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名前は

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「背中が曲がってる!それと、ナイフを持つ手に力が入り過ぎ。今度は肩に力が入ってる。あぁっ、それじゃあ一口が大きすぎる。それの3分の1くらいにして。口をフォークに近づけるんじゃなくて、フォークを口に近づけるの。あと、口は閉めてものを噛んで。」
「っ、そうごちゃごちゃ言われると、全然美味く感じねぇんだけど。」
「口の中にものを入れたまま喋らない。」
「……腹ん中入りゃおんなじじゃねーかよ。」
「何か言った?あ、また背中丸まってるし!」

翌日、さっそく一緒に朝食を摂りながらテーブルマナーを彼に教えていると、玄関ベルが鳴った。もうそんな時間かと自分だけ朝食を切り上げる。彼には教えた通りに残りを食すように指示し自分は玄関へ向かう。
内鍵を開けると見慣れた顔。
私の秘書を会社設立当初から務めてくれている、エンリ・ハイストンを迎え入れる。
エンリは私より8歳年上の35歳で、クールビューティーな顔に、肉感的な体を持っている。この世界の美的感覚から見ても、魅力的な外見だ。

朝の挨拶を済ませ、リビングに通す。
私は処理済みの書類とクレープのレシピを渡し、エンリから承認待ちの書類等を受け取る。仕事の進捗状況を聞きながら、書類にさっと目を通し、仕事の話は早々に切り上げた。そして本題に入る。

オス捜索の為の人員を増やす手配をしてほしいことを話した。

「昨日見つかったというオス……、ええと、何とお呼びしたら?……そのかたは娼館の主人に連れられていらっしゃったのですよね。娼館を重点的に探す方向でよろしいですか?」

エンリは慎重に言葉を選んだ。
私が以前、シュゼに対して差別的な態度を取った側近を解雇した――次の就職先は斡旋したが――のを知っているエンリは、オスの話になると顔に表情を一切乗せない、鉄面皮になる。そこには蔑みも同情も、なんの感情の動きも感じさせない真っ直ぐな瞳があるだけだ。
私はそれを、どちらかといえば好ましく思う。社長の逆鱗に触れたくないが為に、見え透いた作り笑顔でおべっかを使う人間よりは信頼できるから。

「ええ、そうして。でも今まで通り主人に話を聞くだけではだめ。働いている人間にも聞き込みをするようにして。……名前はね、残念ながらまだ教えて貰えてないの。」

娼館で働く人達に直接話を聞くことによって、直接的な情報が得られなくとも、私の噂――金持ちが道楽でオスを集めている――が、今まで以上に広がってくれるだろう。

「情報料を要求されるかと思いますが、よろしいですか?」
「ええ、構わないわ。一番の古株を指名するように徹底してね。」

こう念を押しておかないと、調査員達は自分好みの人間を指名して、仕事そっちのけで楽しんでしまうだろう。フタナリは性欲が旺盛で奔放なのだ。


「エンリ、あの子を紹介したいのだけれど、ここで待っててもらえる?」

毎日エンリは打ち合わせの為にここに来るのだし、ある日ばったり出会ってしまうよりは、今顔合わせをしていた方がいいだろうと、彼を呼びに行った。
朝食を終えていた彼は自室に戻っていた。
嫌だったら無理をしなくていい、と前置きをして秘書を紹介したいと話した。あまり乗り気ではなさそうだったが、エンリがオス捜索の手配をしている人間だと話すと、会ってもいいと言ってくれた。
彼をリビングに連れて行くと、エンリは立ち上がり自己紹介をした。ニコリともしていないが敵意は感じさせていないし、握手をしようとして、不用意に手を差し出したりもしていない。

手は、火と水の魔法を生み出す場所であり、鋭いナイフにもなりえる部位だ。魔力を持たない人間にとって、手で触れられる、という行為は攻撃をされるかもしれないという恐怖をもたらし兼ねない。

彼はエンリを見て、何も言葉を発しなかったが、ぎこちなく少しだけ頭を下げた。正直、また唾を吐かれてしまうのでは?と思っていた私は歓喜し、思わず『偉い!』と声を上げてしまった。それだけでは足りず頭を撫で回そうと『触るね』と言ったら、断られてしまった。人が見ているだろう、と。
それを聞いたエンリは、鉄面皮を崩さないまま『先程の件は迅速に手配致します』と言って屋敷を出ていった。


