タチバナ

空蝉の声

名札

　昆虫コーナーには一年中昆虫用の飼育グッズが並んでいるが、春を過ぎたあたりから虫かごや虫網の個数が増え、夏に近づくにつれてカブトムシやクワガタ用の飼育ケース、昆虫ゼリーなどが棚を占拠していく。
　今はだいぶ品数が増えて眺めているだけで夏の訪れを予感できる。

　僕は、自分用の備品や研究用の備品を買う時、必ずホームセンターで実物をチェックするようにしている。
　質感を確認したり、昆虫マットの配合をきちんと調べたりしてから購入する。

　山田さんはネットで買う方がシームレスと言ったが、特に飼育ケースや虫網などは大きさや質感などのわずかな差異で使い勝手が変わる。
　ネットの写真だけではその辺がわからず、想像していたサイズ感や質感と微妙にズレてしまうこともある。
　仮にそうなった場合、返品して再購入するという手間が増える。
　それなら購入前に実物をチェックするほうがシームレスだと思う。

　さっそくいくつかの虫かごや虫網を手に取り、昆虫マットをひっくり返して裏側に書かれた成分表を確認する。　
　が、やはり全然頭に入ってこなかった。

　昆虫用品を触りながら、気づけば僕はペットコーナーの方に視線を泳がせていた。
　ダメだな、とため息を吐いて、必要な個数の昆虫マットと昆虫ゼリーをカゴにいれ、レジへと進む。

　途中、横目でペットコーナーをのぞくと、彼女は爬虫類コーナー近くの作業テーブルで、「うわっ」と小さく叫びながら、ピンセットでエサ用コオロギの羽をむしっていた。
　危なっかしさにソワソワする不器用さ。
　僕なら数分で終わらせられるのに。

　昔の僕なら、自分が大学で昆虫学の講師をしていると話し、昆虫には慣れているのでよかったら手伝いましょうか、とか、声をかけただろう。
　でも今の僕は、爽やかで社交的な殻の上に内向的な殻を被ってしまっていた。

　今日は彼女の胸元の名札がしっかりと見えた。

『染谷』

　無人レジに並び、空港の保安検査に似たゲートを潜り抜けると「料金は六千八百円です」と機械の音声が告げた。
「え！」と、慌ててかごの中身を確認する。

『超極上発酵マット　スーパーマックス』
　しまった！　めちゃくちゃ高い昆虫マットを買ってしまった。

　ため息を吐いてクレジットカード決算を済ませた僕は、二階駐車場へ向かった。