伯父の赤いマフラー

唄うたい

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小学校に上がり、自我や語彙を豊富に身につけていくと、俺は毎年少しずつ、伯父の状態というものを理解していった。

伯父はどうやら、もう長いこと精神的な病気を患っているらしい。
何を問われても明後日の回答をするばかり。意思疎通の図れない人間との生活とは、まさに生き地獄であっただろう。やがて会社を解雇され生活がままならなくなると、伯父を支え続けてきた妻からとうとう離婚を申し渡された。それからはずっと、伯父は出戻った祖母宅で暮らしているそうだ。

精神病といっても、目に見えた特徴はさほど無い。
風呂には入るし、食事も普通に摂る。奇声を上げたり酒浸りになることもない。ただ目が虚ろなのと、会話が成立しづらいのと、首に不潔なマフラーを巻きっぱなしという、それだけだ。

伯父から誰かに話しかけることはないし、逆も然りだが、幼い俺だけは立ち上がった伯父の丁度視界に入る高さに身長がある。そのため、唯一俺だけは伯父に話しかけることが許されていた。

「おじちゃん、なんでいつもマフラーしてんの?」

「………………おじちゃん、寒がりだから。」

当然、室内は暖房がきいて暖かい。
俺がトレーナーを脱いでTシャツ姿になっているくらいだ。

伯父は親族が集まる宴会場から離れて、裏庭の隅に建っている古い蔵の方へ向かうところだった。
俺は父母の目を盗み、そんな伯父の隣をついて行く。

「おじちゃんどこ行くの?」

「……………。」

伯父が答えないのは珍しいことじゃない。
返答を考えているのか、無視しているのか、そもそも聞こえていないのか。俺はめげずに、再び同じ質問を繰り返す。

「おじちゃん、どこ行くの?なんかするの?」

「…………。」

伯父は蔵の戸を開けるや、手近に積まれた埃っぽい段ボールの山をガサガサし始める。カビ臭さに俺は思わず咳き込むが、口元までをマフラーで覆う伯父は平然と手を動かし続ける。

やがて伯父が引っ張り出したのは、表面に車の写真が印刷された、古びた紙箱だった。
目の高さまで差し出してくれたそれをまじまじと眺め、俺は気づく。

「ラジコン!」

子ども用の、ラジコンスポーツカーの写真だった。
伯父が箱の蓋を開けると、中からは赤色の塗装が剥げた、写真と同じ外形のラジコンカーが現れた。子どもの手にぴったり収まるコントローラーも同梱されていた。当時の俺の年代には、もう少し性能もデザインも良いのが出回っていた気がする。けれどラジコンカーなんて物は、当時の子どものお年玉では決して手に入らない高級品であったし、厳しい両親が俺に買い与えてくれることも一度もなかった。

「あげる。おまえに。」

みっちりと巻かれたマフラーの奥。伯父のぼそりと呟いた言葉は、今でも俺の記憶に色濃く残っている。
宴会場で親族が酒を交わすその裏で、伯父と俺の二人はささやかに、細雪の降る裏庭にラジコンカーを走り回らせたものだ。


その翌年も、そのまた翌年も、俺が伯父に会えるのは正月の新年会のみだった。
9歳を迎えた俺は、おもちゃで遊ぶことを少し躊躇うようなませた子どもであったため、祖母宅へ向かう車の中では、始終携帯ゲーム機を触っていた。

当時学校で流行っていた戦闘機アクションゲームのソフト。話題に乗り遅れないためという理由で、あの厳しい両親が珍しく、誕生日に買い与えてくれたものだ。
ゲーム自体は初めは面白かったが、何時間も何時間も続けているとただの作業に思えてきて、当時はそこまで熱狂した記憶はない。

操作していた4人のパイロットが撃墜され、残機がゼロになったところで、ようやく祖母宅に到着する。親族達が年始の挨拶を交わし食事の支度を進める中で、俺は一人、家のどこかにいるであろう伯父を捜した。
今思えば、俺は親戚の宴会をひどく居心地悪く感じていたのだろう。だから、同じような逸れものの伯父に、妙な親近感を抱いていたに違いない。

