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第8章 嘘【うそ】
8-2
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「じゃあ、あの時お兄さんが固まったのって………、」
「そう。ボクが邪魔したから。地上人を操るなんて簡単なんだよ、今のボクにはね。」
くるくると人差し指を回す稔兄ちゃんは、魔法使いにでもなったようだった。
…ただし、悪い意味でだ。
稔兄ちゃんは両手で私の両手をギュッと握り、黒い大きな瞳を向けてくる。
歳も背丈も同じくらい。こうして真正面から向き合うと、まるで双子のよう。
私はその気持ちを複雑にとらえていた。
「…豊花、吉沢が言ってたことは本当だよ。
ボクはクラスメートを“犬”として見てたし、そう扱うことに罪悪感なんかなかった。
だって反抗してきたところで、結局みんなボクに負かされるんだもの。」
「………………。」
「ボクね、人の上に立つのが好きなんだ。
皆がボクの言うことを聞いて、ボクに関心を寄せて、ボクはそれを操る。女王蜂みたいで楽しいんだ…。
そんな気持ちをアンダーサイカも分かってくれたのかなぁ。
見世物屋って最初は面倒臭かったけど、自分の好きなように見世物を“作る”のは楽しかったし、客入りもなかなか良かったよ。」
ホルマリンの瓶越しに、バスケットボールみたいな大きな目玉が見える。もう動くことの無いその目…。
「…作るって…、その子たちはついこの前までちゃんと生きてたのに…!」
「そうだよ。豊花が楽しそうに関わってたから取り上げてやろうと思って。だから材料にしたんだ。」
―――なにそれ……!!
「…私が関わって何が悪いっていうのっ?」
頭に血が上って私はたまらず叫んだ。
ふいに、稔兄ちゃんが私の両手をパッと離した。
その手をゆっくりと私の首に持っていき、そうっと包み込むように握る…。
「……っ!?」
背筋がぞわっとした。
「…豊花はずうっとボクのことを慕ってくれたんだよね。それは“今”でも変わらない?」
「……………。」
信じたくなんかなかった。
私がずっと聞かされてきた稔兄ちゃんが嘘で、本当の稔兄ちゃんはこんな……残酷なことを平気でできる子だったなんて。
……“優しくて頼りになる私の自慢のお兄ちゃん”……。
「…今の稔兄ちゃんは…とっても怖いよ…。」
「そうだね。
ボクは豊花が心の底から嫌いだよ。」
予想できなかった…と言えば嘘になる。
私は稔兄ちゃんに、強く強く首を絞められた。
「…ぁぐっ……!!!」
冗談やふざけてるわけじゃない。稔兄ちゃんは確実にじわじわと手の力を強め、文字通り私の息の根を止めようとしていた。
…でもそれより悲しかったのは、稔兄ちゃんに“嫌い”と言われたことで…。
「お前ばっかり…。
薬屋はアンダーサイカでのボクの犬だったんだ。それなのにお前は名前を呼ぶばかりか…っ、信頼されてる…!ボクよりずっと…!
地上には友達もいるじゃん…。気の置けない友達がさぁ…っ。なんで…?お前には頭も力も何も無いくせに!」
「…んっ、か…ぁ……!!」
めきめきめき…と不気味な音がして薄く目を開けてみれば、稔兄ちゃんの両腕が太く真っ黒になっていた。アンダーサイカに溢れる“お客様”のように。
顔半分も黒く染まってきて、その姿はまるで…、
―――鬼…みたいだよ……。
何が起こってるの…?
―――稔兄ちゃん…、ヒトじゃなくなっちゃうの…?
「…父さんも母さんも、お前が生まれてからボクに構わなくなったんだ。
ボクが怪我をした時も、テストで満点採ったって、二人はいつもお前のことばっかり…!
