだったもんね。小学校の時、傍から見れば煩っている素振りはなかったのに、一人で思い込んで円形脱毛症になった時期とかあったな、そういえば。ま、後で聞いた話、給食を食べ終えるのが、いつも昼休みまでかかってしまうから、その際、早く食べようというプレッシャーがアイツを悩ませていた、とかいうしょーもない事が原因だったらしいけど。そんなんで頭に十円ハゲができるものかしら、普通。ああ、でも、そんな些事で考え込んじゃう樋口だから、それこそ自らの命を絶つなんていう……〉
 自問自答の繰り返し。不毛な煩悶。さらにテレビのリモコン片手に、無意識にザッピング。それが乗じて今度はエアコンのリモコンを手にし、クーラーの設定温度を上げたり下げたりする。覚束ない思いが直子を急き立てる。ベッドに放った携帯電話を戸惑いながら拾う。生存確認の意味で、と前置きした上で樋口に発信。だが、返事は案の定、ただ今おかけになった電話は、電波の入らない場所にあるか……の定型メッセージ。直子は電話を切ると、それを握りしめて、瞼を閉じた。そして、
「どうして、意地悪するの」
 との科白(せりふ)の内容とは裏腹に祈るように呟き、握っていた携帯電話を額に持っていった。テレビとエアコンのスイッチは既に切っており、閉めきった室内は静寂と熱気がこもる。目覚まし時計の秒針の音が、直子の呼吸の僅かな乱れと重なってざわめく。自然と汗も噴き出てくる。直子の頭を支配している感情は焦燥か、それとも……。
 とその時、
「もう、何なのよ!」
 直子はちゃぶ台返ししたい衝動に駆られると、かのように一言吐き捨てて、勢いよく立ち上がった。そして、髪の毛を無造作にかき乱し、ノースリーブのシャツにホットパンツの部屋着のまま、二階の自室から抜けて、けたたましく階段を下りていった。その騒ぎを聞きつけ、両親がダイニングから顔を見せたが、時すでに遅く、直子は生足にクロックスたくましく外へ飛び出していった。

 遠くの方から祭囃子の太鼓の音が直子の耳に入った。恐らく公園の方で、夏の終わりを締めくくるお祭りをやっているのだろう。直子は推(おい)する。
〈昔はよく夏の夜祭や花火大会で、樋口と一緒に露天のタコ焼きを食べたな〉
 大玉五個入りタコ焼きを前に、どちらが三個食べるかケンカした追憶が、ふと直子の頭をくすぐる。楽しかった、を末尾に添えて。
 肌にまとわりつく蒸し暑さも気にせず、早足で歩を進める直子。駆け足で家を出た直子だったが、やはりアルコールが体に回っているのも事実。急なダッシュをして胃に不快感を覚え、トロットな歩きを心ならずもしていた。気分が幾らか落ち着いてくると、直子は周囲を見渡せるほどの余裕ができてきた。歩き慣れている町内。だが、こちら側の道は久しぶりに来たな、と彼女は想起する。樋口家に続くこの道は。
〈何だか懐かしい〉
 駅の方向とは逆の道。ただそれだけなのに、こちら側の道ははからずも直子にささやかな郷愁感を抱かせた。
〈普段は家と駅の往復の毎日だし。町内を歩くこと自体が久方ぶりなんだな〉
 樋口に対する焦れる思いを一時離れ、直子はふと散歩の余韻に浸る。自らの足場を改めて見てみる。私はここに居たんだ、私はここで過ごしてきたんだ、と。
〈これからどうなるか分からないけど〉
 直子は認められない微妙な肝胆(かんたん)の揺れを把握する。一方、整理できないがための不安が増幅し、いたずらにそれは枝分かれして、直子の胸を苛ます。
〈何でもいいから、答えがほしい〉
 ひどく曖昧で複雑な感情。宗教に救いを請うような心境。カリスマを渇望するような心神。
〈いや、そんなんじゃない。ただ樋口に会いたいんだ。それだけなんだ〉
 直子は鼻梁を下る汗も構わず歩き続ける。
 樋口宅に到着。
