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第一話 後編
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縁談日の当日。
午前中に、梓が住んでいる別宅に、広子がやってきた。
玄関には、いつものように華やかな柄の和服を身に纏った広子が既に立っていた。
梓は彼女を客間に迎え入れる。
「おはようございます、広子様。お兄様は、本日はお仕事ですので、いらっしゃらないのですが…」
広子は、明るい笑みを浮かべながら、梓に近づく。
「おはよう、梓さん。本日は、貴女に用があって来たのよ」
「私に…ですか?」
不思議そうな顔で、梓は広子を見つめる。
「そうよ。私、梓さんに今まで冷たい態度をとってしまっていたでしょう?誠一郎様は、梓さんにはとても優しいから、私それで少しやきもちを焼いてしまって。それで、これからはその気持ちを改める為に、お詫びを込めて、貴女にこれを受け取ってほしいの」
広子は自らが持って来た風呂敷を、梓の前で広げ始める。
包みから現れたのは、鮮やかで少し落ち着いた柄の着物と洋装の二着が入っていた。
「これを、私にですか?」
「えぇ、梓さんになら似合うと思って用意致しましたの。気に入って頂けたら嬉しいのだけど…」
素敵な着物と洋装に梓は驚きながら、少し戸惑う。
「ですが…こんな素敵な物を、戴けませんわ」
「遠慮しないで。これは、私からのお詫びの品なんですもの。是非、受け取ってほしいわ。それに、私は誠一郎様と結婚したら、私達、いずれ姉妹になるんですもの。大切な義妹を大切にしたいわ」
「広子様…。」
「貴女の身体に合うように、着物を縫い直したの」
広子に渡された着物を触った瞬間に、右手の人射し指に痛みを感じた。
「痛ッ!」
痛みを感じた手を見つめると、人差し指から血が出ていた。
「まぁ大変!?私とした事が、待ち針を取り忘れるなんて!ごめんなさい、梓さん!!指は、大丈夫!?」
広子は、慌てて、着物を机に置き、血が流れている梓の人差し指を見つめる。
「大丈夫ですわ、広子様。私も裁縫をしているので、待ち針を取り忘れてしまうことは、良くありますから…。お気になさらないで下さい」
確かに指は痛みでズキズキするが、泣くほどでもない。刺繍が趣味の梓にとって、針で指を刺す事は、よくあるので、彼女は特に気にはしなかった。
流れ出る血を、彼女は、自分の持っていたハンケチで、指に巻き止血する。
「その内、血も止まりますので。大丈夫ですわ」
「そう?なら、良いのだけど…」
広子は不安そうに告げる。
「梓さん、もし良ければ、この着物と洋装を今から着てもらえないかしら?是非、貴女が着ている所を見てみたいの。お願いできるかしら?」
広子のお願いを無下にできず、梓は仕方なく承諾する。
「はい、まだ時間がありますので、大丈夫です。」
「まぁ、嬉しい!ありがとう梓さん!」
広子は満面な笑みで喜んだ。
そして二人は、梓の部屋へと向かった。
本当は着替え姿を見られるのは恥ずかしいのだが、広子が、「女性同士だから何も恥ずかしくないでしょ?」と言い、梓の部屋へ強引に入って来た。
着ていた服を脱ぎながら、広子が持って来た、着物を着始める。待ち針を抜き、机に置く。
着替え姿を広子に見られているかと思うと、梓は恥ずかしさで顔が次第に赤くなる。
慎重に素早く、するすると着物を着つけていく。
「あら、梓さん。少し丈が合わないみたいね…。」
先程まで、距離があったにも関わらず、いつの間にか広子は梓の真後ろに立っていた。
耳元で、彼女が囁く。
「また私としたことが、貴女の背丈も合わせられなかったなんて…ごめんなさいね」
「広子様…あのっ」
「少し動かないで下さるかしら。今、正確な丈を測るので」
彼女はそのまま、持って来た紐状の物差しで梓の寸法や正確な身長を測り始める。
広子の瞳はどことなく真剣さを帯びていた。
「なるほど。大体このぐらいの長さなのね。梓さん、ありがとう」
広子は寸法を測り終わると、梓から離れる。
彼女のその言葉で、ようやく緊張が解け、梓は少しゆったり佇む。
その後、梓は広子の前で着物と洋装を着替える。どれも、梓に似合いそうな色と模様で、広子が真剣に自分を思っていた事が解るぐらいだ。
その気持ちに、梓は次第に嬉しくなり広子に感謝を述べる。
「広子様、私の為に選んで頂きありがとうございます。」
「いいのよ。だって梓さんは、私の“妹”になるんですもの」
彼女は微笑みながら答える。
すると、広子は時計を見て、慌てるように動き始める。
「ごめんなさい。私、この後予定が入っているので、これで失礼するわね。」
「そんな、広子様。お茶もご用意しましたのに…」
「あぁ、お茶は戴かないわ。お気持ちだけ十分よ」
広子は持って来た風呂敷をたたみ始める。
「そうそう。本日縁談らしいわね。誠一郎様から聞いたわ。素敵な殿方だと良いわね。私と誠一郎様みたいに、お似合いになることを願っているわ」
曇りのない笑顔で広子は微笑みながら告げた。
「そうだわ。今度、ちゃんとお詫びをさせてね。大切な梓さんの指に、怪我もさせてしまったから。本当に、ごめんなさいね」
梓は気にしていない事を告げる前に、広子は急いで帰ってしまった。
一人残された梓は、先ほどまで着ていた着物と洋装を見つめ、嬉しくなり微笑む。
昼の正午に、車で広子と入れ替わるように、兄の誠一郎が梓のいる別宅に帰宅する。
「お兄様、本日はお仕事では?」
玄関に姿を見せた兄に梓が問いかける。梓の住む敷地には、父と誠一郎の母の数子と誠一郎が住む本宅と、少し離れた場所に梓が住む別宅がある。
誠一郎は、本来なら本宅に住んでいるのだが、女中と梓が二人だけで住むのは、夜は危険だからと、空き部屋を自分の部屋へと変え、今では誠一郎は殆ど別宅で過ごしている。
