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第二部
十七. カナオの香と謎と混乱
しおりを挟む「── ほう、わしの出番かいの?」
声の主がどこにいるのか分からないまま、部屋の空気が一変した。フィオナはその声に驚き、目を見開いた。教授の表情は一瞬、驚愕から苛立ちへと変わり、魔法陣の輝きが瞬時に消えた。
フィオナは驚きと困惑で固まっていた。窓辺の鉢植えに咲いていた縞紫露草の花が揺れ始め、部屋全体に不穏な気配が漂いだした。
部屋の隅に置かれた紫の鉢が微かに揺れ、花弁が不気味に動き出す。
その瞬間、紫の鉢から青白い煙が立ち昇り、やがてその煙は生き物のような影を形作っていった。顔は葉や茎の模様で形成され、目は薄く光る葉の模様が浮かび上がり、口元は細い葉がささやくように動いている。
揺れる花弁とともに、葉が徐々に伸び、まるで手のように土を押しながら這い上がってきた。それは、縞紫露草が人の姿に変わろうとしているかのようだった。
葉や蔓が地面を這うたびに、床には植物の影が淡く映り、まるで生きているかのように動き出す。足元に伸びる細い蔓がゆっくりとフィオナの足元を撫でて、冷たく生々しい感触が彼女の肌に伝わった。
フィオナはその場に凍りついたように動けなくなり、ただその奇妙な光景を見つめるしかなかった。体を動かそうとしても、植物の放つ静かな威圧感に、全身が縛られるような錯覚に陥っていた。
教授の険しい顔が次第に険しくなり、呆れたように舌打ちをした。
「── チッ、スジンの爺さんか」
「レオ、何をしよるんじゃ、この青二才が」
紫色の花弁が揺れながら、縞紫露草の老いたような声が言った。
「ほれ、煙草くれんか」
縞紫露草は無造作に鉢植えの縁に座り、教授に煙草を要求するような仕草をした。葉っぱが勝手に伸びて、机の上にあった煙草を手繰り寄せると、そのまま鉢の上で軽く体を揺らしながらくわえた。
「燃えるだろが!」
教授は不満げに言ったが、縞紫露草はどこ吹く風で、さらに火を要求してきた。
「そがいなヘマ、わしはせんよ。お主とは違うけぇの」
縞紫露草は悠然と言い放ち、植物の蔓で器用に魔灯ランプのガラス戸を開けると、煌々と赤く揺らめく魔石に、煙草の端をチリチリと音を立てて火をつけた。紫煙がゆらゆらと揺れながら部屋に広がり、重い空気をさらに濃くしていく。
「せっかく日向ぼっこしとったんじゃが、起きてしまった。はぁ~、うまいのぅ~」と、のんびりした口調で続けた。
そのやり取りにフィオナはぼんやりとしたまま、呆然と見入ってしまった。いつもと違う教授の態度、そして目の前で言葉を発する植物に、何が現実で何が夢なのかがわからなくなっていく。だが、隣に立っていたはずの兄セオは、いつの間にか全く動じる様子もなく、慣れた手付きで給湯室から茶器を持って現れた。
「スジンさん、どうぞ。カナオ産の緑茶です。ぬるめにしてますよ。それと茶菓子には長寿柿もどうぞ」
セオが丁寧に差し出すと、スジンは嬉しそうに葉を揺らし、応じた。
「ほぉー、セオ、お主はさすがじゃのう。ゴビの葉使うた煙草に、カナオの茶、それに長寿柿かい。最高じゃ!今度カナオ島に遊びに行こうかのう」
「なら、カナオ島にそのまま埋まっとけ。族長が喜ぶぞ」
「わしがいなかったら、ゴビの葉の煙草は手に入らんぞ」
「伝はあるから、気にすんな」
「その伝もわし次第じゃけぇな」
「はぁ⁈ まだ、あいつを酷使してんの?それでいいのか?」
フィオナはそのやり取りを呆然と聞きながら、頭が追いつかないまま兄を見た。セオはまるで何事もなかったかのように、にこやかな表情で長寿柿の菓子を取り出し、フィオナに勧めてくる。
「カナオ島の菓子だよ。食べれるかい?少しはマナが回復するから」
その言葉と、セオのどこか楽しげな笑顔が、フィオナにはシュールなコントラストを生んでいた。周囲の緊張感と彼の無頓着さが、妙に場違いに感じられ、フィオナの頭の中で奇妙なズレを生じさせた。
しかし、その妙な違和感を抱えているうちに、フィオナの耳に入ってきたのは、スジンの低く響く声だった。
「── お嬢さん、レオがすまんのう。この莫迦がね。じゃが、その精霊はもっと大莫迦での、ほんにいただけんわ」
フィオナはその言葉を聞いた瞬間、ペンダントが激しく振動した。スジンさんが部屋の隅に放置されていた魔石の箱から、透明な空の魔石を手繰り寄せると、フィオナに向かって投げつけてきた。
