サンスポット【完結】

中畑 道

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最終章 ウォーク・ツゥギャザー

第五話 惨劇

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 皐月にとって月に一度、母親と弟の暮らすマンションに行くのは楽しみの一つになっていた。離れて暮らすことになったのはショックだったが、こうして毎月会っていればいつの日かもう一度家族が一つになれるのではないか、両親が仲直りしてくれるのではないかと皐月は切に願っている。

 母親と弟が暮らす部屋の鍋島姓の表札が皐月は嫌いだった。ここに住んでいるのは鍋島美月と鍋島息吹などではない。入間川美月と入間川息吹だ。私の大好きな母親と弟なのだと表札を見るたびに思う。

『お母さん、来たよー』

 自分は母親が大好きなのだと伝わるよう、インターホン越しに元気な声を聴かせる。

「いらっしゃい。待っていたわ」

 母親はいつも笑顔で迎えてくれる。台所から良い匂いがした。

「今、シチューを作っているの。皐月の大好物でしょ」

「やったね。息吹は」

「宿題をしているとこよ」

「よーし、お姉ちゃんが見てあげよう」

 弟の成績は抜群で宿題を見てあげる必要などないのはわかっている。スキンシップを取るための方便に過ぎない。

「息吹、宿題解からないところあるー」

「いいや、丁度今終わったところだよ」

「そう、じゃあリビングで一緒に話そうよ」

「オッケー。すぐ行く」

 昔からいつも後ろを付いてくるようなお姉ちゃん子の弟ではなかったが、姉を邪険に扱うようなことも無い。皐月はそんな弟との距離感が嫌いではなかった。



 キッチンでお母さんの手伝いをしながらリビングのソファーに座る弟に時々声を掛ける。数ヶ月前までは当たり前だった風景が今は月に一度だけ。皐月はここへ来る度にどうしてこうなってしまったのか考えてしまう。そして、何度考えても同じ答えに行きつく。原因は母親だと。

 父親に比べ母親は躾には厳しかったが皐月はそのことを嫌に思ったことは無い。寧ろ親なのだから当然だと思っている。母親の厳しさには愛情が充分に感じられたし、厳しいだけではなく、その何倍も楽しい思い出がある。だからこそ、弟が運悪くクラスメイトの万引き現場に居合わせた日からの母親の変貌は信じられなかった。常軌を逸している。もしかしたら母親は精神の病気かも知れないと皐月は思うようになった。

 それと同時に、なぜ弟は文句ひとつ言わず母親に従うのかが不思議でならない。弟は気の小さい方ではない。むしろ相当肝は据わっている。間違っていると思えば相手が目上の人間や強者であろうと自分の意見をはっきり言う。皐月自身が散々経験していることだ。その弟が母親に従うということは、母親のしていることは間違っていないと当事者の弟が認めてしまっていることになる。

 どうやら父親はこの歪な母子を時間が解決してくれると思っているようだ。弟の成長と共に今の状況が変わると見越している。だが、皐月はそれを良しとは思わない。成長するまで我慢し続けなければならない弟が余りに不憫だ。だから皐月は別のアプローチを試みようと機会を窺っている。
 
 皐月が企てている作戦は、姉弟を差別していると母親に認識させること。そしてその機会が今日訪れた。



 夕食と風呂を終え、テレビを見ながら三人で何気ない会話をしていた時、突然母親が弟の頬を張った。

「もう九時半よ。どうして貴方はルールを守れないの」

 あの日以来、弟にだけ厳しくなった母親。家族四人で暮らしていたころも母親は弟に突然大声で叱ることはあったが、先に手をあげたりはしなかった。

「ごめんなさい。すぐに寝る準備をするよ」

「これで何度目。反省は次に生かされてこそ意味があるのよ」

 そう言ってもう一度頬を張る。弟はされるがままにその暴力を受け入れる。異常な光景だ。私は止めに入った。

「お母さん、止めて。私がいつまでも息吹と話していたから、悪いのは息吹じゃないよ」

「いいえ、理由は関係ないの。大事なのはルールを守るということ。子供の内から簡単にルールを破るようではこの先が思いやられる。このまま大人になったら、この子はきっと犯罪者になってしまうわ」

 話が飛躍しすぎている。この程度のルールは誰しもが破るものだ。やはり母親はおかしい。

「それだったら私も同罪のはず。息吹だけ手をあげるのはおかしいよ」

「何を言っているの。皐月は女の子なのよ。傷でも出来たら大変じゃない」

 鬼の形相で弟を殴りつけていた母親が一転、いつもと同じ優しい顔で皐月に言う。

 皐月は初めて母親が恐ろしいと思った。

「皐月もそろそろ寝る準備をしなさい。中学生だからといっても夜更かしは控えめにね」

 そう言うとまた弟に向き直り頬を張る。

「止めて、お母さん。息吹が可哀そうだよ」

「皐月は優しい子ね。でも、これは息吹の為なのよ」

 駄目だ。止められない。母親を止める事が出来ない。恐ろしい。弟には鬼の形相をしながら自分には優しい顔を見せる母親が恐ろしい。

「お母さん・・私・・明日の朝、友達と約束があるの・・・だから・・今日はもう帰るよ」

 何も言わない弟の頬を張り続ける母親の背中に言う。

「だったら送っていくわ」

 弟を折檻しながらも、皐月の方を向く母親の顔はいつもと変わらない。

「大丈夫。一人で帰れるから」

「あらそう、気を付けるのよ。何かあったら直ぐに電話しなさい」

 弟への折檻が続く中、皐月は慌てて荷物を纏めた。頭の中が恐怖で塗り潰される。恐ろしい。心底恐ろしい。母親は完全に狂っている。

 皐月は・・・逃げた・・・




 皐月の話を聞いた父親は居ても立っても居られない。今も息吹が理不尽な暴力に曝されているかもしれないと思うと、何か行動しなければと受話器を取り美月と息吹が暮らすマンションに電話をかける。策が有る訳でもなければ何を話すかも決めていない。それでも息吹の声を聴かなければ気がおかしくなりそうだった。

