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九
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岐城君は自身の書斎に入り、二人の侍女もそれに従った。
庭に面した部屋には机と書物と文房四宝等が置かれた棚があるだけだった。
岐城君は妻を壁に寄りかからせるようにして降ろした。
「起き上がっているのが辛そうみたいだな‥、小尚宮、姫君の布団を持って来てくれ」
主人が言うや否や小尚宮は部屋を出た。すぐに布団を抱えて戻ると大尚宮と共に敷き始めた。
「大尚宮、昨夜から一睡もせず疲れただろう、少し休みなさい。小尚宮は、悪いがもう少しここにいてくれ」
岐城君は布団を敷き終えた侍女たちにこう言うと
「大丈夫でございます」
と大尚宮が応じた。しかし岐城君が
「年寄りは身体を労わらねばならぬぞ」
と笑いながら言うと
「年寄り扱いなどなさらないで下さいませ、でもせっかくですのでお言葉に従います」
と笑顔で答えて部屋を出た。布団に横たわっていた姫君は、二人のやりとりをじっと見ていた。
「さて‥」
岐城君は棚から引き出しが幾つも付いた薬箱と乳鉢乳棒を下ろした。
姫君の脇に座ると幾つかの引き出しから薬剤を取り出し乳鉢に入れた。そしてゆっくりと摺り始めた。
この様子を姫君は興味深そうに見ていた。
乳鉢の中身が粉状になると机上の碗に入れて水を注いでかき混ぜた。
「これを姫に」
岐城君は小尚宮に碗を渡した。
小尚宮は碗の中身を共に渡された匙を使って姫君の口元に運んだ。
姫君が飲み込むのを見た岐城君は
「よかった、姫の口にあったようだ」
と微笑んだ。
「岐城さま、これは?」
碗を返しながら小尚宮は訊ねた。
「保健薬だ、姫の身体に良いものを調合してみた」
「岐城さまはお薬を作られるのですか」
「うん、一応、典医監勤めだからね。でも薬の調合は母に教えてもらったんだ」
岐城君の生母は優秀な医女だった。それゆえ、前国王を直に看病したのだった。
薬を飲み終えた姫君は目を閉じ、やがて寝息をたてた。
―眠くなる成分は入ってないはずだが‥。
こう話掛けようと小尚宮を見ると、彼女も舟を漕いでいた。
―昨日から一睡もしていないのだから無理もないな。
そう思いながら岐城君はそっと庭に出た。
殺風景な庭だが、片隅にある薬草畑だけが手入れが行き届いていた。母親が残したものを彼が引き継いだのである。畑の状況を見ながら彼は、妻のために新しい薬草を植えようと思うのだった。
庭を一巡して書斎に戻ると小尚宮の代わりに姫君を膝枕させた大尚宮がいた。
「申し訳ございません。あの子ったら仕事中に寝てしまって。下がって休ませました」
「いや疲れているのだから仕方のないことだ。それよりお前はもういいのか?」
「はい、十分に休ませて頂きました」
「そうか」
大尚宮は僅かだが疲れを癒したようだと岐城君は安心した。
「私はこれから書き物をするゆえ、姫を任す」
「かしこまりました」
大尚宮の返事を聞くと岐城君は机に向かった。
「まずは、主上への手紙を書いて‥」
岐城君は紙の上に筆を走らせた。
暫くすると部屋の外から
「点心をお持ちしました」
と声がした。
膳を受け取った大尚宮は
「岐城さまも召し上がりましょう」
と声をかけた。
膳の上には唐菓子、水菓子等々、岐城が見たこともない様々な軽食が並んでいた。
「これも大監家の厨房人が作ったのか?」
「左様にございます」
こう答えた大尚宮は岐城君に食べるよう促した。彼が箸を取ると、彼女も箸を取り幾つかの菓子を小皿にのせて起き上がり壁により掛かっている姫君に食べさせた。
