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第一章 サイレント・マドンナ
第二話 策謀
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俺が通う私立竹ヶ鼻高校は一学年十五クラス、全校生徒数が約千八百人のマンモス校だ。これだけの生徒数を誇る私立だけに校則は厳しい。犯罪行為に厳しい処分が下るのは当然だが、それ以外にも際立って厳しい処分を言い渡される校則が二つある。
一つ目は学業、年度末に一教科でも赤点があれば留年である。勿論、補習再試験といった救済措置は取られるが、そこで赤点を回避出来なければ容赦なく留年だ。
二つ目は部活動、家庭の事情等一切関係なく、全生徒必ず部活に所属しなければならない。部活の変更は二度まで。三つ目の部活を退部するのは、そのまま学校を去ることを意味する。部活を変更する際に許される期間は一週間。一日でもオーバーすることは許されない。今所属している部を辞めたければ、先に次の所属先を決めてからにしろとのことらしい。
しかし参加まで強要されることはなく、所属さえしていれば幽霊部員でも構わない。全校生徒の半数以上が幽霊部員である現状を考えると然程厳しい校則とも言えない。
約九割の生徒が一般入試、残りの一割は特待生だ。部活動を推し進める校風の為、体育会系の部はある程度の継続した強さを求められる。特待生制度での人員確保は止むを得ないのだ。野球、サッカー、柔道、バレーなど、殆どの特待生はメジャースポーツの部員なのだが、美術部や音楽部のような文科系の特待生も数名居る。その数名に紛れて俺はこの高校に入学した。
理事長の鍋島成正は俺の母方の祖父にあたる。両親は俺が九歳の時に離婚し、今は父と姉と三人で暮らしている。この学園の理事長は、血族ではあるが親族と言っていいのかよく分からない間柄だ。
中学三年の時、最早なんの関係もない母方の祖父と父親が二人して竹ヶ鼻高校への入学を強く勧めた。俺は聞く耳を持たなかったが、最後には竹ヶ鼻高校のOGでもある姉も加わり半ば強引に推薦入試を受ける羽目になった。乗り気じゃなかった俺は碌に解答もせずに答案用紙を提出したのだが、結果は見事に合格。竹ヶ鼻商店街歴史文化研究部の特待生としてこの高校に通うこととなった。
北条志摩子に竹ヶ鼻商店街歴史文化研究部の存在意義を聞かれた際は回答を濁したが、要は俺を裏口入学させる為の部である。俺自身この部の存在意義を一切聞かされていない以上、そう考えるのが妥当だろう。
二年十二組に俺と北条は所属している。彼女とは一年の時から同じクラスだったが、俺の記憶が確かなら言葉を交わしたのは昨日が初めてだ。
今朝、教室に入ると二年十二組は騒然としていた。原因は北条志摩子の新体操部退部だ。彼女の周りに人だかりができている。その中心で、多分新体操部員だろう数名が凄い剣幕で北条を説得していた。
「北条さん考え直して。今貴女に抜けられたら新体操部はどうなるの」
「すみません。もう決めた事です」
「勿体無いじゃない。貴女程の実力の持ち主が何故」
「一身上の都合です。申し訳ありません」
熱く語っている先輩らしき新体操部員達と北条の間には、誰の目にも明らかな温度差がある。結局、ショートホームルームが始まるまで不毛なやり取りは続いた。
朝の喧騒は新体操部員の撤退と共に一段落着いたものの、クラスは完全には落ち着きを取り戻せないまま授業は始まった。
二時限目終了のチャイムが鳴ると渦中の人、北条志摩子がツカツカとこちらに向かって歩いてくる。俺は昨日の再戦かと身構えるが、ここでは地の利が悪い。ギャラリーが多すぎるからだ。大勢のクラスメートの前で学園のマドンナとの舌戦は俺の立場を危うくし兼ねない。
しかも二年に進級してまだ二日目だ。クラスメイトと仲良くしたいなんて思いは毛頭ないが、敵視されるのも避けたい。回避する方法を思案していると最後列にある俺の席の横まで来た北条が、こちらに背を向け隣の席の木下真紀に話しかけた。