 幼稚園から義務教育期間、同じ学区内で樋口と直子ともども実家暮らし。常盤家と樋口家の距離はそう遠いものではない。だが、樋口家を訪れなくなって何年経つだろうか。四十坪の一軒家、樋口家の前に実際に来てみるとこの家の佇まいが、小学校の校舎に覚える懐かしさと同種の気配を直子は感じた。
 二階の樋口俊介の部屋の灯りは点いてない。いや、家全体が静まり返っており、窓から灯りが漏れている様子がない。
〈イヤだな〉
 不吉な想いばかりがたたみ掛ける。失踪? 一家心中? 拉致監禁? と根拠のないアクシデントのキーワードが羅列する。直子は意を決し、すがるような気持ちでインターホンを押した。誰も出ない。
「ちょっと、何なの。ホント警察呼ぶわよ」
 自分では強がって言ったつもりだが、その実、直子の表情は、おもちゃを買ってもらえなくて半ベソ状態の少女、のような顔面崩壊。不安と恐怖と焦りが入り混じった直子の指先が、再度インターホンに勇気をもって突き出る。意中、願掛けするかのごとく。するとドタドタと忙しい音が玄関のドアの後ろから聞こえ、それからすぐに表口の電灯が灯り、あっけなく扉が開いた。
「樋口……」
 直子は茫然自失気味に呟く。ドアを開けた張本人は樋口俊介。幾分顔が日焼けしては見えるが、樋口俊介その人に間違いはなかった。思わず樋口の元に駆け寄りたいセンセーションが直子の胸に湧いたが、緊急制御。
「お、直子じゃん。珍しい」
 珍しい、と言った樋口の台詞が直子には、懐かしい、と聞こえた。直子は下唇を噛むと、惚けた顔をして、
「ん? 健康そうじゃん、ヨカッタ、ヨカッタ」
「何だよ、いきなりその一言は」
「…………」
 樋口は笑顔で問い返し、その笑顔を確認した直子は無言。すると突如、いつもしているアロマテラピー半身浴より、絶大なリラックス効果が直子を襲う。今までの緊張感が解放されて、勝手に心が弛緩する。
〈やばい。涙目になってる〉
 直子はアクビのポーズを取り何とかその場を凌いだ。樋口はしばらく直子を見つめると、
「疲れてそうだな。どうする、とりあえず家にあがるか?」
 直子は瞞着気味に鼻をすすり、
「うん、あがる。喉、渇いちゃったし」
 とペロリと舌を出して無邪気に答えた。

 時代錯誤、相変わらず「あしたのジョー」のポスターがデカデカとはってある。それが長らく訪れていなかった、樋口俊介のプライベート・ルームに入っての直子の第一印象。全体を見回し細部を確認するも、くたびれた感のある万年床の布団(よく見ると敷布団が低反発式に微妙なチェンジを施している)、無造作に縦積みされた新書や文庫本の数々、昭和の匂いが色濃く反映しているラジカセ(CD聴けず、カセット・オンリー、ラジオはAMのみ)、小学校から使用しているビックリマン・シール(復刻版)が貼ってある学習机、そして、これまた小学校の時から使っている古ぼけた天体望遠鏡等々、この部屋に同年代の共通ツール的要素、また、オシャレ感は全く窺えない。
〈あの頃とほとんど変わってない。やっぱ成長してないんだな、この子は〉
 困ったヤツだ。直子は思わず含み笑い。一人暮らしを始めた息子の部屋に、母親がアポを取らずに来て、エッチな本はないかガサ入れしたい心持ち。
「何を笑ってんだよ。お前って結構、一人笑いが多いよな。不気味な女だ」
 憎まれ口を叩くように樋口は言うと、直子の後ろからペットボトルの麦茶二つを片手に自室に入ってきた。
「不気味とはひどいわね。それよりも何でアンタは返事寄こさないかな。ケータイとかに電話したのに、つながらなかったし。ちゃんとマメに返さないと友達なくすわよ」
 ふてくされた顔、にべもない態度をしつつも、話の自然な流れを崩さないで、直子は樋口に尋ねてみた。
「あ、そりゃスマン。携帯電話を家に忘れたまま、かれこれ半月近く星見てたんだ。そりゃ携帯のバッテリーも切れるわな」
