金鰲幻想譚

鶏林書笈

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第三章

平壌浮碧亭記

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 平壌は古朝鮮の都だったところで、名勝地も数多くある。古跡としては、錦繍山、鳳凰台、綾羅島、麒麟窟、朝天石、楸南墟等があり、永明寺・浮碧亭もそうしたもの一つと言えるだろう。
 永明寺は東明王の九梯宮のあったところで、平壌城の東二十里のところにあり、眼下には川が流れ、遠くには果てしない平野を眺めることができ、なかなか景色の良いところである。
 浮碧亭の下を流れる川には夕方になると、多くの商船が川を遡って来て集まり、その風景はまるで一幅の絵のようである。亭の南側には石段があり、その右側には青雲梯、左側には白雲梯と刻まれた石柱が建っていて、見物客たちの視線を集めている。 
 さて、丁丑(1457)年頃のことである。松都に洪という眉目秀麗で才識も豊かな金持ちの若者が住んでいた。
 秋夕の日(八月十五日)、彼は仲間たちと共に観光を兼ねて平壌に商売に出掛けた。多くの糸や反物積んだ洪青年の船が平壌入りすると妓女たちが一目その姿を見ようと船着き場にどっと押し寄せてきた。洪青年の評判は平壌にまで伝わっているようである。
 仕事を終えた洪青年のもとに、平壌在住の友人・李青年が訪ねてきた。久しぶりに会った旧知のために宴席を設けてくれたのである。美妓を侍らせ杯を交わしながら二人は、その間の出来事やら仲間たちの消息などを語り合った。夜も更け、酔いも廻ってきたところで、ようやく二人は別れた。
 身も心もすっかり暖かくなった洪青年は気持ち良く船に戻って行った。しかし、船内が冷え冷えとしていたせいか、なかなか寝付くことが出来ず、おかげで酔いはすっかり醒めてしまった。それに伴い、頭の中は冴々としてきた。ふと窓の方を見ると、皓々とした月光が射し込み、狭い船内を照らしていた。その明かりに誘われるように彼は外に出ていった。
 一年で一番美しいという中秋の月を眺めながら、洪青年は張継の「楓橋夜泊」という詩を口吟んだ。気分が昂じてきた彼は、岸に繋がれていた小舟に乗り込むと、そのまま大同江を遡っていった。
 浮碧亭の下に来ると彼は舟を降り石段を昇り始めた。亭に着き欄干から見下ろすと、全てが月光に照らされて、この世とは思えない風景を作り出していた。
- 玉皇上帝の御座すところは、こんな処なのだろうか……。
 ふとそのようなことを考えた彼は、視線を後側に転じた。すると、ぼんやりと城跡が見えた。
- かつて、ここには都があったのだな……。
 世の無常を感じた彼は、それを詩句にして詠じた。そして、それに合わせるように手足を動かし舞始めた。笛や琴の伴奏はなかったが、月の光が十分に補ってくれた。一通り舞を終えると、何処からか足音が聞こえてきた。次第に近付いて来るその音は、西側の丘の方からのもののようだった。
 詩を詠じた声を聞き付けて僧がやってきたのだろうと思った彼は姿勢を正して待つことにした。だが、西側に見えたのは三人の若い女だった。身なりからすると一人は相応の家の令嬢で、左右に控えている二人の少女は恐らく侍女であろう。令嬢は姿形のみならず、その仕種もとても優雅で月世界の仙女を彷彿させた。彼女たちが亭に向かって来るのを見た洪青年は、急いで階段を降り物陰に身を隠した。
 亭の欄干にもたれた令嬢は、透き通るような声で呟いた。
「さきほど、詩を詠じていた方は何処へ行ってしまったのでしょう。私は別に妖しいものなどではないのに……。このように趣き深い夜は、風雅の分かる方と一緒に杯を交わしながら楽しく過ごしたいと思っていたのだけど……。」
 これを聞いた洪青年は、たいそう喜んだが、
― しかし、いくら月の明るい夜だからといって若い女たちが外に出られるのだろうか……?
