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2章 デビュー戦

43話 地区予選200m決勝・2組目

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(凄いレースだった……)

 自分のレースの直前ながら、陽子は1組目を思い返す。
 全く違うタイプの選手が競い合い、過程は違えど、同じゴールを目指して接戦を繰り広げた、熱いレースを。

(過程は違っても、目指すゴールは同じ……か)

 左隣、 5レーンをに立つ昭穂を見る。
 昭穂は集中しているのか、陽子には気付かず、ただ1点、ゴールのみを見つめていた。

(昭穂さん、私達も……目指すところは同じですね。200m先のゴールライン、そして勝利。だったら、別々の道を行く私達が交わったこのレース、目いっぱいに楽しく、競い合いましょうか!)

 スターティングブロックに足をかけ、号砲の音を待つ。
 スタート前の静寂の中で、静かに吹く風に気付いた。
 しかし集中を乱されることはない。
 むしろ、極限まで集中を高めた陽子は、自分を取り巻く風や、空気と一体化したかのような感覚になる。
 気持ちよく吹く、決して強くない風、それに乗せられるように陽子は軽やかなスタートを決めた。
 号砲の音は、もはや耳で聞いてはいなかった。
 ただ風に身を任せたとき、空気を震わせた号砲の振動を、全身が感じ取ったのだ。
 
 走り出してからのことは、陽子自身もよく覚えてはいない。
 ただ、頭を使いながら走ったこれまでのレースとは違い、勝手に身体が前に進んでいく感覚だけがあった。
 すぐ内側から昭穂が飛ばしているが、陽子は気にしない。
 気持ちよくコーナーを走る、そのときにライバルと並んで走れることに、ただ感謝した。

(脚が軽い。力を入れていないのに、どんどんスピードに乗る……! 前半から昭穂さん全力だ、やっぱり速いな。でも、人と一緒に走れる、競い合える、レースって……なんて楽しいんだ……!)

 楽しもう。そう決意して、風に、空気に、身を任せた。
 それは雑念を排除した境地、無駄な足掻きはしない。
 ただ風に乗り、これまでの努力を証明する。
 もはや勝敗など、陽子の頭にはなかった。
 ひたすらに、走ることが楽しくて仕方がない。
 競り合うライバル、昭穂がいることすら嬉しい。

 ホームストレートに入ったとき、先頭は昭穂と陽子が並んでいた。
 後続は大きく引き離し、2人のみが先頭争いをしている。
 昭穂は必死に歯を食いしばり、スパートをかけているが、陽子は薄く笑みを浮かべている。
 
 残り50mになったとき、陽子の意識は急に現実に戻った。
 それまで風に乗るように身を任せていたが、急激に脚が重くなる。
 息は苦しく、地面を蹴ってもリズムの良い反発はもらえない、まるでガムの上を走っているようだ。

(しまった……無意識に飛ばし過ぎてたんだ! けど、もうあとはラストスパート!)

 隣を走る昭穂とは並んでいる、しかし昭穂もまた、苦しそうだ。
 ここから先は、気合の勝負になる。

「陽子ー! 自分に負けるなー!」

 ゴールの方から、瑠那の声が聞こえる。

(そうだ、自分は……瑠那の隣で走りたいんだ。いつか瑠那の隣で、さっきまでのような風と一体になったような走りを……いつか!)

 これまでの150mは、一瞬だけの夢だ。
 陸上の女神が見せてくれた、未来の欠片だ。
 本当の自分は、今のように無様に足掻く、凡才。
 瑠那と並んで走るどころか、追うことすらできない、瑠那が走ったあとにようやく走り出すような弱者だ。
 陽子は昭穂の言葉を思い出す。

「遅ければ、弱ければ、舞台には立てない。走る舞台は自分の手で勝ち取るの」

 瑠那の隣を走りたいなら、その舞台は自分の手で勝ち取らなくてはならない。
 風のように軽やかに走れるのは、全てを捨て去り楽しさに身を任せられるのは、強者だけだ。
 今の陽子は、夏の森と立身大付属、どちらの気持ちも分かる。
 強者の気持ちも、弱者の気持ちも。

 勝敗なんて気にせずに、楽しさを全身で感じて走る、それは本当に素晴らしい時間だった。
 しかし陽子は、その世界を覗き見はしたものの、まだその境地には片足すら踏み入れられていなかった。
 けれども、諦めはしない。
 いつかその世界へ、瑠那の待つ強者達の世界で、自分も対等に走りたいから。

 だからこそ、こんなところで負けられない。
 何より、自分自身に負けられない。
 成長を止めるな、気を緩めるな。
 鉛のように重くなった身体に、陽子は鞭を打つ。
 最後の一瞬まで、勝利を目指せ。
 勝たなければ、強くならなければ、憧れの舞台には立てないのだから。

(負け……ないっ!!)