 プルルルル・プルルルル

 電話に出ない。父親の不安がどんどん膨らむ。

 プルルルル・プルルルル

 駄目だ。父親は連絡先を変えた。

『どうした。お前から連絡してくるなんて珍しい』

『お久しぶりです、お義父さん』

 美月の父であり皐月と息吹の祖父でもある鍋島成正に皐月から聞いた話と現在美月達が暮らすマンションに連絡が着かないことを伝えると、父親と皐月はマンションへ向かった。



 マンションで成正と落ち合い部屋へ急ぐ。成正が持つ合鍵で部屋に入ると唸り声の様な音のするリビングへ三人は走った。

「息吹」

 そこには倒れている美月と、口から血を吐き虫の息の息吹の姿があった。

「救急車だ。直ぐに救急車を呼べ」

 息吹に駆け寄り息があるのを確認した成正が叫ぶと、あまりの惨劇に行動を停止していた父親と皐月も動き出す。

「息吹・・息吹・・・お姉ちゃんだよ・・息吹・・」

 皐月は必死に弟に声を掛けるが、その声が届いた様子はない。

「息吹・・死なないで・・息吹・・」

 すぐ傍では父親が興奮した声で救急に説明をしている。成正は美月の状態を確認していた。

「美月は気絶しているだけだ」

「お母さん・・お母さんがやったの・・・」

「わからん。今は息吹を救う事だけをかんがえろ」

「うん・・・息吹・・ごめん・・息吹・・・」

 十分程でサイレンを鳴り響かせた救急車が到着する。すぐに運び出された息吹と共に父親と皐月が、二台目の救急車に美月と成正が乗って、病院へ向かった。



 病院では息吹の緊急手術が行われた。十時間以上にも及んだ手術が終わると執刀医が三人の前に現れ状態を説明する。

「複数の骨折が見受けられます。折れた肋骨が一本、肺を貫通していたのが吐血の原因です。肺を一つ失いましたが、一命は取り留めました」

 父親と皐月はその場に崩れ落ちる。なんとか冷静を保っている成正が医者に質問した。

「命に別状はないのですね」

「はい。当分はベッドの上での生活になりますが。それと・・今回とは別に、以前に負った複数の痣があります。虐待が疑われますので警察には連絡させていただきます」

「わかりました・・・」

 考えうる最悪の事態に成正も言葉を失う。体中から力が抜けその場にへたり込んだ。

「しっかりしてください。体の傷は治せますが、心の傷は我々には治せません。ここからは貴方たち家族の力が必要です。彼の為にもどうか気を強く持ってください」

 集中治療室から沢山の機材とチューブを着けられた息吹が運び出され病室へ移る。

 その姿に皐月は己を責め続けた。自分が母親にもっとはっきり意見できれば、自分がもっと早く父親に話していたら、自分が逃げなければ、後悔は次から次へと皐月を襲う。

 気絶していた美月は、まだ目を覚ましていない。




 息吹が眠る病室で一晩明かしたのち、父親は朝から本格的に始まった美月と息吹が暮らすマンションの現場検証に立ち会う為一旦病室を後にした。

「皐月。食事を買ってきたから、少しは食べなさい」

「いらない。お爺ちゃん全部食べて」

「そんなこと言わずに。お前まで体を壊してしまうぞ、一緒に食べよう」

「息吹は何も食べてない。私もいらない」

「大丈夫だ。息吹はちゃんと点滴で栄養は摂っているから」

「だったら、私も点滴でいい」

「我儘を言うな。息吹はお前にそんなことをしてほしいとは思っていない」

「どうしてお爺ちゃんにそんなことが分かるの。私は息吹を・・弟を見捨てて逃げたんだよ・・」

「そんなに自分を責めるな」

「責めるよ。私のせいで・・息吹はこんなことに・・どうやって償えばいいの・・」

「償う必要などない。悪いのは美月だ。皐月が償うことなど何一つ無い」

「でも・・でも・・私は・・お姉ちゃんなのに・・・」

「過去ばかり振り返るな。これからのことを考えるんだ。姉として息吹に、弟に何がしてやれるか。その為にも、さあ、一緒にご飯を食べよう」

「うん・・・」

 泣きながら食事を口の中に押し込む皐月を見ながら成正は今後のことを考えていた。息吹だけではない。皐月の心にも深い傷が刻まれてしまった。何年もかけて、ゆっくり、慎重に、少しずつ癒していかなければならない深い深い傷が。
 
 祖父として大切な二人の孫をどのように立ち直らせていくか。教師としての第一線を退き理事長となって落ち着いた生活をしていた成正は人生最後の大仕事を必ず成し遂げてみせると強く思う。もし、高校生になっても皐月が立ち直る切掛けを掴めていなければ、竹ヶ鼻高校に入学させて見守りながらその背中をそっと押す。

 竹ヶ鼻商店街歴史文化研究部の構想がこの時初めて成正の脳裏に浮かんだ。

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