と怪しむ気持ちも一方にはあった。
 令嬢は、朗々と詩を詠じ始めた。情感溢れるその内容に胸を打たれた青年は、知らぬ間に足を踏み出していた。それを聞き付けた令嬢は侍女の一人に青年を連れてくるよう命じた。
 洪青年のもとにやってきた侍女は
「お嬢さまがお会いしたいと仰っていますので、こちらにいらして下さい。」
と欄干近くに導いた。
 令嬢を前にした洪青年は恭しく挨拶をした。悠然とそれに応じた令嬢は、近くに来るよう言った。と同時に侍女は二人の間にさっと小さな衝立てを置いた。おかげで半身しか見えなくなった。
「あなたが詠じていた詩は、どのような意味なのかしら。教えて頂けません?」
 令嬢の求めに応じた洪青年は、先程の詩を再び詠じ、その意味するところを説明した。
「あなたとは、詩を語り合えそうですね。」
こう言いながら満足そうに微笑んだ令嬢は、侍女に酒肴の準備をするよう言い付けた。
 間もなく運ばれてきた酒膳を見ると、見たことの無い料理と不思議な匂いのする酒が並んでいた。侍女が酒を注いでくれたので、青年は杯を口に運んだが、あまりにも酸味が強かったので飲み込むのに一苦労した。気を取り直して料理の方にも箸を付けてみたが、今度は固すぎて噛むこともままならなかった。
「俗世の方の口には、白玉醴や紅虯脯(龍の干し肉)は合わないようね。」
令嬢は笑みを浮かべながらこう言うと、侍女に
「神護寺に行って御飯を貰ってきて頂戴。」
と命じた。
 あっという間に、侍女は白飯を一椀を持ってきて洪青年の膳に載せた。
「おかずも必要ね。酒岩に行って何かお料理を貰ってきて。」
 この言葉を聞くと別の侍女が立ち去り、まもなく鯉の煮物を盛り付けた皿を持って戻ってきた。
「これなら大丈夫でしょう。さあ召し上がれ。」
 令嬢に促されて洪青年は、侍女が持ってきてくれた物を食べ始めた。いずれも美味だった。
 その間に令嬢は桂箋に詩を書き連ね、侍女を通じて洪青年に渡した。先程の青年の詩に和酬した内容で、彼に出会えた喜びも詠っていたため、感激してしまった。
 令嬢にすっかり魅了された青年は、彼女について知りたくなり、その名を尋ねた。
 令嬢は軽くため息をついたのち、回想するような口調で身の上を語り始めた。
「かつて中華の地に商(殷)という国があったことは御存知でしょう。私は商の王族の一人である箕子の末裔です。商を滅ぼし、周を建てた武王も箕子に対しては敬意を払い、ここ朝鮮の地を封じました。箕子は八條の法をもって民を教化し、国は千有余年の間富み栄えました。しかし、国運が傾き、ある日しがない男によって異変がもたらされ遂に国は滅んでしまいました。そして、この隙に燕からやってきた衛満が、この地を乗っ取ってしまったのです。たとえ死んでも奸人に汚されないようにと私は逃げ出しました。すると目の前に仙人さまが現われ、こう言うのです。『わしは元来、この国の始祖だったが、国を治めた後、海中の島に引き篭もり仙人となって既に数千年の歳月が流れた。汝も、わしの住んでいる処に来て心安らかに暮らさぬか?』 私は喜んでこの言葉に従いついて行きました。お住まいに着くと、私のために別院を建ててくださり、仙薬も下さりました。さっそく薬を飲んで見たところ、数日後、とても気分が爽やかになり、身体も軽くなって空中に浮かぶことが出来るようになったのです。私は嬉しくなって、洞天、福地、十洲、三島など東西南北あらゆるところに出掛けました。ある秋の日、月がとても美しかったので月世界に行ってみようと思いました。月世界の仙女である常娥さまがお住まいの水晶宮を訪ねたところ、とても歓迎してくださりました。私が少し文章を書けることをお知りになると、ここで働くことを勧められました。常娥さまにお仕えするようになった私は充実した日々を送りました……。」