「少し、“忘れ物”をしてな」
「忘れ物ですか?」
誠一郎の言葉に梓は首をかしげる。
「これから、縁談がある会場に向かうだろう?準備は出来ているのか?」
「はい。昼食も済ませましたし、着物にも着替え終わりました。」
「そうか…じゃ、これを渡せるな」
すると誠一郎はズボンのポケットから綺麗な柄が描かれた小さな小箱を取り出した。
「こちらは?」
「口紅だ。お前に似合うと思ってな。前に買っていたのだけど、渡しそびれてな。慌てて帰って来たんだ」
「まぁ、これを渡す為に帰って来たのですか!?縁談の後でも構いませんでしたのに…」
「これを付けて行ってもらいたくてな。梓は嫌か?」
「そんな事はありませんわ。お兄様のお気持ちはとても嬉しいですわ」
兄の想いに梓の顔は、ほころんだ。
梓は、兄から小箱を受け取り、蓋を開けると、中には紅く彩られた紅が入っていた。鮮やかな色合いの紅に、うっとりと見つめる。
右手の人差し指に付けようをした瞬間、再び痛みが走る。
先程待ち針で刺した傷がまだ完全に塞がっておらず、痛みだす。
それを見ていた誠一郎は気づいた。
「人差し指…どうしたんだ?怪我でもしたのか?」
「これは、本日の午前中に広子様がいらっしゃって、着物と洋装を戴いたのですが、その時に、外し忘れていた待ち針に指で触ってしまって怪我をしてしまったのです。少し、傷は痛みますが、大丈夫ですわ」
「広子がお前に会いに来たのか?」
驚いた表情で、誠一郎は梓を見つめる。
「そうか…。なら、俺が代わりに塗ってやる」
そういうと誠一郎は、梓の手から口紅の小箱を取り、己の人差し指に軽く紅を付け、梓の顔にもう片方の手でそっと添え、自分の方へ向かせ顔を上げさせる。
彼女の唇が誠一郎の指により、徐々に艶やかな紅へ変わっていく。
まるで、少女から艶めいた大人の女性へ変わるような、そんな変化に近かった。
少女の幼さは、紅により、消え去っていく。
兄が自分の唇に触れている感触が全身に伝わり、彼女は恥ずかしさのあまり頬も赤く染まっていく。
「これで、少しは“牽制”になるだろう」
自分の指で色付いていく妹を見て、誠一郎は含みのある笑みを浮かべた。
「あぁ、やっぱり予想通り、お前によく似合っているな。紅を塗った姿を見て納得したよ。やはり、誰にも渡したくないな…」
「お兄様?」
紅を塗っていた指を放し、そのまま梓の首筋に手を置くと、誠一郎の顔が徐々に梓へ近づいていく。
その時だった。玄関の扉から、軽く扉を叩く音がした。
「梓お嬢様。そろそろお時間です。車のご用意も出来ました」
女中が声で知らせる。
「あぁ…そろそろ時間みたいだな」
そう告げると、誠一郎の手が名残惜しそうに首筋から離れていく。
「梓、気を付けて行ってくるんだぞ」
「はい、お兄様。行ってきます」
梓は誠一郎に見送られながら、車で縁談場所に向かった。
縁談場所であるホテルに到着し、約束の場所でもあるラウンジに向かう。
そこには、自分の父親と見覚えのある男性が座っていた。
「お待たせして申し訳ありません。九条梓と申します。この度は、よろしくお願い致します。」
梓は、一礼をして、父の隣にある椅子へ座る。
「梓、時間通りだから大丈夫だ。紹介する。彼は、日本で医師をしている『浅沼良一』君だ。」
名前を呼ばれた男性が梓に挨拶をする。
「はじめまして、僕は『浅沼良一』と申します。この度は、よろしくお願い致します。」
梓は彼の顔を見て驚く。彼はこの前の鹿鳴館のパーティーで、ぶつかった男性だった。違っているのは服装ぐらいで、眼鏡の紳士は、前と変わらぬ優しそうな雰囲気を醸し出していた。
彼の隣にいた、年老いた男性が、彼について話し出す。
彼は浅沼家の嫡男で、ドイツに留学をして医学を学び日本で医師として働いている。ご両親は、すでに亡くなっているが、家柄も地位も申し分ないと説明した。そして、自分は彼の働く病院の関係者であることも告げた。
父と浅沼の関係者の男性がお互いの話をしだしてから一時間が経過すると、「あとは二人で話すように」と、二人は席を立ち、別の場所へ去っていった。ラウンジには、梓と浅沼の二人だけになった。
「もし、良ければ…ホテルの庭園を一緒に歩きませんか?」
「あっ、はい。構いませんわ」
浅沼の提案に梓は頷き、二人はラウンジから庭園へ向かう。
色とりどりに咲く花達と整えられた植木達を眺めながら、お互いにゆっくりと庭園を歩き出す。
「あの、浅沼様。この前の鹿鳴館でのパーティーで、浅沼様に怪我をさせてしまい、申し訳ありません!」
梓は鹿鳴館での出来事を謝罪しはじめる。
「いえ、こちらこそ、あの時は僕も見ていなかったので。僕にも非があります。それに、ただぶつかっただけで怪我はしていませんよ、お嬢さん」
あの時と同じ優しい反応で梓は、一安心した。
「おっと、お嬢さんではありませんね。失礼、『九条』さん」
「九条ですと、父も含まれますので、名前で呼んで頂いて構いませんよ、浅沼様」
「では、遠慮なく。梓さん、僕の事は、良一と呼んで下さい。様を付けられるのは、気恥しいので。」
思わず照れ笑いをする良一に、梓も思わず、くすりと笑った。
今までの縁談では、梓の容姿や家柄目当ての男性達ばかりが多かった。彼らは必ず、梓の容姿を舐めるような目で見定めていた。
そんな瞳で見られるのが怖くて、梓は縁談では必ず目線を下へ向くようにしていた。
普通に歩いているだけでも目立ってしまう容姿だから、尚更二人きりの時は、相手の目線には敏感になってしまう。
その時の気持ちは、まさに蛇に睨まれた蛙のような心境をしていた。
だが、良一は今までの男性達とは違う眼差しで梓を見つめていた。
(例えるなら…そう、幼い頃に私も似たような気持ちで眺めていたことがる。子供の頃のあの気持ち。なんだったかしら?)
