狗神巡礼ものがたり

唄うたい

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四:狒々の池泉

あけび

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 ***

 明け方の優しい陽光を感じて、わたしはゆっくりと意識を浮上させました。
 もたれかかっていた木から体を起こし、辺りを見回しますが、周囲に生き物の姿はありません。
 意識を手放す直前に感じた獣の気配…。あれは夢だったのかしら。

【キキッ!】
「!」

 少し遠くから鳴き声がして、反射的にそちらに顔を向けます。
 白い毛に、右目の傷。ここまでわたしを導いてくださったお猿が、少し離れた木のそばで、わたしのことを待っていました。
 よく目を凝らせば、お猿の姿の向こうに、きらきら光るものが見えます。

 ゆっくりとその場から立ち上がり、お猿の方へ、光るものの方へ、一歩一歩と近付いていきます。

「……あっ…!」

 その正体に、わたしは声を上げました。

 朝日を反射して光る水面。透明な水を湛えた広大な池泉…瓢箪池が、そこに広がっていました。
 とうとう、目的の場所に。二つ目の試練の場所に戻って来たのです。

「…あ、ありがとうございます…! なんて、お礼を……」

 体の疲れも吹き飛んでしまうほどの感動に震え、わたしはここまで導いてくれたお猿にお礼を述べます。
 これまで無言を貫いていたお猿が、ふいに口を開きました。

【礼には及びませんわ。早苗様】
「!」

 そのお猿の澄んだ声に、わたしは驚きを隠しきれません。声音から察するに、どうやらこのお猿は、女のかたであるようでした。

「…お、お猿さま、言葉が話せたのですね…」
【…青衣様は、我ら猿が口をきくことをお許し下さいません。ご挨拶が遅れ、申し訳ありませんわ…。私は青衣様の側近の、あけびと申します。以後、お見知り置き下さいまし】
「あけびさま…」

 道中、わたしの空腹を満たしてくれた、淡紫の実の味を思い出します。

「山中助けていただき、ありがとうございます。青衣の命令で、わたしを導いてくださったの…?」

 青衣はわたしを生かさないものと思っていました。
 あけびさまは浮かない顔で返します。

【…いいえ。私は青衣様の命令に背き、独断で早苗様をお連れしたのです】
「え……?」

 あけびさまは自身の右目の傷に触れながら、ポツリポツリと言葉をこぼします。

【…青衣様は恐ろしいお方です。己の意にそぐわない者は排除し、気分次第で、家来の猿を傷付けることも躊躇しません】
「……まさか…」

 痛々しい傷の正体は、自分の主人の手によるものだと言うのでしょうか。

【早苗様をお護りしていた、芒色の毛並みのお使い様も、今頃は青衣様の手の中です…】
「……そんな…」

 やはり仁雷さまは、わたしが眠っている間に連れ去られてしまったようでした…。
 脳裏に青衣の恐ろしい形相が浮かびます。仁雷さまの身が心配で、わたしの胸は痛いくらいに嫌な動悸を繰り返します。

【青衣様はもはや、早苗様に巡礼の試練を与えるおつもりはありません。…ですが、私は…猿達は、どうしても早苗様に試練を達成していただきたいのです…】

 あけびさまの声は震えています。
 この方もまた、どれほど苦しい思いをしているか。どれほど恐怖を抱えているか。それらが痛いほど伝わってきて、わたしは思わず、彼女の小さな白い背中にそっと触れました。

【…早苗様の、青衣様への臆さぬ物言い。そして身を呈して私を救って下さった勇敢さ…。あなた様ならきっと試練を達成し、青衣様の目を覚ますことが出来ると信じているのです】
「あけびさま……」

 あけびさまの憐れなまでの懇願を受け、わたしは意を決しました。
 あけびさまに導いていただき、食べ物を教えていただいた。あの助けが無ければ、わたしは今この場に生きて立ってはいないでしょう。

 瓢箪池を見つめ、彼方に弧を描く反橋を見つめ、

「……参りましょう、あけびさま。案内をお願いできますか…?」

 水底に潜むという蟹の姿を想像しました。
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