― やはり彼女は仙女だったのか……。
 洪青年は居ずまいを正した。
「中秋の今宵、ふと生まれ故郷が懐かしくなり下界を見下ろしました。山河は昔のままですが、人々はすっかり変わっていて少し驚きました。夜が更けるのを待って地上に降りた私は、まず御先祖の廟を参拝し、ここ浮碧亭に来てみたところ、朗々と詩を詠じる声が聞こえてきて胸がときめきました。風雅の分かる方とお会いできるなんて思っても見なかったのですから。あなたと詩の応酬が出来て楽しかったわ。ただ、私には詩才が不足していて十分に応じることが出来なかったのが心残りだけど……。」
 箕氏がここまで話すと、洪青年は平伏し、恭しく応えた。
「私のような俗世の凡人が天界の貴い方と、このようにお会い出来たことは身に余る光栄です。せっかく用意して下さった仙界の酒膳は頂けなく申し訳なく思いましたが、幸いにして文を少々学んでいたゆえ、御無聊をお慰めでき嬉しく思います。」
 青年の言葉を聞き終えた箕氏は、寂しげな表情でこう言った。
「名残り惜しいけれど、そろそろ戻らなければならない時刻になりました。お別れに『江亭月夜玩月』という詩を贈りたいのですが、如何でしょう。」
 青年に否はなかった。箕氏は、上質な紙の上に雲のような筆跡で自作の詩を書き連ねた。詩稿は、さきほどと同じように侍女の手を通じて洪青年に渡された。一読した青年は称賛するような表情を浮かべた。再読しようとした時、満ち足りた顔になった箕氏が
「玉皇上帝の命令はとても厳しいので、もう行きます。あなたとは、もっとゆっくりお話したかったわ。」と言いながら上空に舞い上がっていった。それに伴うように突然、一陣の風が起こり青年の手中にあった詩稿を持ち去ってしまった。仙界の人は俗世に、その痕跡を残すのを嫌っているのだろう。
 一人残された洪青年は、茫然とその場に立ちすくんでいた。これまでのことが果たして現実だったのか、夢だったのか判断がつきかねていたのである。
 月は既に西に傾き、空は白み始めた。遠くからは鶏の鳴き声がし、続いて寺の鐘の音が聞こえてきた。ようやく我を取り戻した洪青年は小舟に乗り、自分の船へと戻って行った。
「いったい、昨夜は何処へ行っていたんだい?」
青年を出迎えた仲間が尋ねた。
「月があまりにも明るかったので、錦鯉でも釣ろうと長慶門の外の朝天石まで出掛けてみたんだが、寒くて川の水も冷たかったせいか一匹も釣れなかったんだ。」
「そうか。それは残念だったな。」
 仲間は、洪青年の言葉を少しも疑わなかった。
 松都に帰ってからも、洪青年は箕氏のことを忘れることが出来ず、その思いが高じて床についてしまった。意識不明の状態が続いていた青年の夢の中に、ある日美しい少女が現われ、次のように告げた。
「お嬢様があなたのことを玉皇上帝さまに申し上げたところ、上帝さまは、あなたの才知をたいそう気に入られ、あなたを牽牛さんの許で働くよう取り計らわれました。上帝さまの命は違うことは出来ませんので、なるべく早くいらして下さいね。」
 びっくりした青年は、床から起き上がると、家人に手伝わせて斎戒沐浴をした。そして、庭を掃き清め茣蓙を敷き香を焚かせた。青年は茣蓙の上にきちんと座ると、そのまま永眠した。九月の十五夜のことだった。
 洪青年の遺体の顔色は数か月たっても変わらなかったため、人々は仙女と縁を結んで仙人になったのだろうと口々に言った。
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