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しばらくヴァネッサ・ロッシのアトリエへ通ってもいいかとアネイシアが相談してきたのは、ディトラスにとって思いがけないことだった。
「ロッシ夫人が言ったのか? きみを描きたいと」
「はい。私には身にあまるお話なのですが、その場でお断りするのも失礼なので、あなたにお聞きしてからと……」
アネイシアはほとんど断る前提でディトラスへ話していた。
彼女は本気で困惑している。
それはディトラスも同じだった。
一度機会をもうけてアネイシアに紹介しようとは思っていたが、ヴァネッサ本人がさっさと彼女をサロンへ招いてモデルの依頼までしていたとは。
とはいえ、ヴァネッサがアネイシアを描きたがった理由はなんとなくわかる。
あの腕のよい女画家は老若男女にかかわらず美しい人を好んで描くが、美しく描く以上に生々しさをあらわにした人間くさい筆致で被写体の本性を暴こうとする。
その過程がたまらなく好きなのだと、以前言っていた。
アネイシアの吸いこまれそうな深青の目が常にたたえる気鬱の暗さは、ヴァネッサの興味をひかずにはおかないだろう。
「いいんじゃないか。きみが嫌でないのなら描いてもらえばいい」
許可されたのが意外だったのかアネイシアはとまどいをみせ、やがてためらいながらもうなずいた。
「では……しばらくロッシ夫人のアトリエへおうかがいしようと思います」
乗り気ではなさそうだったが、夫の許しがあるのに断るのは先方に失礼だと思ったのだろう、生真面目なアネイシアらしい答えだ。
しかし、ディトラスはその反応にかえって安堵してもいる。
アネイシアは自分に罰でも与えるかのように家内にひきこもっていて、ディトラスの用事に同伴するほかは外出ひとつしない。
見目優艶で所作も洗練されており、口数は多くないものの会話の端々に機知が感じられ、望めば社交界の華になれる存在でありながら、本人は盛りの十七歳だというのに隠居同然の生活をしている。
老けこんでいるというわけではなく、日々の身づくろいはむしろ流行をとりいれ一分の隙もないが、新調する衣類や宝飾類がディトラスと出席する夜会のためのものばかりだと執事が言っていたのを思いだすと、美しく着飾るのも夫に恥をかかせないための義務としてやっているのかもしれない。
彼女は自分のためになにかをするという欲求をほとんどもたないことに、ディトラスは気づいた。
この家に来てからというもの、一族や領地の理解に努め夫の家の慣習にならって家内の采配をふるい、夫の邪魔をせず陰の補佐に徹し、使用人からの微々たる不服はありながらも彼女自身は一度も不満を口にしたことがない。
勤勉で真面目だという性格にも増して切実な理由が、そこにはあるように思える。
身売り同然に嫁いできたアネイシアに同情はするものの、ディトラスは彼女を妻として尊重しているし、個人的なわだかまりはあっても立場のうえでうとんじたことなどなかった。
結婚した以上、子供をつくるという大きな責任をディトラスとともに負ってもらわなければならないが、それが果たされれば、以前からいたかもしれない恋人と自由恋愛を楽しんだとしても干渉しないつもりでいる。
ディトラスはふとした瞬間にアネイシアへ心がかたむくのを自覚していたが、その点に関してはわきまえていた。
彼女にも選択する自由は当然あるのだ。
考えれば考えるほど彼女がこの家へ、そして夫へ献身的に尽くす理由はなくなっていく。
さらに、父がハイオーニア伯爵へ資金援助してまでアネイシア・レオニスを手に入れた真意も、いまだ聞かされていない。
解決しない問題がひとつずつ積みあがっていくのを払うように、ディトラスは息をついて気分をあらためた。
「せっかく肖像画を描いてもらうんだ、一着新調しよう。きみの好きな衣装をつくるといい」
アネイシアはいまあるものでじゅうぶんだと遠慮したが、彼はとりあわず続ける。
「首飾も必要だな。大粒の菫青石を使ったものはどうだろう。きっときみによく似合う」
その言葉に、アネイシアが目を見張った。
それからじわりと頬を上気させ「ありがとうございます」と小さく言う。
その目がうるんでみえたのは気のせいだろうか。
ディトラスは意外な反応にとまどって、続けようとした言葉をのみこんだ。
鼓動が少し速まったのがわかったが、彼女から目がそらせない。
なにかを、思いだしそうになった。
遠い記憶の一瞬、しかしそれはアネイシアのものではないはずだった。
