狗神巡礼ものがたり

唄うたい

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四:狒々の池泉

束の間の宴

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 柿さまの話では、青衣の塒と緋衣さまの塒は、瓢箪池を挟んだ丁度対面に位置しているといいます。
 つまりわたし達は、青衣の洞窟から出た後、瓢箪池周辺の獣道をぐるりと迂回して、緋衣さまの塒を目指して歩いている状態。
 鬱蒼とした森の中を、柿さまと提灯に導かれるまま進んでいくと、遠くに建物の屋根が見えてきました。

 森を抜けた先は、広い広い池泉のほとりでした。
 辺りには、青衣の洞窟の中と同じく、民家や長屋や蔵が建ち並び、その中央に、やはり朱塗りの社殿が聳えていました。そして驚くべきは、あらゆる建物が、青衣の塒と鏡合わせのようにそっくりなのです。

「……青衣の洞窟の内部と、よく似ています。町並みも、社殿の造りも」
【こちらへどうぞ。緋衣様がお待ちです】

 仁雷さまの肩から下ろしていただき、わたし達は柿さまに導かれるまま、社殿の中へと入っていきます。
 これほど似ていると、何かの罠ではと不安が募ります。恐る恐る足を踏み入れた先で待っていたのは、

「…おお! 待ち侘びたぞ犬居の娘よ!」

 緋色の長い髪に、緋色の打掛うちかけ姿の、とても美しい女の人でした。
 すらりと背が高く、艶やかな打掛を纏う様は天女のよう。

 瓢箪池を背にしてその女性は立ち上がり、わたし達を和やかな笑顔で迎えていました。
 心なしか体が上下に小さく揺れています。まるでお友達を前にした子どものような無邪気さです。

「待ち侘びたぞ! 儂こそが瓢箪池と南山の主、緋衣ひごろもじゃ! 本当に、よくぞここまで辿り着いた!」

 社殿の内部は、奥の壁一面がすっかり取り払われており、背後に広がる瓢箪池が一望できるようになっています。生憎あいにくと今は夜なので、池泉の全貌は暗くてよく見えません。

 緋衣さまは、お猿に向かって何かを命じます。
 すると間も無く、何匹ものお猿が列になって、わたし達の前に食事を運んで来るではありませんか。鯛のお造りに、重々しい酒瓶に、器から溢れんばかりの果物…。
 呆気に取られて見つめていると、あっという間に山のようなご馳走が、その場に並べられました。

「あ、あの、これは…?」
「そなたらは大切な客人じゃ。これは儂からのほんのもてなし。どうか心ゆくまで楽しんでくれ!」

 ご馳走を見つめて、わたしは言葉もありませんでした。
 青衣と、緋衣さま。塒の配置は鏡合わせのようにとてもよく似ているのに、両者の性質は全く正反対。青衣は明確な敵意を持っていたけれど、緋衣さまはとてもこちらに友好的なのです。
 その厚意が、わたしには逆に不安感となりました。

 義嵐さま、仁雷さまはわたしの左右に座っています。何が起きても、いの一番にわたしを護れるようにでしょうか…。

「…緋衣さま。おもてなしをありがとうございます。ですがまず…巡礼の試練について、教えていただけますか?」
「え? ホホ、ほんにせっかちじゃのう犬居の娘…いや、早苗殿! まあそなたらが求めているのは、こんな馳走の山ではあるまいよな」

 緋衣さまはおもむろに、首から下げていた装飾品に触れます。その金色の装飾品に、確かに見覚えがありました。

「…あれは…青衣にも…」

 緋衣さまが装飾品をくるりと裏返せば、わたし自身と目が合います。それは金色の円鏡えんきょうであることが分かりました。

「…それは、青衣が身につけていたのと同じ物に見えます。なぜお二人が同じ鏡を?」
「ホホホ、美しかろう? これは儂が生まれた時から身につけておる大切な鏡での! その昔、瓢箪池の底に棲む“ある妖怪”の一部を材料にこしらえたと云われておる。…早苗殿。そなたには、これの材料となるその妖怪を捕らえ、儂の前へ連れて来てもらいたいのじゃ!」

 緋衣さまの頼みは、言い方さえ違えど、青衣の時と同じ内容でした。

「池の底には“宝”があると聞きました。その妖怪とやらが、宝なのですか…?」
「んーむ、半分当たりじゃ。池の底に居る者とはの、“蟹”じゃ!」
「かに…?」

 鋏を持ち、水辺に棲むあの蟹のことかしら。
 緋衣さまは白い指で、円鏡を愛おしげに撫でます。

「この円鏡は、その蟹の甲羅から作られた。従って儂が欲しいのは、水底みなぞこの蟹の“甲羅”ということになる」

 緋衣さまは話を続けます。
 傾聴すべき本題は、この後だったのです。

「ーーーじゃが、早苗殿。それを取ってくるのは“そなた一人”で。お使い達の手は決して借りてはならぬよ!」

 その言葉にいち早く反応したのは仁雷さまでした。
 片膝を立て、緋衣さまとわたしの間を遮るように、身を乗り出します。

「この山の狒々族なら当然、巡礼のことは知っているな? 俺達は早苗さんの護衛だ。何があっても早苗さんを一人でなど行かせない」
「無論知っておるとも! 承知の上での試練じゃ。早苗殿はたった一人で、水底の蟹を、儂の元へ届ける。それが巡礼の第二の試練じゃ。理解したかのう?」

 仁雷さまの低い唸りにも、緋衣さまは怯むどころか、人懐っこい笑みを浮かべます。
 ただ己の役目を全うするだけ…と言うように、とても堂々としているのです。
 わたしはその姿に、青衣の時とはまた違った不安を覚えました。