その視線の意味を思い出す前に、良一が話しかけてきた。
「梓さん、大丈夫ですか?何か悩み事でも?」
「あ、すいません。ちょっと考え事としていまして。大丈夫ですわ。あの、良一さんは、ドイツで医学を学んだんですよね?」
「えぇ、学んできました。海外の医学はとても進んでいて、日本に早くその医術を取り入れたいのですが、中々うまく行かなくて。医師としては、早く最先端の医術を取り入れて、沢山の患者さんを助けたいと思っています」
「あの、海外では医術が進んでいるという事は、日本よりも良い治療方法がありますか?例えば、喉の炎症を抑えられる薬や医術はあったりしますか?」
「喉の炎症ですか?診てみない事には分かりませんが、今の日本よりはあると思いますよ。しかし、何故喉を?」
彼の問いに、梓は重い口を開いた。
「実は、私には弟がおりまして、彼は幼い頃に訳あって喉に炎症が出てしまい。今でもそれは治っていなく、それでお尋ねしました。良い治癒方法があれば知りたくて…」
櫂人と思い出し、胸を痛める。
「なるほど。弟さんの為なんですね。梓さんは、弟思いの優しいお姉さんなんですね!」
「いえ、私は当然の事と感じていますので。何もできない自分が一番悔しいですわ」
過去の出来事を思い出す。
梓は幼いながらにして自分の無力さを知っていた。喉の炎症で苦しんでいる弟を見ては、何もできない自分の不甲斐なさを知り、その度に胸を痛めていた。
彼女の悲痛な面持ちを見た良一は、優しく言葉を掛ける。
「そんな風に思わないで下さい。医学は難しいですからね。私も医学を学ぶのは苦労しました。そのぐらい難しいです。でも貴女は、少しでも弟さんの為に知りたくて、僕のような医者に尋ねた。少なくとも、知らずに生きている人より、貴女は医学を知りたがっている。その気持ちだけでも、素晴らしいんですよ。普通は、医学には興味なんて持たないですからね」
その言葉に梓の抱えていた罪悪感は軽くなった。
「詳しく診てみない事には分かりませんが、喉の炎症を治す治療法を探してみますよ」
「いいのですか?」
「えぇ、困っている患者さんを見過ごせない性分なので。まぁそのせいで、殆ど家には帰れず、別宅に住んでいるのですが」
自分の性分に呆れながら良一は、はははと軽く自嘲した。
「別宅にお住いなのですか?」
「えぇ、そうなんです。両親と過ごした家が、ここから三時間ぐらい離れた森の中にあるのですが、まぁ何せ屋敷が大きくてね。一人で過ごすには掃除も大変なので、今は、病院に近い場所に、別宅を建てて、そこで寝泊まりしていますね」
「森の中にお屋敷が?」
「えぇ、母は洋風の屋敷に強い憧れを抱いていましてね。父が生前に母の為にと、まるでお城のような屋敷を建てたんですよ。お陰で、屋敷は広くてね。使用人も何人も雇っていましたが、今は僕一人なので、誰もいなくなりましたが…。両親との思い出が多い屋敷なので、取り壊すのは出来なくてね。用事や長い休暇を頂いた時は、本宅に戻っています」
「そうなんですね。森の中にある、お城のようなお屋敷。さぞかし、物語に出てくるお城のようだと、思ってしまいした」
「そうですね、確かに物語に出てくるようなお城だと思いますよ。機会があれば来てみますか?あ、すみません。ご令嬢のお嬢様に、軽はずみなお誘いをしてしまって」
「いいえ、大丈夫です。もし、機会があれば是非とも行って観てみたいですわ」
「はい、では機会があればお連れしますね」
良一は、優しく微笑みながら梓に告げる。
「あれ?右手の人差し指から血が出ていますよ」
「え?」
良一の言葉を聞き人差し指を見ると、再び傷口から微かに血が出ていた。
「手を見せてもらっていいですか?消毒薬と持っていないので、これで応急処置をしますね。」
彼はポケットから白いハンケチを取り出すと、梓の人差し指にぐるりと軽く巻き付け器用に結んでいく。
「傷口から菌が入ると思うので、血が止まるまではハンケチを取らないで下さいね。」
「それだと、良一さんのハンケチが汚れてしまいますわ」
「ハンケチの一枚ぐらい大丈夫ですよ。それより、貴女に傷を残す方が、僕は悲しくなりますからね。お気になさらずに」
良一の優しさに梓の胸が軽くときめいた。
「ありがとうございます」
梓がお礼を告げると、良一は照れ臭そうに笑う。彼の視線は梓の首筋へ向けられる。
「あの、その首筋は?」
その時であった、鐘の音が鳴り響く。日は傾き、すっかり夕焼け空へと変わっていった。
「これは、四時の鐘ですね。そろそろ、お開きにしますか。ご令嬢のお嬢さんを遅くまで付き合わせる訳にはいきませんからね。今日は、ありがとうございました」
「良一さん。こちらこそ、本日はありがとうございました。」
良一は、梓に一礼をする。梓も同じく感謝を述べ一礼をし、本日の縁談はお開きになった。
良一と別れた後、父親は仕事の用事で先に戻ってしまった事を、ホテルの従業員に伝えられた。父親は常に仕事に追われている。
それは幼い頃から変わらない。いつもの事なので、梓は気にも留めえなかった。
気分の良い梓は車を呼ばずに、歩きだした。
夕日色に染まった街並みは、どこか幻想的だ。