「星を見てた?」
「アレ、言ってなかったか。胎内(たいない)に行ってたんだよ」
「タイナイ? 体の中に行くって『ミクロの決死圏』をしてたってこと?」
 真面目な顔をして告げる直子を前に樋口はふき出し、
「はは、そりゃ昔のSF映画だろ。よくそんな古い映画知ってるな。でも、俺はそんなSFチックみたいな事をしてたんじゃなくて、新潟県の胎内市に行ってたんだよ。あそこで毎年星まつりのイベントやっててさ、満天の星を拝んできた、というわけ。ま、こっちもある意味SFかも知れんけど。で、イベントは三日間ぐらいなんだけど、その前から新潟の親戚の家とかで、俺はダラダラと天体観測してて。あっちの土地は夜空がキレイだからさ。それでしばらく隠居してたのよ」
「ふうん。星、見てたんだ」
 どうして私も連れてってくれなかったのよ、という言葉が直子の喉から出かかったが、寸前で止めた。唇を尖らす仕草をする直子に樋口は麦茶を手渡すと、ボストンバッグや日焼け防止のバイザーなどが散らばった、雑然とした畳の上を簡単に整理して座布団を敷いた。
「まあ、座れよ」
「うん」
「それで家に帰ってみたら、狙いすましたように両親は二人で外食に行ってやがってさ。ちゃんと帰ってくる時間は知らせておいたのに、一人息子を出迎えることなく放置プレイだよ、放置プレイ。冷てえもんだよ」
 やってらんないよ、といった顔でペットボトルの麦茶を勢いよく飲む樋口。
「そして、ちょうど家に帰ってきた時に、お嬢さんがやって来たわけだけど、どうした今夜は?」
「え?」
「何か用があって俺ん家(ち)に来たんじゃないのか」
「あ、えーと……」
 しまった、と思いつつも、何とか樋口家を訪れた用件を導き出そうとする直子。麦茶を一口飲んでクールダウンを努めるが、良い言い訳が浮かばない。
「そういやお前、大学のレポート終わったのか?」
 樋口は麦茶でティッシュを濡らし、それを使って天体望遠鏡のレンズを拭きながら尋ねた。
「何を今さらアンタ……そう、そうよ。私、就職決まったんだ。それで一応、樋口に報告してあげようとわざわざ来てあげたわけ。ケータイがつながらなかったから」
 うん、これなら無理のない理由だ。直子は独り合点すると、どうしてか端座し、しずしずと麦茶を嗜んだ。樋口は直子を一瞥すると、
「良かったじゃん」
 と無味乾燥に言い放ち、再び望遠鏡に目を向けて、やっぱ新しい望遠鏡買おうかなあ、とブツブツ言い始めた。
〈やばい、見透かされたかな?〉
 と戦々恐々な思いで樋口を直子は見つめた。疲れた顔をしているものの、無地のTシャツから覗ける日焼けした浅黒い肌が、充実した日々であった事を物語っている。それは夏バージョンではあるが、いつもの樋口俊介に変わりない。
〈別に私を訝しんでいる様子はないけど〉
 一方、先の一言の声色に目線。それらが自分に対して軽蔑しているような印象も直子は持っていた。また妥協したのか、それでこれから適当に人生送っていくのか、自分を試すこともなく、貫くこともなく、と。不確かな自虐的妄想ではあるものの、樋口は暗に指摘しているのではないか。そう疑う。
〈樋口は私のやり方を認めていない、のかな〉
 目の前に樋口がいるにも関わらず、その存在が彼方に感じる。直子と樋口、どちらの生き方が上位というわけではないが、直子は自らを謙(へりくだ)らせて見てしまう。それが悲しい。
 急に居心地が悪くなった直子は、
「……それだけだから、私帰るね」
 と言って立ち上がった。目頭が熱くなっている事も許容して。
「あ、ちょっと待てよ。家の近くまで送っていくから」
「え? 何言ってるの。そんなのいいわよ」
 直子は樋口に背を向けたまま、潤い目&やや鼻汁垂れ流しの顔を見せないよう虚勢をはって言ってみせた。
「親が消えてメシ食ってないからさ。コンビニ行くついでだよ」
 と樋口は告げると、ペットボトルに残った麦茶を一気飲みし、直子の背を軽く押した。

 川べりを歩く二人。直子と樋口の間はベビーカー一台分。夜に鳴く蝉のそれは若干緩く、切ない。浅瀬のせせらぎとともに、街路樹のシダレヤナギが微風で揺れ、晩夏の蕭然(しょうぜん)さが二人の景趣と縒(よ)り合わせる。そんなシチュエーション。
〈コンビニを寄るついでの、少し遠回りの見送りなだけ、なのに〉
 変な緊張感と、妙なやるせなさを覚える直子。樋口の口は閉じたまま、直子もそれは同じ。お互いの徒歩は遅く、漫然としている。とその時、突然樋口が立ち止まり喚声をあげた。
「うお!」
「な、何よ?」
「もう、皮が剥けてきた」
 と樋口は言いつつ、二の腕の日焼けした褐色の肌から、薄皮一枚めくりあげ、オブラートのようなそれを直子に突き出した。
「ちょ、ちょっと止めてよ! ばっちいな」
「ばっちいとは無礼な。コラーゲンだぞ、コラーゲン。美容効果に良いだろ。ほれ、ほれ」
 樋口はスカート捲りを試みる小学生男子のように、逃げ出す直子を追いかけ、剥けた皮を猛烈プッシュ。直子は嬌声に似た小さな叫喚をあげる。やがてその皮膚は隠微な軟風のもと、樋口の指から離れ、夜空へと消えた。
「あ、飛んでいっちまった」
「はあ、はあ、もう何なのよ!」
「いや、でも凄くないか。つい数日前に日焼けした肌が早くも剥けたんだぜ」
「すごくない!」
 まるで子供だ。直子はそう思いつつ、樋口の肩を叩いた。
「あ痛! お前、まだ肩のほうはヤケド気味で……」
 と樋口は悶絶かつ涙目。
「うるさい、天罰」
 直子は腕組みして、したり顔の一言。そして、笑った。
「Sな性格だな、お前は」
 樋口は肩を抑えながら顔を歪めて奏上。直子は一頻り笑うと、
「ふふ。でも、楽しかったんだろうね、天体観測」
「え? そりゃ、まあ、星好きにはな。天候に恵まれて、えらく星空が眺められたし。餅とかも食えたし。それに何といってもスゲえのがさ、あそこに天文館ってのがあるんだけど、そこに口径六十センチの望遠鏡があってさ……」
 イキイキと語り始める樋口。直子はあくまで、すました表情のまま耳を傾ける。胸の内では、始まった、と小躍りしながら。だが、樋口が熱っぽく喋れば喋るほど、直子はその声が遠ざかっていくように感じた。
〈これ以上、離れたくない〉
 直子は自らの汗ばむ握りこぶしを開いた。思わず樋口の手を握ろうとした。樋口を手繰り寄せようとした。しかし、僅かに指の第二関節が動いただけで、動作はストップ。やっぱりアルコールが回っている、と括って。
「ん? 何か顔が赤いな、お前」
 樋口は突如話を中断させて、直子の顔を覗き込むようにして尋ねた。
「あ、さっき樋口の家に行く前に、お父さんとお酒飲んでたから、それで……」
 語尾も弱々しく、躊躇いがちに答える直子。目線は樋口と合わせない。樋口もそれ以上問い詰めず、そうか、と言って再び二人は黙して歩き始めた。
 晴れ渡った夜景から一閃、湿るような月光が二人に降り注ぐ。しばらくすると直子は、視線を地面に落としたまま夜空も見ず、
「月がきれいだね」
 と呟いた。樋口は霞むような直子のその一言に反応し、彼女を一瞥すると、
「そうだな」
 と返す。
「そうよね……ねえ、月の裏側って宇宙人がいるんでしょ。言ってたよね、子供の時に」
「へ? いや、まあ、そういう風な事を昔は考えていて、実際月に人を飛ばして調べてみたら、宇宙人もウサギもいなかったわけでありまして……」
 樋口は直子の顔を窺いながら、どうしてか慎重に言葉を発した。直子は明るく努めて、
「ね、宇宙人がいればよかったのにね。月に宇宙人がいればさ。そうすれば独りじゃなかったのにね。宇宙人がいれば地球人は一人ぼっちじゃない。樋口、そう言ってたもんね」