「木下さん。貴女、茶道部よね」
「う・・うん。そうだよ」
北条に突然話しかけられた木下は動揺を隠せない。一般的な生徒にとって北条志摩子とは話しかけられるだけで緊張してしまう雰囲気を持つ人物なのだ。今日は尚更である。
「私、前々から茶道に興味があったの。和の心と一期一会の精神、とても感銘を受けるわ。是非入部したいのだけれども、その旨を部長さんにお伝え願えないかしら」
取って付けた理由にしか聞こえないのは俺の性格が悪いからだろうか。
「う・・うん、了解。お昼休みに私の方から伝えておくから、ほ・・北条さんは放課後部室まで来てもらえるかな」
木下は早く会話を終わらせたいのか茶道への思いを深く聴きもせずに即了承した。
「ありがとう、そうして頂けるとありがたいわ。それじゃあ放課後お伺いさせていただくわね」
話し終わると俺のことなど一顧だにせず、中央最前列の自分の席へと戻っていった。隣の席では木下がようやく緊張から解放されて安堵の表情を見せている。
茶道部で少しは気短な性格を矯正するといい。自分の短所をよく理解しているじゃないか、素敵なレディーへの第一歩だな。実にいい選択だ。
俺の安寧が無事守られて一週間が経過した。
北条が茶道部に入部した以上新体操部の先輩方も口は出せない。この学校では一度入部した部活を簡単に辞める事が出来ないからだ。
彼女は二枚しかないカードの一枚を既に使って新体操部を退部した。
最後の一枚を使わせるにはそれなりの責任と覚悟がいる。もう一度茶道部を辞めさせて新体操部に入部させるのは可能だが、そうなると二度と新体操部を辞められなくなる。どんな辛い事や理不尽な事があっても北条は新体操部に縛られるのだ。
カードは二枚あっても、その内一枚は保険としてキープしておきたい。実質、本人の意思で退部できるのは一度しかないのと変わりないのだ。
北条はいつもの朝と同じように、中央最前列の自分の席で背筋をピンと立てホームルームが始まるのを待っている。
二年生になってから十日経ったが、彼女に仲の良い友人は見当たらない。彼女が醸し出す孤高な雰囲気が気軽に話しかけるには高い壁となり、それがまたより彼女を孤高な存在に押しあげる。
少しだけ気の毒に感じる。学園のマドンナだからといっても所詮は一介の女子高生に変わりはない。
彼女が望んで入部した新体操部を自ら退部したのには理由があるはずだが、その事を相談する相手が彼女には居るのだろうか。
好奇の目に晒されるのが嫌だと言ったが、そんな悩みを愚痴る相手が彼女には居るのだろうか。
今も彼女はピンと背筋を伸ばした姿勢で凛然と座っているが、自分の弱さを見せられる相手が彼女には居るのだろうか。
スッと北条がこちらに振り向いた。その顔は以前見た程ではないものの、青白く精気に乏しい。俺と目が合うと、一瞬表情が和らいだような気がした。
広大な敷地を有する私立竹ヶ鼻高校の校舎は東から特別棟、次に各クラスが入る校舎が二棟あり真ん中を渡り廊下で繋いでいる。体育館、プール、武道場、グラウンド、駐車場を挟んで旧校舎がある。ただでさえ離れた場所にある旧校舎の西側には竹林が鬱蒼と生い茂っており、より一掃静かで寂しい。
旧校舎は何年も前に学び舎としての任を終え、現在は主に物置として使われている。図書室に置ききれなくなった古い本、使わない机や椅子、体育祭や文化祭といった年に一度しか使われない備品などが置かれている。
部室をあてがわれているのは竹ヶ鼻商店街歴史文化研究部のみ。静かな分には有難いのだが、教室からの移動距離が長いのは難儀である。
放課後、俺は急いで部室のある旧校舎に向かっていた。掃除当番の後、担任教師に捕まり面倒な資料作成を手伝わされ随分と時間を食ったからだ。
溌剌とした運動部のかけ声が響き渡るグラウンド、シューズが床に擦り付く音とボールを床を打ちつける音が入り混じる体育館を抜けると、過疎化の進んだ寒村の雰囲気を醸し出す寂れた空間が現れる。
西日を竹林に遮断され己の姿を隠すかのようにひっそりと建つ旧校舎が俺は嫌いではない。
