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3章 都大会(1年目)

54話 都大会四継予選・冬の谷の1走

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「これより女子4×100mR予選を開始します。6組で実施し、各組3着までとタイムレースで上位6チーム、計24チームが準決勝進出となります」

 アナウンスが入り、ついに都大会が始まった。
 各チームの登録選手はプログラムに記載されているので事前に判明しているが、実際のオーダーはこのタイミングで初めて公開される。
 電光掲示板に1組目の出場チームが映し出され、出場する4人の選手が明らかになると、スタンドからは歓声や応援の声が上がる。

「オ、オペレーターの伊緒からスタンド、マイクテストっ!」
「スタンドマンの綾乃、マイクOK! 緊張してるかもだけど、頑張ってね!」

 オペレーター席には緊張した面持ちの伊緒が座り、後ろには香織が付き添っている。
 引退が迫る3年生の香織からオペレーターの役割を引き継ぐため、伊緒が練習をしているのだ。
 決勝のみ香織がオペレーターを務め、準決勝までは伊緒をサポートすることになっている。

 夏の森は6組目での出走で最終組なので、まだ本番までは猶予がある。
 伊緒と香織は機材の確認を済ませると、ライバル達の情報収集を始めた。

「春の丘のメンバーが4人しかいないっていうのは本当みたいね。地区予選と同じオーダーだわ」
「みたいですね。都大会は3ラウンド。個人種目やマイルまで走ることを考えると、決勝では実力通りとはいかなさそうですが……」
「……速いわね。特に2走の成野さんと4走の木下さん。1年生ばかりのチームだけど、秋には強敵になるよ。マークしといて」
「はい!」
 
 1組目では春の丘が悠々と1着となり、準決勝進出を決める。
 以後も秋の川、立身大付属、海の風と強豪校は危なげなく準決勝進出を決めている。

 いよいよ6組目となり、夏の森の出番が来る。

「それにしても……予選から冬の谷が相手かよ! しかも隣のレーンって」

 6レーンを走る夏の森に対して、インコース5レーンを走るのは全国最強のスプリント王国、冬の谷女子学院だ。
 開幕すぐラスボスという形だが、その分、他のチームの脅威度は低い。
 1着通過は絶望的ながら、着順での予選通過枠は3着までなので、ミスさえなければ夏の森の2着は堅いと言える。
 
「練習通りスタートして、練習通り走って、練習通りバトンを渡す! それだけできれば役目を果たせる! よし、大丈夫!」
 
 陽子は自分に言い聞かせてからコースに入り、冬の谷の1走はどんな選手かと5レーンを見る。
 そこに立つ少女は、オーダーが表示されている電光掲示板を見上げてから、ゆっくりと陽子の方を向いた。
 意図せず目が合ってしまう。
 すると少女は手を挙げて挨拶の仕草をしつつ、つかつかと陽子に近付いてきた。
 一見やや小柄で華奢に見えるが、スパッツ越しでも太ももがよく鍛えられていることが分かる。
 左の太ももには無骨なシルバーのテーピングを貼っており、強者の風格を漂わせている。

「よろしくねーお隣さん」
「あ、よろしく」

 レース前だというのにマイペースに挨拶をしてくる相手に驚きつつ、陽子も挨拶を返す。

「ところでさー『磁器人形ビスクドール』は出ないの?」
「あ、うん。”予選”は出ないよ」

 陽子が驚きながら答えると、少女は不機嫌そうな表情になる。

「はーーーつまんないなあ! 地区予選のニュースで、東京最速の1走なんて書かれてたから勝負したかったのに」

 陽子なんて眼中にありません。と言うような態度でため息をつく。

「私が相手じゃつまんないって?」

 陽子はそのままスタート位置に戻ろうとする少女に思わず言い返すと、彼女はつまらなさそうな表情のまま振り返った。
 
「んー、悪いけど、多分そう。まぁ、ちゃっちゃと終わらせよっか」
 
 あまりのふてぶてしさに、なんだこいつは。と驚く。
 電光掲示板を見上げると、冬の谷の1走には宇佐木万里うさきばんりと表示されていた。

(宇佐木万里……確かに瑠那と比べたら数段落ちるけど! 私、舐められてるなー。ここはいっちょ、見返してやりますか)

 陽子は冷静に走路を見据えると、気持ちを切り替えてインカムで元気よく報告した。

「1走、陽子。準備よし!」

 
「それでは6組目、位置について」

 深呼吸をしてからブロックに足をかけ、スタートの体勢を取る。
 静寂の中で、冷静に号砲を待つ。
 
「パァンッ!」
 
 号砲とともに、バネのように身体を伸ばしスタートを切る。
 練習通りにしっかりと地面を踏み締め、身体を1本のバネがごとく前へ押し出す。

(よしっ上手く出れたっ!)