妻が美味しそうのを見た岐城君は彼女と同じ物を食べてみた。
「美味い!」
彼が思わず呟くと姫君は彼の顔を見た。それに答えるように
「姫、これは本当に美味しいね」
と声を掛けるのだったが。
午後も岐城君夫婦と大尚宮は書斎にいて、岐城君は読書や書き物をし、姫君は大尚宮の膝を枕に横たわっていた。
時々、岐城君が姫君の方を振り向くと、眠っている時もあり、目を開けている時はじっと彼の顔を見つめるのだった。
日が西に傾き、少し冷たい風が部屋に入って来た。岐城君は窓を閉め、姫君を抱き上げて書斎を出た。妻の身体を冷やさないためである。
奥の間に行くと夕食が用意されていた。岐城君は姫君の身体のために夕食は温かいものが良いと考えていたのだが、彼女に使用人たちにはそうしたことは既に了解済みだったようだ。
夕食を済ますと姫君は支えてくれている大尚宮に寄り掛かったまま眠ってしまった。
「これまでと違うところに来て疲れたのだろう」
こう言いながら岐城君は妻を抱き上げて寝室に行った。
尚宮たちの手を借りながら寝衣に着替えさせて髪を解いた。床に寝かせて岐城君は布団を掛けてやった。
「交代でよいのだが、夜中も姫の側にいて貰えないだろうか」
「はい、仰せのままに致しましょう」
岐城君の依頼を侍女二人は快諾した。
子正(子の刻)前に岐城君が再び寝室にやってきた。
「何か御用が‥」
驚いた口調で小尚宮が訊ねると
「私も休もうと思って」
と岐城君は応じた。
「ここで、ですか‥」
「当たり前じゃないか。ここは私たち夫婦の寝室だから」
「仰る通りですね」
小尚宮は大慌てで姫君の隣りに並べて岐城君の床を延べた。
姫君と岐城君は夫婦なのだから当然のことなのに、小尚宮には不思議に思われた。そんな彼女の思いにはお構いなく姫君の夫は「おやすみ」と言って床に入り寝てしまったのだった。
庭に面した部屋には机と書物と文房四宝等が置かれた棚があるだけだった。
岐城君は妻を壁に寄りかからせるようにして降ろした。
「起き上がっているのが辛そうみたいだな‥、小尚宮、姫君の布団を持って来てくれ」
主人が言うや否や小尚宮は部屋を出た。すぐに布団を抱えて戻ると大尚宮と共に敷き始めた。
「大尚宮、昨夜から一睡もせず疲れただろう、少し休みなさい。小尚宮は、悪いがもう少しここにいてくれ」
岐城君は布団を敷き終えた侍女たちにこう言うと
「大丈夫でございます」
と大尚宮が応じた。しかし岐城君が
「年寄りは身体を労わらねばならぬぞ」
と笑いながら言うと
「年寄り扱いなどなさらないで下さいませ、でもせっかくですのでお言葉に従います」
と笑顔で答えて部屋を出た。布団に横たわっていた姫君は、二人のやりとりをじっと見ていた。
「さて‥」
岐城君は棚から引き出しが幾つも付いた薬箱と乳鉢乳棒を下ろした。
姫君の脇に座ると幾つかの引き出しから薬剤を取り出し乳鉢に入れた。そしてゆっくりと摺り始めた。
この様子を姫君は興味深そうに見ていた。
乳鉢の中身が粉状になると机上の碗に入れて水を注いでかき混ぜた。
「これを姫に」
岐城君は小尚宮に碗を渡した。
小尚宮は碗の中身を共に渡された匙を使って姫君の口元に運んだ。
姫君が飲み込むのを見た岐城君は
「よかった、姫の口にあったようだ」
と微笑んだ。
「岐城さま、これは?」
碗を返しながら小尚宮は訊ねた。
「保健薬だ、姫の身体に良いものを調合してみた」
「岐城さまはお薬を作られるのですか」
「うん、一応、典医監勤めだからね。でも薬の調合は母に教えてもらったんだ」
岐城君の生母は優秀な医女だった。それゆえ、前国王を直に看病したのだった。
