「学芸伯爵令嬢 - フィオナの秘密」 アークラディア王国物語

愛以

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第二部

十八. 心の攪拌

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 フィオの息が荒く、心の中では混乱が渦巻いていた。目の前の兄、スジン、教授の動きに圧倒されるばかりの中で教授が静かに言った。

「フィオナ嬢、君の体調が戻り次第、契約の話を問うが‥今は耐えてくれ」

 教授の先程とは打って変わる冷静な声が、彼女にもわかった。

 ゆっくりと彼女は頷きながら、自分を落ち着かせるために深呼吸をする。少しだけマナが回復しているのがわかった。長寿柿を食した事で、体内に流れるマナの質量が変化しより息がしやすい。

 一方でフィオの体が空魔石がらんの中で苦しむようにもがき始める声が続いている。小さな体が震え光が弱まり、フィオの瞼がはっきりと見え、その苦悶の表情が露わになった。

 部屋の空気が圧迫され緊張する中、スジンが静かにツタをフィオに絡ませた。蔦がフィオに触れるたびに部屋が微かにピリピリ震え、本棚や壁に掛かった古い時計が一瞬音を立てて止まったように感じる。

 蔦を通じてスジンの魔力を送り込むと、その瞬間、室内全体がピリッと引き締まり射てるような迫力ある光が、まるで雷が空間を走るような音が耳をつんざいた。


 その衝撃でフィオナは動くことが出来なくなるほどに驚き、室内の机や椅子は微かに揺れ、積まれた本がガタリと音を立てて崩れてた。

「──クソ爺が!」
 フィオは力なく抵抗の罵声を上げたが、疲れ切った顔には力が残っていなかった。



 シューっと空気清浄の魔導設備音がいつもより大きく部屋に響いている。
 スジンは、魔道具の灯りに空魔石がらんを透かしながら、チャプチャプと音を立てて中を覗き込んでいた。

「よし、これでええじゃろう。セオ、受け取れ」

 空だった魔石の中には虹色の液が残る。フィオナは思わず息を呑んだが、その横で兄はまるで日常の一コマのようにそれを受け取り、淡々と作業に戻った。驚いて魔石を見つめるフィオナとは対照的だ。

「‥まさか、精霊の霊水」

 フィオナの小さな声が三人の耳に届いたが、作業に没頭していたセオとスジンは特に振り向かず、彼女が呆然としていると、教授は一歩前出て来た。

 柔らかい表情を浮かべながらも、その目にはまだ緊張の色が残っていた。

「先ほどは、思わず声を荒げてしまい、無礼を働いたことを深くお詫び申し上げる──だが、今は何よりも君の身体を元に戻すことが最優先だと考えている」

 フィオナは言葉を詰まらせたまま首を振る。なぜ、教授が謝るのか「いえ……私が本当に大丈夫ですから」と言おうとしたものの、教授の視線がそれを押し留めた。

「いや、焦っていたのは確かだが、俺も、もう少し冷静になるべきだった。今回の件は、俺の判断が悪かったんだ」

 教授は静かに続けた。低い声には、本当に申し訳ないという気持ちが滲んでいる。

 「‥はい」とこれ以上何を返せばいいのか分からず、フィオナは教授から視線を下ろす、気まずい感覚が全身を包み込む。落ち着かせる行き先を求め視線を泳がせると、その先に見えたのは、兄セオの姿だった。

 彼は黙々と魔力を攪拌し、魔石と薬水を組み合わせている。普段の兄とは全く異なる集中した顔。その姿には、見たこともない自信と冷静さが感じられた。

 透明な空魔石がらんが机の上で転がり、兄の手元では流線型の楕円ガラスの形したものが、滑らかに魔力を攪拌している。その動きは精緻で、魔力が美しく混じり合い、新たな色合いを帯びていく様子は、フィオナの心を深く打った。


 ふと、フィオナの目に母の姿が浮かんだ。コンサバトリーで薬草を扱い、輝く宝石に魔石を磨きをかけていた魔法細工師の母ナタリーの背中が、兄の作業と重なる。

 あのときと同じように、手際よく技術を施しながら、自然の美しさを引き出していた母の姿が、今ここにいる兄にも重なって見えた。

 フィオナは兄の手つきを見つめ、幼い頃の記憶が次々と浮かんでくる。何度も守ってくれたその背中に、今も変わらず守られていることに気付いた瞬間、胸の奥に温かい感情が広がった。

 そんな彼女の心の動きを察したかのように、教授が続ける。

「すごいだろう?セオの努力と経験は計り知れない。君たち兄妹の事情には詳しくはないが、彼の行動のほとんどは君のためにあるんだ」


「‥‥‥っ!」
 フィオナは何も言わず、ただ涙ぐんでいる。言葉にできない感情が胸の奥で渦巻き、彼女の目からはじわりと涙がこぼれ落ちそうになっていた。

「セオは自分のことをあまり話さないけど、後で少し話してみるといい。君たちは互いに遠くにいるような気がしているが、本当はもっと近いはずだよ」

 教授の言葉が、フィオナは子どものように頷きを繰り返す。兄の横顔を見つめる彼女のその心にじんわりと安心の熱が染み込んでいった。
「こんなにも近くにいたのに‥‥私はずっと遠くに感じていたんだ」

