32 / 39
第9章 呪【のろい】
9-2
しおりを挟む
ゴボゴボゴボゴボッ…と足元の黒い沼が激しく沸騰し始めた。
驚き声を上げる暇もなく、オバケと私、そして稔兄ちゃんと…ヨシヤの体が徐々に、沼に沈んでいく。
「…きゃ…!」
「…あっ、豊花ちゃん…!!」
バランスを崩して、私は沼に尻餅をつく。
けれど起き上がることは叶わなかった。突いた手もどんどん沈んでいくんだ。
顔を上げた時に見たオバケは、少しも動揺していなかった。当然だ。この沼を生み出した張本人なのだから。
そしてこれから向かう先は、もちろん…――、
【イザ行カン。
我等ガ地獄ヘ―――。】
オバケの号令と同調したのか。沼の沸騰は更に激しさを増し、襲いくる波に私は呼吸さえままならなくなった。
「やだっ…、いやだ、いやだ!!…うわああぁ!!」
稔兄ちゃんの叫び声が聴こえる。
「稔兄ちゃん……!!」
悲惨な光景だった。
黒い泥水が命を持ったように、沼に浸かった脚から上へ上へと、稔兄ちゃんの体を這っていた。
じゅるじゅるじゅる…。嫌な音を響かせて。
「やだッ…たすけ…豊花ァ……!!」
稔兄ちゃんは私に向かって手を伸ばしたけれど…、それより早く、黒い泥に体を覆い隠されてしまった。
「…あっ、ああぁ…ッ!」
私は助け出すことも叶わなくて、稔兄ちゃんが黒に飲まれる一部始終を、ただ見ていることしかできなかった…。
「…ユタカッ、薬屋…!!
待っていろ、すぐに…っ!」
キョウくんが焦りを隠せず叫ぶ。
同時に銃剣を構え、沼から助け出すべく私たちのほうへ駆け寄ってきた。
「来てはいけませんッ!!!」
でも、更に大きなヨシヤの一喝が飛ぶ。
キョウくんの足が止まった。
「貴方はこの世界を取り締まる警備員でしょう!!
お客様に逆らって“罪人”を救うなど、あってはならないことです!!
今の僕と同じ目に遭いたいんですかッ!?」
「……っ!!」
キョウくんの顔に戸惑いの色が浮かんだ。
警備員としてルールを犯してはならないという使命感と、私たちを助けたいという正義感との葛藤…。
その葛藤が、キョウくんの足を止めていた。
けれど、キョウくんの言葉までを止めることはできなかった。
「……だ、だが、ユタカはどうなる…!?
ユタカには何の罪もない…!
みすみす見殺しにするわけにはいかない…っ!!」
「……キョウくん…っ。」
―――キョウくん…気にかけてくれるのは嬉しいけど…。
―――私は………、
「…っ、ヨシヤ、やっぱりダメ…!!
行っちゃダメだよっ…!!」
私は手を伸ばした。
キョウくんではなく、半身が沼の中へ引きずり込まれたヨシヤのほうへ。
「え…っ?」
驚いた顔をしながらも、ヨシヤは右手を伸ばして、私の手を掴んでくれた。
手を離さないように、強く強く握り締めて。
「…ヨシヤ行かないで!お願いだからっ…!
私、もっともっとヨシヤといたいよ!お別れしたくないよぉっ…!!」
沼が纏わり付いてくる。体のほとんどが沈み込んで、このままだと私まで地獄に飲み込まれるかもしれない。
でも、手を離したくなかった。
ヨシヤに死んでほしくなくて。
ヨシヤと…離れたくなくて。
「ユタカ…っ!!」
キョウくんの呼び声と、
「…豊花ちゃん…、手を…、」
ヨシヤの悲痛な訴え。
どっちも聞きたくなくて、私は首を横に振る。
「やだっ!やだ、離さない…!!
ヨシヤと一緒にいる…!!」
それは、今までの我慢とか恐怖とかが、一気に弾けた結果だった。
いい子にしてなきゃ。受け入れなきゃ。6年生なんだから。
…そんな暗示をかけて、押さえ込んできた。
本当はずっと怖くてたまらなかったのに。
お家に帰りたいと泣きわめきたかった。
寂しくて心細くて、私がこの世界で唯一頼れる人に……ヨシヤに、本当はたくさん甘えたかった。
だって気づいたんだもの。
私はこんなにも…、
「…ヨシヤが、大好きだからぁっ…!!」
―――稔兄ちゃんよりも、誰よりも。
「豊花ちゃん……――。」
ヨシヤの、熱を帯びた声を聞いた。
「………大丈夫です、警備員さん。
…言ったでしょう。
豊花ちゃんは絶対に死なせません。」
ふいに、ヨシヤが左手を自身の口に持っていった。
左手に握られていたのは、紫の液体が入ったあの小瓶。いつも私が地上へ帰る時に飲まされていた、あの薬。
「――っ。」
それをヨシヤは、一滴残らずすべて自分の口に含んだ。
「―――?」
そこからは流れるようだった。
ヨシヤの右手が、私を強く引き寄せ、ヨシヤの体と私の体、ヨシヤの顔と私の顔が、ぐっと近づいて、
―――…“ちゅっ”。
気づけば、ヨシヤと私の唇が重なり合っていた。
目を丸くする私。
目を伏せたままのヨシヤ。
…同時に、ヨシヤの口の中から液体が流れ込んできた。
紫の薬は何度舐めても苦かったけど、
―――あ、れ……………?