…やっぱりあの時、お前を確実に殺しておくんだったよ…。」
稔兄ちゃんの背中からゆらゆらと黒い煙が立ち上る。それはただの煙ではないようで、写真を切り貼りしたみたいに煙の中に霞んだ映像がいくつも浮かんでいた。
「…………!!」
そのうちひとつの映像を見た時、私は目を大きく見開いた。
12歳の稔兄ちゃんが、眠ってる赤ん坊の首を絞めてる…。
あれは私だ。赤ん坊の頃の私。
苦しげに泣く私を稔兄ちゃんは押さえ付ける。
顔が真っ赤に充血してきて、泣き声も途切れ途切れ。
その悪化に伴い、稔兄ちゃんの体を侵食する“黒”が広がっていく。
「……やめ…っ、て……!」
そう必死で訴えたのは、昔の映像と今の状況が重なったからか。
それとも、体のほとんどが黒い怪物に飲み込まれていく稔兄ちゃんを見て、その進行を止めたかったからなのか。
霞む意識をなんとか保ち、私は稔兄ちゃんの腕を掴む。
すると稔兄ちゃんは、声にいっそうの憎しみを込めて、
「…豊花、ボクの姿を見てどう思う…?」
涙を流した。
「…ボクは5年前に地上人を喰って人鬼になった。…その後、何人もの商売人を喰ったんだ。
…でもボクはいつまで経ってもあの“客”たちのようにはなれない。
賽の河原を逃れ、輪廻へ還るための電車に乗れない。
…いつまでもいつまでもいつまでも、気味の悪い人鬼の姿から抜け出せない。自由になれないんだ…!!!」
体の半分が黒く染まったまま、稔兄ちゃんは嘆いた。商売人と客の融合体。
…そうか、これが、「人鬼」の由縁なんだ…。
人にも鬼にも成り切れない姿。こんなものに稔兄ちゃんは……そして、ヨシヤは…―――。
稔兄ちゃんの纏う煙の中に、また新しい映像が見えた。
赤ん坊の私を絞め殺そうとしたところを、お父さんとお母さんに見つかったんだ。
『…稔、何してるの…っ!!!』
声は聴こえない。けど、お母さんがそう叫んだのは分かった。
稔兄ちゃんは私から遠ざけられ、そこからは……、
「…っ!」
映像を見ても、そこからの稔兄ちゃんは完全に“狂っていた”。
お父さんとお母さんの関心をもう一度引くために、前よりひどい行為を繰り返す。
ウサギ小屋のウサギを殺したり、同級生を階段から突き飛ばしたり、…自傷をしたり。
―――やめて………!!
きっと稔兄ちゃんは、何かを傷付ける以外に人の気を引く手段を知らなかったんだ。
それが理由なら見世物屋として発現されたのも頷ける。
そして…、
稔兄ちゃんは斎珂駅で、快速電車の前に身を投げ自殺した。
…期待に満ち溢れた顔で。
私は確信した。稔兄ちゃんの自殺の理由は何かに絶望したせいでも、正義感か何かの代償でもない。
ただ気を引きたかったから、自傷と同じく、自分を傷付けようとしただけなんだ。
“線路に飛び込んだら人は間違いなく死ぬ”。
そんな当たり前の判断すらできないくらい、稔兄ちゃんの心は壊れていて。
「………ぁ……あぁぁ…っ!」
今目の前で私の首を締め上げてるのが、私がずっとヒーローと呼んできた、大好きな、大切な稔兄ちゃんの…、……“成れの果て”なのだと実感せざるを得なかった。
「…お前が憎くてたまらないよ豊花…。
殺すのは簡単だ。だけど足りない…。
だから…ねぇ、お兄ちゃんのお願い聞いてよ。
…ボクの“材料”になって?」
バサッと、ステージの背景である赤い暗幕が、風もないのに大きく開いた。
ステージの裏方…。稔兄ちゃんの本来の仕事場が垣間見える。
―――ッ!!!
壁一面にずらりと並べられた大小様々な包丁。
中央には、材料を切断するための台が置かれ、台の上には…、配達員さんの上半身だけが、オブジェのように飾られていた。
「……い、や………!!」
―――私も、ああなるの…!?