昇降口で常備してあるスリッパに履き替え、一階の一番奥にある部室に向かう。これが一年間繰り返したルーティン。
紛いなりにも竹ヶ鼻商店街歴史文化研究部の特待生として入学した俺は、特別な事情でも無い限り部活への参加を義務付けられている。入学したての頃は毎日ここへ来るのに不満と疑問を感じていた。何もやる事が無いからだ。
正確には一つだけ活動はある。毎年五月にある竹ヶ鼻祭りの際に商店街の掲示板に貼るB4サイズの『竹ヶ鼻商店街の歴史と文化』という新聞擬きの掲示物の作成だ。テンプレートがあるので、一人でも二日もあれば完成させることが出来る。それが終われば翌年の竹ヶ鼻祭りまで何もする事が無い。日参するのに疑問を感じない方がどうかしている。
いつの頃からかその疑問も感じなくなった。よくよく考えてみれば俺をこの学校に入学させる為にある部なのだから、それくらいは仕方がない。そう思えるようになった頃、この空間が居心地の悪い場所ではなくなっていた。あたり前に授業が終われば部室に行く。日常になれば何の疑問も感じない。朝、顔を洗うのに疑問を感じないのと同じだ。
部室のドアを開け、蛍光灯のスイッチをパチっと押す。カラカラと音が鳴り、何度か点滅してからやっと明かりが灯る。
明かりが灯ってもこの教室は薄暗い。
「えっ」
思わず息を飲んだ。
いつも使っている隣の席に女が座ったまま、うつらうつらと舟を漕いでいる。
「またこの女か・・・」
俺の入室に気付いた北条志摩子が目をシバシバさせてこちらを窺い、ニヤりと微笑んだ。
「随分と重役出勤ね。完全下校時間まであと三十分しかないわよ」
右手首に巻かれた小さな腕時計を見ながら、悪びれもせず話しかけてくる。
「掃除当番の後、雑事を押し付けられてな。それより部外者に勝手に浸入されては困るのだが」
「部外者がどこにいるの。ここにはこの学校の生徒しか居ないじゃない」
「言い方を間違えたよ。眠たいなら保健室に行くか家に帰って寝ろ」
会話しながら思考を廻らす。
北条は一週間前茶道部に入部したはずだ。その後新体操部の連中が引き戻しに来なくなった事を考えても間違いない。
只単に俺と世間話を興じに来たのか。それは無いだろう。前回あれだけ怒らせてやったのだ、余程のマゾヒストでもない限り顔も見たくない筈だ。
「入間川君、友人は居ないの。クラスでも誰かと話しているところを見たことがないわ」
話が唐突過ぎる。考えろ、ここに来た目的を。
「必要ないだけだ。お前だって似たようなものじゃないか」
「そうよね。私、クラスメイトには嫌われているみたいだから」
「そんな事は無いだろう。話し掛けづらいだけじゃないのか。お前は目立つからな」
やはりおかしい。違和感だらけだ。後ろ向きな話をしているのに、それほど表情に影が無い。普段の北条と比べて愛想が良すぎる。NGワードの「お前」にも喰い付いてこない。
「ねえ入間川君。あれ、やっていい」
トレーニング器具を指差し俺の返事を聞く前に立ち上がる。
「構わないが女性には無理だと思うぞ。俺用にセッティングしてあるからな」
「私、こう見えても結構力あるのよ」
大胸筋を鍛える器具にスカートのまま大股を開いて跨った。ちらりと覗く太腿に、どこかでぶつけたのか小さな痣がある。それがやけに艶かしい。
何度か試みるが両腕はピクリとも動かなかった。当然だ、何年もトレーニングを続けている俺用のセッティングを、女性の中でも華奢な体躯の北条に動かせる筈がない。
やっと諦めたのか北条はスカートを手で押さえながら立ち上がり元の席に戻る。
「たいしたものね、入間川君。私じゃ全然動かせないわ」
「気は済んだか。それで、今日は何の用だ。もう完全下校時間十分前だぞ」
北条は自分の腕時計で時間を確認すると俺に正対する。
その表情には先程までの愛想は無く、普段の冷めた顔に戻っていた。
「はい、これ。竹ヶ鼻商店街歴史文化研究部に入部を希望します」
ポケットから折り畳んだ入部届けを取り出すと、丁寧に広げて俺に差し出した。
「ふざけるな、先日断ったはずだ。お前は茶道部に入っただろうが」
「一日で辞めたわ。あと、さっきからお前って呼ぶの止めてもらえないかしら。不愉快だわ」
