箜篌のうた

鶏林書笈

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 朝鮮のとある河辺―
津卒の霍里子高は今日も河の警備に余念がない。このところ異民族の侵入もなく平穏である。だが油断は禁物だ‥。
 そんなことを思いながら彼は上流の方に目を向けると、髪を振り乱した男が河に向かって走って行くのが見えた。そして、その後を女が追いかけていた。
 嫌な予感がした子高は大急ぎで上流に向かった。
 男は白髪で手には酒瓶をぶら下げていた。
 子高が走っている間、男はどんどん河に近付き、まもなく水の中に入り、遂にその姿は流れに消えてしまった。
「ああ、何と‥」
 子高は速度を上げて駆けた。
 その時、悲しげな声で詩を詠じているのが聞こえてきた。
  愛しき人よ、河を渡らないで、
  なのに河を渡ろうとする、
  ああ水に堕ちてしまった
  いったい、どうしたらいいのでしょう‥
 声の主は男を追って来た女だった。河辺で立ち止まり、呆然と男が沈むのを見た彼女の様相は、結髪は解け、衣服は乱れていた。
 男の姿が見えなくなると女は河の中ほどに進んでいった。
「おい、やめろ」
 子高は叫んだが、彼女は既に男の沈んだ所まで行き、その姿は水の中に消えつつあった。
 子高が女がいた場所に着いた時には、河の中には人影はなく、水は何事もなかったように流れていた。
―あれは果たして現実だったのだろうか? 自分は夢でも見たのではないか‥。
 もと来た道を戻りながら子高は、このように思うのだった。
勤務を終えて自宅に戻った子高は、妻の麗玉に河での出来事を話した。
「哀しく心が痛む話ね‥」
 話を聞き終えた麗玉はこう応えると手元にあった箜篌を取り弦を爪弾きながら歌い始めた。
  公(きみ)よ、河を渡る無かれ
  公(きみ)は竟(つい)に河を渡る
  河に堕ちて死す
  将(まさ)に公を奈何(いかん)せん
 妻の歌声を聴きながら子高は、改めて白髪の男と彼を追った女のことを考えた。
 あの二人はおそらく夫婦であろう。仲良く穏やかに暮らしていたが、何かの弾みで夫は気が触れてしまい、あのような行動をとったのだろうか。だとしたら、その原因は何だろうか。子供や孫の早逝、妻の不貞の発覚‥。或いは何事かに抗議するために狂人のふりをして生命を絶ったのか、それとも世の中全てに絶望し入水したのか‥。
 子高が思いを巡らせていると、突然、
「麗玉、また新しい歌を作ったのね、教えてちょうだい」
と艶やかな声が耳に飛び込んで来た。隣に住む歌姫の麗容だった。
「いいけど、明日にね」
「あ、旦那さんが帰ったのね。分かった、出直すわ」
 歌姫が戻ると麗玉は箜篌を再び弾いた。今度は歌わなかったが、その哀調を帯びた旋律は入水した夫婦を悼んでいるように感じられた。
 翌日、麗玉は麗容に入水した夫婦の話と共に昨日の歌を教えた。
その後、麗容の歌声に乗せて、麗玉の歌は世間に広まっていったのだった。
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