麻痺していた恐怖が蘇る。
バタバタと脚を動かし、体をよじって、稔兄ちゃんから逃れようとした。
でも首をがっちり掴んだ手が離れることは決してなくて。
「…カッコイイでしょ。もうすぐ完成するんだ…。豊花を添えれば最高の見世物になるよ。
……ただそれには、両手両脚は邪魔だよね。」
「…ぃ、…いや…っ、い、やぁあ…!!」
稔兄ちゃんの狂気の目に見つめられるのが怖い。
この先に待つ苦痛を考えるのが怖い。
稔兄ちゃんが片腕を離すと、包丁の一本が独りでにその手の中に飛び込んできた。
鈍色の刃の中に自分の姿を見つけたと思ったら…、
「……っっ!!!」
それは真っすぐ、私の脚目掛けて振り下ろされた。
「……豊花ちゃんっ!!!!」
その叫び声とともに、真っ白な粉が私の視界を覆った。
「っ!?」
時々混じった黒い粉。それはどうやら、私とヨシヤで作った魔除けのお塩。
塩は稔兄ちゃんの振り下ろされた腕に降り懸かり、
「ッ、ぎ、ああ、ぁぁああぁぁ…!!」
それが黒い皮膚に触れたとたん、稔兄ちゃんは絶叫してその場から後ずさった。
絞められていた首を急に離されたせいで、床に投げ出される私。
「…っ、ゲホッ、ゲホッ…!!」
「豊花ちゃん…!!大事ありませんか…!?」
咳込む私をすかさず彼が支えてくれた。
そう、ヨシヤだ。
青白い顔を更に青くして。内心そうとう動揺しているだろうに、顔は相変わらずの張り付いた笑顔で、
「…ヨ、シヤ……。」
「…豊花ちゃん…!
…あぁ、豊花ちゃん…っ、良かった…!!」
そんな彼に、強く強く抱きしめられた。
今度は力を込めているから少し苦しい。
私は状況がまだ飲み込めず唖然とするばかり。
するとヨシヤの肩越しに、キョウくんや他の警備員さんたちが突入してくるのが見えた。
「ッ、これは…!!」
キョウくんたちは一様にして驚いてる。
私たちじゃなく、
「グ、うぅぅう…ぐっ…!!」
…苦しむ稔兄ちゃんの“姿”を見て。
ヨシヤの腕の中で、私は首を後ろに向けた。
「…っ!」
塩をかぶった稔兄ちゃんの体は、ひどく焼け爛れていた。人鬼と化した黒い部分だけじゃない。血色の悪い人の肌の部分も、真っ赤にめくれ上がってる。
その痛々しい姿を見て、私はやっと事態を飲み込む。
稔兄ちゃんに殺されそうになったところを、間一髪、ヨシヤに救われたのだと。
「…く、薬屋…!薬屋アァァ…!!
豊花を渡せよ…!!ソレはボクのモノだッ!!」
稔兄ちゃんの憎しみこもった真っ赤な目が、私たちを睨む。
私が怯えビクッと体を強張らせたのを、抱きしめたままのヨシヤは素早く察知した。
「大丈夫です」の意味を込め私の体を包む彼。
そして真剣な眼差しを稔兄ちゃんに向けると、
「…嫌です。
豊花ちゃんは渡しません。
例えそれが、ミノルくんのお願いでも。」
初めて、笑顔を消した。
笑顔じゃないヨシヤを見るのは初めてだった。
それはどうやら稔兄ちゃんも同じらしく、残った人の顔には驚きの色が浮かんでいる。
「…薬屋、ボクに逆らうの?
……ボクの命令を忘れたわけじゃないだろう?
“笑顔を絶やすな”、“ボクの味方をしろ”って…。
昔、お前が言ったんじゃないか…。人鬼であるボクを尊敬してるって…!ヒーローだって!