ヨシヤから直に与えられた薬は、とても甘い味がした。
――ごくん。
私が薬を飲み込んだことを確認すると、ヨシヤはゆっくり唇を離した。
「…豊花ちゃん。嬉しいです……僕も、きみが大好きですよ。
きみに触れるたび、きみを知るたびに、どんどん愛しくなっていました。
好きで、好きでたまらない…。それこそ、食べてしまいたいくらいに…。」
―――だめ…。
「………大好きだから、僕はきみを死なせたくないんです。
薬を飲んでくれましたね。…これでもう安全です。
…僕が消滅すれば、きみがアンダーサイカへ喚び寄せられることはなくなりますから。」
―――だめ…っ!!
「ヨシヤ……!!」
握り合う手が、霞んで見えた。
その目眩は、地上へ返還される兆候。
ヨシヤと離れ離れになる…寸前だ。
「―――豊花ちゃん、お元気で…。
…どうか僕のこと、忘れちゃったりしないでくださいね。」
ヨシヤの泣きそうな微笑みが私を見送る。
「…やだっ、やだ、やだやだ…、ヨシヤ…やだぁ……!!」
視界が狭まっていく。
温もりが小さくなっていく。
ヨシヤの言葉を、声を反芻させながら、
「―――…ッ!」
私は意識を手放した。
驚き声を上げる暇もなく、オバケと私、そして稔兄ちゃんと…ヨシヤの体が徐々に、沼に沈んでいく。
「…きゃ…!」
「…あっ、豊花ちゃん…!!」
バランスを崩して、私は沼に尻餅をつく。
けれど起き上がることは叶わなかった。突いた手もどんどん沈んでいくんだ。
顔を上げた時に見たオバケは、少しも動揺していなかった。当然だ。この沼を生み出した張本人なのだから。
そしてこれから向かう先は、もちろん…――、
【イザ行カン。
我等ガ地獄ヘ―――。】
オバケの号令と同調したのか。沼の沸騰は更に激しさを増し、襲いくる波に私は呼吸さえままならなくなった。
「やだっ…、いやだ、いやだ!!…うわああぁ!!」
稔兄ちゃんの叫び声が聴こえる。
「稔兄ちゃん……!!」
悲惨な光景だった。
黒い泥水が命を持ったように、沼に浸かった脚から上へ上へと、稔兄ちゃんの体を這っていた。
じゅるじゅるじゅる…。嫌な音を響かせて。
「やだッ…たすけ…豊花ァ……!!」
稔兄ちゃんは私に向かって手を伸ばしたけれど…、それより早く、黒い泥に体を覆い隠されてしまった。
「…あっ、ああぁ…ッ!」
私は助け出すことも叶わなくて、稔兄ちゃんが黒に飲まれる一部始終を、ただ見ていることしかできなかった…。
「…ユタカッ、薬屋…!!
待っていろ、すぐに…っ!」
キョウくんが焦りを隠せず叫ぶ。
同時に銃剣を構え、沼から助け出すべく私たちのほうへ駆け寄ってきた。
「来てはいけませんッ!!!」
でも、更に大きなヨシヤの一喝が飛ぶ。
キョウくんの足が止まった。
「貴方はこの世界を取り締まる警備員でしょう!!
お客様に逆らって“罪人”を救うなど、あってはならないことです!!
今の僕と同じ目に遭いたいんですかッ!?」
「……っ!!」
キョウくんの顔に戸惑いの色が浮かんだ。
警備員としてルールを犯してはならないという使命感と、私たちを助けたいという正義感との葛藤…。
その葛藤が、キョウくんの足を止めていた。
けれど、キョウくんの言葉までを止めることはできなかった。
「……だ、だが、ユタカはどうなる…!?
ユタカには何の罪もない…!
みすみす見殺しにするわけにはいかない…っ!!」
「……キョウくん…っ。」
―――キョウくん…気にかけてくれるのは嬉しいけど…。
―――私は………、
「…っ、ヨシヤ、やっぱりダメ…!!