アネイシアがヴァネッサのアトリエへ通いはじめるより先に、ディトラスが彼女と顔をあわせることになったのは、まったくの偶然だ。
知人のサロンへ立ち寄ったところ、たまたま彼女と居合わせたのである。
「あら、ごきげんよう、ギオス伯爵様」
「どうも。妻が『いろいろ』と親しくさせてもらっているようだな」
ディトラスが含みをもたせて言ったのはわけがあった。
過日の夜会のとき、彼から妻とヴァネッサを引き合わせる取り決めにしていたにもかかわらず、彼女は初対面のアネイシアに自ら声をかけるという大胆な行動にでたのである。
その後再びアネイシアをサロンへ招待すると、肖像画を描く約束をとりつけてしまった。
「なんて意地悪なおっしゃりようでしょう。ディトラスさまはわたしがいつもの気まぐれでこんなことをしたと思っていらっしゃるかもしれませんが、むしろわたしはあなたの手助けをさせていただいたのですよ」
「どういうことだ」
「奥様を初めて拝見したとき、あの絵の方に似ていると思いましたの。それで、ついお声をかけてしまったのです」
想像もしなかった理由に、ディトラスは息をのんだ。
それは五年以上前、ヴァネッサ・ロッシに出会って以来のひそかな懸案だった。
お互いまだ十代のころ、彼は師について勉強していたヴァネッサの絵を気に入って、アトリエをおとずれたことがある。
そこいらに置いてある絵画の数々に埋もれて、その絵は無造作に壁にたてかけられていた。
あきらかに制作途中なのが見てとれ、ほこりをかぶっていたが、モデルを写しとった正確さがディトラスの目を奪う。
笑みをうかべた若い女性の姿は、昔彼の屋敷で働いていた女中にそっくりだ。
それはつまり、ディトラスのさがす少女の母親ということでもある。
尋ねてみると、ヴァネッサはたしかに自分の描いたものだと認めた。
安くするから描かせてくれないかともちかけると、その客人は弟子の身である彼女に依頼してくれたのだという。
彩色も中途半端だが、巻き毛は栗色で緑の目をしているのがわかり、記憶とも一致していた。
客人はあるときぷっつりと連絡がとぎれ代金も支払われないまま、以来ここでほこりをかぶるだけになっている。
客人の名すら知らされなかったが、華やかな恰好を好みパトロンがいるようだったので、金持ちの遊び相手か高級娼婦だろうとヴァネッサは推測していた。
ディトラスはこの客人の素性がなにかわかったら教えてほしいと彼女に頼み、今日まで協力者となってもらっているのだった。
「アネイシアがあの絵の人に似ているとは思わないが」
「髪と目の色が違えば印象はずいぶん変わりますし、鼻の形など細かなところをみるとそう感じられるかもしれません。けれどわたしがみたところ、骨格や声はよく似ていますわ」
専門家の視点からの見地を聞かされては、納得するしかない。
「では、肖像画を描きたいと言いだしたのは……」
「ええ、もっとじっくり観察してお話しすれば、なにかわかるのではないかと思いましたの。けれど一番の理由は、わたしが夫人を描きたかったからです。あれほどお綺麗な方ですもの、絵に残さないなんてもったいない。聞けば、ご自分の姿絵を残されるのは初めてなのだそうです。信じられないことですわ」
そういえば、結婚前に肖像画のひとつもうけとっていなかったとディトラスは気づいた。
なにもかも異例の婚姻ではあったが、普通は伴侶となる相手の肖像画を贈られて、容姿や人柄をあれこれ想像するものだ。
ハイオーニア伯爵がどれだけ困窮していたか察せられる。
それとも、本気で娘を結婚させず神殿へおしこめる気でいたのだろうか。
それが彼女の内省的な性格をつくったのだとしたら、ディトラスはハイオーニア伯爵を呆れの目でみる以上に、憤りをおさえられなかった。
「絵は俺が買いとるから、丁寧に描いてやってくれ」
「まあ! わたしはどの作品にも手を抜いたりしません。……けれど奥様には、できあがった絵を気に入っていただけたら、ご夫婦の肖像画をわたしへご依頼くださいと申しあげてしまいましたわ」
「そんなことを言ったのか。わかった、それもあなたに頼もう。腕は信用しているからな」
ディトラスは苦笑して言った。
たしかに必要なものではあった。
代々の当主と夫人の絵は、本邸のホールに飾られている。
自分の隣に描かれる妻が、遠い記憶の少女とつながりのある女性だったら、と想像するのは難しい。
何年も得られなかった情報の鱗片がもたらされたというのに、現実味がとぼしかった。