…ボクを裏切らないってさ!!」
「…………。」
稔兄ちゃんは焦っていた。
対するヨシヤは瞳に決意を宿し、稔兄ちゃんを真っすぐ見つめている。
批難や軽蔑じゃない。これはきっと、決別だ。
「…ミノルくん。
僕は今でも、きみを尊敬しています。
幼い身でありながら地上人を殺し、食べることを臆さなかった。
…それは残酷なことのようですが、賽の河原の永劫の苦痛を考えると、とても勇敢な行為です。
…50年間アンダーサイカに幽閉されている僕ですら、怖くてできなかったのに。」
悲しげな顔が私に向けられる。
それはもちろん、ヨシヤが食べようと計画した地上人が私だから。
でも結果的に、ヨシヤは今この時まで私を食べることはなかった。チャンスなんていくらでもあったのに。
その真の理由は、ヨシヤのどこか熱っぽくなっていく瞳の奥に秘められているんだろう。
―――心が…覗けたらいいのに。
ヨシヤの視線が再び稔兄ちゃんに向く。
「5年前、人鬼として店の外に出て、初めて僕に顔を見せてくれた時のこと…覚えていますか?
“みせものをかる”。
…“みのる”の三文字を含ませたメッセージで、きみは僕に名前を教えてくれましたね。」
「……それが…何だって言うんだよ…ッ。」
焦りと同じくらいの苛立ちを見せる稔兄ちゃん。
ヨシヤは少し目線を下ろして、私の顔を見る。
今の彼は真顔なのに、いつもの張り付いた笑顔の時よりもどこか頼もしさ…みたいなものがあった。
「豊花ちゃんも教えてくれました。
僕に…僕なんかに、大切な名前を教えてくれた…。少しでも信頼を寄せてくれた…。
ミノルくんも、豊花ちゃんも…僕の大好きな、大切なひとです。」
「………ヨシヤ?」
なんだろう。その台詞には、稔兄ちゃんと私に対する敬意とか親愛とかの他にも、別の意味がこめられてる気がする。
私が無意識に名前を呼ぶと、ヨシヤはまたフッと笑顔を浮かべる。
ただそれはとても優しいもの。
「…豊花ちゃん、僕がなぜアンダーサイカに幽閉されることになったか、理由が気になりますか?」
「…う、うん…。」
「では、聞いてください。
僕はね…―――、」
そして、ヨシヤの口から語られる。
50年前の彼のエピソードが。
「そう。ボクが邪魔したから。地上人を操るなんて簡単なんだよ、今のボクにはね。」
くるくると人差し指を回す稔兄ちゃんは、魔法使いにでもなったようだった。
…ただし、悪い意味でだ。
稔兄ちゃんは両手で私の両手をギュッと握り、黒い大きな瞳を向けてくる。
歳も背丈も同じくらい。こうして真正面から向き合うと、まるで双子のよう。
私はその気持ちを複雑にとらえていた。
「…豊花、吉沢が言ってたことは本当だよ。
ボクはクラスメートを“犬”として見てたし、そう扱うことに罪悪感なんかなかった。
だって反抗してきたところで、結局みんなボクに負かされるんだもの。」
「………………。」
「ボクね、人の上に立つのが好きなんだ。
皆がボクの言うことを聞いて、ボクに関心を寄せて、ボクはそれを操る。女王蜂みたいで楽しいんだ…。
そんな気持ちをアンダーサイカも分かってくれたのかなぁ。
見世物屋って最初は面倒臭かったけど、自分の好きなように見世物を“作る”のは楽しかったし、客入りもなかなか良かったよ。」
ホルマリンの瓶越しに、バスケットボールみたいな大きな目玉が見える。もう動くことの無いその目…。
「…作るって…、その子たちはついこの前までちゃんと生きてたのに…!」
「そうだよ。豊花が楽しそうに関わってたから取り上げてやろうと思って。だから材料にしたんだ。」
―――なにそれ……!!
