狗神巡礼ものがたり

唄うたい

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七:巡礼の果て

伏水の…

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 ***

 御殿の湖の畔を囲う紅葉は綺麗な緋色を湛え、秋風が肌を優しく撫でる。

 わたしは、一人で狗神御殿の裏…東屋にて、伏水様の墓碑にお祈りを捧げていました。

 苔生す大岩。彫り込まれた文字はほとんどが欠けてしまったまま。
 けれどわたしは、そこに刻まれていたかもしれない内容に、一つだけ心当たりがありました。
 母様が寝る前に話して聞かせてくださった、狗神様のお話。わたしの好きな一節。

【ーーー早苗。斯様かような場所で何をしている】
「っ!」

 背後から名を呼ばれ、わたしは思わずその場で、小さく飛び上がってしまいました。
 その優しいお声は、

「…い、狗神様っ…」

 白銀の毛並み。大きな体。御殿の主である狗神様が、お供も付けずお一人で、東屋へといらしていたのです。

「も、申し訳ありません。すぐ参りますので、少しだけ…っ」
【構わぬ。“今日という日”を皆が待ち侘びていた。心が落ち着かぬのも理解出来る…】

 狗神様は体を引き摺り、墓碑の前へと進み出ました。
 その弱々しい姿に、わたしは力不足と分かっていながら、支えを買って出ました。

【すまぬな……】
「いいえ…」

 触れればよく分かる。柔らかな毛並みと骨張ったお体。豊かな水と、森の香り…。
 それはかつて狒々の池泉の森の中で、一人きりのわたしに寄り添ってくださった見知らぬ獣と、よく似た雰囲気がありました。
 …でも、いいえ、そんなまさか。


【…早苗。そなたは、我を憎まぬのか?】
「え…?」

 突然の問いに、わたしはすぐに答えられませんでした。
 狗神様の声色は苦しげで、どこか自嘲的でもありました。なぜそんなことを問われるのでしょう…。

【我は永きにわたり、犬居家を呪いで縛り付けた。そして、そなたの母を殺した…。なぜ、それほどまでに易々と、我を受け入れられる…?】
「………あ……」

 大きな深い琥珀の目が、わたしの姿を捉えます。
 不思議と恐怖は無く、むしろこの方の求める答えをどうしたら正しく伝えられるか…しばし思案した末に、

「神様は恵みだけを授けてくださるものではないと、母様が教えてくれたのです。雷雨と晴天の移ろいのように、荒魂あらみたま和魂にぎみたまも等しく、わたしは受け入れます…」

 ーーーそれに。あなたはわたしを“早苗”と呼んでくださった。

「…わたしのことを、ずっと見守っていてくださったのですよね。わたしが、狗神様にお祈りをしていたから」
【………】

 幼い頃からの信心は一方通行ではなかった。
 それが知れただけでも、わたしには充分過ぎるくらい。

 狗神様は目を瞑り、わたしの答えを受け入れてくださいました。


【…我はじきに死ぬ。とうとう、伏水と相見あいまみえることは叶わなかった…。初めから分かっていたことだ。現世うつしよ何処いずこにも、彼女はりはしないというに……】
「狗神様……」

 そう呟くと、狗神様は悲しげに項垂れます。
 その横顔を見つめていた時、わたしの頭に、昔母様が教えてくれた“歌”が思い起こされたのです。

「………伏水ふしみずの…、」

 その歌い出しを聴いた時、狗神様の体がびくりと震えました。


「… 伏水ふしみずの 湧きて流るる 山川を 岩苔いわごけの下 伏して待たなむ…」


【………伏水ふしみの歌か】

 言い伝えでは、狗神様の最初の奥方様が、ご自身の最期に狗神様へ贈った歌。

 ーーー山の湧水が、やがて豊かな川となって流れるように、私もいつか貴方の元へ帰ります。その日をいつまでも、苔生す立派な岩となって待っていて下さい。ーーー

「…命が尽きても、体が絶えても、魂となってきっとまた逢える…。“死は終わりではない”と、…わたしにはそんな思いが読み取れます。お二人は、心から思い合ってらしたのですね」
【…………】

 狗神様は、墓碑を見つめています。
 ふと、悲しげだった横顔の中に、どこか安らぎにも似た色が浮かんだのが分かりました。

 心の中で言葉を交わされたのでしょうか。狗神様は、やがて愛おしそうに目を細めます。

【…分かった…。ーーーそなたの帰りを、伏して待つとしよう…】

 狗神様はわたしの腕にほんの少しばかり重みを預け、そうして小さな声で、切なげな遠吠えをひとつ上げられました。


 …やがて、狗神様はわたしの顔を見ると、低く優しいゆったりとしたお声で仰いました。

【……参ろう。皆が待っている頃だ】
「はい」
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