「──きゃあっ!」
突然、ペンダントが強く光り、フィオが小人の姿になって現れた。そして、次の瞬間、フィオは空魔石に吸い込まれ、中で閉じ込められてしまった。空魔石はスジンの蔦に絡まり、部屋の中でぶらぶらと吊るされている。
「何すんだよ、クソ爺!」
フィオは怒りを露わにして叫んだが、スジンはまるで動じることなく悠然とした姿勢で立っていた。
「小僧、お主がクソじゃ」
セオが一歩前に出て、落ち着いた声で言った。
「スジンさん。やり方が乱暴です。今回は目を瞑りますが、気をつけてください」
スジンは、その小さな体をしなやかに揺らしながら、軽く頷いた。その動きは、葉のような手が柔らかく振れ、優雅さと謙虚さを同時に示していた。
「あゝ、セオもすまんかった。大事な妹さんに、そしてお嬢さんにも、びっくりさせてすまんかった」
セオが穏やかな顔で「お願い致します。」と述べると、フィオナの心には込み上げるものがあった。兄が「大事な妹」と呼ぶその言葉には、当たり前のように返す優しさがにじんでおり、フィオナは心の奥深くから感情が込み上げてくるのを感じた。返事をしようとしたが、その思いに圧倒され、言葉が出せずに口をつぐんでしまった。
「おい、小僧、特別室の管理はどげんしたんじゃ?あれは主の管轄じゃろう。そもそも、ハピたちから労役だったはずじゃけえ」
スジンは静かに、しかし鋭い眼差しで問い詰めた。部屋の空気は重く、緊張感が漂っていた。フィオナはその場に立ち尽くし、息を呑みながら二人のやり取りを見守っていた。スジンの言葉はその場の雰囲気にさらなる緊張をもたらし、フィオナの心はますます混乱していった。
「クソ爺には関係ないよね。そもそも、僕はキリャプカラの精霊、クソ爺はカナオの精霊だろ」
フィオは不満げに返した。
「ふむ、確かにな……そうじゃの」
「なら、黙っててくれる?それに、みんなが勝手に『グレンの主』って呼んでる特別室の管理は、今は他の奴がやってるんだよ」
煙草を吸い、紫煙を燻らせ少し思案しながら、スジンの目はさらに鋭さを増していた。
「── そうか、動かしたんか……。じゃが、お前、自分が何をしたか、わかっとるんじゃろうな?」
凄みを増した低い声で問い詰められると、フィオは目を逸らし、言葉を失った。
「──今は先にこっちじゃな。勝手にやるが、文句は言うなよ」
そう言いながら、スジンは壁に乱雑に積まれた箱から魔石をいくつか取り出し、すぐ傍の棚から魔法陣の描かれた紙を手慣れた動きで取り出すと、セオに向かって声をかけた。
「セオ、これと、これじゃな。あとはそっち、やれるか?」
机上に魔法陣と魔石を手際よく並べる様子は、まるで長年の経験が染みついているようだった。その配置からすると、薬学系の魔法で、使われる技は細工か錬金術に関連するものだと感じられた。
「そうですね……いくつかの魔石はほぼ原形に近いですね。水属性魔法で浸して不純物を分離し取り除けば、あとは比率計算と薬水の調合を……」
「セオ──これ使え」
教授が無造作に紫色に輝く魔石のループタイをセオに投げ渡した。
「──おっと、え?先輩、本当にいいんですか?」
「まあ、どうせまた頼めば送ってくる。問題ない」
「では、ありがたく」と、セオの手の中には、教授が愛用していた魔石のループタイが収まっていた。
セオが魔法陣と魔石を配置する中、フィオナはいまだ空魔石の中で喚くフィオの姿を見つめていた。その叫びは、魂縛契約からというより彼女自身の心に影響を与えていた。スジンが一言、フィオナに対して説明する。
「──お嬢さんには悪いが、今はこの方法しかないけえ、少しだけ辛抱してくれんさい。後でちゃんと説明するからな」
フィオナはその言葉を聞いても、彼女の身体にもフィオの苦しみが少し影響が出ているようだった。体が震え、息が荒くなる中で、彼女の心はますます混乱していた。
「──よし、小僧。はじめるぞ。騒ぐなよ」
スジンの蔦が、フィオが収まっている空魔石の中をスルリと通り抜け、フィオに直接触れた。
「──この!クソ爺っ!? だ── あがっ!」
フィオはまるで水中で溺れているかのように苦しみ始め、身体を激しくもがき出した ──。
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