「…私が関わって何が悪いっていうのっ?」
頭に血が上って私はたまらず叫んだ。
ふいに、稔兄ちゃんが私の両手をパッと離した。
その手をゆっくりと私の首に持っていき、そうっと包み込むように握る…。
「……っ!?」
背筋がぞわっとした。
「…豊花はずうっとボクのことを慕ってくれたんだよね。それは“今”でも変わらない?」
「……………。」
信じたくなんかなかった。
私がずっと聞かされてきた稔兄ちゃんが嘘で、本当の稔兄ちゃんはこんな……残酷なことを平気でできる子だったなんて。
……“優しくて頼りになる私の自慢のお兄ちゃん”……。
「…今の稔兄ちゃんは…とっても怖いよ…。」
「そうだね。
ボクは豊花が心の底から嫌いだよ。」
予想できなかった…と言えば嘘になる。
私は稔兄ちゃんに、強く強く首を絞められた。
「…ぁぐっ……!!!」
冗談やふざけてるわけじゃない。稔兄ちゃんは確実にじわじわと手の力を強め、文字通り私の息の根を止めようとしていた。
…でもそれより悲しかったのは、稔兄ちゃんに“嫌い”と言われたことで…。
「お前ばっかり…。
薬屋はアンダーサイカでのボクの犬だったんだ。それなのにお前は名前を呼ぶばかりか…っ、信頼されてる…!ボクよりずっと…!
地上には友達もいるじゃん…。気の置けない友達がさぁ…っ。なんで…?お前には頭も力も何も無いくせに!」
「…んっ、か…ぁ……!!」
めきめきめき…と不気味な音がして薄く目を開けてみれば、稔兄ちゃんの両腕が太く真っ黒になっていた。アンダーサイカに溢れる“お客様”のように。
顔半分も黒く染まってきて、その姿はまるで…、
―――鬼…みたいだよ……。
何が起こってるの…?
―――稔兄ちゃん…、ヒトじゃなくなっちゃうの…?
「…父さんも母さんも、お前が生まれてからボクに構わなくなったんだ。
ボクが怪我をした時も、テストで満点採ったって、二人はいつもお前のことばっかり…!
…やっぱりあの時、お前を確実に殺しておくんだったよ…。」
稔兄ちゃんの背中からゆらゆらと黒い煙が立ち上る。それはただの煙ではないようで、写真を切り貼りしたみたいに煙の中に霞んだ映像がいくつも浮かんでいた。
「…………!!」
そのうちひとつの映像を見た時、私は目を大きく見開いた。
12歳の稔兄ちゃんが、眠ってる赤ん坊の首を絞めてる…。
あれは私だ。赤ん坊の頃の私。
苦しげに泣く私を稔兄ちゃんは押さえ付ける。
顔が真っ赤に充血してきて、泣き声も途切れ途切れ。
その悪化に伴い、稔兄ちゃんの体を侵食する“黒”が広がっていく。
「……やめ…っ、て……!」
そう必死で訴えたのは、昔の映像と今の状況が重なったからか。
それとも、体のほとんどが黒い怪物に飲み込まれていく稔兄ちゃんを見て、その進行を止めたかったからなのか。
霞む意識をなんとか保ち、私は稔兄ちゃんの腕を掴む。
すると稔兄ちゃんは、声にいっそうの憎しみを込めて、
「…豊花、ボクの姿を見てどう思う…?」
涙を流した。
「…ボクは5年前に地上人を喰って人鬼になった。…その後、何人もの商売人を喰ったんだ。
…でもボクはいつまで経ってもあの“客”たちのようにはなれない。
賽の河原を逃れ、輪廻へ還るための電車に乗れない。
…いつまでもいつまでもいつまでも、気味の悪い人鬼の姿から抜け出せない。自由になれないんだ…!!!」
体の半分が黒く染まったまま、稔兄ちゃんは嘆いた。商売人と客の融合体。
…そうか、これが、「人鬼」の由縁なんだ…。
人にも鬼にも成り切れない姿。こんなものに稔兄ちゃんは……そして、ヨシヤは…―――。
稔兄ちゃんの纏う煙の中に、また新しい映像が見えた。
赤ん坊の私を絞め殺そうとしたところを、お父さんとお母さんに見つかったんだ。
『…稔、何してるの…っ!!!』
声は聴こえない。けど、お母さんがそう叫んだのは分かった。
稔兄ちゃんは私から遠ざけられ、そこからは……、
「…っ!」
映像を見ても、そこからの稔兄ちゃんは完全に“狂っていた”。
お父さんとお母さんの関心をもう一度引くために、前よりひどい行為を繰り返す。
ウサギ小屋のウサギを殺したり、同級生を階段から突き飛ばしたり、…自傷をしたり。
―――やめて………!!