 フォームなんて気にしない。
 頭なんて使えない。
 ただ、身体の中のエネルギーを全て放出する。

「ここで前傾姿勢を取った!? あんなところから再加速する気かあいつ……理には適っていない、しかし、加速している!」
「えぇ……信じられませんが、とんでもない底力を持っていたようですね」
 
 スタンドで見ていた麻矢と蒼も驚愕するが、現実に、陽子は再度の加速をしてみせた。
 まるで限界を、壁を、1つ打ち壊したかのように。

(腕も脚も感覚なんてない。きっと酷いフォームで、あとでロリ先生に怒られる。けど、それでもいい。ただがむしゃらにでも、エネルギーを残して後悔するよりはマシだ! 最後まで、足掻き続ける。私は、上のステージに上がるんだ!)
(陽子ちゃん、最初は”強者”の走りに見えたけど……やっぱり、仲間だね。予選で一緒に走ったときから、どこかそんな気はしてたよ。きっと、諦められない目標が、このゴールの先にあるんでしょ? だったら足掻こう、一緒に。無様でも足掻いて、少しでも強くなるために!)
 
 陽子も、昭穂も、ぐちゃぐちゃのフォームでゴールに飛び込んだ。
 同じ想いを抱えた者同士、同じ目標を持った者同士、同じように強者と弱者の狭間にいる者同士。
 ゴールした瞬間、陽子はトラックに倒れこむ。
 足がガクガクと震え、もう立ち上がることすらできないほどだ。

「エネルギーゼロ……使い切った」

 瑠那の走りと比べれば、どれだけ燃費の悪い走りだと顔をしかめられるほど、陽子はラストスパートで力を発散した。
 しかしどれだけロスがあろうと、力を使いきることは並大抵の精神力ではできない。
 勝敗を分けたのは、そんな泥臭いところだった。

「負けたなあ。最後にナイスガッツ、見せてもらったよ」
 
 笑顔だが、まだまだ決して諦めてはいないという顔で、昭穂が声をかける。
 1着は陽子で25秒95、昭穂は2着で25秒99だった。
 そして陽子と昭穂は、総合順位でも7位と8位になる。

「昭穂さんも。ベスト8、入りましたね」
 
 陽子と昭穂の勝負は、陽子の勝利で幕を閉じた。
 当人達が意識し合って競った結果も、夏の森側の3人全勝だ。
 しかし、総合順位とタイムを見れば、相対的に勝敗はつけども、全体的に非常にハイレベルな戦いだったと言えよう。
 昭穂も、目標としていたベスト8という目標をきちんと達成している。
 そのためか、陽子への敗北は悔しそうにしつつも、半分は嬉しそうにしている。

「陽子ちゃん、おめでとう。都大会進出どころかベスト8! しかも25秒台って、これなら100mも12秒台出るわよ」
「あぁ、予選から僅かな時間で予想以上の成長だった。凄いな」
 
 美咲と瑠那も祝福してくれる。
 100mを13秒台でしか走ったことのない陽子にとって、12秒台という響きは脳を揺らすほどの衝撃だ。

「そ、そっか……私、200mで25秒台ってことは、100mで12秒台出せるんだ……」

 12秒台。各校のエース級の速さ。
 もちろん、12秒15のベストを持つ瑠那はまだ遥か遠い存在だ。
 それでも、同じ土俵に、土俵の端っこだったとしても、ようやく上がれた気がする。
 
「次は200mで24秒台が目標だな」
「流石にそれはまだ遠過ぎる……!」
 
 それでも、いつかは辿り着かなくてはならない世界だ。
 100mほど得意でないと言っても、瑠那はすでに24秒75で走っているのだから。
 そして今、瑠那に最も近い位置に立っているのは、24秒78で走った本田宗ほんだそう……。
 その場所を勝ち取るためにも、陽子の戦いは続く。
 遥かな道のりでも、少しずつ、少しずつ、追いかける。
 並び立ちたい憧れの存在は、名前を知らない少女でも、正体不明の存在でもない。
 目の前にいるチームメイト、いつか必ず『ライバル』と認めさせたい相手だ。

「気長に、待ってるよ」

 瑠那はそう言うと、珍しく笑った。
 きっと陽子なら、いつか自分に追いつくと信じているかのように。
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