アネイシアのどこか空虚な美しいまなざしを思いだして、ディトラスはため息をついた。
「ロッシ夫人が言ったのか? きみを描きたいと」
「はい。私には身にあまるお話なのですが、その場でお断りするのも失礼なので、あなたにお聞きしてからと……」
アネイシアはほとんど断る前提でディトラスへ話していた。
彼女は本気で困惑している。
それはディトラスも同じだった。
一度機会をもうけてアネイシアに紹介しようとは思っていたが、ヴァネッサ本人がさっさと彼女をサロンへ招いてモデルの依頼までしていたとは。
とはいえ、ヴァネッサがアネイシアを描きたがった理由はなんとなくわかる。
あの腕のよい女画家は老若男女にかかわらず美しい人を好んで描くが、美しく描く以上に生々しさをあらわにした人間くさい筆致で被写体の本性を暴こうとする。
その過程がたまらなく好きなのだと、以前言っていた。
アネイシアの吸いこまれそうな深青の目が常にたたえる気鬱の暗さは、ヴァネッサの興味をひかずにはおかないだろう。
「いいんじゃないか。きみが嫌でないのなら描いてもらえばいい」
許可されたのが意外だったのかアネイシアはとまどいをみせ、やがてためらいながらもうなずいた。
「では……しばらくロッシ夫人のアトリエへおうかがいしようと思います」
乗り気ではなさそうだったが、夫の許しがあるのに断るのは先方に失礼だと思ったのだろう、生真面目なアネイシアらしい答えだ。
しかし、ディトラスはその反応にかえって安堵してもいる。
アネイシアは自分に罰でも与えるかのように家内にひきこもっていて、ディトラスの用事に同伴するほかは外出ひとつしない。
見目優艶で所作も洗練されており、口数は多くないものの会話の端々に機知が感じられ、望めば社交界の華になれる存在でありながら、本人は盛りの十七歳だというのに隠居同然の生活をしている。
老けこんでいるというわけではなく、日々の身づくろいはむしろ流行をとりいれ一分の隙もないが、新調する衣類や宝飾類がディトラスと出席する夜会のためのものばかりだと執事が言っていたのを思いだすと、美しく着飾るのも夫に恥をかかせないための義務としてやっているのかもしれない。
彼女は自分のためになにかをするという欲求をほとんどもたないことに、ディトラスは気づいた。
この家に来てからというもの、一族や領地の理解に努め夫の家の慣習にならって家内の采配をふるい、夫の邪魔をせず陰の補佐に徹し、使用人からの微々たる不服はありながらも彼女自身は一度も不満を口にしたことがない。
勤勉で真面目だという性格にも増して切実な理由が、そこにはあるように思える。
身売り同然に嫁いできたアネイシアに同情はするものの、ディトラスは彼女を妻として尊重しているし、個人的なわだかまりはあっても立場のうえでうとんじたことなどなかった。
結婚した以上、子供をつくるという大きな責任をディトラスとともに負ってもらわなければならないが、それが果たされれば、以前からいたかもしれない恋人と自由恋愛を楽しんだとしても干渉しないつもりでいる。
ディトラスはふとした瞬間にアネイシアへ心がかたむくのを自覚していたが、その点に関してはわきまえていた。
彼女にも選択する自由は当然あるのだ。
考えれば考えるほど彼女がこの家へ、そして夫へ献身的に尽くす理由はなくなっていく。
さらに、父がハイオーニア伯爵へ資金援助してまでアネイシア・レオニスを手に入れた真意も、いまだ聞かされていない。
解決しない問題がひとつずつ積みあがっていくのを払うように、ディトラスは息をついて気分をあらためた。
「せっかく肖像画を描いてもらうんだ、一着新調しよう。きみの好きな衣装をつくるといい」
アネイシアはいまあるものでじゅうぶんだと遠慮したが、彼はとりあわず続ける。
「首飾も必要だな。大粒の菫青石を使ったものはどうだろう。きっときみによく似合う」
その言葉に、アネイシアが目を見張った。
それからじわりと頬を上気させ「ありがとうございます」と小さく言う。
その目がうるんでみえたのは気のせいだろうか。
ディトラスは意外な反応にとまどって、続けようとした言葉をのみこんだ。
鼓動が少し速まったのがわかったが、彼女から目がそらせない。
なにかを、思いだしそうになった。
遠い記憶の一瞬、しかしそれはアネイシアのものではないはずだった。
アネイシアがヴァネッサのアトリエへ通いはじめるより先に、ディトラスが彼女と顔をあわせることになったのは、まったくの偶然だ。