きっと稔兄ちゃんは、何かを傷付ける以外に人の気を引く手段を知らなかったんだ。
それが理由なら見世物屋として発現されたのも頷ける。
そして…、
稔兄ちゃんは斎珂駅で、快速電車の前に身を投げ自殺した。
…期待に満ち溢れた顔で。
私は確信した。稔兄ちゃんの自殺の理由は何かに絶望したせいでも、正義感か何かの代償でもない。
ただ気を引きたかったから、自傷と同じく、自分を傷付けようとしただけなんだ。
“線路に飛び込んだら人は間違いなく死ぬ”。
そんな当たり前の判断すらできないくらい、稔兄ちゃんの心は壊れていて。
「………ぁ……あぁぁ…っ!」
今目の前で私の首を締め上げてるのが、私がずっとヒーローと呼んできた、大好きな、大切な稔兄ちゃんの…、……“成れの果て”なのだと実感せざるを得なかった。
「…お前が憎くてたまらないよ豊花…。
殺すのは簡単だ。だけど足りない…。
だから…ねぇ、お兄ちゃんのお願い聞いてよ。
…ボクの“材料”になって?」
バサッと、ステージの背景である赤い暗幕が、風もないのに大きく開いた。
ステージの裏方…。稔兄ちゃんの本来の仕事場が垣間見える。
―――ッ!!!
壁一面にずらりと並べられた大小様々な包丁。
中央には、材料を切断するための台が置かれ、台の上には…、配達員さんの上半身だけが、オブジェのように飾られていた。
「……い、や………!!」
―――私も、ああなるの…!?
麻痺していた恐怖が蘇る。
バタバタと脚を動かし、体をよじって、稔兄ちゃんから逃れようとした。
でも首をがっちり掴んだ手が離れることは決してなくて。
「…カッコイイでしょ。もうすぐ完成するんだ…。豊花を添えれば最高の見世物になるよ。
……ただそれには、両手両脚は邪魔だよね。」
「…ぃ、…いや…っ、い、やぁあ…!!」
稔兄ちゃんの狂気の目に見つめられるのが怖い。
この先に待つ苦痛を考えるのが怖い。
稔兄ちゃんが片腕を離すと、包丁の一本が独りでにその手の中に飛び込んできた。
鈍色の刃の中に自分の姿を見つけたと思ったら…、
「……っっ!!!」
それは真っすぐ、私の脚目掛けて振り下ろされた。
「……豊花ちゃんっ!!!!」
その叫び声とともに、真っ白な粉が私の視界を覆った。
「っ!?」
時々混じった黒い粉。それはどうやら、私とヨシヤで作った魔除けのお塩。
塩は稔兄ちゃんの振り下ろされた腕に降り懸かり、
「ッ、ぎ、ああ、ぁぁああぁぁ…!!」
それが黒い皮膚に触れたとたん、稔兄ちゃんは絶叫してその場から後ずさった。
絞められていた首を急に離されたせいで、床に投げ出される私。
「…っ、ゲホッ、ゲホッ…!!」
「豊花ちゃん…!!大事ありませんか…!?」
咳込む私をすかさず彼が支えてくれた。
そう、ヨシヤだ。
青白い顔を更に青くして。内心そうとう動揺しているだろうに、顔は相変わらずの張り付いた笑顔で、
「…ヨ、シヤ……。」
「…豊花ちゃん…!
