アンダーサイカ -旧南岸線斎珂駅地下街-

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第8章 嘘【うそ】

8-3

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 1960年代。
 僕は死せる時まで、東京のとある町に両親とともに暮らしていました。さかえ義也よしやという、人間の名をまだ持っていた頃です。


「…義也、ここへ座りなさい。」

 父の冷たい声が、広い家の中にただ響きました。
 僕にはすぐ予想がついた…。父はよく、自分の人生観を語って聞かせることがありましたから。

「はい、父さん。」

 大学の研究が一段落し帰宅できたと思った矢先にこれだ。
 しかし僕は嫌な顔はせず、大人しく父の前に正座しました。

「大学はどうだ。順調なのか。」

「…?」

 そんな問いが来るとは予想していなくて、一瞬反応が遅れました。

「はい、とても。父さんのお許しを得て、薬学を専攻できて良かったと思っています。
 僕は医療面で人のお役に立てます。父さんの教えのとおりに…。」

 父さんはとても正義感の強い人。だからこそ彼は警察官という、人々を護る任に就いているのです。
 …それを初めは僕にも求めましたが、残念ながら僕は父さんの体力も筋力も受け継ぐことができませんでした。

 だからせめて薬学で父さんの理想の息子になりたい。
 …当時の僕の頭はそのことでいっぱいでした。
 だって、この道を外れでもしたら……―――。

「よし、それでいい義也。
 お前は私の息子だ。法を犯さず、決して人をおとしめず、他人のために尽くせ。
 …いいか。一度でも罪を犯した時、私も妻もお前を息子ではなく、社会の敵として始末することを厭わない。肝に命じておくんだ。」

 罪を犯したら、父さんも母さんも…いや誰一人として、僕を愛してくれなくなる。
 僕は“死ぬまで罪を犯さない”と心に誓ったのです。固く、固く…。


 ***


 ちょうどその頃、南岸線斎珂駅が設立しました。
 現在のような地下街はまだ無く、少ない編成の青い車体が走るだけの、繋ぎのような駅。

 僕の最寄り駅が近いことや偶然斎珂駅近辺に用事があったこともあり、一度だけ斎珂駅を利用する機会があったのです。

 《ジリリリリ…》

 電車の接近を知らせる鐘の音。ホームで電車を待っている僕。接近する鈍重な電車。
 特別なことなんてない、ごく当たり前の風景。

 …しかし顔を上げた時、僕は電車の中に、実に妙なものを見ました。

「…うごめいている…?」

 電車の中には人の姿ではなく、真っ黒な人とも獣ともつかないものが、うぞうぞと蠢いていたのです。
 ホームに立つ他の人々は気づかない。その真っ黒なものに目を奪われていると、


 ドンッと、


「―――!?」

 背中を押されました。

 前方に押し出された僕が落ちる先は当然、今まさに電車が滑り込んでくる…線路。

「!!!!」

 いろいろなものが脳裏を駆け巡りました。
 まだ終わっていない研究。父母の姿。友人の顔。

『罪を犯すな。』

 父さんの言葉が頭の中で反芻し、落ちゆく中とっさに後ろを見た僕の目には、


「…残念だが、榮 義也。
 君に定められていた寿命はたった今尽きてしまった…。
 これからは“薬屋”として働いてくれ…。」


 僕を突き飛ばした男が、口をにんまり歪めていました。

 黒髪に黒い着物に、雪駄せったも、古びたチューリップ帽も黒一色の異様な風体の男を、周りの誰も気には留めませんでした。
 ただ、男の帽子から突き出た二本の“角”を見た時、僕は一瞬で判断を下しました。
 人間じゃない…と。

 …今思えば、あれは僕の寿命の終わりを告げに来た、死神のような存在だったのかもしれません…。

 見知らぬ男に突き飛ばされ、見知らぬ黒いものが蠢く電車に…轢かれて。
 僕は誓いのとおり、“死ぬまで罪を犯しません”でした。

 僕が薬屋として発現したのはその直後。
 地下街が無かった当時は、駅周辺に屋台や掘っ建て小屋がいくつも立ち並び、各々商売をしていました。

 …僕もまた、誰に教えられたわけでもなくこの世界のルールを把握し、ただ薬屋として淡々と“お客様”の相手をする。

 自分は死んだのだ。
 死後の世界で、際限なく働かなくてはならないのだ。
 自分と黒い化け物以外、誰の顔も見られない世界で。
 …たった一人だけの世界で…。


「………いやだ…。いやだっ…!」

 僕の心の誓いが“罪を犯さないこと”から、
 “地上人ひとを殺してでもこの賽の河原から逃げ出したい”という欲求に変わったのは自然なことでした。

 賽の河原から逃げ、お客様方のあの電車に乗れば、新たな現世に生まれ変われる。
 新たな世界で、僕は人を愛したい。愛されたい。
 輪廻を信じ、僕は50年間ずっと、ずっと……―――。
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