 と語って見せた。だが、その肩を落とした様は、迷子になった少女の気配。両親を必死に探している切実な瞳の色。
「…………」
 樋口は言葉を返せなかった。しばらく口を噤んで歩くことを余儀なくされた。しかし、一度上唇を舐めて、眉間をポリポリと掻くと、不言不語を払い、
「そうだな。確かに月に宇宙人はいなかったけどさ、何だろう、月がそこにあるだけっていう、それだけでも、案外さ、重要なんだよね、地球的に」
 と軽快なテンポで語った。
「地球的に重要?」
「そう、何て言うか……地球と月との間がね、重要なんだよ、間が。この距離間に生まれる重力が、お互いの相補性をイイ感じに埋め合わせ、バランスを保っている。これがつまり、相対的な関係のエッセンス。相手がいて自分がいる、というか、両者の間こそに意味は生まれる、というのか。そうだなあ、何て言えばいいものか……そうだ。人間って人の間って書くじゃん。そういうことだよ、うん。アンダースタン?」
 明るい声とは裏腹に、台詞の節々がたどたどしい樋口の口調。樋口の弓勢(きゅうせい)の眉に、夏の暑気とは別種の汗が溜まる。一方で直子は、
「アンダースタン、で」
 としんみり答えた。
「へ?」
 呆気に取られた顔色を覗かせる樋口。
「前にも言ってたじゃん。相対的にモノゴトは成り立っている、とか。お互いがあるから刺激し合える、とか。そんなんだから、一人ぼっちだと悲しい、とか」
 直子は詩を諳んじるように話した。樋口は何度か頷くと、
「あ、そう、そう。相対的にモノゴトは成り立っているんだよ、世の中って。宇宙を含めた世界ってのは基本的に分節化、二項対立で言い表せるんだ。例えば対立的に言えば、この世は『犬』と『犬、それ以外のもの』で成り立っている、みたいなさ。別に犬じゃなくても、俺やお前だっていい。つまりこれって相対的な関係だと思わないかい。もっとも二項対立概念は恣意的で曖昧な点もあり、デリダだか何だかの思想家が脱構築を引っ張ってきて、その認識方法に異議を唱え……」
 やっぱりよく分からない、かな。徐々にシャベリにターボがかかってきた樋口のそれを反芻しながらも、直子は素直にそう思う。だが、不得要領それなりに、
〈お互いがある、というのが大事なのね〉
 と咀嚼してみた。
「……でさ太陽が眩しいから、月が光ってるわけじゃん。んで地球あっての月じゃん。それこそ男には女じゃん、みたいな。アインシュタインだって相対性理論でソータイ、ソータイ言っているわけだし。やっぱり相対するというのは意味があんだよ、どっかで。だから地球人には宇宙人が……」
 なおも樋口の語りは続く。親しく直子に話しかけてくる樋口。だが、二人の歩幅に樋口は、それ以上踏み込んでこない印象を直子は持った。
〈間が重要か。そうね、間って大事なのかもね〉
 樋口と自分との距離。直子は、これ以上二人の空隙は埋まらないのであろう、と見定め始めた。だが、それは儚みではない。この微妙な距離間こそが、樋口と長く付き合えて来た肝なんだ。そう前向きに捉えてみる。
〈樋口と連絡が取れない間、色々とアイツについて、はからずも考えちゃったけど、結局、私たちってこのままでいくのが一番イイのかも〉
 直子は半ば無理に容認してみて、樋口の案の定、訳の分からないトークに対して、笑顔で相槌を打ってみる。幾許かの寂寥を胸に宿しつつも、笑顔で。
「アンダースタン?」
 もはやお笑い芸人の持ちネタよろしい樋口の十八番(おはこ)の一声。
「はい、はい。アンダースタン、アンダースタン。宇宙人は必要だよね。親しい存在で、近しい存在。大事なパートナー。想い人の領域だもんね、樋口君にとっては。一生懸命これからも探してください。大変でしょうけど」
 子供をあやすように、また、皮肉っぽく直子は言った。樋口は舌打ちし、