…あぁ、豊花ちゃん…っ、良かった…!!」
そんな彼に、強く強く抱きしめられた。
今度は力を込めているから少し苦しい。
私は状況がまだ飲み込めず唖然とするばかり。
するとヨシヤの肩越しに、キョウくんや他の警備員さんたちが突入してくるのが見えた。
「ッ、これは…!!」
キョウくんたちは一様にして驚いてる。
私たちじゃなく、
「グ、うぅぅう…ぐっ…!!」
…苦しむ稔兄ちゃんの“姿”を見て。
ヨシヤの腕の中で、私は首を後ろに向けた。
「…っ!」
塩をかぶった稔兄ちゃんの体は、ひどく焼け爛れていた。人鬼と化した黒い部分だけじゃない。血色の悪い人の肌の部分も、真っ赤にめくれ上がってる。
その痛々しい姿を見て、私はやっと事態を飲み込む。
稔兄ちゃんに殺されそうになったところを、間一髪、ヨシヤに救われたのだと。
「…く、薬屋…!薬屋アァァ…!!
豊花を渡せよ…!!ソレはボクのモノだッ!!」
稔兄ちゃんの憎しみこもった真っ赤な目が、私たちを睨む。
私が怯えビクッと体を強張らせたのを、抱きしめたままのヨシヤは素早く察知した。
「大丈夫です」の意味を込め私の体を包む彼。
そして真剣な眼差しを稔兄ちゃんに向けると、
「…嫌です。
豊花ちゃんは渡しません。
例えそれが、ミノルくんのお願いでも。」
初めて、笑顔を消した。
笑顔じゃないヨシヤを見るのは初めてだった。
それはどうやら稔兄ちゃんも同じらしく、残った人の顔には驚きの色が浮かんでいる。
「…薬屋、ボクに逆らうの?
……ボクの命令を忘れたわけじゃないだろう?
“笑顔を絶やすな”、“ボクの味方をしろ”って…。
昔、お前が言ったんじゃないか…。人鬼であるボクを尊敬してるって…!ヒーローだって!
…ボクを裏切らないってさ!!」
「…………。」
稔兄ちゃんは焦っていた。
対するヨシヤは瞳に決意を宿し、稔兄ちゃんを真っすぐ見つめている。
批難や軽蔑じゃない。これはきっと、決別だ。
「…ミノルくん。
僕は今でも、きみを尊敬しています。
幼い身でありながら地上人を殺し、食べることを臆さなかった。
…それは残酷なことのようですが、賽の河原の永劫の苦痛を考えると、とても勇敢な行為です。
…50年間アンダーサイカに幽閉されている僕ですら、怖くてできなかったのに。」
悲しげな顔が私に向けられる。
それはもちろん、ヨシヤが食べようと計画した地上人が私だから。
でも結果的に、ヨシヤは今この時まで私を食べることはなかった。チャンスなんていくらでもあったのに。
その真の理由は、ヨシヤのどこか熱っぽくなっていく瞳の奥に秘められているんだろう。
―――心が…覗けたらいいのに。
ヨシヤの視線が再び稔兄ちゃんに向く。
「5年前、人鬼として店の外に出て、初めて僕に顔を見せてくれた時のこと…覚えていますか?
“みせものをかる”。
…“みのる”の三文字を含ませたメッセージで、きみは僕に名前を教えてくれましたね。」
「……それが…何だって言うんだよ…ッ。」
焦りと同じくらいの苛立ちを見せる稔兄ちゃん。
ヨシヤは少し目線を下ろして、私の顔を見る。
今の彼は真顔なのに、いつもの張り付いた笑顔の時よりもどこか頼もしさ…みたいなものがあった。
「豊花ちゃんも教えてくれました。
僕に…僕なんかに、大切な名前を教えてくれた…。少しでも信頼を寄せてくれた…。
ミノルくんも、豊花ちゃんも…僕の大好きな、大切なひとです。」
「………ヨシヤ?」
なんだろう。その台詞には、稔兄ちゃんと私に対する敬意とか親愛とかの他にも、別の意味がこめられてる気がする。
私が無意識に名前を呼ぶと、ヨシヤはまたフッと笑顔を浮かべる。
ただそれはとても優しいもの。
「…豊花ちゃん、僕がなぜアンダーサイカに幽閉されることになったか、理由が気になりますか?」
「…う、うん…。」
「では、聞いてください。
僕はね…―――、」
そして、ヨシヤの口から語られる。
50年前の彼のエピソードが。
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