 今度は、義嵐さまが微動だにすることなく、緋衣さまへ訊ねます。

「…狒々王をどこへやった? あのケチで手前勝手な妖怪が、みすみすお前に地位を譲り渡すとは思えないけどなぁ?」
あれ・・はもうおらぬ。狗神様より賜った大切なお役目を、同じ狒々である儂が受け継いだだけのことよ」

 わたしが眉根を顰めたのを、緋衣さまは見逃しませんでした。

「疑っておるな? 早苗殿。大方、青衣の奴めにも同じことを言われたのじゃろう。あれは嘘つきの無法者と聞く。顔すら見たこともないが、とても狒々王に代わる器ではなかろう。信じる必要などない。賢い早苗殿なら、どちらが信用に足る者か分かるじゃろう?」

 青衣を間近で見たわたしは、とてもあんな恐ろしい妖怪が、狗神さまを信仰しているとは思えませんでした。
 義嵐さまと仁雷さまを「野犬」呼ばわりしたことからも…。

 ですが目の前の緋衣さまも、信用するにはあまりに不信な点が多すぎました。
 どちらの味方につくのも危険な予感がして、

「……瓢箪池には、参ります。けれど水底の蟹をどうすべきかは、まだ分かりません…」

 わたしは、そんな逃げ道を選ぶのでした。


「ホホ、よかろう。さあ、皆疲れておることじゃろう。今宵はこの緋衣の塒で、ゆるりと過ごすがよい!」

 緋衣さまの元気な言葉を合図に、控えていたお猿達が恭しく、わたし達三人をもてなし始めました。

 お猿達は、仁雷さまと義嵐さまにお酌をしようとしますが、

「酔って早苗さんから目を離しては大事おおごとだ。俺は遠慮する」
「おれは蟒蛇うわばみだからお酌が間に合わんよ。自分でやる」

 きっぱりと断られ、少ししょんぼりと酒瓶を下げるのでした。

 わたしの傍には、初めに道案内をしてくださった柿さまが付きます。

【早苗様も、お酒はいかがですか? 山で採れた桃もございますよ。】
「あ、ありがとうございます。でもわたしはお酒を口にしたことがなくて…。桃をいただけますか?」
【はい。食べやすいよう切り分けますので、少々お待ちくださいませ】

 柿さまは大ぶりな桃をひとつ手に取ると、もう片方の手を、ふかふかの毛皮の中に突っ込んでモゾモゾし始めます。何かを探しているようです。

「どうかなさいました?」
【いえ…申し訳ありません。小刀を持って来たつもりなのですが…】

 果物を切るための小刀…。
 わたしはとっさに、自身の帯に差していた、螺鈿の懐剣を抜き出しました。

「良かったらお使いになって。まだ一度も使っていないので、清潔よ」
【えぇっ!?】

 声を上げたのは柿さまですが、隣の仁雷さまと義嵐さまも、反射的にこちらに顔を向けました。

「さ、早苗さぁん…。それはいくらなんでも躊躇い無さすぎ…」

 義嵐さまが気まずそうに声を漏らします。
 柿さまも慌てて、手をパタパタと横に振るのです。

【それは試練達成の証である大切な宝物ほうもつです! 桃を切るなどそんな罰当たりなこと! 私にはとてもとても…っ!】
「えっ! まあ…いけないことだったのですね……」

 良かれと思って取った行動でしたが、そんなに軽率だったなんて…。
 身を小さくするわたしに対して、仁雷さまが優しくこう言ってくださいました。

「いけないことはないが…、今までやった者は居ないな…。はは、でも早苗さんらしい」
「仁雷さま…」

 雉喰いの殻に自ら飛び込んだ時も、後先をよく考えずにとった行動でした。その出来事を思い出していらっしゃるのでしょう。

「早苗さんが得た宝なんだから、それをどう使うかも、早苗さんの自由だと思う」

 そう言って、優しげにわたしを見つめる仁雷さま。その眼差しを受けて、わたしはなんだか無性に…気恥ずかしい思いになりました。

「…では、わたしが代わりに桃を切ります。それなら柿さまが気を揉むことはないでしょう?」

 わたしの提案に、柿さまは更に困惑の表情を浮かべてしまいました。

【ア、アウ…。ひ、緋衣様…】

 柿さまの救いを求める視線を受けて、緋衣さまは一層楽しげに微笑みます。

「ふふ! ホホホ! 珍妙な娘じゃのう早苗殿。滅多にない機会じゃ。螺鈿の懐剣で切り分けた桃、儂にも一切れ貰えるか?」
「あ…は、はいっ」

 ご主人さまの許可を得たところで、わたしは柿さまから桃を受け取り、早速螺鈿の懐剣の腕を振るうこととしました。

 七色に光る刃をそっと桃の溝にあてがい、そのままくるりと一周切り込みを入れます。
 刃の美しさもさることながら、切れ味もとても良いのです。犬居屋敷の炊事場にあるどの包丁よりも優れているのでは。

 八等分に切り分けた桃を、手近なさかずきに盛ると、柿さまが盃ごと緋衣さまへと差し出します。
 緋衣さまの白く細い指が桃を摘み、そのままご自身の口へ。

「お味はいかがですか?」

 わたしが訊ねると、しばらくもぐもぐと咀嚼していた緋衣さまは、ゆっくりと桃を飲み込んでから、

「至って普通の桃じゃの! じゃが、不思議と胸が満たされるようじゃ」

 そう、満足げに微笑まれました。
 そのなんとも素直な笑顔に、わたしもつられてほだされてしまうのです。

「それは…ふふ、ようございました」
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