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 ニケラツィニ侯爵はアネイシアにとって暗い過去の象徴ともいえる人物だ。
 右耳の聴覚を奪ったのも彼である。
 実父や秘密婚の体験から、彼女は逃げ場のない状況で男性と二人きりになると震えや呼吸困難をともなうなど精神的な問題をかかえており、ニケラツィニ侯爵と対面したときもそれは同じだった。
 正確にはディトラスを含め三人での面会だが、幼い日に容赦なく杖で打たれた恐怖は容易に記憶から去らず、アネイシアは冷たい汗が背中を流れるのを感じていた。
 「アネイシア、ここの生活にはもう馴染んだかね」
 「はい。ペイトンとサノッサが手助けしてくれますので、快適に過ごしております」
 「そうかそうか、うちの執事と家政婦長は有能だからな」
 四角四面なアネイシアの返答にもかかわらず、ニケラツィニ侯爵は上機嫌にうなずく。
 「ディトラスとはうまくやっているか」
 「はい……」
 いさかいなどしていないという意味では嘘ではないが、実質ディトラスと暮したのはまだ数日でしかない。
 侯爵の言う『うまく』はあからさまにいえば『さっさと子供をつくれ』の意なのだろうが、その点は不調といわざるを得なかった。
 不毛な二人のやりとりに、ディトラスは不機嫌な表情と口調で割りこむ。
 「俺はこの一か月ほとんど屋敷をあけていたんですから、いいも悪いもありません。夫婦のことは俺たち二人の問題なので、口出ししないでもらえませんか」
 「なにを言うか。こういうのは最初が肝心なんだ」
 「まだ会って数日ですよ。打ち解けるのもこれからの話です」
 アネイシアは賢明にも沈黙を守った。
 侯爵の目が自分からそれて、わずかに緊張感がやわらぐ。
 夫は助け船をだしてくれたというより投げやりな口ぶりだったが、手の震えがましになったのはたしかだ。
 「では二人で旅行へ行ってはどうだ。新婚旅行もしていないだろう」
 「このたびの戦後処理でそれどころではありません」
 「だから軍務などやめてしまえと前から言っているだろう。世界をみてまわれば、もっとおもしろいことがたくさんある」
 「いずれ嫌でも父上の跡を継ぐんですから、しばらくは好きにさせてください」
 「だったら夫婦そろって舞踏会にでも行くんだな。ちょうど知人から招待状をうけとっているから、おまえたちに譲ってやろう」
 息子のとりつく島もない態度にニケラツィニ侯爵はしぶしぶといった口ぶりで、それでもあきらめ悪く言った。
 これ以上妙な提案をされても困ると思ったのか、ディトラスは嘆息しつつも承諾する。
 反応をみるようにアネイシアへちら、と目を向けたが、彼女はただ小さくうなずいた。
 その後、侯爵と二人で話があるので席をはずすようディトラスに言われたアネイシアは、挨拶をして室をしりぞいた。
 扉をとじたところで身体の力がどっと抜ける。
 肩が石のようにこわばっていた。
 「奥様、お顔が真っ青です」
 近くに控えていたのか、女中のマリナが慌てて駆けよってきた。
 「男性がたとお部屋に入られたので心配しておりました。ご気分は」
 「ええ、大丈夫……大丈夫よ。でも力がはいらないの。部屋まで手を貸してくれる?」
 「もちろんです」
 マリナはアネイシアの腰をそっと支えて手をとる。
 「なんて冷たい手! お部屋に戻られたらすぐに温かいお茶をいれましょう」
 主人思いのマリナは、主をこんな目にあわせた男たちに腹をたてているらしい。
 もちろんディトラスとニケラツィニ侯爵に直接的にはなんら責任はないのだが、アネイシアが廃人寸前まで心身を追いつめられた姿を知っている彼女は、主人に対してひどく心配性なのである。
 もちろんアネイシアはマリナの思いやりをありがたく感じていた。


 招待された舞踏会は思っていたよりくだけた雰囲気で、アネイシアは内心ほっとした。
