アンダーサイカ -旧南岸線斎珂駅地下街-

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第9章 呪【のろい】

9-2

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 ゴボゴボゴボゴボッ…と足元の黒い沼が激しく沸騰し始めた。
 驚き声を上げる暇もなく、オバケと私、そして稔兄ちゃんと…ヨシヤの体が徐々に、沼に沈んでいく。

「…きゃ…!」

「…あっ、豊花ちゃん…!!」

 バランスを崩して、私は沼に尻餅をつく。
 けれど起き上がることは叶わなかった。突いた手もどんどん沈んでいくんだ。

 顔を上げた時に見たオバケは、少しも動揺していなかった。当然だ。この沼を生み出した張本人なのだから。
 そしてこれから向かう先は、もちろん…――、

【イザ行カン。
 我等ガ地獄ヘ―――。】

 オバケの号令と同調したのか。沼の沸騰は更に激しさを増し、襲いくる波に私は呼吸さえままならなくなった。

「やだっ…、いやだ、いやだ!!…うわああぁ!!」

 稔兄ちゃんの叫び声が聴こえる。

「稔兄ちゃん……!!」

 悲惨な光景だった。
 黒い泥水が命を持ったように、沼に浸かった脚から上へ上へと、稔兄ちゃんの体を這っていた。
 じゅるじゅるじゅる…。嫌な音を響かせて。

「やだッ…たすけ…豊花ァ……!!」

 稔兄ちゃんは私に向かって手を伸ばしたけれど…、それより早く、黒い泥に体を覆い隠されてしまった。

「…あっ、ああぁ…ッ!」

 私は助け出すことも叶わなくて、稔兄ちゃんが黒に飲まれる一部始終を、ただ見ていることしかできなかった…。

「…ユタカッ、薬屋…!!
 待っていろ、すぐに…っ!」

 キョウくんが焦りを隠せず叫ぶ。
 同時に銃剣を構え、沼から助け出すべく私たちのほうへ駆け寄ってきた。


「来てはいけませんッ!!!」

 でも、更に大きなヨシヤの一喝が飛ぶ。
 キョウくんの足が止まった。

「貴方はこの世界を取り締まる警備員でしょう!!
 お客様に逆らって“罪人”を救うなど、あってはならないことです!!
 今の僕と同じ目に遭いたいんですかッ!?」

「……っ!!」

 キョウくんの顔に戸惑いの色が浮かんだ。
 警備員としてルールを犯してはならないという使命感と、私たちを助けたいという正義感との葛藤…。
 その葛藤が、キョウくんの足を止めていた。

 けれど、キョウくんの言葉までを止めることはできなかった。

「……だ、だが、ユタカはどうなる…!?
 ユタカには何の罪もない…!
 みすみす見殺しにするわけにはいかない…っ!!」

「……キョウくん…っ。」

 ―――キョウくん…気にかけてくれるのは嬉しいけど…。

 ―――私は………、

「…っ、ヨシヤ、やっぱりダメ…!!
 行っちゃダメだよっ…!!」

 私は手を伸ばした。
 キョウくんではなく、半身が沼の中へ引きずり込まれたヨシヤのほうへ。

「え…っ?」

 驚いた顔をしながらも、ヨシヤは右手を伸ばして、私の手を掴んでくれた。

 手を離さないように、強く強く握り締めて。

「…ヨシヤ行かないで!お願いだからっ…!
 私、もっともっとヨシヤといたいよ!お別れしたくないよぉっ…!!」

 沼が纏わり付いてくる。体のほとんどが沈み込んで、このままだと私まで地獄に飲み込まれるかもしれない。
 でも、手を離したくなかった。

 ヨシヤに死んでほしくなくて。
 ヨシヤと…離れたくなくて。

「ユタカ…っ!!」

 キョウくんの呼び声と、

「…豊花ちゃん…、手を…、」

 ヨシヤの悲痛な訴え。
 どっちも聞きたくなくて、私は首を横に振る。

「やだっ!やだ、離さない…!!
 ヨシヤと一緒にいる…!!」

 それは、今までの我慢とか恐怖とかが、一気に弾けた結果だった。

 いい子にしてなきゃ。受け入れなきゃ。6年生なんだから。
 …そんな暗示をかけて、押さえ込んできた。
 本当はずっと怖くてたまらなかったのに。

 お家に帰りたいと泣きわめきたかった。
 寂しくて心細くて、私がこの世界で唯一頼れる人に……ヨシヤに、本当はたくさん甘えたかった。

 だって気づいたんだもの。
 私はこんなにも…、


「…ヨシヤが、大好きだからぁっ…!!」


 ―――稔兄ちゃんよりも、誰よりも。


「豊花ちゃん……――。」

 ヨシヤの、熱を帯びた声を聞いた。


「………大丈夫です、警備員さん。
 …言ったでしょう。
 豊花ちゃんは絶対に死なせません。」

 ふいに、ヨシヤが左手を自身の口に持っていった。

 左手に握られていたのは、紫の液体が入ったあの小瓶。いつも私が地上へ帰る時に飲まされていた、あの薬。

「――っ。」

 それをヨシヤは、一滴残らずすべて自分の口に含んだ。

「―――?」

 そこからは流れるようだった。

 ヨシヤの右手が、私を強く引き寄せ、ヨシヤの体と私の体、ヨシヤの顔と私の顔が、ぐっと近づいて、


 ―――…“ちゅっ”。


 気づけば、ヨシヤと私の唇が重なり合っていた。


 目を丸くする私。
 目を伏せたままのヨシヤ。

 …同時に、ヨシヤの口の中から液体が流れ込んできた。
 紫の薬は何度舐めても苦かったけど、

 ―――あ、れ……………?

 ヨシヤから直に与えられた薬は、とても甘い味がした。


 ――ごくん。

 私が薬を飲み込んだことを確認すると、ヨシヤはゆっくり唇を離した。

「…豊花ちゃん。嬉しいです……僕も、きみが大好きですよ。
 きみに触れるたび、きみを知るたびに、どんどん愛しくなっていました。
 好きで、好きでたまらない…。それこそ、食べてしまいたいくらいに…。」

 ―――だめ…。

「………大好きだから、僕はきみを死なせたくないんです。
 薬を飲んでくれましたね。…これでもう安全です。
 …僕が消滅すれば、きみがアンダーサイカへ喚び寄せられることはなくなりますから。」

 ―――だめ…っ!!

「ヨシヤ……!!」

 握り合う手が、霞んで見えた。
 その目眩は、地上へ返還される兆候。
 ヨシヤと離れ離れになる…寸前だ。

「―――豊花ちゃん、お元気で…。
 …どうか僕のこと、忘れちゃったりしないでくださいね。」

 ヨシヤの泣きそうな微笑みが私を見送る。

「…やだっ、やだ、やだやだ…、ヨシヤ…やだぁ……!!」

 視界が狭まっていく。
 温もりが小さくなっていく。
 ヨシヤの言葉を、声を反芻させながら、

「―――…ッ!」

 私は意識を手放した。
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