 陽子がそう思った瞬間、左横に人影が現れる。

(なっ!?)

 一瞬、それが人だとは気付かなかった。
 なにしろ、スタートしたばかりなのだ。
 段差スタートのインコースとの差は約7m、いくらなんでも追いつかれるには早過ぎる。
 しかしそれは見間違いでもフライングでもなく、現実だった。

「陽子、冷静に! 自分の走り!」
 
 インカムから聞こえる伊緒の声で陽子は我に返る。

(くそっ……加速しなおすぞ……!)
 
 一瞬リズムが崩れたが、トップスピードまでなんとか加速する。

「1走、速度修正なし! 2走、いつも通り出てください!」
「流石、陽子さん。不測の事態からでもトップスピードに乗るのが上手いですね。受け渡しは任せてください」
 
 蒼のリードもあり、陽子はなんとか2走にバトンを繋いだ。
 そこからは2走の蒼と3走の美咲がベテランぶりを発揮し、安定したレース運びで4走の歌にバトンを繋ぐ。
 最終的に、夏の森は結果だけ見れば2着で危なげなく予選通過を果たした。
 しかし当人達はもちろんのこと、観衆もそんな結果以上に”冬の谷の1走”の話でざわめきが収まらない。

「号砲が鳴った瞬間……まるでワープしたんじゃないかって速さで並んでくるなんて。いくらスタートが苦手って言っても、陽子ちゃんも200mで都大会出場レベルの選手なのに! 地区予選で同じことが起きても驚かないけど、今のはとは訳が違うっていうか……ヤバいっすね冬の谷」
「あぁ。私も瞬きをしたせいで見逃したのかと思ったが、どうやらそうじゃないみたいだ。しかし、少なくともスプリントじゃあんな選手知らないぞ……真記ちゃん、データある?」

 スタンドでは、綾乃と麻矢が驚きながら撮影していた動画を見返している。
 
「しばしお待ちくだされ……!」
 
 真記はタブレットで選手情報を検索する。
 新聞部のネットワークで共有しているデータベースは地道な取材の結晶で、中学時代の記録などまで検索できる優れものだ。
 データが表示され、スタンドにいる全員で覗き込む。

「宇佐木万里……彼女ですな。冬の谷の1年生で、中等部から内部進学。専門は……走幅跳!? どうりで知らないわけですな」
「おいおい、中学時代に走幅跳で関東制覇……しかも四継の1走としても、全中優勝メンバーに入ってやがる」
「つまり……全国最強の1走だったってこと!? そりゃ反則だわ!」

 いくら1年生とはいえ、予選からなんて滅茶苦茶な! と一同は呆れる。
 
 宇佐木万里うさきばんり
 関東最強にして、最速のロングジャンパー。
 中学時代、走幅跳で関東大会を制覇した実力者。
 直線的なスピードに身を任せ、低空のまま超高速で跳躍するスタイルは、模倣不能とライバル達に溜息をつかせてきた。
 彼女の踏切脚である左脚は、破壊的とも言える衝撃を生み出すことから撃鉄に例えられる。
 また中学時代には四継で不動の1走を務め、100m選手をも置き去りにする驚異的なスタートダッシュで冬の谷の全国制覇に貢献した。
 左脚による一撃はもはや爆発に等しく、スターティングブロックから飛び出すその姿は、撃鉄によって放たれた弾丸のよう。
 故に、彼女は中学時代『弾丸ウサギバレット・ラビット』と呼ばれた。

 万里がジャンパーでありながら、他のスプリンター達を差し置いて1走を務めるのには、理由がある。
 その実力はもちろんだが、それとは別に、いや、それ以上に、冬の谷の伝統も関係している。
 
 冬の谷女子学院は、伝統を重視し、不動の絶対王者であることに誇りを持つチーム。
 彼女達にとって走順オーダーとは伝統を体現する重要な記号であり、自身の役割を示すものである。
 代表例を挙げれば、エースは必ず2走に配置する。という伝統がある。
 そこに戦術や小細工は存在せず、ただ2走という記号に求められるものが”最速”の称号だから。というのが理由だ。

 では1走に求められるものは何か。
 それは最速のスタート。
 王者は、戦いが始まった瞬間から王者であるべき。という思想は、号砲とともに先頭に立つことを求めた。
 故に、冬の谷の1走には絶対不敗のスタートダッシュが求められる。
 