 ディトラスにエスコートされて屋敷に入ると名を呼びあげられ、その瞬間ホールがざわついてあからさまな注目をあびる。
 その理由はもちろん、地位も富もあるニケラツィニ侯爵の後継者の結婚が貴族のあいだで大いに話題になったからだ。
 ディトラスを婿にと狙う家は少なからずあり、昔から引き合いも多かったが、侯爵は一顧だにしなかった。
 にもかかわらず突然の婚約公表と間髪おかずの結婚となり、相手は遅まきに社交界デビューしたばかりの、しかも実子かも疑わしいハイオーニア伯爵の娘だったため、どんな事情があるのかと周囲が勘ぐりたくなるのは当然だ。
 知人に挨拶をしてくると言って離れたディトラスを見送り、アネイシアはホールの端に移動して給仕からシャンパングラスをうけとった。
 ホールは見渡すかぎり華やかな衣装や豪奢な調度品、むせかえる香水のにおいであふれている。
 アネイシアはこのきらびやかな世界にはどうにも馴染めない。
 紳士がひっきりなしにダンスへ誘ってくるのも精神的に負担だった。
 礼儀として手をさしだし、キスの挨拶をうけなければならないからだ。
 お相手さがしをする若い娘ならいざ知らず、既婚者のアネイシアへアプローチをかけてくる人々の意図がわからない。
 早くディトラスに戻ってきてほしいと思いながら壁の花に徹していると、高い天井から垂れさがる幕布の向こうで「ギオス伯爵が……」と話す婦人の声が聞こえてきて、思わず息をひそめた。
 ギオス伯爵とはディトラスのことだ。
 当主の父親が存命のため彼はニケラツィニ侯爵とは名乗れないので、従属爵位のひとつであるギオス伯爵の名で呼ばれている。
 「あの方がご結婚なさって、わたしの姪がショックで寝込んでしまったのよ」
 「わたしの友人も密かにお慕いしていたから、ずいぶんおちこんでいらっしゃったわ。ご婚約発表からご結婚まで本当にすぐでしたもの」
 「オペラ歌手の方とおつきあいなさっているとお聞きしたけれど、別れていらっしゃったのね」
 「さすがにご縁は切れているでしょうけれど……わたしもひとときでいいから、ギオス伯爵と二人きりで過ごしてみたいものだわ」
 「まあ、あなたってなんて大胆なの!」
 「思うだけなら自由でしょう。わたしに賛同してくださるご令嬢は、きっとたくさんいらっしゃるはずよ」
 「ニケラツィニ侯爵のご嫡男というだけで引く手あまたなのに、あれだけ端正なご容貌でいらして話術も巧みだもの、無理もないわね。本当に笑顔がすてきで……」
 ついにアネイシアは耐えられなくなり、その場を静かに離れた。
 結婚して以来ディトラスの笑顔など見たことはないし、会話も必要最低限でしかない。
 うとまれてもしかたないと、わかっていたはずだ。
 それなのにショックをうけている自分自身に彼女は愕然とした。
 彼女が見たことのないディトラスの笑顔を手にいれた女性が、少なからずいたという事実にも。
 それどころか、いまも彼の心は誰かのものかもしれない。
 アネイシアは自分が急に性根の卑しい人間になりさがったように感じて、この場にいるのがいたたまれなくなった。
 のがれるようにバルコニーへ出ると、とたんに冷たい風が正面から吹きつけてきた。
 大きくひらいた肩からあっという間に熱を奪われてしまう。
 幾重にも重ねられたモスリンのドレスは大きく波打ち後ろへひろがった。
 それでも室内へ戻るよりはましな選択に思えた。
 いまはディトラスへ会わせる顔がない。
 ほかの誰に対しても感情的な態度をとってしまいそうだった。
 凍えるほど身体が冷えれば、きっとまた『貴族のように』心などないようなふるまいができるはずだ。
 しかし彼女の気持ちの整理がつくまえに、バルコニーへ出てきた人物がいた。
 「ギオス伯爵夫人でいらっしゃいますね」
 アネイシアがためらいがちにふりかえると、妙齢の女性が立っている。