「すまんなぁ、あれは壊れてしまった。」

蔵のそばに立ち尽くしていた伯父は、俺の姿を見つけるなり、虚ろな目を向けてそう言った。
やはり、例年と同じ赤いマフラーを、首にぐるぐる巻きつけていた。

「あれ?」

あれ、とは何のことだろう。
9歳の俺は記憶を辿り、以前伯父と一緒に遊んだ古いラジコンカーのことをぼんやりと思い出す。

「いいよ、もうそういうんじゃ遊ばないんだ。」

「…………………。」

すると伯父はマフラーに顔半分を埋めて、黙り込んでしまった。
目だけを動かし、身長が130cmほどに伸びた俺の姿をじろじろと観察していた。

「……おまえは、大きくなったねぇ。
いま、いくつだい?」

伯父は例年と変わらぬ抑揚の無い声だったが、その時だけは、どこか寂しげに聞こえたのを憶えている。
幼い頃は、大人達が口々に言う「大きくなったね」に何の意味があるのか、とんと分からなかった。大人になった今だから分かるが、伯父のその時の言葉も、宴会場にいる大人達と同じ、何かの感傷に浸るような物悲しさから来るものに思われた。

「9歳。」

「………。
…そうか、じゃあ、来年には10歳になるのか…。」

伯父の表情は、マフラーに覆い隠されて分からなかった。
9歳が来年10歳になるのは、至極当たり前のことじゃないか。

伯父はしばらく夢想に耽っていたようだが、やがて何か腹を決めたように俺の顔を覗き込む。それからおもむろに自身のマフラーを解いた。

マフラーをしていない姿の伯父は新鮮だった。食生活がよろしくないのか、頬がこけている。長らく日の下に出ない生活を送っているのか、青白い皮膚が骨格を浮き彫りにしていて、見ているこっちまでやつれてしまいそうだ。

伯父は何を思ったか、自身のアイデンティティとも呼べるマフラーを、幼い俺の首に巻こうとした。
伯父にとっては思い入れがあるだろうその品は、俺にとっては、長年の汚れと異臭を蓄積させた、決して清潔とは呼べない薄汚い布切れだった。

「…うわっ!!」

俺は無意識に身を引いて、伯父のマフラーを避けていた。


しかし、すかさず伯父の手が、俺の両の肩を掴んで捕らえた。
俺の小さな肩を包む伯父の大きな両手は、ひどく冷たかった。寒がり…冷え性というのは本当だろうが、違う意味で当時の俺は「悪寒」というものを味わった。

「おじちゃん?」

いつも地面に落とされている伯父の視線が、見上げた俺の顔に降り注いでいる。
伯父の顔を真っ向から見たことがあるのは、大勢いる親戚の中で恐らく俺一人きり。祖母でさえ、腫れ物に触るかのごとく、伯父の意思を理解しようとはしなかったに違いない。

高村 澄の顔は、真っ赤だった。

いつものようなぼんやりと細い胡乱な目ではない。目尻の皮が裂けそうなほど目玉を剥き出しにして、俺の顔を穴が開くほど凝視している。骸骨じみた顎が歯をぎしぎしと軋ませて、何かを訴えるような責めるような、不可解で、ひどく不気味な顔だ。
俺のことをこれまで、嵐から逃げ延びた小鳥を木の葉で隠す大木のように見守り続けてくれていた伯父。長年の信頼の山積が一瞬にして崩れ去る、そんな悲しい感覚が、9歳の俺の胸に広がった。

ふいに口を開いた伯父が漏らした言葉。それは、拒絶を示した俺への憤り…ではなかった。恐ろしい形相に反して、懐かしむような、また名残惜しむような響きを持っていたことを、俺は今でもよく覚えている。


「………………おまえは、元気でいるんだよ。」


それは俺に向けられた願いであると同時に、伯父自身への戒めの言葉だったのか。

伯父はとたんに興味が失せたように俺の体を解放し、地面に落ちたマフラーを掴んで、蔵の中へと逃げ込んだ。
中から突っ張り棒か何かを噛ませる音が何度かして、その後はシンと静まり返った。

「………。」

俺はしばし呆気に取られていた。
突然姿を隠してしまった伯父を追いかけることはしなかった。それほどまでに、先ほど伯父の見せた形相の恐ろしさが、脳裏にしっかりと焼き付いてしまっていたから。


祖母宅のあの蔵の中で、伯父が首を吊って死んだという知らせを受けたのは、新年会から僅か2日後のことだった。


梁から垂れ下がった背の高い伯父は、一本の丸太に似ていたそうだ。
伯父の首には、まるで彼から離れるのを拒むかのように、あの薄汚い赤いマフラーがぎっちりと巻き付いていたという。

浮いた足元に遺された遺書の内容から、伯父自らの意思による自殺であると断定され、同時に伯父の9年間の苦悩が白日の下に晒されることとなった。
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