 あの頃、ジャスミンの花を飾るようにという指示があったのも、神様からの贈り物のように誰かがずっと見守ってくれていると思っていた。それが実は兄だったのかもしれない──そんな気がした。



 すると、ふいにスジンの声が響いた。

「──なんじゃ、レオは素直に誤ったんか?ええ子じゃ、レオ」

「はぁ?何だよ」

「いや、ほんまレオが悪いんじゃ。この中で一番の年長者が冷静さを欠くのはちぃとまずいな──でもな、お嬢さん、一歩間違えたらお嬢さんはこの世にはおらんかったかもしれんぞ」

 その言葉に、フィオナは自分が危険な状況にいたことを再認識した。スジンの言葉は重く、無事でいられることへの感謝が胸にじんわりと広がった。


 コトッと、ポーションが入った二種類のガラス瓶がテーブルに置かれる。
 兄が、スジンや教授に「先に飲んでから話しましょう」と促し、フィオナの前に片膝をついた。

 セオは指先をわずかに震わせながら、瓶をひとつ取り、彼女の手に優しく渡した。

「フィオナ、まずはこれから」

 兄の手によって渡された瓶には、セオのマナが色濃く反映されており、その高品質さが一目でわかる。フィオナはそのポーションを手に取り、ガラス越しに触れると、心に様々な思いが込み上げてきた。先程の光景や、なぜか兄のマナから伝わる複雑な感情が、彼女の心に響いてくる。

「本来なら、回復のポーション一つで十分なんだ。ただ、この後に飲むポーションが特殊だから」と、兄は緊張しながらも説明した。

「特殊‥?」

「お嬢さん、とにかく飲んでみんさい。セオが作ったもんじゃけぇ、カナオ島でも腕は折り紙つきじゃけぇ。ま、あいつの次じゃけどな。『霧に隠れて、神道開かれし最果ての地に、カナオの恵みが宿る』ってな」
「ええ、今度、族長にご挨拶に行きますよ」

 スジンの言葉を聞き、フィオナはカナオ島とその関わりについて考えた。

 カナオ島は霧に包まれ、唯一アークラディアと国交を持つ神秘の島、霧が晴れなければその姿を捉えることができない。その神秘的な島で育つ特殊な薬草、特にゴビの山脈最果てに位置するものについて思い浮かべた。フィオナは二人のやり取りを心に留めながら、ポーションの瓶を手に取った。

 淡い青緑色に光る液体が彼女の手にしっくりと収まる。フィオナが一口飲むたびに、冷たい液体が喉を通り、体内で優しく広がるのを感じた。その冷たさが次第に温かさに変わり、疲れた筋肉や骨が生き返るような感覚が全身に広がった。

 最後のひと口を飲み終えると、体の中心からじわじわと温かな感覚が、まるで優しさで溢れる愛に包まれている様だった。

 彼女の皮膚からは、緑と光が混ざり合ったオーラ霊気がふわりと広がり、優しく包み込む。髪の毛もふわりと揺れ、服の裾が軽やかに舞い上がる。フィオナは新たなエネルギーで満たされ、心から安堵する感覚に包まれるのを感じながら、目を閉じた。

 ─────
 ──

 しばらくその感覚に浸っていたフィオナが目を開けると、卓上のポーションを見つめながら深い考えに沈んでいた。スジンが口を開いた。

「お嬢さん、このポーションを飲むためには、精霊との魂縛こんばく契約内容を聞かなきゃいけんのじゃけぇ。これな、精霊の霊水じゃけぇ」

「精霊の霊水‥」彼女はやはりそうであったかと、その言葉に動揺した。大陸でも極めて希少なそのポーションには、計り知れない重みがある。


「フィオナ、話さなくていいよ」
 フィオの声が蔦の籠から漏れた。彼の声には、どこか心配そうな響きがあった──が、「小僧は黙っとれ!」スジンが怒号を上げ、その声が部屋全体に響き渡った。

 部屋の空気が一瞬凍りつくように感じられ、フィオナは肌でその冷たさを感じた。緊張した空気がビリビリと彼女の皮膚に染み込み、心に重い圧力を感じ始めた。

「フィオナ嬢、契約の内容によっては緩和することもできる。成功するとも限らないが、飲む価値はあるよ」教授が話し始めた。
 彼は給湯室から用意した紅茶を皆に振る舞いながら、その優しい口調の中に慎重さを滲ませた。部屋には、アップルの香りがほのかに漂い、温かい紅茶の香りが緊張を少しだけ和らげるようだった。


 フィオナは迷いながらも、自分があの契約を選んだ理由を思い返す。あの選択が正しかったと今も信じていた。けれども、兄セオの拳を握りしめた懇願するような表情を目にして、彼女はその視線を感じた。

 まだ道はあるかもしれない。今この瞬間にまた選択すれば、何かが変わるかもしれないと、フィオナは心の中で葛藤していた。

 彼女の手が震え始めた。契約を明らかにすることは過去の痛みを呼び覚ますかもしれないが、彼らの支えを信じた瞬間、心に光が差し込んだ。


「‥お話させて頂きます」


 視界の端で微かに動くものがあった。蔦の籠の中に閉じ込められた精霊のフィオが、初めてはっきりと瞳を見せていた。彼は今、じっと彼女を見つめていた。

 瞳の奥には静かな決意が宿っているように感じた。






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