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第一部
九.知識と予感の交差点
しおりを挟む教授が論文を読み進める間、フィオナは書類を整理し、自身の研究に対する理解を深めるための準備を進めていた。教授の鋭い目線が論文に注がれるたび、フィオナの心臓は高鳴り、眉をひそめる教授の姿に緊張が走る。
「フィオナ嬢、君の論文で提起されている白竜と黒竜の関係は非常に興味深い。ただし、その変化のメカニズムに関する具体的な理論的裏付けがまだ不十分だと思う。」
教授はページをめくりながら、真剣な表情で言った。
「そこで君に問いたい。白竜が黒竜に変わる過程がなぜ特異な事例として現れるのか、過去の記録や伝承がどのように現実と結びつくのか。君はこれまで散々とこの推論と向き合ってきたはずだ。だからこそ、確証に欠ける部分があるとすれば、その原因はどこにあると考えるか?」
教授は一度息をつき、フィオナに向かって微笑みかけた。その微笑みには、彼がフィオナの内面を見透かしているかのような深い洞察が感じられた。
「はい、教授。その点については私も課題を感じています。」
フィオナが応じると、教授は一息つき、意外な話題を切り出した。
「実はね。私は世界が返還と帰還の繰り返しで成り立っていると考えているんだ。」
フィオナは少し驚きながらも、疑問を持って尋ねた。
「‥返還と帰還、ですか?」
「そうだ。返還は破壊や終焉を意味し、帰還は創造や再生を意味する。文明は常に盛衰の周期を繰り返しており、これが大陸全土の国や地域にも当てはまる。王国も例外ではない。すべては同じところに戻っているようで、実は何かしらの変化が伴っている。元の形が完全に戻ることはないんだ。」
フィオナは教授の話を静かに聞きながらも、理解が追いつかずに素直に疑問を投げかけた。
「それでは、今の王国は破壊の時期にあるのですか、それとも創造と再生の時期に入っているのでしょうか?」
教授は縁なし眼鏡のブリッジを指で上げ、一度フィオナに視線を送った。
「文明の周期には、崩壊と再生の準備が常に含まれている。王国もまた、最良の時期に向かって進んでいるのか、それとも衰退に向かっているのか、その変化の時期にある。このような変化のタイミングに、白竜が現れることは何を意味するのか、私にはまだはっきりと分からない。ただ、白竜が黒竜だという事実も含め、今は一つの節目にあることは確かだ。」
「なぜ、そう思われるのでしょうか?」
フィオナが質問すると、教授は少し遠い目をしながら静かに語り出した。
「実は、数年前に王都にいた頃、間近で白竜を目撃したことがあるんだ。その光景は、今でも忘れられない。──まぁ、すぐに緘口令が引かれたがね。」
フィオナはその言葉を聞いた瞬間、心の奥底に沈んでいた不安が浮かび上がった。冷静さを保とうとする一方で、心の中では焦りと興奮が入り混じっていた。フィオナの手はわずかに震え、冷や汗が流れる感覚があった。
「あっ……。」
フィオナはその瞬間、手元のコップを倒してしまった。わずかに残っていた紅茶がテーブルに広がり、教授はそっとコップを立て直し、布で薄茶色の液体を拭く。その動作に、彼の静かな優しさが感じられ、フィオナは自分の動揺を隠しきれないことに焦りを覚えた。
──あの日、レオ・グラントが白竜を目撃した瞬間、彼の胸中には心の奥底から沸き上がる不安と興奮が交錯していた。なんとも異質な光景だった。悠然と淡い桃色に染め上げられた上空に彼らはいた。一頭の美しく雄大な白い竜が華麗にして旋回し、それに続く青竜の群れは精鋭部隊のようにも見えた。
天の使徒か?それとも‥青竜と伝承の黒竜しか存在しないと云われる世で、白竜の出現とは。
「その頃、私は高学院の三年生でね。王城の離宮へ帰る途中に空に現れた白竜を見た。白竜は神秘的な虹光を放ち、天空を悠然と飛んでいた。その光景は、今でも忘れられない。」
教授は、思い出して笑みを溢しながら続けて言った。
「こんな現象は、節目以外の答えを見つけるのが難しい。」
正直、フィオナの心情は彼の表情とは違い、狼狽の色は隠せていなかった。彼女の内面を暴かれるような感覚が押し寄せ、まるで深淵の縁に立たされているかのようだった。
幼い頃に庭先にあった甘く爽やかな香りが漂う低木の下で、詩や絵画に将来の夢や目標を書いた紙を地中に埋めたのだ。誰にもわからないように。その時も、庭師に見つかりそうになって焦りながらも、冷静を装って問題にも見つかりもしなかった。だから──。
「緘口令ですか?そんな大事になっていたとは。ところで発令された後、どのようなことが発表されたのでしょうか?」
教授は一瞬で憂わしげな表情となり、言葉に詰まったように黙り込んだ。瞳が揺らぐのを見せ、肩を後ろに引くと、慎重に言葉を選んだ。
「発表されたのは、黒竜が約五千年ぶりに現れたということ、そして甥のノアが仮契約者となり、異母兄であるヴィクトル王弟殿下が王領であったカーレン領地を賜り公爵になったことくらいだ。その地は竜の渓谷に近い。」
教授はフィオナを真っ直ぐに見つめ、続けた。
「──ただ、フィオナ嬢のことは一切発表されなかった。」
その言葉にフィオナの胸が高鳴り、気がつけば、またコップを倒してしまっていた。教授は再び手を伸ばし、静かにコップを立て直し、その指先がコップの縁を滑らせる姿には、触れてはならないものに触れようとする、そんな危うさが漂っていた。
「やはり、ご存知‥だったのですか?」
フィオナは声を弱々しく絞り出すようにして尋ねた。
「あゝ──。」教授は一瞬の間を置き、視線をフィオナに向けて、慎重に答えた。
「これでも、王族の端くれだからね。政事には直接関与していないが、一部の情報には通じているつもりだ。君が何を知りたがっているのかを尋ねるつもりはないが、君の研究が白竜と黒竜に関する謎を解く手助けになることを期待している。君が知りたいことを明らかにすることで、研究の方向性が定まるかもしれない。──君は何かを探している、そんな気がするんだよ。」
その言葉に、フィオナの翠緑の瞳が瞬く。心の奥底に隠された決意が揺り動かされるのを感じた。彼女が追い求めている真実を、教授が見透かしているように思えた。
「はい。ありがとうございます、レオ・グラント教授。私の研究がその謎を解明するために必要な情報を掘り下げてみます。」
フィオナは決意を新たにし、教授に深く頭を下げた。教授は彼女の姿勢を称賛するように微笑み、優しく言葉をかけた。
「君の研究に期待しているよ、フィオナ嬢。君の探求心が、この謎を解く鍵となることを願っている。私自身、解き明かされないままの真実が、いつか君の手で明らかにされるのを見届けたい。」
フィオナは感謝の気持ちを込めて頭を下げ、「ありがとうございます、教授。引き続き精進いたします。」と答えた。彼女は教授の言葉を胸に刻み、さらなる研究のために新たな一歩を踏み出す決意を固めた。
窓の外では、朝の光がゆっくりと大学の建物に差し込み始め、フィオナと教授のいる部屋に新しい一日の始まりを告げていた。その光は、フィオナの心の中に新たな希望を灯し、彼女がこれから進むべき道を照らしているようだった。
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