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第1章 噂【うわさ】
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お父さんとお母さんから聞いた話。
私には、10コ歳の離れたお兄ちゃんがいたらしい。名前は稔。
どうして今はいないの?そう訊ねると二人は言いにくそうにするけど、最後にはハッキリと、
『亡くなったんだよ。』
そう教えてくれた。
でも知ってるのはそれくらい。
子供心に、これ以上詳しいことを訊くのは両親の心の傷を抉るだけだと分かっていたから。
私より10コ年上の稔兄ちゃん。
賢く頼りになる稔兄ちゃん。
それが私の知ってる、今はもういない兄弟のすべて。
***
「開店時間だ、薬屋。
さっさと店を開けろ。」
どん、どんと、閉め切られた引き戸が外から叩かれた。荒々しい口調。しかしさっきの黒い塊とは違う。人の声だ。
「…たっ…!」
助けて、と言おうとした。
でもそれより早く、ヨシヤが私の口を手で覆う。
ヨシヤはゆっくりと首を後ろに向けて、穏やかに答えた。
「はい、すみません。
もうすぐ準備が整いますので。」
優しい声色と、強い手の力の差が違いすぎる。
もがけばよかったのに、私はなぜか声をひそめて体の動きを止めて、外にいる人の反応を待ってしまった。
「そうか。じきにお客様方が列を成してやって来る。間に合わせろよ。」
「はい、承知してます。」
ヨシヤがハッキリと返事をすると、外の人の足音が遠退いていった。
行ってしまった…。
「…はぁ、なかなか余裕がありませんねぇ…。」
ヨシヤは心から残念そうに呟くと、私の口を塞いでいた手をあっさりと離した。そして、まるでさっきまでのやり取りが無かったことのように、テキパキと開店準備を始める。
私はというと、
「…………。」
置いてきぼり状態なので、大人しく椅子に座っていた。
「…………。」
ヨシヤが私の前を通り過ぎる。箒と錆びたチリトリを持った。
「……………。」
また通り過ぎる。
今度はレジ横のペンを一本取った。
「…………………。」
いい加減放置しすぎじゃないかな。
「…ねえ、忙しいなら私、帰ってもいい?」
さすがに居心地悪くなってきて、私はヨシヤに訴えた。我ながらなんて順応性の高さだろう。
掃き掃除を始めようとしていたヨシヤはこっちを見て、ニコニコ笑顔で答える。
「駄目。いけません。」
…顔は穏やかなのに、声は若干どすが利いてて…恐い。
私は肩を竦める。けど、ここで諦める気なんてなかった。食べるだか地上人だか知らないけど、こっちだって得体の知れない相手に大人しくしてるわけにはいかないもの。
「…た、拓くんと潤ちゃんは、地上に帰ってるんでしょ?じゃあ私も帰る。
遅くなるとお母さんが心配するし。」
「お子様らしい理由ですね。」
…それは自分でも思った。
ヨシヤから、さっきみたいな殺気みたいなものは感じられなかった。
私の気のせい?食べるとかも、質の悪い冗談?初対面で冗談言われても全然面白くないけど。
ここで座り込んでてもこの人からは逃げられない。彼の言う通り、私は子どもだ。子どもは子どもなりに、逃げる手段をとるものだ。
「…ねえ、どうしたら帰してくれるの?良い大人が、よその子供を家に帰さないなんて悪いんだよ。お巡りさんに言い付けてやるから。」
やんわりと、幼い言葉で、警察を引き合いに出してみるのだ。
警察ってワードを出してみても、ヨシヤは大して狼狽える様子はなかった。テキパキと掃除をしながら、彼は答える。
「さっき言ったでしょう?僕はきみが食べたいんです。
…でもそれには少々時間の余裕がありません。
警備員の目もありますし、さっき耳にした通りこの斎珂駅地下街は時間に厳しいですからね。」
「私たちはアンダーサイカって呼ぶんだよ。」
「へえ、まったく最近の若者は横文字ばかり使いたがるんですから。」
この人は逆にジジくさい。
だんだん話がおかしな方向に逸れてきた。
でもハッキリしてるのは、彼に私を帰す気は無いってこと。そして、今の彼には私をどうこうする暇が無いってこと。
―――どうしよう。
我ながら、本当に順応性の高さに溜め息が出そうだ。
ヨシヤの話が本当なら、拓くんと潤ちゃんは今頃警備員さんに捕まって地上へ送り届けられているはず。今は深夜で朝までだいぶ時間があるから、お母さんに見つかる心配も要らなさそう。
すっかり手持ち無沙汰になった私は、少しこのヨシヤって人と話をしようと考えた。
「ねえ、ヨシヤ。どうして私のこと食べたいの?」
「こら、僕は年上ですよ。呼び捨てはいけません。」
「教えてくれなきゃ呼び捨てやめないよ。」
戒めに反抗した私に、ヨシヤの笑顔が一瞬引き攣った。
“このガキ”。そう思ってるんだろうな、きっと。