 しかし冬の谷の伝統では、実力あるショートスプリンターは2走や4走に優先的に配置される決まりだ。
 結果的に、1走に配置できるショートスプリンターは3番手以降の実力ということになってしまう。
 その選手のスタートが本当に速ければいいが、現実には実力に比例し、スタートの速さも2走や4走に劣ってしまうことが多々あった。
 しかし王者である冬の谷で、そんな”妥協”は許されない。
 真に最速の1走を求めた彼女達は、それを”スプリンター以外”に求めた。
 結果、代々、冬の谷の1走には100mを専門にしない選手達が起用されている。
 冬の谷の非スプリンターにとって四継の1走とは、目指すべき王座であり、最大の誉れなのだ。
 
 常識を超えた反射神経と足捌きによる、華麗な加速力を誇ったハードル選手がいた。
 強靭な筋肉から発せられる瞬発力を武器に、いかなる強風にも負けない重厚なスタートを誇った投擲選手がいた。
 そして今、破壊的な一撃を秘めた左脚を武器に、1歩目が地に着くよりも先に周囲を置き去りにする跳躍選手が現れた。
 彼女が担うは、戦いが始まった瞬間からの絶対的な勝利。
 王者が王座に座したまま戦うため、彼女はその撃鉄を静かに引き上げる。
 
装填完了ローディングコンプリート
発砲ファイア!」

 号砲とともに、役目は終わる。
 いや、終わってしまう。
 全てを置き去りにし、あとはバトンを繋ぐのみ。
 もはや彼女にとっては”勝負”ではなく”作業”なのだ。

「はー。つまんない」

 万里は溜息をつき、ジャージを羽織る。
 その胸には北極星を象った銀の紋章がある。
 冬の谷でも極一部の者にしか着用を許されない、リレーメンバーの証。
 北極星の輝きが十字に伸びているが、これは先端1つずつが100mを意味し、4つ合わせて400mを表している。
 つまりは、四継のメンバーという意味だ。

「よっ万里。いい走りだったな」
猪熊いのくま先輩……どうもです」

 猪熊甲己いのくまかつみ
 砲丸投げで関東最強の名を欲しいままにする実力者で、冬の谷の部長である。
 投擲選手らしくよく鍛え上げられた肉体と豪快な性格で、頼もしき女傑を体現したかのような選手だ。
 
「冬の谷の1走に相応しい、実にいい走りだった! この調子で準決勝も期待しているぞ!」

 がっはっはと笑う甲己の胸で、金の北極星がキラリと輝く。
 万里の着ける銀の北極星とは異なり、その中心には”1”と刻まれている。
 似ているが、違う紋章だ。
 
「じゃあ、決勝も走らせてくれないですかねー」
「悪いが、そいつはできないな。なに、お前が秋からコイツを着けることは決まってるんだ、焦るもんじゃないぞ!」

 甲己は胸の北極星を指差して言う。
 そう、これこそ、冬の谷の”ベストメンバー”の証なのだ。
 中心に刻まれているのは務めるポジション。
 この金の北極星は代々、最速の4人に受け継がれてきた。

「私はソイツを、今すぐ欲しいんですよねえ。予選も準決勝も、強いとこは本気のオーダーで来ないでしょ。つまんないんですよ。決勝走らせてくださいよ決勝」
「まったく、下積みを疎かにするもんじゃない。若いうちから辛抱を知らないとろくな大人にならないぞ……」
「別に子供でいいですよ! 先輩ばっかり美味しいとこ走ってずるい! 私も楽しいとこ走りたいんですよー!!!」

 駄々っ子のようにジタバタと手足を動かす万里をなだめながら、甲己はやれやれとため息をつく。

「決勝を走りたければ、この星を手に入れるんだな。私はいつだろうと逃げないぞ」
「ちっ……!」

 冬の谷の伝統……その証は、決闘により奪うことができる。
 部員達の立会のもとで決闘に勝利すれば、実力で自分のものにできる。
 しかし万里はすでに、2度挑戦している。
 高等部に進級してすぐに1度。
 地区予選の後で1度。
 進級から僅かな期間しか経っていないながら、中等部の頃とは比較にならないほど万里は成長している。
 それでも、それでも、その星はまだ遠い。

「私達は王者。強くなければ戦いに出られない。同時に、強いならば戦いに出ねばならない。誉れであり、義務である。わかったな?」
「……はい」

 冬の谷女子学院。
 そこは最強を掲げ、最強を称えられる王国。
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