薬を飲み終えた姫君は目を閉じ、やがて寝息をたてた。
―眠くなる成分は入ってないはずだが‥。
こう話掛けようと小尚宮を見ると、彼女も舟を漕いでいた。
―昨日から一睡もしていないのだから無理もないな。
そう思いながら岐城君はそっと庭に出た。
殺風景な庭だが、片隅にある薬草畑だけが手入れが行き届いていた。母親が残したものを彼が引き継いだのである。畑の状況を見ながら彼は、妻のために新しい薬草を植えようと思うのだった。
庭を一巡して書斎に戻ると小尚宮の代わりに姫君を膝枕させた大尚宮がいた。
「申し訳ございません。あの子ったら仕事中に寝てしまって。下がって休ませました」
「いや疲れているのだから仕方のないことだ。それよりお前はもういいのか?」
「はい、十分に休ませて頂きました」
「そうか」
大尚宮は僅かだが疲れを癒したようだと岐城君は安心した。
「私はこれから書き物をするゆえ、姫を任す」
「かしこまりました」
大尚宮の返事を聞くと岐城君は机に向かった。
「まずは、主上への手紙を書いて‥」
岐城君は紙の上に筆を走らせた。
暫くすると部屋の外から
「点心をお持ちしました」
と声がした。
膳を受け取った大尚宮は
「岐城さまも召し上がりましょう」
と声をかけた。
膳の上には唐菓子、水菓子等々、岐城が見たこともない様々な軽食が並んでいた。
「これも大監家の厨房人が作ったのか?」
「左様にございます」
こう答えた大尚宮は岐城君に食べるよう促した。彼が箸を取ると、彼女も箸を取り幾つかの菓子を小皿にのせて起き上がり壁により掛かっている姫君に食べさせた。
妻が美味しそうのを見た岐城君は彼女と同じ物を食べてみた。
「美味い!」
彼が思わず呟くと姫君は彼の顔を見た。それに答えるように
「姫、これは本当に美味しいね」
と声を掛けるのだったが。
午後も岐城君夫婦と大尚宮は書斎にいて、岐城君は読書や書き物をし、姫君は大尚宮の膝を枕に横たわっていた。
時々、岐城君が姫君の方を振り向くと、眠っている時もあり、目を開けている時はじっと彼の顔を見つめるのだった。
日が西に傾き、少し冷たい風が部屋に入って来た。岐城君は窓を閉め、姫君を抱き上げて書斎を出た。妻の身体を冷やさないためである。
奥の間に行くと夕食が用意されていた。岐城君は姫君の身体のために夕食は温かいものが良いと考えていたのだが、彼女に使用人たちにはそうしたことは既に了解済みだったようだ。
夕食を済ますと姫君は支えてくれている大尚宮に寄り掛かったまま眠ってしまった。
「これまでと違うところに来て疲れたのだろう」
こう言いながら岐城君は妻を抱き上げて寝室に行った。
尚宮たちの手を借りながら寝衣に着替えさせて髪を解いた。床に寝かせて岐城君は布団を掛けてやった。
「交代でよいのだが、夜中も姫の側にいて貰えないだろうか」
「はい、仰せのままに致しましょう」
岐城君の依頼を侍女二人は快諾した。
子正(子の刻)前に岐城君が再び寝室にやってきた。
「何か御用が‥」
驚いた口調で小尚宮が訊ねると
「私も休もうと思って」
と岐城君は応じた。
「ここで、ですか‥」
「当たり前じゃないか。ここは私たち夫婦の寝室だから」
「仰る通りですね」
小尚宮は大慌てで姫君の隣りに並べて岐城君の床を延べた。
姫君と岐城君は夫婦なのだから当然のことなのに、小尚宮には不思議に思われた。そんな彼女の思いにはお構いなく姫君の夫は「おやすみ」と言って床に入り寝てしまったのだった。
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