でもすぐに人当たりのいい顔に戻った。
――カラカラカラ…
開店準備が整って、隔たりを作っていた引き戸を開けていく。さっきまで何も無かった通路には、
「……っ!!」
さっきの黒い塊と似た雰囲気の生き物が、そこかしこに溢れていた。
腰くらいまでの背丈しかない黒い小人や、ひょろりと細長い体のウナギみたいなオバケ。形は様々だけど、それらは皆共通して墨で塗り潰したように真っ黒な姿をしていた。
“お客様”。ヨシヤはこのオバケ達をそう呼んでた。
「…………。
豊花ちゃん、あのお客様方は何に見えます?」
突然、ニッコリ笑顔が私を見た。
どっちかというとヨシヤが何者なのかってことに興味があったけど。
「…わかんない。オバケ?」
「………うーん、少し…いやだいぶ違いますが、まあそれでもいいでしょう。」
どっちだ。
この人はとことん理解できないことを話すのが好きらしい。
私は思わず首を傾げる。
「地下街………きみ達の言葉で言うと、アンダーサイカでしたっけ。ここで店を構える者は皆、あの“お客様”方のために商売をしているんです。
アンダーサイカで“お客様”とは、あのオバケ達のことを指します。」
それを聞いて、私のオバケを見る目つきは更に悪くなった。
あれをお客様って呼んで、ペコペコしなきゃいけないなんて…。それなら普通の人相手に商売すればいいのに。
となるとひとつ違和感を覚える。
店の外に溢れているのは、黒い不気味なオバケたちばかり。ヨシヤのような…“人”の姿が見えないんだ。
「買いに来るのはオバケだけなの?普通の人は?」
それを訊ねてみる。
ヨシヤは引き戸が閉まらないようストッパーを取り付けてる最中だ。
「言ったでしょう?アンダーサイカの“お客様”は彼らだけ。僕達はお客様だけをお相手し、お互いの店には必要以上に干渉しない。そういう主義なんです。」
「なにそれ…………。」
頭では、もうこのアンダーサイカは私の知ってる地下街じゃないと分かってる。あんまり信じたくないけど、あのオバケたちは私たちの知らない別の生き物…。
そしてヨシヤも、きっと普通の人間じゃない。時間とか変な主義とか決まりとか、見えない鎖にがんじがらめにされてるんだ。
…でも、じゃあ、さっき私を食べるって言ったのは何…?
『警備員の目もありますし…』
決まり、時間、と口にするヨシヤが唯一破ろうとしていた禁止事項。
私を食べる……殺すことが、ヨシヤにとって何の意味があるんだろう。
「……ヨシヤ、あなたって、“何”なの?」
私の、ある意味一番知りたかった問いに、
「僕は薬屋ですよ。」
ヨシヤは、答えてくれなかった。
私には、10コ歳の離れたお兄ちゃんがいたらしい。名前は稔。
どうして今はいないの?そう訊ねると二人は言いにくそうにするけど、最後にはハッキリと、
『亡くなったんだよ。』
そう教えてくれた。
でも知ってるのはそれくらい。
子供心に、これ以上詳しいことを訊くのは両親の心の傷を抉るだけだと分かっていたから。
私より10コ年上の稔兄ちゃん。
賢く頼りになる稔兄ちゃん。
それが私の知ってる、今はもういない兄弟のすべて。
***
「開店時間だ、薬屋。
さっさと店を開けろ。」
どん、どんと、閉め切られた引き戸が外から叩かれた。荒々しい口調。しかしさっきの黒い塊とは違う。人の声だ。
「…たっ…!」
助けて、と言おうとした。
でもそれより早く、ヨシヤが私の口を手で覆う。
ヨシヤはゆっくりと首を後ろに向けて、穏やかに答えた。
「はい、すみません。
もうすぐ準備が整いますので。」
優しい声色と、強い手の力の差が違いすぎる。
もがけばよかったのに、私はなぜか声をひそめて体の動きを止めて、外にいる人の反応を待ってしまった。
「そうか。じきにお客様方が列を成してやって来る。間に合わせろよ。」
「はい、承知してます。」
ヨシヤがハッキリと返事をすると、外の人の足音が遠退いていった。
行ってしまった…。
「…はぁ、なかなか余裕がありませんねぇ…。」
ヨシヤは心から残念そうに呟くと、私の口を塞いでいた手をあっさりと離した。そして、まるでさっきまでのやり取りが無かったことのように、テキパキと開店準備を始める。
私はというと、
「…………。」
置いてきぼり状態なので、大人しく椅子に座っていた。
「…………。」
ヨシヤが私の前を通り過ぎる。箒と錆びたチリトリを持った。
「……………。」
また通り過ぎる。
今度はレジ横のペンを一本取った。
「…………………。」
いい加減放置しすぎじゃないかな。
「…ねえ、忙しいなら私、帰ってもいい?」
さすがに居心地悪くなってきて、私はヨシヤに訴えた。我ながらなんて順応性の高さだろう。
掃き掃除を始めようとしていたヨシヤはこっちを見て、ニコニコ笑顔で答える。
「駄目。いけません。」
…顔は穏やかなのに、声は若干どすが利いてて…恐い。