 見覚えのない相手に名を問おうとしたとき、ふたたび強い風が吹き、女性の頭飾の白い羽が飛ばされてしまった。
 とっさに手をのばしたものの届くはずもなく、見る間に遠ざかって夜の闇のなかへ消えていった。
 二人はしばらくなにもない暗闇を見つめていたが、やがて女性はアネイシアへ視線を戻す。
 「こんなところでお寒くはないのですか」
 「少し人に酔ってしまったのです。……失礼ですが、どこかでお会いしたことがあるでしょうか」
 アネイシアはなんとか冷静を装った。
 「わたしはヴァネッサ・ロッシと申します。ギオス伯爵夫人にお目にかかるのは初めてです。伯爵がご結婚なさった方とうかがって、お近づきになりたいと思いましたの」
 「ありがとうございます。でもここは冷えますから、どうぞ中へお入りください。お連れの方も心配していらっしゃるでしょう」
 「伯爵夫人はどうされるのですか」
 アネイシアはあいまいに首をふって、腰に巻いていた精緻な刺繍の細いサッシュをほどくと、手早く飾り結びをつくってヴァネッサの頭へ留め、羽飾りがなくなってむきだしになった髪の留め具を隠した。
 ガラスの扉をあけながらそっと彼女の背を押す。
 「ご無礼をお許しください。ご挨拶はあらためていたします」
 ヴァネッサは一度ふりかえったが、なにも言わずそのまま明るいホールへ戻っていった。
 見送ったアネイシアの髪は、すっかり強風で乱れてしまっている。
 今夜の舞踏会のために完璧に仕上げてくれたマリナが見たら、天をあおいで大げさに嘆くかもしれない。
 明るい女中のそんな演技がかった姿を想像して、アネイシアはようやく少し身体の力をぬくことができた。
 ぼんやりとガラスの向こうの別世界をながめていると、ディトラスが同じ年ごろの青年と言葉をかわしているのを見つけた。
 屋敷にいるときより気安い表情にみえるのは気のせいだろうか。
 そこに、先ほどの女性が加わってきた。
 格式ばった挨拶もなく話しはじめたので、もとから知り合いなのだろう。
 いや、『知り合い』という枠におさめていい関係か、アネイシアにはわからない。
 彼女に近づいてきたのが、牽制のためだったとしたら。
 先ほどの婦人たちの噂話を思いだしたとたん、二人を見ていられなくなり、アネイシアは再びホールに背を向け暗闇しかない庭へ目をこらす。
 夫がなにをしようと責められる立場ではない。
 それをわきまえていないから、卑しい感情に心を乱されるのだ。
 そうしているうち、ディトラス本人がバルコニーへ出てきた。
 「アネイシア、こんな場所にひとりでいるんじゃない」
 「ごめんなさい……」
 「体調を崩したと聞いた。なぜ俺を呼ばないんだ」
 ヴァネッサが伝えたのだとわかって、アネイシアは混乱した。
 彼女の真意がわからない。
 「少し風にあたりたかっただけなのです。すぐに戻るつもりで」
 「いや、顔色がよくない。それに冷えきっているじゃないか」
 アネイシアの肩に触れたディトラスは顔をしかめた。
 上着をぬぐとアネイシアが断る間もなく細い両肩をすっぽりとおおい、抱きよせるようにしてホールへ連れ戻す。
 温かな体温とディトラスの匂いを感じて、アネイシアは泣きそうになった。
 声をかけてくる客人へくりかえし「今夜はこれで失礼します」と断って、ディトラスはそのまま屋敷の玄関へ行き、下僕へ外套をもってこさせる。
 アネイシアが長ケープの前留めをすべてとじたのを確認してから、正面に到着した馬車へ乗りこんだ。
 帰路、ディトラスは不機嫌にもみえるかたい表情のまま沈黙を守っており、アネイシアは宴を中座させた申し訳なさと整理のつかない自分の感情をもてあまして、ただ顔を伏せているしかなかった。
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