人々も帰宅に急ぐ人ばかりなので、梓の容姿を気に留めない。梓が唯一、顔を上げて歩ける時間帯だ。飴色の髪が夕日に照らされ、金色へと変わってくる。
風になびかれてゆれる髪と共に、足取りも軽やかになっていく。
気づくと、大きな広場のある場所へ向かっていた。
中央には大きな池があり周りを策が囲っている。夕日に照らされる池では、水面(みなも)が小さく波をたたせていた。
風が梓を吹き抜けていく。
「風が気持ちいい」
右手で髪をかき上げる。人差し指に巻かれたハンケチを見つめ、梓はハンケチをゆっくりほどいていく。傷口は完全に塞がり、血は既に止まっていた。
「後で返さないと」
ハンケチを綺麗に畳むと、持っていた小さな鞄へ仕舞った。
柵で囲われた大きな池に近づくと、見知った人物を見つける。
そこには、一人で池を眺めるスーツ姿の櫂人がいた。彼は何をするでもなく、ただ池を眺めていた。梓は櫂人がいる場所まで歩き出す。
「櫂人!」
その声に反応して、彼はこちらへ振り返る。
「姉さん!なんでここに?」
櫂人は姉の梓を見つけると、彼女へ近寄った。
「今日、先ほどまで縁談があったの。それで、少し歩きたくなって、ここに来たの。櫂人は、何故ここに?」
「ここの池を眺めていると、少し落ち着くから。よく見に来ているんだ」
櫂人の視線は、一度静かに風に揺れる池へと向けられる。
「今日の縁談は、どうだった?」
何故か切なそうに櫂人は問いかける。
「海外で医学を学んだお医者様の方だったわ。最新の医術にも関心があって、患者さんにも優しくて。そうだわ!櫂人の喉の炎症に効く薬がないか訊いてみたら、探してくれるって言われたの!」
櫂人が今まで苦しんでいた喉の炎症を治す治療法が見つかるかもしれない。期待と希望に嬉しそうに答える梓とは正反対に、櫂人は視線を下げ寂しそうに答える。
「そう…」
その瞬間に二人に大きな風が吹き抜ける。
櫂人の纏められた髪と梓の髪が同時になびく。なびかれて、見えた梓の首筋に櫂人は凝視する。
「その首筋の痕、どうしたの?」
その言葉を聞くと、梓が首筋に手を触れ、掌を見つめる。
「これは、紅の痕?」
掌には微かに、紅の色で紅く染まっていた。
「きっとお兄様だわ。実は、今日お兄様から紅を戴いたんだけど、人差し指を怪我してしまってね。それで、代わりにお兄様が私に紅を塗ってくれたの。その時に付いたんだわ」
梓はその時を思い出し、少し照れ笑いしながら答えた。
彼女の表情を見た、櫂人が驚愕する。
「姉さん…今、好きな人はいる?」
先程の声とは違い、薄暗い声で櫂人は問いかける。
「え?いないけど。どうしたの?」
「今回の縁談相手の事はどう思っている?」
「優しい人だと思うけど、まだ知り合ったばかりだし、どんな方なのか分からないから、なんとも言えないわ。」
彼女は続けて答える。
「でも、もし恋をするなら…。お兄様みたいな優しい殿方と恋をしてみたいわ」
その言葉に、彼は渇いた声で嘲笑する。
「あんな奴と?あの人は、姉さんが思っているような人じゃない。姉さんは何も知らないから、そんな風に言えるんだよ」
櫂人はゆっくり梓が立っている場所へ距離を縮めていく。
「櫂人、何を言っているの?」
次第に態度が変りゆく弟に不安そうに問いかける。
櫂人は掌を握りしめ、拳の先から体を震わせる。
「あんな兄さんに奪われるぐらいなら…」
身体の震えが止まると、櫂人は真剣な眼差しで梓を見つめる。瞳から感じられる、奥底に潜む彼の思いに梓は、瞳を奪われる。
「俺が貴女を奪う」
「ーーーえ!?」
櫂人の両手が梓の顔に優しく触れる。彼の右手の親指が、梓の唇に付けられた口紅を滑らかにふき取っていく。
紅を付けない梓の本来の唇に戻った瞬間に、櫂人の唇と彼女の唇が重なる。
「好きだよ、姉さん…」
一瞬の出来事で、梓はこの状況を理解できずにいた。
唇はゆっくり離れて、お互いの視線が交差する。
彼の強い眼差しから悲壮さを感じる。その紫色の瞳から目が離せなかった。
「一人の女性として…好きだ」
唇は再び重なり合う。
風が強く吹き抜け、二人の髪が大きく波打つようになびく。
二度目の口づけにより、その事実が確信へと変わった瞬間だった。
《第二話に続く》
午前中に、梓が住んでいる別宅に、広子がやってきた。
玄関には、いつものように華やかな柄の和服を身に纏った広子が既に立っていた。
梓は彼女を客間に迎え入れる。
「おはようございます、広子様。お兄様は、本日はお仕事ですので、いらっしゃらないのですが…」
広子は、明るい笑みを浮かべながら、梓に近づく。
「おはよう、梓さん。本日は、貴女に用があって来たのよ」
「私に…ですか?」
不思議そうな顔で、梓は広子を見つめる。
「そうよ。私、梓さんに今まで冷たい態度をとってしまっていたでしょう?誠一郎様は、梓さんにはとても優しいから、私それで少しやきもちを焼いてしまって。それで、これからはその気持ちを改める為に、お詫びを込めて、貴女にこれを受け取ってほしいの」
広子は自らが持って来た風呂敷を、梓の前で広げ始める。
包みから現れたのは、鮮やかで少し落ち着いた柄の着物と洋装の二着が入っていた。
「これを、私にですか?」
