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指の隙間 ◆ルイ

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「ごめんっ、僕、今朝から、記憶が戻っててっ、だから、真木の恋人の『僕』はもういなくなった。だっ、騙してて本当にごめん」

捲し立てるように話したが、真木からの反応は返ってこなかった。

それから暫くの沈黙が続き、僕の涙は止まったが、心臓はずっと嫌な音を立てていた。

真木は何故、何も言わないのか。

沈黙に耐えられなくなり恐る恐る指の隙間から覗き見た。
すると、思ったよりずっと穏やかな顔をした真木が居た。
驚き顔から手を退かすと真木は僕を見て微笑んだ。

「良かった。ルイの記憶が戻って」

真木の微笑みに促されるように頷くと「念の為、何個か確認するけどいいか?」と聞かれた。

二人とも起き上がり、服を着て床に座った状態で話をした。

中学と高校の担任の名前と大学の教授の名前。それらを聞かれ僕は思い出しながら答えた。
次に、真木はノートを広げ数学の問題を何問か手書きすると僕に渡してきた。
それも解くと真木は「最後の質問」と言い、7月13日、――僕が陸橋で転んで頭を打った日――の記憶があるかどうかを聞いてきた。

僕はその日の講義の内容を話したが、真木はじっと僕を見つめ、無言でその後にも何かあっただろうと目で訴えてきた。

真木から【    】のことがきっかけで友人としての距離感を見直そうと言われたことは口にするのも辛い記憶だった。しかし真木がこのことを確認したいのならば話さないわけにはいかなかった。
それがショックでアパートを飛び出した、ということまでは言わなかった。言えば真木が責任を感じるだろうから。

真木は納得したように大きく息を吐いた。

「本当に記憶が戻ったんだな。おめでとう。病院やお母さんにも連絡しとかないとな」


真木と普通に話せていることが想定外で、まるで狐につままれているような不思議な感覚に襲われた。

つい先程までの情欲はもう微塵も感じられず、かといって怒りもない。真木は穏やかに僕に質問をしたし、記憶が戻ったことも喜んでくれた。

真木の心は凪ぎいているように見えた。

そこまでショックなことでは無かったのかもしれない。

真木を傷付けずに済んだ、そう安堵し掛けたが、病院、またはうちの母親に連絡する為に手に取ったのであろうスマホを真木が扱えないでいるのに気付き、唖然とした。

うまくタップが出来ないのか真木はスマホを触りながら「あれ?」「あれ?」と小さく呟いている。

手元を見れば指が震えていた。

真木の顔は少しずつ青ざめ、ついには苦しそうに顔が歪んだ。それを隠す為なのか言葉だけは陽気で「おっかしーなァ」と呟いている。
僕はそんな真木を見ていられずに、そっと目を逸らした。



真木は手こずりつつも電話をかけ、夜勤の看護師に僕のことを話してくれ、翌日に病院に行く手筈となった。

そして、母とも話をしてくれた。

記憶が戻った、という話だけでは終わらず、休学、家庭教師、ヘルパーなどという単語が聞こえてきた。
話の流れから推察するに、どうやら真木との生活は夏休み中限定のもので、明後日から家庭教師とヘルパーの手を借り母と生活せねばならない状況だったらしい。

ここから母の家まで300キロ程離れている。

『僕』と真木は遠距離恋愛をするつもりだったのだろう。

それほどの覚悟で付き合った二人を引き裂いてしまったという罪悪感にまた胸が苦しくなり、じわりと涙が出てきた。

電話を終えた真木は僕の顔を見て少し慌てたが、その後は同情するような顔で僕を見た。

「真木、僕……本当に、ごめん」
「ルイは、記憶が戻ったばっかだし混乱してるんだ。今は何も考えない方がいい」

真木の言葉は優しいが、距離を取られていた。

手を伸ばしても触れられない距離。
友人の、距離だ。

節立った手は僕の頭には触れてこない。
一日で真木に撫でられることの心地良さを知った僕は寂しくて、悲しくなった。しかし、寂しいだとか悲しいだとか言う資格は無い。

「ごめんっ、ごめん、なさい。赦してください」

ひたすら謝ることしか出来なくて、僕は真木に頭を下げた。

元を辿れば僕が真木を好きになったのが全部悪い。
真木を好きにならなければ僕は足を滑らせて転んだりしなかったから、真木に辛い思いをさせることもなかった。

「……謝るなって。俺の方が……ってか、俺しか悪くないから、ルイは何にも悪くない」
「そんなことない。僕が真木を傷付けてしまったから……ごめん」
「……頼むから、もう謝るな。今日はもう寝よう」

このままでは寝られない。
なんとか話を続けなければと思うが、口を開けば謝罪しか出てきそうになかった。
口ごもっていると真木は、溜め息を一つ吐いた。

「……ルイはさ、約束を守ってくれようと頑張ったんだろ? その気持ちだけで十分だから」
「……約束って」

話が急に見えなくなり困惑した。すると真木は傷付いたように顔を歪ませたが、それはすぐに困ったような苦笑いに変わった。

「俺にそれを言わせんのか。キツいな。……一生、恋人でいようって約束だよ」

真木は僕に全ての記憶がある前提で話をしているのだと気付いた。

それはそうだ。僕は記憶が戻った代わりにこの二ヶ月間の記憶を失くしてしまったということを真木に告げ忘れていたのだから。

謝ることばかりに気を取られ重要なことを告げていないことに焦り、口を開いたが真木に制された。

「もう何も言わなくていいから。約束は無し! この話はこれでおしまいにしよう。俺は明日、ルイのお母さんがこっちに来てくれるまでは付き添いたいと思ってる。ルイは記憶を取り戻したばっかだし、一人になんのは不安だろ? 気持ち悪いかもしれないけど絶対に何もしないから安心して寝てくれ」

真木は一方的にそう告げて並べて敷いてあった布団の一方を壁際まで移動させると「おやすみ」と言い照明を常夜灯に切り替えた。

薄暗い中、真木が布団に横になっている姿が見える。
タオルケットを頭から被り、こちらに丸めた背を向けている。

真木には誤解があるのかもしれない。

真木は自分が振られたのだと思っていないだろうか。

僕が告げた「真木の恋人の『僕』はもういなくなった」という発言と謝罪は一生恋人でいるという約束が守れなくなったことに対するものだと思っているのだろう。
真木の口調はそんな感情を含んでいた。

それなら真木は今、布団の中で失恋に一人、悲しんでいるのではないだろうか。

自分を振った相手と同じ部屋にいなければならない苦痛があるのに、僕のことを気遣って一緒に居てくれている。

本当に申し訳ない。

せめてちゃんと伝えなくてはいけないと思った。

真木は『僕』に振られたわけじゃなくて、『僕』は居なくなってしまったのだということを。

その事実を知ることと、好きな人に嫌われたと勘違いしている状況とどちらが辛いのだろうか、そんな考えが一瞬だけ頭を過った。しかし、真木なら真実の方を知りたいはずだと長年の付き合いのある僕は思い直した。



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