どうやら天使タイムは終了したようだ。さっきまではなんだったのだ。
「兎に角お断りだ。他を当たってくれ」
「私もそうしたいのだけど、もう時間が無いの。部活変更期限が今日までなのよ。あと十分じゃどうしようもないわ」
「あと十分って・・・・」
やられた。
成程、北条は時間を稼いでいたのか。完全下校時間ぎりぎりまで入部の話をせず、俺の退路を断ったのだ。しかしこれは自殺行為だろ。俺が断ったらどうするつもりだ。北条も勝負を懸け、背水の陣で臨んできたということか。
「どお、学園のマドンナの生殺与奪件を手にした気分は。貴方が拒否すれば私は退学よ」
北条は口角を上げて嫌な笑みを浮かべる。
「気にしなくていいのよ。退学になっても貴方を恨んだりしないわ。さあ、受理するの、しないの」
脅迫だ・・・気にしないでいられる訳が無い。俺の一存で一人の少女を学校から排除するなんて出来るものか。
「くそっ、俺の負けだ。入部を許可する」
「そう。じゃあ入部してあげるわ。宜しくね、部長さん」
勝ち誇った顔の北条を尻目に入部届けの部長の欄に判を押す。腸は煮えくり返っていたが、最早俺には打つ手が無い。
「ほらよ。これを職員室まで持って行け。それで入部手続きは完了だ」
俺が差し出した入部届けを受け取らず、北条は腕時計に目を向ける。
「残念ね、あと五分しかないわ。私の足じゃとても間に合いそうにないわね。折角入部を許可してもらったのに、どうやら退学は間逃れないようだわ。どこかに、私の為に職員室まで駆けてくれる素敵な男子生徒はいないかしら」
あざとく俺を見る。なにが学園のマドンナだ、只の性悪女じゃないか。
残された時間は五分を切っている。俺は入部届けを持って全力で駆け出すしかなかった。
一つ目は学業、年度末に一教科でも赤点があれば留年である。勿論、補習再試験といった救済措置は取られるが、そこで赤点を回避出来なければ容赦なく留年だ。
二つ目は部活動、家庭の事情等一切関係なく、全生徒必ず部活に所属しなければならない。部活の変更は二度まで。三つ目の部活を退部するのは、そのまま学校を去ることを意味する。部活を変更する際に許される期間は一週間。一日でもオーバーすることは許されない。今所属している部を辞めたければ、先に次の所属先を決めてからにしろとのことらしい。
しかし参加まで強要されることはなく、所属さえしていれば幽霊部員でも構わない。全校生徒の半数以上が幽霊部員である現状を考えると然程厳しい校則とも言えない。
約九割の生徒が一般入試、残りの一割は特待生だ。部活動を推し進める校風の為、体育会系の部はある程度の継続した強さを求められる。特待生制度での人員確保は止むを得ないのだ。野球、サッカー、柔道、バレーなど、殆どの特待生はメジャースポーツの部員なのだが、美術部や音楽部のような文科系の特待生も数名居る。その数名に紛れて俺はこの高校に入学した。
理事長の鍋島成正は俺の母方の祖父にあたる。両親は俺が九歳の時に離婚し、今は父と姉と三人で暮らしている。この学園の理事長は、血族ではあるが親族と言っていいのかよく分からない間柄だ。
中学三年の時、最早なんの関係もない母方の祖父と父親が二人して竹ヶ鼻高校への入学を強く勧めた。俺は聞く耳を持たなかったが、最後には竹ヶ鼻高校のOGでもある姉も加わり半ば強引に推薦入試を受ける羽目になった。乗り気じゃなかった俺は碌に解答もせずに答案用紙を提出したのだが、結果は見事に合格。竹ヶ鼻商店街歴史文化研究部の特待生としてこの高校に通うこととなった。
北条志摩子に竹ヶ鼻商店街歴史文化研究部の存在意義を聞かれた際は回答を濁したが、要は俺を裏口入学させる為の部である。俺自身この部の存在意義を一切聞かされていない以上、そう考えるのが妥当だろう。
二年十二組に俺と北条は所属している。彼女とは一年の時から同じクラスだったが、俺の記憶が確かなら言葉を交わしたのは昨日が初めてだ。
今朝、教室に入ると二年十二組は騒然としていた。原因は北条志摩子の新体操部退部だ。彼女の周りに人だかりができている。その中心で、多分新体操部員だろう数名が凄い剣幕で北条を説得していた。