「えぇ、梓さんになら似合うと思って用意致しましたの。気に入って頂けたら嬉しいのだけど…」
素敵な着物と洋装に梓は驚きながら、少し戸惑う。
「ですが…こんな素敵な物を、戴けませんわ」
「遠慮しないで。これは、私からのお詫びの品なんですもの。是非、受け取ってほしいわ。それに、私は誠一郎様と結婚したら、私達、いずれ姉妹になるんですもの。大切な義妹を大切にしたいわ」
「広子様…。」
「貴女の身体に合うように、着物を縫い直したの」
広子に渡された着物を触った瞬間に、右手の人射し指に痛みを感じた。
「痛ッ!」
痛みを感じた手を見つめると、人差し指から血が出ていた。
「まぁ大変!?私とした事が、待ち針を取り忘れるなんて!ごめんなさい、梓さん!!指は、大丈夫!?」
広子は、慌てて、着物を机に置き、血が流れている梓の人差し指を見つめる。
「大丈夫ですわ、広子様。私も裁縫をしているので、待ち針を取り忘れてしまうことは、良くありますから…。お気になさらないで下さい」
確かに指は痛みでズキズキするが、泣くほどでもない。刺繍が趣味の梓にとって、針で指を刺す事は、よくあるので、彼女は特に気にはしなかった。
流れ出る血を、彼女は、自分の持っていたハンケチで、指に巻き止血する。
「その内、血も止まりますので。大丈夫ですわ」
「そう?なら、良いのだけど…」
広子は不安そうに告げる。
「梓さん、もし良ければ、この着物と洋装を今から着てもらえないかしら?是非、貴女が着ている所を見てみたいの。お願いできるかしら?」
広子のお願いを無下にできず、梓は仕方なく承諾する。
「はい、まだ時間がありますので、大丈夫です。」
「まぁ、嬉しい!ありがとう梓さん!」
広子は満面な笑みで喜んだ。
そして二人は、梓の部屋へと向かった。
本当は着替え姿を見られるのは恥ずかしいのだが、広子が、「女性同士だから何も恥ずかしくないでしょ?」と言い、梓の部屋へ強引に入って来た。
着ていた服を脱ぎながら、広子が持って来た、着物を着始める。待ち針を抜き、机に置く。
着替え姿を広子に見られているかと思うと、梓は恥ずかしさで顔が次第に赤くなる。
慎重に素早く、するすると着物を着つけていく。
「あら、梓さん。少し丈が合わないみたいね…。」
先程まで、距離があったにも関わらず、いつの間にか広子は梓の真後ろに立っていた。
耳元で、彼女が囁く。
「また私としたことが、貴女の背丈も合わせられなかったなんて…ごめんなさいね」
「広子様…あのっ」
「少し動かないで下さるかしら。今、正確な丈を測るので」
彼女はそのまま、持って来た紐状の物差しで梓の寸法や正確な身長を測り始める。
広子の瞳はどことなく真剣さを帯びていた。
「なるほど。大体このぐらいの長さなのね。梓さん、ありがとう」
広子は寸法を測り終わると、梓から離れる。
彼女のその言葉で、ようやく緊張が解け、梓は少しゆったり佇む。
その後、梓は広子の前で着物と洋装を着替える。どれも、梓に似合いそうな色と模様で、広子が真剣に自分を思っていた事が解るぐらいだ。
その気持ちに、梓は次第に嬉しくなり広子に感謝を述べる。
「広子様、私の為に選んで頂きありがとうございます。」
「いいのよ。だって梓さんは、私の“妹”になるんですもの」
彼女は微笑みながら答える。
すると、広子は時計を見て、慌てるように動き始める。
「ごめんなさい。私、この後予定が入っているので、これで失礼するわね。」
「そんな、広子様。お茶もご用意しましたのに…」
「あぁ、お茶は戴かないわ。お気持ちだけ十分よ」
広子は持って来た風呂敷をたたみ始める。
「そうそう。本日縁談らしいわね。誠一郎様から聞いたわ。素敵な殿方だと良いわね。私と誠一郎様みたいに、お似合いになることを願っているわ」
曇りのない笑顔で広子は微笑みながら告げた。
「そうだわ。今度、ちゃんとお詫びをさせてね。大切な梓さんの指に、怪我もさせてしまったから。本当に、ごめんなさいね」
梓は気にしていない事を告げる前に、広子は急いで帰ってしまった。
一人残された梓は、先ほどまで着ていた着物と洋装を見つめ、嬉しくなり微笑む。
昼の正午に、車で広子と入れ替わるように、兄の誠一郎が梓のいる別宅に帰宅する。
「お兄様、本日はお仕事では?」
玄関に姿を見せた兄に梓が問いかける。梓の住む敷地には、父と誠一郎の母の数子と誠一郎が住む本宅と、少し離れた場所に梓が住む別宅がある。
誠一郎は、本来なら本宅に住んでいるのだが、女中と梓が二人だけで住むのは、夜は危険だからと、空き部屋を自分の部屋へと変え、今では誠一郎は殆ど別宅で過ごしている。
「少し、“忘れ物”をしてな」
「忘れ物ですか?」
誠一郎の言葉に梓は首をかしげる。
「これから、縁談がある会場に向かうだろう?準備は出来ているのか?」
「はい。昼食も済ませましたし、着物にも着替え終わりました。」
「そうか…じゃ、これを渡せるな」
すると誠一郎はズボンのポケットから綺麗な柄が描かれた小さな小箱を取り出した。
「こちらは?」
「口紅だ。お前に似合うと思ってな。前に買っていたのだけど、渡しそびれてな。慌てて帰って来たんだ」
「まぁ、これを渡す為に帰って来たのですか!?縁談の後でも構いませんでしたのに…」
