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そして、空から蒼が降る(BAD WEATHER)

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 こんな晴れた青空ほど、この世に残酷な日はあるのだろうか?
 宇垣紬(うがきつむぎ)は積乱雲もまばらの蒼穹の下の休日、折角の仕事休みに若者たちが集い賑わう街に来たにも関わらず、自身も化粧ノリの良い二十代半ば相応の肌ツヤを持ってしても、プリーツスカートにパンプスを、それぞれ着こなし履きこなしたその脚は、歩くに乱れ早足になっていた。
 苛立ち。
 紬の表情からはそのような機嫌が窺える。
 実際に紬は想う。
 一年前だったらこんな休みの日を独りで歩いているはずじゃなかった、と。
 その胸襟には明らかに何らかの焦れた思い、もしくはどうにも釈然としない考えが紛れ込んでいた。
 私、理不尽と憎悪と悲哀の極みだ。
 爽やかな快晴下にはおおよそ不相応な気色を覗かせる紬。そして、休みの日だから家に篭っているのは勿体ない、というのが理由なだけで一人ぼっちで外出している自分に後悔していた。
 何もしてないけど、もう帰っちゃおうかな。
 まだ昼下がり。帰ると思ってもOL一人暮らしの1LDKの、隣接するタワーマンションのせいで、薄暗い部屋を余儀なくされているアパート。せいぜいそんな家に帰っても、近所にある岩盤浴ぐらいしか、アミューズメントはない。
 今日は日頃の運動不足解消のためのウォーキングとして、街ブラをしていると自身に言い聞かせてみるか。
 程なくして紬は帰宅するのではなく、特に理由なく無目的に歩く事を選択した。
 秋冬コーデのショッピングをするわけでもなく、エッグベネディクトやパッピンスなどの流行りの食べ物を求める事もなく、徒然と不満そうに仏頂面で徒歩する紬。
 アイツのせいだ。こんなつまらない休日を過ごすのは。
 マッシュショートの髪型の毛が、多少耳にかかっただけなのだが、大げさに耳に触れた髪の毛をかき上げて、さらにパンプスの踵を強く地面に打ちつけ闊歩させながら、紬は自身の憤りの原因を探ってみる。
 若林隼人(わかばやしはやと)。お前だよ。お前のせいだよ。アンタが勝手に死んじゃったせいで、私は一人ぼっちで、今、歩いてるのよ。責任取りなさいよね、天国から。
 グスリ、と一度鼻を鳴らして紬は思う。
 若林隼人。
 紬と同年齢のその若者は十ヶ月前に交通事故で死んだ、宇垣紬の付き合っていた彼氏。
 私よりもバイクの方が好きのバカ彼氏で、女心なんかちっとも分かってないデリカシーが全く欠けているサイテー彼氏。良い所なんて……優しかっただけじゃない。
 道端に路駐してあったヨーロピアン・スタイルのバイクが紬の目に付き、一瞬、紬は立ち止まったが、すぐに歩き出し顧みる。
 何が『新車はまだタイヤが地面に慣れてないんだ。慎重に走らないと滑るんだけど、早く紬に見せたいし超慎重運転で走るから、今日のデートはこの新車のバイクでお前の家に向かいに行くからな、待ってろよ』よ。ずっと待って、ずっと待って、ずっと待って、その挙句にやって来なかったじゃない。二度と会えなくなったじゃない。
 紬は俯きかげんになると、今度は歩速を緩め始めた。呆気なく死んでしまった彼氏への哀惜と焦燥が入り交じり、紬は軽い目眩を覚えたが、隼人が事故死する一週間前の台詞を思い出すと、しっかりと二の足を構えて歩を止める事は無かった。
 そろそろ一緒になろうか?
 それぞれ一人暮らしで、同棲はしていない。そんな二人の付き合って三年を経て出た、紬の自宅で起こった通り魔的な惹句。つまり、紬が夕食のカレーを作っている最中に、居間でテレビを見ながら、抑揚なしにさり気なく呟いた若林隼人のその一言が、紬の脳裏を不安定に揺らした元凶。刹那、玉ねぎを切っていた紬の包丁が止まったが、紬は何事もなかったように「ふうん、別にイイけどね」と答え、すぐにまた玉ねぎを刻み始めた。胸躍る気持ちとは裏腹に、何とか平静を保った。だが、玉ねぎを押さえる指は微かに震えていた。危ないな、と紬は思いながらも、隼人に気づかれないように、キッチンで相好を崩していた。
 本当、自分勝手にさ、私の事も考えないでさ、好き放題の人生歩んできて、それはそれはアンタは幸せでしょうよ。もう、私にとって隼人は元カレにならないんだよ。私がおばあちゃんになって死ぬまで、ずっと今カレなんだよ。分かってるの、ねえ。ヒドすぎるんじゃない。
 紬は落としていた頭を今度は上げて、空を眺めて歯ぎしりしながら、そう胸間で嘆いた。
 デートする予定だった、隼人が散ってしまった日。その日は今日のように真っ青な空だった。絶好のデート日和だった。
 晴れた日は皮肉でしかない。
 再び顔を下げて、八つ当たりに近い気持ちを抱えながら、紬は歩き続ける。この頭上に広がる青空が当時の心象を思い起こさせる。さらに隼人の初七日の間は号泣し続けた事を思い出させる。
 もう、涙は枯れちゃったよ。きっと涙は尽き果てたんだ。もう二度と泣かない。