「北条さん考え直して。今貴女に抜けられたら新体操部はどうなるの」
「すみません。もう決めた事です」
「勿体無いじゃない。貴女程の実力の持ち主が何故」
「一身上の都合です。申し訳ありません」
熱く語っている先輩らしき新体操部員達と北条の間には、誰の目にも明らかな温度差がある。結局、ショートホームルームが始まるまで不毛なやり取りは続いた。
朝の喧騒は新体操部員の撤退と共に一段落着いたものの、クラスは完全には落ち着きを取り戻せないまま授業は始まった。
二時限目終了のチャイムが鳴ると渦中の人、北条志摩子がツカツカとこちらに向かって歩いてくる。俺は昨日の再戦かと身構えるが、ここでは地の利が悪い。ギャラリーが多すぎるからだ。大勢のクラスメートの前で学園のマドンナとの舌戦は俺の立場を危うくし兼ねない。
しかも二年に進級してまだ二日目だ。クラスメイトと仲良くしたいなんて思いは毛頭ないが、敵視されるのも避けたい。回避する方法を思案していると最後列にある俺の席の横まで来た北条が、こちらに背を向け隣の席の木下真紀に話しかけた。
「木下さん。貴女、茶道部よね」
「う・・うん。そうだよ」
北条に突然話しかけられた木下は動揺を隠せない。一般的な生徒にとって北条志摩子とは話しかけられるだけで緊張してしまう雰囲気を持つ人物なのだ。今日は尚更である。
「私、前々から茶道に興味があったの。和の心と一期一会の精神、とても感銘を受けるわ。是非入部したいのだけれども、その旨を部長さんにお伝え願えないかしら」
取って付けた理由にしか聞こえないのは俺の性格が悪いからだろうか。
「う・・うん、了解。お昼休みに私の方から伝えておくから、ほ・・北条さんは放課後部室まで来てもらえるかな」
木下は早く会話を終わらせたいのか茶道への思いを深く聴きもせずに即了承した。
「ありがとう、そうして頂けるとありがたいわ。それじゃあ放課後お伺いさせていただくわね」
話し終わると俺のことなど一顧だにせず、中央最前列の自分の席へと戻っていった。隣の席では木下がようやく緊張から解放されて安堵の表情を見せている。
茶道部で少しは気短な性格を矯正するといい。自分の短所をよく理解しているじゃないか、素敵なレディーへの第一歩だな。実にいい選択だ。
俺の安寧が無事守られて一週間が経過した。
北条が茶道部に入部した以上新体操部の先輩方も口は出せない。この学校では一度入部した部活を簡単に辞める事が出来ないからだ。
彼女は二枚しかないカードの一枚を既に使って新体操部を退部した。
最後の一枚を使わせるにはそれなりの責任と覚悟がいる。もう一度茶道部を辞めさせて新体操部に入部させるのは可能だが、そうなると二度と新体操部を辞められなくなる。どんな辛い事や理不尽な事があっても北条は新体操部に縛られるのだ。
カードは二枚あっても、その内一枚は保険としてキープしておきたい。実質、本人の意思で退部できるのは一度しかないのと変わりないのだ。
北条はいつもの朝と同じように、中央最前列の自分の席で背筋をピンと立てホームルームが始まるのを待っている。
二年生になってから十日経ったが、彼女に仲の良い友人は見当たらない。彼女が醸し出す孤高な雰囲気が気軽に話しかけるには高い壁となり、それがまたより彼女を孤高な存在に押しあげる。
少しだけ気の毒に感じる。学園のマドンナだからといっても所詮は一介の女子高生に変わりはない。
彼女が望んで入部した新体操部を自ら退部したのには理由があるはずだが、その事を相談する相手が彼女には居るのだろうか。
好奇の目に晒されるのが嫌だと言ったが、そんな悩みを愚痴る相手が彼女には居るのだろうか。
今も彼女はピンと背筋を伸ばした姿勢で凛然と座っているが、自分の弱さを見せられる相手が彼女には居るのだろうか。
スッと北条がこちらに振り向いた。その顔は以前見た程ではないものの、青白く精気に乏しい。俺と目が合うと、一瞬表情が和らいだような気がした。