「これを付けて行ってもらいたくてな。梓は嫌か?」
「そんな事はありませんわ。お兄様のお気持ちはとても嬉しいですわ」
兄の想いに梓の顔は、ほころんだ。
梓は、兄から小箱を受け取り、蓋を開けると、中には紅く彩られた紅が入っていた。鮮やかな色合いの紅に、うっとりと見つめる。
右手の人差し指に付けようをした瞬間、再び痛みが走る。
先程待ち針で刺した傷がまだ完全に塞がっておらず、痛みだす。
それを見ていた誠一郎は気づいた。
「人差し指…どうしたんだ?怪我でもしたのか?」
「これは、本日の午前中に広子様がいらっしゃって、着物と洋装を戴いたのですが、その時に、外し忘れていた待ち針に指で触ってしまって怪我をしてしまったのです。少し、傷は痛みますが、大丈夫ですわ」
「広子がお前に会いに来たのか?」
驚いた表情で、誠一郎は梓を見つめる。
「そうか…。なら、俺が代わりに塗ってやる」
そういうと誠一郎は、梓の手から口紅の小箱を取り、己の人差し指に軽く紅を付け、梓の顔にもう片方の手でそっと添え、自分の方へ向かせ顔を上げさせる。
彼女の唇が誠一郎の指により、徐々に艶やかな紅へ変わっていく。
まるで、少女から艶めいた大人の女性へ変わるような、そんな変化に近かった。
少女の幼さは、紅により、消え去っていく。
兄が自分の唇に触れている感触が全身に伝わり、彼女は恥ずかしさのあまり頬も赤く染まっていく。
「これで、少しは“牽制”になるだろう」
自分の指で色付いていく妹を見て、誠一郎は含みのある笑みを浮かべた。
「あぁ、やっぱり予想通り、お前によく似合っているな。紅を塗った姿を見て納得したよ。やはり、誰にも渡したくないな…」
「お兄様?」
紅を塗っていた指を放し、そのまま梓の首筋に手を置くと、誠一郎の顔が徐々に梓へ近づいていく。
その時だった。玄関の扉から、軽く扉を叩く音がした。
「梓お嬢様。そろそろお時間です。車のご用意も出来ました」
女中が声で知らせる。
「あぁ…そろそろ時間みたいだな」
そう告げると、誠一郎の手が名残惜しそうに首筋から離れていく。
「梓、気を付けて行ってくるんだぞ」
「はい、お兄様。行ってきます」
梓は誠一郎に見送られながら、車で縁談場所に向かった。
縁談場所であるホテルに到着し、約束の場所でもあるラウンジに向かう。
そこには、自分の父親と見覚えのある男性が座っていた。
「お待たせして申し訳ありません。九条梓と申します。この度は、よろしくお願い致します。」
梓は、一礼をして、父の隣にある椅子へ座る。
「梓、時間通りだから大丈夫だ。紹介する。彼は、日本で医師をしている『浅沼良一』君だ。」
名前を呼ばれた男性が梓に挨拶をする。
「はじめまして、僕は『浅沼良一』と申します。この度は、よろしくお願い致します。」
梓は彼の顔を見て驚く。彼はこの前の鹿鳴館のパーティーで、ぶつかった男性だった。違っているのは服装ぐらいで、眼鏡の紳士は、前と変わらぬ優しそうな雰囲気を醸し出していた。
彼の隣にいた、年老いた男性が、彼について話し出す。
彼は浅沼家の嫡男で、ドイツに留学をして医学を学び日本で医師として働いている。ご両親は、すでに亡くなっているが、家柄も地位も申し分ないと説明した。そして、自分は彼の働く病院の関係者であることも告げた。
父と浅沼の関係者の男性がお互いの話をしだしてから一時間が経過すると、「あとは二人で話すように」と、二人は席を立ち、別の場所へ去っていった。ラウンジには、梓と浅沼の二人だけになった。
「もし、良ければ…ホテルの庭園を一緒に歩きませんか?」
「あっ、はい。構いませんわ」
浅沼の提案に梓は頷き、二人はラウンジから庭園へ向かう。
色とりどりに咲く花達と整えられた植木達を眺めながら、お互いにゆっくりと庭園を歩き出す。
「あの、浅沼様。この前の鹿鳴館でのパーティーで、浅沼様に怪我をさせてしまい、申し訳ありません!」
梓は鹿鳴館での出来事を謝罪しはじめる。
「いえ、こちらこそ、あの時は僕も見ていなかったので。僕にも非があります。それに、ただぶつかっただけで怪我はしていませんよ、お嬢さん」
あの時と同じ優しい反応で梓は、一安心した。
「おっと、お嬢さんではありませんね。失礼、『九条』さん」
「九条ですと、父も含まれますので、名前で呼んで頂いて構いませんよ、浅沼様」
「では、遠慮なく。梓さん、僕の事は、良一と呼んで下さい。様を付けられるのは、気恥しいので。」
思わず照れ笑いをする良一に、梓も思わず、くすりと笑った。
今までの縁談では、梓の容姿や家柄目当ての男性達ばかりが多かった。彼らは必ず、梓の容姿を舐めるような目で見定めていた。
そんな瞳で見られるのが怖くて、梓は縁談では必ず目線を下へ向くようにしていた。
普通に歩いているだけでも目立ってしまう容姿だから、尚更二人きりの時は、相手の目線には敏感になってしまう。
その時の気持ちは、まさに蛇に睨まれた蛙のような心境をしていた。
だが、良一は今までの男性達とは違う眼差しで梓を見つめていた。
(例えるなら…そう、幼い頃に私も似たような気持ちで眺めていたことがる。子供の頃のあの気持ち。なんだったかしら?)