知人のサロンへ立ち寄ったところ、たまたま彼女と居合わせたのである。
「あら、ごきげんよう、ギオス伯爵様」
「どうも。妻が『いろいろ』と親しくさせてもらっているようだな」
ディトラスが含みをもたせて言ったのはわけがあった。
過日の夜会のとき、彼から妻とヴァネッサを引き合わせる取り決めにしていたにもかかわらず、彼女は初対面のアネイシアに自ら声をかけるという大胆な行動にでたのである。
その後再びアネイシアをサロンへ招待すると、肖像画を描く約束をとりつけてしまった。
「なんて意地悪なおっしゃりようでしょう。ディトラスさまはわたしがいつもの気まぐれでこんなことをしたと思っていらっしゃるかもしれませんが、むしろわたしはあなたの手助けをさせていただいたのですよ」
「どういうことだ」
「奥様を初めて拝見したとき、あの絵の方に似ていると思いましたの。それで、ついお声をかけてしまったのです」
想像もしなかった理由に、ディトラスは息をのんだ。
それは五年以上前、ヴァネッサ・ロッシに出会って以来のひそかな懸案だった。
お互いまだ十代のころ、彼は師について勉強していたヴァネッサの絵を気に入って、アトリエをおとずれたことがある。
そこいらに置いてある絵画の数々に埋もれて、その絵は無造作に壁にたてかけられていた。
あきらかに制作途中なのが見てとれ、ほこりをかぶっていたが、モデルを写しとった正確さがディトラスの目を奪う。
笑みをうかべた若い女性の姿は、昔彼の屋敷で働いていた女中にそっくりだ。
それはつまり、ディトラスのさがす少女の母親ということでもある。
尋ねてみると、ヴァネッサはたしかに自分の描いたものだと認めた。
安くするから描かせてくれないかともちかけると、その客人は弟子の身である彼女に依頼してくれたのだという。
彩色も中途半端だが、巻き毛は栗色で緑の目をしているのがわかり、記憶とも一致していた。
客人はあるときぷっつりと連絡がとぎれ代金も支払われないまま、以来ここでほこりをかぶるだけになっている。
客人の名すら知らされなかったが、華やかな恰好を好みパトロンがいるようだったので、金持ちの遊び相手か高級娼婦だろうとヴァネッサは推測していた。
ディトラスはこの客人の素性がなにかわかったら教えてほしいと彼女に頼み、今日まで協力者となってもらっているのだった。
「アネイシアがあの絵の人に似ているとは思わないが」
「髪と目の色が違えば印象はずいぶん変わりますし、鼻の形など細かなところをみるとそう感じられるかもしれません。けれどわたしがみたところ、骨格や声はよく似ていますわ」
専門家の視点からの見地を聞かされては、納得するしかない。
「では、肖像画を描きたいと言いだしたのは……」
「ええ、もっとじっくり観察してお話しすれば、なにかわかるのではないかと思いましたの。けれど一番の理由は、わたしが夫人を描きたかったからです。あれほどお綺麗な方ですもの、絵に残さないなんてもったいない。聞けば、ご自分の姿絵を残されるのは初めてなのだそうです。信じられないことですわ」
そういえば、結婚前に肖像画のひとつもうけとっていなかったとディトラスは気づいた。
なにもかも異例の婚姻ではあったが、普通は伴侶となる相手の肖像画を贈られて、容姿や人柄をあれこれ想像するものだ。
ハイオーニア伯爵がどれだけ困窮していたか察せられる。
それとも、本気で娘を結婚させず神殿へおしこめる気でいたのだろうか。
それが彼女の内省的な性格をつくったのだとしたら、ディトラスはハイオーニア伯爵を呆れの目でみる以上に、憤りをおさえられなかった。
「絵は俺が買いとるから、丁寧に描いてやってくれ」
「まあ! わたしはどの作品にも手を抜いたりしません。……けれど奥様には、できあがった絵を気に入っていただけたら、ご夫婦の肖像画をわたしへご依頼くださいと申しあげてしまいましたわ」
「そんなことを言ったのか。わかった、それもあなたに頼もう。腕は信用しているからな」
ディトラスは苦笑して言った。
たしかに必要なものではあった。
代々の当主と夫人の絵は、本邸のホールに飾られている。
自分の隣に描かれる妻が、遠い記憶の少女とつながりのある女性だったら、と想像するのは難しい。
何年も得られなかった情報の鱗片がもたらされたというのに、現実味がとぼしかった。
アネイシアのどこか空虚な美しいまなざしを思いだして、ディトラスはため息をついた。
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