広大な敷地を有する私立竹ヶ鼻高校の校舎は東から特別棟、次に各クラスが入る校舎が二棟あり真ん中を渡り廊下で繋いでいる。体育館、プール、武道場、グラウンド、駐車場を挟んで旧校舎がある。ただでさえ離れた場所にある旧校舎の西側には竹林が鬱蒼と生い茂っており、より一掃静かで寂しい。
旧校舎は何年も前に学び舎としての任を終え、現在は主に物置として使われている。図書室に置ききれなくなった古い本、使わない机や椅子、体育祭や文化祭といった年に一度しか使われない備品などが置かれている。
部室をあてがわれているのは竹ヶ鼻商店街歴史文化研究部のみ。静かな分には有難いのだが、教室からの移動距離が長いのは難儀である。
放課後、俺は急いで部室のある旧校舎に向かっていた。掃除当番の後、担任教師に捕まり面倒な資料作成を手伝わされ随分と時間を食ったからだ。
溌剌とした運動部のかけ声が響き渡るグラウンド、シューズが床に擦り付く音とボールを床を打ちつける音が入り混じる体育館を抜けると、過疎化の進んだ寒村の雰囲気を醸し出す寂れた空間が現れる。
西日を竹林に遮断され己の姿を隠すかのようにひっそりと建つ旧校舎が俺は嫌いではない。
昇降口で常備してあるスリッパに履き替え、一階の一番奥にある部室に向かう。これが一年間繰り返したルーティン。
紛いなりにも竹ヶ鼻商店街歴史文化研究部の特待生として入学した俺は、特別な事情でも無い限り部活への参加を義務付けられている。入学したての頃は毎日ここへ来るのに不満と疑問を感じていた。何もやる事が無いからだ。
正確には一つだけ活動はある。毎年五月にある竹ヶ鼻祭りの際に商店街の掲示板に貼るB4サイズの『竹ヶ鼻商店街の歴史と文化』という新聞擬きの掲示物の作成だ。テンプレートがあるので、一人でも二日もあれば完成させることが出来る。それが終われば翌年の竹ヶ鼻祭りまで何もする事が無い。日参するのに疑問を感じない方がどうかしている。
いつの頃からかその疑問も感じなくなった。よくよく考えてみれば俺をこの学校に入学させる為にある部なのだから、それくらいは仕方がない。そう思えるようになった頃、この空間が居心地の悪い場所ではなくなっていた。あたり前に授業が終われば部室に行く。日常になれば何の疑問も感じない。朝、顔を洗うのに疑問を感じないのと同じだ。
部室のドアを開け、蛍光灯のスイッチをパチっと押す。カラカラと音が鳴り、何度か点滅してからやっと明かりが灯る。
明かりが灯ってもこの教室は薄暗い。
「えっ」
思わず息を飲んだ。
いつも使っている隣の席に女が座ったまま、うつらうつらと舟を漕いでいる。
「またこの女か・・・」
俺の入室に気付いた北条志摩子が目をシバシバさせてこちらを窺い、ニヤりと微笑んだ。
「随分と重役出勤ね。完全下校時間まであと三十分しかないわよ」
右手首に巻かれた小さな腕時計を見ながら、悪びれもせず話しかけてくる。
「掃除当番の後、雑事を押し付けられてな。それより部外者に勝手に浸入されては困るのだが」
「部外者がどこにいるの。ここにはこの学校の生徒しか居ないじゃない」
「言い方を間違えたよ。眠たいなら保健室に行くか家に帰って寝ろ」
会話しながら思考を廻らす。
北条は一週間前茶道部に入部したはずだ。その後新体操部の連中が引き戻しに来なくなった事を考えても間違いない。
只単に俺と世間話を興じに来たのか。それは無いだろう。前回あれだけ怒らせてやったのだ、余程のマゾヒストでもない限り顔も見たくない筈だ。
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話が唐突過ぎる。考えろ、ここに来た目的を。
「必要ないだけだ。お前だって似たようなものじゃないか」
「そうよね。私、クラスメイトには嫌われているみたいだから」
「そんな事は無いだろう。話し掛けづらいだけじゃないのか。お前は目立つからな」
やはりおかしい。違和感だらけだ。後ろ向きな話をしているのに、それほど表情に影が無い。普段の北条と比べて愛想が良すぎる。NGワードの「お前」にも喰い付いてこない。
