密会の森で

鶏林書笈

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二十九

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 その日、曼珠国の都、宰相の邸は重苦しい空気に包まれていた。
ー槿花小姐が、亡くなったんですって。
ー木槿国の王妃となる姫君と一緒に木槿国に入らしたお嬢さま?
ーそう、王のお子を孕んでいらしゃたそうよ。
ーお気の毒に。
ーそれでね、正妃付きの侍女がお嬢さまを呪詛したという噂が‥。
 邸の侍女や下働きの者たちがあれこれ喋っている時、母屋では宰相と奥方が、槿花小姐こと侍中・朴尚宮の生母である朴氏夫人にこれまでの経緯を説明していた。
「‥侍医と薬師が薬の処方を誤ってしまったそうだ。木槿国王は謝罪の使者を遣し、我が家にも慰謝の品々を寄越した。側室として鄭重に葬ったそうだ。先方としては最大限の誠意を示したのは分かるし、理解も出来る。ただ‥」
 宰相はここで言葉が詰まった。
「異国で孕ったまま、世を去らねばならなかったことをあの娘はどれほど悔しがっただろうか。それを思うと」
 宰相が啜り泣くと奥方も袖で涙を拭った。
「あの子には良き縁談が多く来ていたのだ。主上の命とはいえ断ることも出来たのだ。このまま、ここで結婚していれば‥」
 皇帝からも愛され将来を嘱望されていた彼の娘の一人である槿花小姐には多くの縁談が持ち込まれてた。いずれも良家の子息で彼らのうちの一人と結婚していたならば、今頃はきっと子供を得て幸福な生活をしていただろう。そして、何かにつけ子供と、時には婿と共に邸を訪れ、楽しい日々を送っていたに違いない…。
「いえ、これでよかったのです」
 夫妻の話が一段落すると朴氏夫人はきっぱりと言った。
「娘は淑儀となり木槿国の王室の一人なれたのです。名誉なことではありませんか」
 涙一つ見せずに話す朴氏夫人を見て、夫妻は“何と気丈な女人なんだ”と感心するのだった。

 自室に戻った朴氏夫人は、悲しむどころか、むしろ笑みを浮かべた。
「こんなところにいて、夷狄の男と一緒になったとしても幸福なわけないでしょう。野蛮な地で生命を長らえたところで何の意味があるでしょうか。娘は文明国である我が故郷で側室とはいえ王の妻になれたのです。これ以上の幸福が何処にあるでしょう」
 彼女は娘を祝福した。
 そして、短いとはいえ、娘が栄誉ある人生を送れたことを心から喜ぶのだった。
 この日から、夫人は食事を一切拒み、そのまま冥界に旅立った。
 娘が故国に行って以来、彼女は故国との繋がりを改めて得たように感じた。そして、娘を通じて、もしかしたら故国へ戻れるのではないかと淡い期待すら抱いたのだった。
 だが、娘が世を去ってしまい全てが消えてしまった。夫人は、もはや、この夷狄の地でこれからもずっと生きていくつもりはなかったのである。
「娘の死がそれほど悲しかったのでしょう」
「ああ、本当に可哀想なことをしたな」
 宰相夫妻を始めとして邸の者たちは、早過ぎるその死を悼んだ。だが、夫人の死に顔はこれまでになく穏やかで幸福そうだった。
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