私は肩を竦める。けど、ここで諦める気なんてなかった。食べるだか地上人だか知らないけど、こっちだって得体の知れない相手に大人しくしてるわけにはいかないもの。
「…た、拓くんと潤ちゃんは、地上に帰ってるんでしょ?じゃあ私も帰る。
遅くなるとお母さんが心配するし。」
「お子様らしい理由ですね。」
…それは自分でも思った。
ヨシヤから、さっきみたいな殺気みたいなものは感じられなかった。
私の気のせい?食べるとかも、質の悪い冗談?初対面で冗談言われても全然面白くないけど。
ここで座り込んでてもこの人からは逃げられない。彼の言う通り、私は子どもだ。子どもは子どもなりに、逃げる手段をとるものだ。
「…ねえ、どうしたら帰してくれるの?良い大人が、よその子供を家に帰さないなんて悪いんだよ。お巡りさんに言い付けてやるから。」
やんわりと、幼い言葉で、警察を引き合いに出してみるのだ。
警察ってワードを出してみても、ヨシヤは大して狼狽える様子はなかった。テキパキと掃除をしながら、彼は答える。
「さっき言ったでしょう?僕はきみが食べたいんです。
…でもそれには少々時間の余裕がありません。
警備員の目もありますし、さっき耳にした通りこの斎珂駅地下街は時間に厳しいですからね。」
「私たちはアンダーサイカって呼ぶんだよ。」
「へえ、まったく最近の若者は横文字ばかり使いたがるんですから。」
この人は逆にジジくさい。
だんだん話がおかしな方向に逸れてきた。
でもハッキリしてるのは、彼に私を帰す気は無いってこと。そして、今の彼には私をどうこうする暇が無いってこと。
―――どうしよう。
我ながら、本当に順応性の高さに溜め息が出そうだ。
ヨシヤの話が本当なら、拓くんと潤ちゃんは今頃警備員さんに捕まって地上へ送り届けられているはず。今は深夜で朝までだいぶ時間があるから、お母さんに見つかる心配も要らなさそう。
すっかり手持ち無沙汰になった私は、少しこのヨシヤって人と話をしようと考えた。
「ねえ、ヨシヤ。どうして私のこと食べたいの?」
「こら、僕は年上ですよ。呼び捨てはいけません。」
「教えてくれなきゃ呼び捨てやめないよ。」
戒めに反抗した私に、ヨシヤの笑顔が一瞬引き攣った。
“このガキ”。そう思ってるんだろうな、きっと。
でもすぐに人当たりのいい顔に戻った。
――カラカラカラ…
開店準備が整って、隔たりを作っていた引き戸を開けていく。さっきまで何も無かった通路には、
「……っ!!」
さっきの黒い塊と似た雰囲気の生き物が、そこかしこに溢れていた。
腰くらいまでの背丈しかない黒い小人や、ひょろりと細長い体のウナギみたいなオバケ。形は様々だけど、それらは皆共通して墨で塗り潰したように真っ黒な姿をしていた。
“お客様”。ヨシヤはこのオバケ達をそう呼んでた。
「…………。
豊花ちゃん、あのお客様方は何に見えます?」
突然、ニッコリ笑顔が私を見た。
どっちかというとヨシヤが何者なのかってことに興味があったけど。
「…わかんない。オバケ?」
「………うーん、少し…いやだいぶ違いますが、まあそれでもいいでしょう。」
どっちだ。
この人はとことん理解できないことを話すのが好きらしい。
私は思わず首を傾げる。
「地下街………きみ達の言葉で言うと、アンダーサイカでしたっけ。ここで店を構える者は皆、あの“お客様”方のために商売をしているんです。
アンダーサイカで“お客様”とは、あのオバケ達のことを指します。」
それを聞いて、私のオバケを見る目つきは更に悪くなった。
あれをお客様って呼んで、ペコペコしなきゃいけないなんて…。それなら普通の人相手に商売すればいいのに。
となるとひとつ違和感を覚える。
店の外に溢れているのは、黒い不気味なオバケたちばかり。ヨシヤのような…“人”の姿が見えないんだ。
「買いに来るのはオバケだけなの?普通の人は?」
それを訊ねてみる。
ヨシヤは引き戸が閉まらないようストッパーを取り付けてる最中だ。
「言ったでしょう?アンダーサイカの“お客様”は彼らだけ。僕達はお客様だけをお相手し、お互いの店には必要以上に干渉しない。そういう主義なんです。」
「なにそれ…………。」
頭では、もうこのアンダーサイカは私の知ってる地下街じゃないと分かってる。あんまり信じたくないけど、あのオバケたちは私たちの知らない別の生き物…。
そしてヨシヤも、きっと普通の人間じゃない。時間とか変な主義とか決まりとか、見えない鎖にがんじがらめにされてるんだ。
…でも、じゃあ、さっき私を食べるって言ったのは何…?
『警備員の目もありますし…』
決まり、時間、と口にするヨシヤが唯一破ろうとしていた禁止事項。
私を食べる……殺すことが、ヨシヤにとって何の意味があるんだろう。
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