「唾を吐くかと思ってハラハラしてたのに、偉かったね。」

私がもう一度褒めると、エンリがいなくなり緊張が解けたのか彼は表情を少しだけ緩ませた。

「……あれは、悪かったよ。……アンタ、昨日、見たこともねぇ大金、俺を買う為に払ってたからさ、ひょっとして殺されちまうんじゃねぇかってちょっと思ってて、すっげぇ怖くなってきてさ。でも怖がってることバレたくなくて虚勢を張った。それでなんとか自分の気持ち、保ってたんだ。」

バツが悪そうに、口を尖らせながら謝る彼に胸がぎゅっと痛くなる。
今の素直な彼の態度を見ると、昨日は私が悪かったのだと気付かされた。何の目的かも分からず急に知らない場所に連れてこられて、自分の意思とは関係なしに売買されたのだ。不安でいっぱいだっただろう。そんな相手にニコニコと挨拶なんてされたって、恐怖しか湧いてこないだろう。
次のオスが見付かったら、彼らの恐怖を取り除いてあげることを何より一番初めにしなくては。

「私こそ、謝りたい。救いたいとか助けたいって気持ちが先走り過ぎてて、キミの不安に寄り添いきれてなかった。」
「……いや、十分だろ。アンタは悪くねぇ。」
「キミ、優しいんだね。」
「っ、そんなんじゃねぇよ!」

私が微笑み描けると、彼はつん、と横を向いた。照れているのだろうか、何にせよ可愛らしい。

「……あのよ、…俺、ねぇんだ。」
「え?」

何のことかと聞き返すと、相変わらず横を向いたまま、ボソボソと話してくれた。

「……アンタ、昨日俺に名前を聞いただろ?俺には名前なんてねぇんだ。……俺はいつも『そこのオス』とか『汚ぇの』って呼ばれてたから。」

シュゼでさえ、親が付けてくれた名前があった。シュゼは学校に行かなければなかない年になってから親に捨てられた。魔力がない為学校に入れず、成長すればオスであることがやがて周囲にばれてしまう、それを親は恐れたのだ。
名前が無いということは、そんなシュゼよりも、もっと幼い頃、自分の名前を認識するよりも前に捨てられたということだと思われる。そして、その後出会った人間にも名前を必要とされなかったということ――。

悲しいのか悔しいのか、泣きたいのか怒りたいのか自分でも分からない。そんな思いをぐっと堪えて頬笑む。

「……じゃあ、私がキミの名前を決めていい?」
「……あぁ。名前が必要ならそうしてくれ。」
「……ヒカル。ヒカルって名前は、どう?」

ヒカル、という名は今よりも十歳も若かった自分が、シュゼとの間に子どもが出来たら、なんて夢見て考えた名前だ。その時の私は彼に生殖能力が無いと知らなかったのだ。

「……ヒカ、ル?」

聞き慣れない響きなのか、彼はぎこちなく繰り返した。

「そう。私の名前とお揃いなの。私の名前のね、ミツコのミツはニホンではヒカルっていう意味の文字なの。」

光子。

前世では、古臭い名前だと両親に散々文句を言っていたはずなのに、名前を変更する時に真っ先に浮かんできたのがこの名前だった。今では両親の思いが込められた、美しい名前だと思っている。

「ニホン、って何だよ?」
「えーと、…私の頭の中にある、架空の世界、かな。それよりヒカルって名前、どう?」
「……よく分かんねぇけど、それでいい。」

言い方はぶっきらぼうだけど、声のトーンは穏やかなので、気に入って貰えたのかもしれない。

「じゃあ、決まりね。ヒカルちゃん!」
「おい、ちゃん付けはやめろ。ガキみてぇだろうが。」

何歳も年下なのだからいいじゃない、と言おうとしたけれど本人の意思は尊重すべきだ。

「了解です、ヒカル。…ふふ、名前で呼ぶと親近感が湧く気がする。改めてよろしくね、ヒ・カ・ルっ。」
「……あぁ。………みぃ、…っ、ミツ、コ。」

変な発音になりながらも私の名前を言ってくれた彼に愛しさがこみ上げ、今度こそ彼の頭をわしゃわしゃと撫でた。
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