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1章 入部
1話 初めての挫折
しおりを挟む「これより、東京都南地区大会・中学女子100mの準決勝を行います。8名×3組の24名が出走し、各組の上位2名に加え、全体のタイム順で2名が決勝へ進出します」
競技場にアナウンスが流れ、歓声が上がる。
陸上競技の花形種目であり、最速の座を賭けた最も分かりやすい戦いは常に注目の的だ。
「1組目、準備してください」
最初に出走するこの組で、決勝進出の筆頭候補と誰もが注目するのは、シードレーンとも言われる5レーンで走る日向陽子だった。
健康的に日に焼けた、やや背の高い少女はスタンドへ向けて大きく手を振ると、ゆっくりとスタート位置につく。
応援団が来ているのだろう「陽子せんぱい頑張ってー!」と黄色い声援が送られる。
「位置について」
スターターが号砲を構えながらそう告げると、つい先ほどまで歓声に包まれていた競技場は一瞬にして静寂に飲まれる。
「用意」
ゆっくりと腰を上げ、スタートの構えを取る選手達とそれを見守る観客。
号砲の音を待つ、ただそれだけのための、そしてそれ故の、陸上競技で最も神聖な時間だ。
「パァン!」
静寂を切り裂く号砲の音を合図に、一斉に選手達はスターティングブロックを蹴る。
駆け引きも小細工もない、純粋なスピードの競い合いが始まったのだ。
「さあ一斉にスタートしました女子100m準決勝1組! 横一線ですがまず頭一つ前に出ているのは4レーン湖上さん!」
周囲と同じほどの速さでスタートダッシュを決めた陽子だが、彼女はスタートから大きく先行するような選手ではない。
序盤に差はつかずとも、ゆっくりと、しかし確実に地面を踏みしめながら加速していき、周囲の加速が終了した中盤からさらに加速して引き離すスタイルだ。
かのウサイン・ボルトを想起させるそのスタイルは、まさに王者の風格を纏っていた。
今日の、このレースまでは。
「先頭の湖上さんを追って5レーン日向さん! さぁ中盤からの加速どうだ!」
先頭を走るのは全くの無名選手だった。
しかしスタートで先行されること自体は陽子にとって珍しくない。
そしてここから抜き去ることも、いつもの展開なのだ。
陽子自身も、その後ろから追う他の選手達も、スタンドの観客も、これまでの活躍を見てきた全員がそう思っていた。
(距離が……詰まらない!? いや、むしろ引き離されて……?!)
50mを過ぎた頃、陽子は過去経験したことのない状況に陥っていた。
いつもなら距離を詰めていく場面で、逆に引き離されているのだ。
「ねえあれ……!」
「嘘でしょ……!?」
観客も異常に気付き、ざわめきが生まれる。
陽子は決して無敗の選手ではない。
全国区の選手には遠く及ばないし、この東京南地区で五指に入るというぐらいである。
しかしこれまで上位の戦いは僅差の決着が常であり、順位も固定的なものではなかった。
表彰台に登ることもあれば、登らないこともある。
しかし常に表彰台の争いには絡んでくる選手だった。
そんな環境の中で陽子は、ライバル達から見れば紛うことなき実力者であり、強豪だったのだ。
しかし今、先頭を走るのは陽子ではなく無名の選手だ。
湖上と呼ばれたその少女は、陸上選手と思えないほどの白い肌に、大きな遮光ゴーグルを着けた異様な容姿をしていた。
一目見れば忘れない、しかしそんな少女をこれまで誰も見たことがなかった。
完全なる伏兵であり、そして誰もが認めざるを得ない、新たな、そして圧倒的な強者だ。
(もっと、もっと速く……! ああ! どうしてこんなにも、私の手足は思い通りに動かない?!)
陽子はこのレース、余裕ある勝利のヴィジョンしか持っていなかった。
本当の勝負は決勝レース、この準決勝はあくまで通過点であり、ファンへのサービスのようなもの……。
それが突如として崩れた今、安定を失った心は精彩を欠いた走りに繋がった。
速く走ろう、もっと速く手足を動かそう、そう思えば思うほど、もがくようにエネルギーは空回りをする。
(私がこんな……嘘……)
敗北を受け入れ2位で走り抜ければ、決勝でもう一度勝負ができる。
そう気持ちを切り替えられれば、結果は違ったのかもしれない。
レースの順位だけではなく、その後の彼女の人生も。
しかし想定していなかった敗北を、陽子は受け入れることができなかった。
精彩を欠いた走りは持ち味を生かせず失速。
無我夢中でもがくようにゴールした陽子の着順は、5着だった。
タイムで拾われて決勝進出することもない、完全な敗北。
呆然としながら陽子は電光掲示板を見上げる。
自己ベストに遠く及ばないタイムと、普段の自分からは想像もできない着順が表示されたことで現実に引き戻される。
「1着、湖上瑠那……12秒52……」
怪物の名を小さく読み上げてから、このレースの勝者を見る。
周囲の視線を集める中、瑠那は息を切らすこともなく、勝利に歓喜するでもなく、淡々とスパイクを脱いでいた。
あくまで今のレースは準決勝、最後まで全力は出さずに終盤を流したのだろう。
全力を出さずとも、この結果は当然だ。そう言うかのような淡々とした態度を見て、陽子は怒りでも悲しみでもなく、ただ心がすっと冷めるのを感じた。
そしてこのレースが、陽子の引退レースとなった。
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