タチバナ

箕面四季

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空蝉の声

手書きのビラ

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 僕は黒モルモットを飼うことにした。
 山田さんの告白を断った翌週の水曜日のことである。

 いつものように束の間の運転を楽しみ、二階駐車場からホームセンターに入ってペットコーナーの入り口をくぐった途端、僕を見つけた黒モルモットが小ジャンプを繰り返しながら、ケージの中を走り回った。
 走りながら僕を真っ黒い瞳で見つめてくる。

『お姉さんを助けて』

 そう訴えられた気がして胸騒ぎを覚えた時、後ろで話し声が聞こえた。

「このビラ手書きに見えるけど、あの若い女の子が書いたのかしらねぇ」
「手書きにしてはすごい枚数を持ってたぞ」

「上司にやめろって怒られてて、なんだか可哀想すぎてなんとかしてあげたくなったわぁ」
「でもなぁ。優香のとこの子供たちも、智一の子供も肌が弱いからなぁ。動物を飼うと孫たちが来なくなるかもしれないぞ」

「そうよねぇ」
 年配の夫婦が手にしているビラの字は、まさしく染谷さんのものだった。

「あの、このビラはどこで配っていますか?」
「ああ、店の入り口ですよ」

 すぐに走った。
 いよいよ切羽詰まっているのか、染谷さんはホームセンターの入り口でちょこちょこ走り回りながら「家族になっていただける方を探しています。よろしくお願いします」と手書きのビラを配っていた。

「いいかげんにしろ! 新人の癖に仕事もしないで何様のつもりだ! 今すぐ業務に戻らないと首だ!」

 例の小太り上司が真っ赤になって怒鳴っている。
 怒り心頭。
 頭から湯気が見える。

 小太り上司は周りのお客さんがジロジロ見ていることにすら気づいていなかった。
 染谷さんの腕を引っ張ってやめさせようとしている。
 それを引きずったまま染谷さんはビラを配り続けていた。

 急いで声をかけた。
「あのすみません」

 染谷さんのきりりとした目が赤い。
 僕の頭に『殺処分』の三文字がくっきり浮かんだ。

「そのビラのモルモットを見せてもらえますか?」

 僕という客が来たことで小太りの上司は我に返り「ありがとうございます。ほら、ソメタニさん、お客さんを案内して」と取り繕った笑みを浮かべた。

 名札に『沢渡』と書いてあった。
 この人は上司には媚びを売り部下には横柄な態度を取る典型的な中年会社員だなと推測した。

 この手のタイプは世間体を気にして赤の他人にいい顔をしやすい。
 上司に媚びへつらってある程度出世するが、元々の能力が低いため大出世が見込めないタイプ。

「こちらです!」
 染谷さんは「とても賢い子なんです」と、精一杯の愛想を振りまいた。

「……」
 時が止まって見えた。

 好きな人に笑いかけられただけで、こんなにも心が浮き立ち、狂おしいものなのか。
 たとえそれが黒モルモットのための偽りの笑顔でも、それでもどうしようもなく喜びが込みあがった。
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