その視線の意味を思い出す前に、良一が話しかけてきた。
「梓さん、大丈夫ですか?何か悩み事でも?」
「あ、すいません。ちょっと考え事としていまして。大丈夫ですわ。あの、良一さんは、ドイツで医学を学んだんですよね?」
「えぇ、学んできました。海外の医学はとても進んでいて、日本に早くその医術を取り入れたいのですが、中々うまく行かなくて。医師としては、早く最先端の医術を取り入れて、沢山の患者さんを助けたいと思っています」
「あの、海外では医術が進んでいるという事は、日本よりも良い治療方法がありますか?例えば、喉の炎症を抑えられる薬や医術はあったりしますか?」
「喉の炎症ですか?診てみない事には分かりませんが、今の日本よりはあると思いますよ。しかし、何故喉を?」
彼の問いに、梓は重い口を開いた。
「実は、私には弟がおりまして、彼は幼い頃に訳あって喉に炎症が出てしまい。今でもそれは治っていなく、それでお尋ねしました。良い治癒方法があれば知りたくて…」
櫂人と思い出し、胸を痛める。
「なるほど。弟さんの為なんですね。梓さんは、弟思いの優しいお姉さんなんですね!」
「いえ、私は当然の事と感じていますので。何もできない自分が一番悔しいですわ」
過去の出来事を思い出す。
梓は幼いながらにして自分の無力さを知っていた。喉の炎症で苦しんでいる弟を見ては、何もできない自分の不甲斐なさを知り、その度に胸を痛めていた。
彼女の悲痛な面持ちを見た良一は、優しく言葉を掛ける。
「そんな風に思わないで下さい。医学は難しいですからね。私も医学を学ぶのは苦労しました。そのぐらい難しいです。でも貴女は、少しでも弟さんの為に知りたくて、僕のような医者に尋ねた。少なくとも、知らずに生きている人より、貴女は医学を知りたがっている。その気持ちだけでも、素晴らしいんですよ。普通は、医学には興味なんて持たないですからね」
その言葉に梓の抱えていた罪悪感は軽くなった。
「詳しく診てみない事には分かりませんが、喉の炎症を治す治療法を探してみますよ」
「いいのですか?」
「えぇ、困っている患者さんを見過ごせない性分なので。まぁそのせいで、殆ど家には帰れず、別宅に住んでいるのですが」
自分の性分に呆れながら良一は、はははと軽く自嘲した。
「別宅にお住いなのですか?」
「えぇ、そうなんです。両親と過ごした家が、ここから三時間ぐらい離れた森の中にあるのですが、まぁ何せ屋敷が大きくてね。一人で過ごすには掃除も大変なので、今は、病院に近い場所に、別宅を建てて、そこで寝泊まりしていますね」
「森の中にお屋敷が?」
「えぇ、母は洋風の屋敷に強い憧れを抱いていましてね。父が生前に母の為にと、まるでお城のような屋敷を建てたんですよ。お陰で、屋敷は広くてね。使用人も何人も雇っていましたが、今は僕一人なので、誰もいなくなりましたが…。両親との思い出が多い屋敷なので、取り壊すのは出来なくてね。用事や長い休暇を頂いた時は、本宅に戻っています」
「そうなんですね。森の中にある、お城のようなお屋敷。さぞかし、物語に出てくるお城のようだと、思ってしまいした」
「そうですね、確かに物語に出てくるようなお城だと思いますよ。機会があれば来てみますか?あ、すみません。ご令嬢のお嬢様に、軽はずみなお誘いをしてしまって」
「いいえ、大丈夫です。もし、機会があれば是非とも行って観てみたいですわ」
「はい、では機会があればお連れしますね」
良一は、優しく微笑みながら梓に告げる。
「あれ?右手の人差し指から血が出ていますよ」
「え?」
良一の言葉を聞き人差し指を見ると、再び傷口から微かに血が出ていた。
「手を見せてもらっていいですか?消毒薬と持っていないので、これで応急処置をしますね。」
彼はポケットから白いハンケチを取り出すと、梓の人差し指にぐるりと軽く巻き付け器用に結んでいく。
「傷口から菌が入ると思うので、血が止まるまではハンケチを取らないで下さいね。」
「それだと、良一さんのハンケチが汚れてしまいますわ」
「ハンケチの一枚ぐらい大丈夫ですよ。それより、貴女に傷を残す方が、僕は悲しくなりますからね。お気になさらずに」
良一の優しさに梓の胸が軽くときめいた。
「ありがとうございます」
梓がお礼を告げると、良一は照れ臭そうに笑う。彼の視線は梓の首筋へ向けられる。
「あの、その首筋は?」
その時であった、鐘の音が鳴り響く。日は傾き、すっかり夕焼け空へと変わっていった。
「これは、四時の鐘ですね。そろそろ、お開きにしますか。ご令嬢のお嬢さんを遅くまで付き合わせる訳にはいきませんからね。今日は、ありがとうございました」
「良一さん。こちらこそ、本日はありがとうございました。」