「ねえ入間川君。あれ、やっていい」
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大胸筋を鍛える器具にスカートのまま大股を開いて跨った。ちらりと覗く太腿に、どこかでぶつけたのか小さな痣がある。それがやけに艶かしい。
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やっと諦めたのか北条はスカートを手で押さえながら立ち上がり元の席に戻る。
「たいしたものね、入間川君。私じゃ全然動かせないわ」
「気は済んだか。それで、今日は何の用だ。もう完全下校時間十分前だぞ」
北条は自分の腕時計で時間を確認すると俺に正対する。
その表情には先程までの愛想は無く、普段の冷めた顔に戻っていた。
「はい、これ。竹ヶ鼻商店街歴史文化研究部に入部を希望します」
ポケットから折り畳んだ入部届けを取り出すと、丁寧に広げて俺に差し出した。
「ふざけるな、先日断ったはずだ。お前は茶道部に入っただろうが」
「一日で辞めたわ。あと、さっきからお前って呼ぶの止めてもらえないかしら。不愉快だわ」
どうやら天使タイムは終了したようだ。さっきまではなんだったのだ。
「兎に角お断りだ。他を当たってくれ」
「私もそうしたいのだけど、もう時間が無いの。部活変更期限が今日までなのよ。あと十分じゃどうしようもないわ」
「あと十分って・・・・」
やられた。
成程、北条は時間を稼いでいたのか。完全下校時間ぎりぎりまで入部の話をせず、俺の退路を断ったのだ。しかしこれは自殺行為だろ。俺が断ったらどうするつもりだ。北条も勝負を懸け、背水の陣で臨んできたということか。
「どお、学園のマドンナの生殺与奪件を手にした気分は。貴方が拒否すれば私は退学よ」
北条は口角を上げて嫌な笑みを浮かべる。
「気にしなくていいのよ。退学になっても貴方を恨んだりしないわ。さあ、受理するの、しないの」
脅迫だ・・・気にしないでいられる訳が無い。俺の一存で一人の少女を学校から排除するなんて出来るものか。
「くそっ、俺の負けだ。入部を許可する」
「そう。じゃあ入部してあげるわ。宜しくね、部長さん」
勝ち誇った顔の北条を尻目に入部届けの部長の欄に判を押す。腸は煮えくり返っていたが、最早俺には打つ手が無い。
「ほらよ。これを職員室まで持って行け。それで入部手続きは完了だ」
俺が差し出した入部届けを受け取らず、北条は腕時計に目を向ける。
「残念ね、あと五分しかないわ。私の足じゃとても間に合いそうにないわね。折角入部を許可してもらったのに、どうやら退学は間逃れないようだわ。どこかに、私の為に職員室まで駆けてくれる素敵な男子生徒はいないかしら」
あざとく俺を見る。なにが学園のマドンナだ、只の性悪女じゃないか。
残された時間は五分を切っている。俺は入部届けを持って全力で駆け出すしかなかった。
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とあるテレビ番組で関連書籍が取り上げられたが、実はそれが理由ではなかった。
寒々とした体育館で長時間体育座りをさせられるのはなぜ?
なぜ女子だけが前列に集められるのか?
そこには生徒が知りえることのない深い闇があった。
新年を迎え各地で始業式が始まるこの季節。
あなたの学校でも、実際に起きていることかもしれない。
同じ話でも笑う噺
寺澤ななお
青春
相方はいない。フリップもねぇ。テロップもねぇ。バックグラウンドミュージックもねぇ。プロジェクトマッピングなんか理解している人なんか、客も含めてごくわずか。持てる小道具も、扇子と手ぬぐいぐらいときたもんだ。
それなのに、馬鹿みてぇにおもしろい落語に俺は惹かれた。
18歳の冬。俺は地方銀行への内定を蹴り、卒業と同時に上京。
落語家の道を歩み始めた。
※カクヨムで投稿した小説を加筆したものです。文字制限があったので。。。
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