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30 卑下
しおりを挟む静かに扉が閉じる。
離れていく靴音に、ゆるゆると目を開いて。
狸寝入りしていたアンジェリークは、気だるそうに起き上がった。
「また……ヤッちゃいました……」
でも悪いのは襲ったカシウス様です。
私は絶対に悪くありません、無罪です。
だってあんな風に素敵な男性に迫られてしまったら、抗えるわけがありませんし?
「……でも最後に素敵な想い出が出来ました」
アンジェリークは手早く服を着る、カシウスが部屋に戻ってくる前に逃げ出さなければいけないから。
……その優しさに甘えて。
公妾としてカシウス様に囲われる生活はきっと、今までより幸せなものでしょう。
だけど。
公爵家の嫡男と婚約を結ぶ私を、カシウス様が責任感から公妾にすれば。
いくら皇太子であらせられるカシウス様でも、面倒な事になってしまわれるでしょう。
そしてそれはしこりとしてずっと残り続け。
カシウス様が皇帝となられた時に、治世に影を落とす事になるかもしれません。
どんなに考えてみてもカシウス様が遺恨を残すに値する価値が私にはないですし、それにいつの日にか心から愛する皇太子妃様をお迎えになられるでしょう。
その時私は。
皇太子妃様に醜い嫉妬をしてカシウス様を困らせてしまう、だからここには居られない。
カシウス様は優しくしてくれて偽りでも『愛してる』と言ってくれたから。
面倒な私なんて忘れて幸せになって貰いたい。
だからこのままどこか遠くへ。
両親にも公爵家にも、そしてカシウス様にも決して見つからない場所へ行こうと逃げ出したら。
「ねぇ……貴女、どちらに行かれますの?」
「へ……?」
華やかで艶やか、その美貌に圧倒されてつい固まって動けなくなってしまう。
デビュタントで一度そのお姿を拝見させて頂いた事がある深紅のお髪に、青の瞳。
……皇后陛下。
そのお子様であるカシウス様と致した直後に出会うなんて……うん、気まずい。
にこやかに微笑まれた皇后陛下は、とても優しそうな印象を受けます。
ですがこの方は危険だと本能が教えてくれます。
……絶対に逆らってはイケナイと。
「それにそんな酷い格好で……貴女ちょっとこちらにいらっしゃい? あの子もなに考えているのかしら……」
「え……」
こちらに来いと言って皇后陛下は、一人でスタスタとどこかへ歩いて行かれます。
本当は皇后陛下のその言葉を無視して、さっさと逃げ出したほうがいいとわかっている。
でもどうしてだか逆らう気になれない。
「……ほら早くしなさいな?」
「は……はい!」
大人しくその後ろを付いて歩く。
「本当にあの子も貴女をほったらかして……何を考えているんだか、本当に父親そっくりなんだから」
「あの……皇后陛下……お一人ですか?」
「……ぞろぞろ人を連れて歩くの、好きじゃないの」
「さっ……左様でございますか……」
そういえばカシウス様も、皇太子殿下なのにあの夜お一人だった気がする。
「ここよ、早く入りなさい?」
「っわぁ……! 素敵なお部屋……」
皇后陛下のお部屋。
美しい調度品数々に息を飲む、そして床に敷かれているラグまで全てが洗練されていて。
圧倒される。
「さぁ貴女、このドレスに着替えなさいな? そんな格好でうろついていたら目立ってしまうわよ?」
皇后陛下に差し出されたドレスは、繊細な高級レースがふんだんに使われた明らかに高価なもので。
「っ……こ、こんな高価なお品、私なんかが着てもいいドレスではありません……! こういったドレスは美しい方が着るもので……」
「……私なんかが……? どうして貴女は自分を卑下するような事を言うの?」
「え……」
「貴女はカシウスが選んだ子でしょう、それは貴女を選んだカシウスをも否定するものよ?」
「え? あ、皇后陛下……申し訳……!」
「……ほら、ドレス着せてあげる。此方にいらして?」
そう優しく私におっしゃった皇后陛下は、カシウス様によく似ていらして胸が締め付けられた。
「あ……でも……私は……」
気持ちは嬉しい、でも。
私はここに居られない、迷惑になってしまう。
だからこの場から逃げてしまおうと一歩下がり、皇后陛下のお部屋から出ようと踵を返せば。
目の前に。
「また逃げようとしたのか? アンジェリーク」
「かっ……カシウス様……!?」
黄金に輝くお髪の、私の想い人。
さっきお部屋では優しく微笑んでいらしたのに。
その感情の色が抜けてしまった表情と声音、暗く濁った瞳に逆らったら危険だと本能で理解しました。
……どうやら怒らせてしまったみたいです。
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