 紬にとってようやっと隼人への喪失感や哀切が癒し始めた今日となっては、あまりにも麗らかに晴れた青空は、トラウマにも似た苛立ちの青色になっていた。
 文字通りブルーな気分になる。
 胸三寸、周りに気づかれないように、一人苦笑いして紬はやはり歩く。止まる事はない。ただ一定のスピードで歩く。双瞳は真っ直ぐに向けて、瞬きもまばらに足を進める。
 この街路は隼人と歩いた道だったか?
 この微風は隼人と共に感じた空気なのか?
 この青空はかつて隼人と一緒に見た碧空(あおぞら)より見晴らしが良いのだろうか?
 幾人もの歩を進める他者と交差しながら、紬は奇妙に戸惑った心情に襲われる。限りなく車道寄りに沿って歩道を行く紬の横を、SUVやミニバンやワゴンが忙しく流れていく。だが、全ての形象は紬の目にも入らなければ、感じる事もない。音すらも聞こえない。
 心を無にして歩き続けたい。
 紬はそう強く念じるが、逆に紬の頭の中は渋滞していく。隼人への想いや、自らが抱く複雑なセンチメントによって。
 これからは隼人との楽しかった思い出を抱えたまま一生を過ごしていくのか。そして、心地良い青空を眺める度にさらに色濃く隼人との記憶が鮮やかに想起するのか……紬は今後の自分の人生が苦しみのみに苛まれる、と思い込む。恋人を、世界で一番愛していた人を失った悲しみが、老いよりも身体を負われる、と予感する。
 何か…何だかよく分からないけど…何かしらの…何もかもが終わっちゃったのかな。
 拠り所のない人生の節目を意外な形で迎えてしまった、と紬は胸に秘めつつ、世界中で一番不幸な女なんだ、とも悲劇に浸ってみる。
 たが、幾らジュリエットに共鳴してみせても、紬の心の溝は埋まらない。役者に成りきれない自分がいる。カタルシスに埋没できない自分がいる。
 マジなんだよね、私。分かってるの、隼人?
 愛と憎しみ。亡き恋人に対してアンビバレンスな感情を募らせる紬。苛立ちか悲しみか、忘れられぬ恋なのか、拭いきれぬ愛情の喪失感なのか。紬自身、頭の中に困惑という名の悪寒にも似た感覚が、肉体にも通じて走る。
 ただ紬の心中の嘆声は無残にも響く。
 もう木蓮の芳しい花の薫りに気づく事はない。
 もう夏の暑さや冬の寒さに季節を覚える事はない。
 もうお洒落な服や小物にアンテナを張る事はない。
 もう水族館や動物園に行く事はない。
 もう眩しい陽光に清々しさを感じる事は……
 と、労(いたわ)しい募りにふけていたその時、紬の頬に一粒の柔らかい欠片が、空から落ちて当たった。そして、そのフラグメントはゆっくりと紬の薄いチークを施した頬を下に伝わって、まるで涙の線を描くように弧の形を描いた。
 雨だ。
 紬は空を見上げ、そう頭に浮かべた。
 紬は歩きに没頭して気づいていなかったが、いつの間にか晴れていた空は曇り、それは雨雲へと変わっていたのだった。
 だが、紬は思う。
 青空が泣いている。青空のブルーが雨に変わっているんだ。
 雨を降らしているのは乱層雲。雲が雨を降らしている。実際に空は灰色に埋まり、青色など残していない。青空が雨を降らしていない事など、小学生でも分かる事でもあるが、紬は不意に、青空からの雨、と想像してしまった。
 降る雨は徐々に強くなり、周りの歩行者は三々五々、雨宿りがてらファーストフード店やカフェに入っていく。しかし、そんな中で紬は歩道で一人立ち止まり、雨空を見上げ瞼を閉じていた。顔一面に雨を感じていた。不思議と快く、また、何故か懐かしい感じがした。
 ふと、紬は思い出す。雨が降ると分かっていながら、傘も持たずに隼人がデートにやって来て、結局、自分が持つ小さな傘で相合傘をして、遊園地のアトラクションの行列に並んでいた事を。隼人が右肩を濡らし、ずっと自分を雨から守ってくれた事を。
 そして、紬は気づく。
 隼人と歩んだ思い出は痛みではなかった、と。
 そう、温もりがあったんだ。
 紬は今降る雨を全身で受けながら、やにわにそう思った。
 大好きな人を失った哀しみは辛い、苦しい。思い出が重たすぎる。だが、その哀しみを乗り越えた時には、思い出の重さがまるで毛布のようになり、自身を温めてくれるのではないか、とも。
 ついさっきまで快晴だった空が、天気予報でも一日中晴天が続くと予想していた空が、街路を雨で濡らしている。
 何が起きるか分からないし、何を想うか分からない。
 紬はなお強さを増す雨を受けて屹立する。
 そして、直感する。
 また泣くかも知れない。まだ泣けるかも知れない。
 涙は枯れ果てた、と紬は慮っていたが、どうやらその考えは思い過ごし、というか当たらなかったのかな? たった今まで内心で悲劇のヒロイン症候群を演じていただけじゃないかな? と思い始め、どうしてか自嘲気味の笑顔を零した。まだ顔を雨空に向け、雨に濡れながら。
 まあ、それでもこの雨が私の涙を誤魔化してくれるからOKだよね、隼人。
 紬はパンプスからアンクレットソックスに雨水が滲むまでは、しばらくはバカみたいに立ちすくんでいようと思った。

   

                             了
   

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