「ちぇっ、馬鹿にして。お前だってこれから大変なんだぞ」
「え、私が? 何で」
「何でって、就職決まったんだろ、社会人さん。学生終わったら、責任重大なお仕事が待ってるんだぜ」
「ああ、そういうことね。別に私はそんな深く考えてないし、周りと同じことしてただけだし。この先の事なんて分からないわよ。知ったことじゃないしね。ただただこれから、お金貰って生きていくんじゃないの」
 嘲笑じみた言い様の直子。
「いや、そんなシニカルに言う必要もないだろ。お金を稼ぐってのは立派だぜ。それに何だかんだいって、自立して社会に飛び出るんだ。それって重要なことだぞ。社会との関わりを持つ、接点を保つ。これまた社会との相対的な関係。フリーに生きてるだけの俺には、なかなかできない芸当だ。世の中に対して、役に立とうとしてるんだからな、うん」
 あ、コイツ何か私を励ましてくれてる。直子はそう認めつつも、はにかむ思いに駆られ、
「な、何を言ってるのよ、アンタ。私なんか何の役にも立たないわよ」
 と尖った口調で吐いてみる。樋口は歩きながら、大きく背伸びをして、
「うーん、役に立ったわ、あげパン」
「はい?」
「覚えてないか? 小学校の給食の時のどデカいあげパン。俺がなかなか食いきれなくて、よくお前に手伝ってもらったじゃん。好き嫌いしちゃダメ! 残しちゃダメ! でうるさい加藤先生の目を盗んでさ。ホント、あん時は感謝、感謝。役に立ちましたよ、大食い女のお嬢さんは」
 樋口は直子の肩を二,三度叩いて告げた。直子は胸がほのかに温かくなるのを感じた。樋口に対して、ありがとう、と言いたくなった。だが、
「大食い女とは失礼ね」
 とつれない態度で返した。樋口もまた鼻で笑って返す。そんな樋口の笑顔を見ると直子は不意に、
〈そうよ、このままで良い。これ以上は求めない〉
 ともう一度思い返す。頼りない、虚仮の決意であっても、力強く顧みる。
〈多分、樋口だって迷ったりしているんだ。これからの人生とか自分の事とか。だから宇宙人を探しているのよね。そう、何か答えを探している。私だってそう。私は、私なりの答えと言うか、私なりの何かを見つけるために就職して社会に出るんだ。学生時代だけで自分を決めつけられないもの。他の人が先に大人になっても私はまだ、ね。樋口だって同じだよね。樋口とはやり方が違うだけで、やろうとしている事は一緒、なんだよね、きっと。うん、一緒なんだ〉
 直子は出来るだけ眼差しを高く上げようとした。夜空に浮かぶ、あの月を見定めようと、ひたむきに。月を見つめていれば、月は見ている。そんな気持ちも抱きながら。
 百メートル先のT字路を左手に曲がればコンビニがある。涼みゆく夏の夜道。直子は、あの角を行ったら今年の夏は終わるのだろう、と漠たる予感をした。すると直子は、サンキュー、の意味を自分なりに込めたつもりで、
「本当にさ、宇宙人見つかるといいね」
 と冗談めいた声色ではなく、いたって真面目に、また、望むように零した。そして、樋口が「だな」と返した後、「じゃあね」と言って別れるつもりだった。そんな胸算用をしたはずだった。
 だが、樋口、
「実は俺、もう宇宙人見つけちゃったんだよな」
 と直子の意表を突く一言。直子は反射的に、
「え? 何処、何処」
 と言って辺りを見回した。
「目の前にいる」
 樋口は直子を見つめて言った。
 夜が止まった。
 直子の肌がたまゆらにそう感得する。
「俊介」
 樋口の視線にとらわれると、直子は思わずそれを口に出した。そして、胸のほのかな温かさが、熱さに変わっていくのを覚えると、夏の終わりが遠のいていく景色が、彼女の前に広がった。

   
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