行っちゃダメだよっ…!!」
私は手を伸ばした。
キョウくんではなく、半身が沼の中へ引きずり込まれたヨシヤのほうへ。
「え…っ?」
驚いた顔をしながらも、ヨシヤは右手を伸ばして、私の手を掴んでくれた。
手を離さないように、強く強く握り締めて。
「…ヨシヤ行かないで!お願いだからっ…!
私、もっともっとヨシヤといたいよ!お別れしたくないよぉっ…!!」
沼が纏わり付いてくる。体のほとんどが沈み込んで、このままだと私まで地獄に飲み込まれるかもしれない。
でも、手を離したくなかった。
ヨシヤに死んでほしくなくて。
ヨシヤと…離れたくなくて。
「ユタカ…っ!!」
キョウくんの呼び声と、
「…豊花ちゃん…、手を…、」
ヨシヤの悲痛な訴え。
どっちも聞きたくなくて、私は首を横に振る。
「やだっ!やだ、離さない…!!
ヨシヤと一緒にいる…!!」
それは、今までの我慢とか恐怖とかが、一気に弾けた結果だった。
いい子にしてなきゃ。受け入れなきゃ。6年生なんだから。
…そんな暗示をかけて、押さえ込んできた。
本当はずっと怖くてたまらなかったのに。
お家に帰りたいと泣きわめきたかった。
寂しくて心細くて、私がこの世界で唯一頼れる人に……ヨシヤに、本当はたくさん甘えたかった。
だって気づいたんだもの。
私はこんなにも…、
「…ヨシヤが、大好きだからぁっ…!!」
―――稔兄ちゃんよりも、誰よりも。
「豊花ちゃん……――。」
ヨシヤの、熱を帯びた声を聞いた。
「………大丈夫です、警備員さん。
…言ったでしょう。
豊花ちゃんは絶対に死なせません。」
ふいに、ヨシヤが左手を自身の口に持っていった。
左手に握られていたのは、紫の液体が入ったあの小瓶。いつも私が地上へ帰る時に飲まされていた、あの薬。
「――っ。」
それをヨシヤは、一滴残らずすべて自分の口に含んだ。
「―――?」
そこからは流れるようだった。
ヨシヤの右手が、私を強く引き寄せ、ヨシヤの体と私の体、ヨシヤの顔と私の顔が、ぐっと近づいて、
―――…“ちゅっ”。
気づけば、ヨシヤと私の唇が重なり合っていた。
目を丸くする私。
目を伏せたままのヨシヤ。
…同時に、ヨシヤの口の中から液体が流れ込んできた。
紫の薬は何度舐めても苦かったけど、
―――あ、れ……………?
ヨシヤから直に与えられた薬は、とても甘い味がした。
――ごくん。
私が薬を飲み込んだことを確認すると、ヨシヤはゆっくり唇を離した。
「…豊花ちゃん。嬉しいです……僕も、きみが大好きですよ。
きみに触れるたび、きみを知るたびに、どんどん愛しくなっていました。
好きで、好きでたまらない…。それこそ、食べてしまいたいくらいに…。」
―――だめ…。
「………大好きだから、僕はきみを死なせたくないんです。
薬を飲んでくれましたね。…これでもう安全です。
…僕が消滅すれば、きみがアンダーサイカへ喚び寄せられることはなくなりますから。」
―――だめ…っ!!
「ヨシヤ……!!」
握り合う手が、霞んで見えた。
その目眩は、地上へ返還される兆候。
ヨシヤと離れ離れになる…寸前だ。
「―――豊花ちゃん、お元気で…。
…どうか僕のこと、忘れちゃったりしないでくださいね。」
ヨシヤの泣きそうな微笑みが私を見送る。
「…やだっ、やだ、やだやだ…、ヨシヤ…やだぁ……!!」
視界が狭まっていく。
温もりが小さくなっていく。
ヨシヤの言葉を、声を反芻させながら、
「―――…ッ!」
私は意識を手放した。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説

セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち
ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。
クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。
それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。
そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決!
その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。


ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

女豹の恩讐『死闘!兄と妹。禁断のシュートマッチ』
コバひろ
大衆娯楽
前作 “雌蛇の罠『異性異種格闘技戦』男と女、宿命のシュートマッチ”
(全20話)の続編。
https://www.alphapolis.co.jp/novel/329235482/129667563/episode/6150211
男子キックボクサーを倒したNOZOMIのその後は?
そんな女子格闘家NOZOMIに敗れ命まで落とした父の仇を討つべく、兄と娘の青春、家族愛。
格闘技を通して、ジェンダーフリー、ジェンダーレスとは?を描きたいと思います。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる