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3章 都大会(1年目)

57話 都大会100m準決勝・深海の怪物

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 2組目には、いよいよ瑠那が登場する。
 陶器のような白い肌が日差しを反射して輝き、その美しさにスタンドからはため息が漏れた。
 同時に、こんな華奢な人形のような少女が『関東6強』の一角なのが信じられないといった囁き声も聞こえる。
 中学時代の出場レースが少なかったこともあり、生で瑠那の走りを知る観客はごく僅かだ。
 地区大会を観戦した者と、中学時代をよく知る者のみが、既に知っている。
 その美しい走りの速さを。

 2組目にはもう1人、決勝進出の有力候補がいる。
 海の風高校2年、須王まいかすおうまいか
 100m、200mを得意とするショートスプリンターで、海の風のエース。

 決勝進出はこの2人でほぼ確定といえるほどの実力ながら、観客の興味はどちらが勝っての通過になるかだ。
 100mは直線なので、200mのようなコースの形によるによる有利不利はないが、やはり端よりは真ん中寄りの方が心理的に走りやすいと言われている。
 だがそれ以上に、100mの準決勝の着順とは”コンディション”を確認する上で大きな意味を持つ。
 絶好調の場合、まったく力まずともスピードが乗り、流したつもりでも好記録が出る。という事例が非常に多い。
 反対に不調の場合は、本来は体力を温存しておきたいところ、全力を出してなんとか上位を守る、という形になりがちだ。

 過去、長年破られなかった男子100mの日本記録、10秒00は準決勝、それも流して走ったにも関わらず出た記録だ。
 また近年では男子100mのアジア記録が世界大会の準決勝で記録されるも、その未知のスピードに身体が耐え切れずダメージを負い、決勝ではダメージの影響で準決勝ほどのパフォーマンスを出せなかったという事例もある。
 本当の勝負はあくまで決勝。
 準決勝で抑え過ぎては負けてしまうし、勢いに任せればダメージが残る。
 準決勝とは、コンディションを確認しつつ、極力ダメージを抑えて決勝に進むための高度な戦いが繰り広げられるステージだ。 

「ふうん、君が噂の人形ちゃんか。聞いてたよりカワイイね」

 言外に「本当に速いの?」とでも言いたそうな口調だ。
 強くカールしたくせ毛が外向きに巻き上がり、まるでイカ足のような襟足を揺らして、まいかが瑠那に話しかける。
  
「須王さん……あなたは、聞いていた通りですね」
「それってどういう意味かなー? まぁ褒め言葉として受け取っておくけど」

 実績はあるが、いや、実績があるからか、誰を相手にしても臆さず、チーム内外問わずに余裕とも軽薄とも見える言動を繰り返す存在。
 飛び抜けた持ちタイムではないが、何故かいつも”いい順位”におり、昨年秋の新人戦でも関東大会に出場している。
 本当の実力も、何を考えているのかも掴み切れない”油断できない選手”。
 それが、まいかの評判だ。

「さぁて、観客は色々と気になっているんだろうけど、ボクは気楽にいかせてもらうよ」

 表情は笑顔だが、その瞳は笑っているのか笑っていないのか、瑠那には判別がつかなかったが、ただ一つ、明らかにそれが捕食者の目だということは分かった。
 
「えぇ、そうだとこちらも助かりますね」

 まいかは「そうだね」と答え、ふふふ。と不敵に笑ってからスタート地点につく。

 号砲が鳴り、瑠那が先頭へ飛び出す。

(さぁ……潜ろうか)

 まいかは長い手足を器用に使い、長いストライドで静かに、ゆったりと加速をしていく。
 瑠那のすぐ後ろの距離につくが、そこから追いつくことも、引き離されることもされない。

(上げてこない……さっきの宣言は本当だったということか?)

 持ち前の美しい走りを遺憾なく発揮し、瑠那が1着でゴールする。
 最後は流したとはいえ、瑠那自身にとっても満足のいく出来の走りだった。
 ふぅ。と一息ついて、トラックから出るため、安全確認をしようと後ろを振り向く。

「いいねぇー、走ってないときよりも走ってるときのほうが、ずっとカワイイじゃん」
「わっ!?」

 あまり表情が変わらない瑠那ですら驚くほどに近く、すぐ後ろにまいかが立っていた。
 その息はまったく乱れておらず、平然とした表情で瑠那に話しかける。

「ボク、君の走り好きだよ。またあとで、ううん、これから引退までずっと、一緒に走るの楽しみにしてるね」
「えっ!? 何を言って!?」

 珍しく混乱している瑠那を置いて、まいかはゆらりゆらりと歩き去る。

(いいねいいね、今年の1年生。カワイイ子がたーくさん。特に瑠那ちゃん、チェックしてた甲斐があったねー)
 
 先程までとは違う、本心から嬉しそうな笑顔で、まいかはスタンド裏に消える。
  
 残された瑠那は急いでスタンドに戻り、伊緒のもとに駆け寄った。

「伊緒! 今のレース、動画あるか?」
「あ、はい! あります! 珍しい、瑠那さんがそんなに急いで。しかし絶好調でしたね、これなら決勝も……」
「動画再生するぞ」
「あ、はい!」

 伊緒が喋るのをを遮り、瑠那は動画に釘付けになる。
 そしてどんどんと、瑠那の表情は険しくなっていく。
 
「私の真後ろに……ずっといただと……!?」
「はい、スタート直後の僅かな差を保ったまま、最後流すところも一緒に。流石は実力者同士、無理な体力を使わずに最小限の消費でラウンドをクリアしたんだなと私、改めて尊敬しました!」
「まったく気付かなかった……」
「え?」
「こんな、すぐ真後ろにずっといただなんて、私は気付かなかった……どういうことだ」
「そんな、てっきり気付いてコントロールしていたのかと」
「死角に入られた……いや、それだけじゃない。足音、呼吸、空気の僅かな流れ……全てだ。それだけじゃない、私のタイムは12秒41、最後は流したとはいえ、中盤まではそれなりの出力で走った……それなのに、すぐ後ろだと!?」
「先程の須王さんのタイムは12秒52。1mも離れずにずっと一緒についていっていましたから……まだまだ余裕があるかと」
「一体、本当の実力は……」

 少し離れた場所から、まいかは瑠那達を見つめていた。
 大切なものを見つけたかのように、慈しむように目を細め、青ざめる瑠那の表情をじっと見つめる。

(本当に……とっても美味しそう。早くボクの”糧”になって欲しいなぁ)

 東京の2年生を代表する二つ名持ちネームド、須王まいか。
 未だ謎に包まれた彼女は、静かに、しかし着実に獲物に忍び寄る。
 その二つ名は……『深海の怪物クラーケン』。
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