良一は、梓に一礼をする。梓も同じく感謝を述べ一礼をし、本日の縁談はお開きになった。
良一と別れた後、父親は仕事の用事で先に戻ってしまった事を、ホテルの従業員に伝えられた。父親は常に仕事に追われている。
それは幼い頃から変わらない。いつもの事なので、梓は気にも留めえなかった。
気分の良い梓は車を呼ばずに、歩きだした。
夕日色に染まった街並みは、どこか幻想的だ。
人々も帰宅に急ぐ人ばかりなので、梓の容姿を気に留めない。梓が唯一、顔を上げて歩ける時間帯だ。飴色の髪が夕日に照らされ、金色へと変わってくる。
風になびかれてゆれる髪と共に、足取りも軽やかになっていく。
気づくと、大きな広場のある場所へ向かっていた。
中央には大きな池があり周りを策が囲っている。夕日に照らされる池では、水面(みなも)が小さく波をたたせていた。
風が梓を吹き抜けていく。
「風が気持ちいい」
右手で髪をかき上げる。人差し指に巻かれたハンケチを見つめ、梓はハンケチをゆっくりほどいていく。傷口は完全に塞がり、血は既に止まっていた。
「後で返さないと」
ハンケチを綺麗に畳むと、持っていた小さな鞄へ仕舞った。
柵で囲われた大きな池に近づくと、見知った人物を見つける。
そこには、一人で池を眺めるスーツ姿の櫂人がいた。彼は何をするでもなく、ただ池を眺めていた。梓は櫂人がいる場所まで歩き出す。
「櫂人!」
その声に反応して、彼はこちらへ振り返る。
「姉さん!なんでここに?」
櫂人は姉の梓を見つけると、彼女へ近寄った。
「今日、先ほどまで縁談があったの。それで、少し歩きたくなって、ここに来たの。櫂人は、何故ここに?」
「ここの池を眺めていると、少し落ち着くから。よく見に来ているんだ」
櫂人の視線は、一度静かに風に揺れる池へと向けられる。
「今日の縁談は、どうだった?」
何故か切なそうに櫂人は問いかける。
「海外で医学を学んだお医者様の方だったわ。最新の医術にも関心があって、患者さんにも優しくて。そうだわ!櫂人の喉の炎症に効く薬がないか訊いてみたら、探してくれるって言われたの!」
櫂人が今まで苦しんでいた喉の炎症を治す治療法が見つかるかもしれない。期待と希望に嬉しそうに答える梓とは正反対に、櫂人は視線を下げ寂しそうに答える。
「そう…」
その瞬間に二人に大きな風が吹き抜ける。
櫂人の纏められた髪と梓の髪が同時になびく。なびかれて、見えた梓の首筋に櫂人は凝視する。
「その首筋の痕、どうしたの?」
その言葉を聞くと、梓が首筋に手を触れ、掌を見つめる。
「これは、紅の痕?」
掌には微かに、紅の色で紅く染まっていた。
「きっとお兄様だわ。実は、今日お兄様から紅を戴いたんだけど、人差し指を怪我してしまってね。それで、代わりにお兄様が私に紅を塗ってくれたの。その時に付いたんだわ」
梓はその時を思い出し、少し照れ笑いしながら答えた。
彼女の表情を見た、櫂人が驚愕する。
「姉さん…今、好きな人はいる?」
先程の声とは違い、薄暗い声で櫂人は問いかける。
「え?いないけど。どうしたの?」
「今回の縁談相手の事はどう思っている?」
「優しい人だと思うけど、まだ知り合ったばかりだし、どんな方なのか分からないから、なんとも言えないわ。」
彼女は続けて答える。
「でも、もし恋をするなら…。お兄様みたいな優しい殿方と恋をしてみたいわ」
その言葉に、彼は渇いた声で嘲笑する。
「あんな奴と?あの人は、姉さんが思っているような人じゃない。姉さんは何も知らないから、そんな風に言えるんだよ」
櫂人はゆっくり梓が立っている場所へ距離を縮めていく。
「櫂人、何を言っているの?」
次第に態度が変りゆく弟に不安そうに問いかける。
櫂人は掌を握りしめ、拳の先から体を震わせる。
「あんな兄さんに奪われるぐらいなら…」
身体の震えが止まると、櫂人は真剣な眼差しで梓を見つめる。瞳から感じられる、奥底に潜む彼の思いに梓は、瞳を奪われる。
「俺が貴女を奪う」
「ーーーえ!?」
櫂人の両手が梓の顔に優しく触れる。彼の右手の親指が、梓の唇に付けられた口紅を滑らかにふき取っていく。
紅を付けない梓の本来の唇に戻った瞬間に、櫂人の唇と彼女の唇が重なる。
「好きだよ、姉さん…」
一瞬の出来事で、梓はこの状況を理解できずにいた。
唇はゆっくり離れて、お互いの視線が交差する。
彼の強い眼差しから悲壮さを感じる。その紫色の瞳から目が離せなかった。
「一人の女性として…好きだ」
唇は再び重なり合う。
風が強く吹き抜け、二人の髪が大きく波打つようになびく。
二度目の口づけにより、その事実が確信へと変わった瞬間だった。
《第二話に続く》
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