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第一部
五.薬草と香りの約束
しおりを挟む木々の葉が赤や金に染まった十月──。学院図書室の窓際の席で、小さな本と格闘している高学院一年のリディア・エルサリスの姿があった。
リディアの目前には漂う写書に宿る精霊がいた。彼女の額には汗が滲み、顎下から鎖骨あたりの長さに整えられたブルーグレーの髪が、呼吸と共に軽く揺れている。数週間の契約儀式で成果が上がらず、焦りが募っていた。
儀式が長引くにつれ、彼女と精霊との対話は思念を超え、図書内の静かな空間に漏れ聞こえるようになっていた。
「──アンタ、ええかげんにせな!マナの使い方が全然ちゃう!そんな調子じゃ、契約なんかできん!」
精霊から放たれる言葉は厳しく、その声は次第に大きくなり、周囲にいた学生たちの注意を引き始めていた。
目前でふわふわと漂う小さな精霊に対し、泣きそうになりながらも必死に彼女はやり続けていた。精霊は一層激しく抵抗し再び口を開いた。
「こっちは、アンタみたいな無茶な奴と契約したないんや!わたし、丁寧に扱ってほしいんやけど!」
そのとき、貴族令嬢らしい気品と威厳を感じさせる声が静かな図書内に響き渡った。
「失礼いたします、精霊さん──ここは図書室ですわ。もう少しお静かにしていただけませんこと?」
フィオナがリディアに歩み寄ると、彼女が振り向く。その際に頬にかかっていた短い髪が軽く揺れフィオナの視線とリディアのヘーゼルの瞳が一瞬交わり、瞬間、リディアは涙目でフィオナを見上げてきた。
精霊は一瞬怯むが、すぐに反論の声を上げた。
「もう、何ヶ月経ってると思うんや?このままやと単位も落とすし、あぁ、この子の命が先に落ちるかもしれへんで。まあ、こっちは関係ないけどな。」
可愛らしい外見とは裏腹に、精霊は痛烈な科白を次々と吐き続けた。フィオナは一瞬息を呑み、言葉を失った。
「──失礼するよ。大丈夫ですか?」
二人が振り向くと、ロバートが近くに立っていた。リディアの苦戦する様子に気づき、穏やかな笑みを浮かべて声をかけた。
「え?いや、これが──」と、リディアは言葉を詰まらせたが、ロバートは事態を把握し薄く笑みを浮かべた。しかし、目が笑っておらず冷笑のようでもあった。
「なんや兄ちゃん、助けてくれるんか?」
精霊はロバートにもつっかかり、人を莫迦にしたような視線を向ける。
ロバートはリディアに幾つか質問をした後、「なるほど、これは難しい状況ですね。」リディアの手を見つめた後、無害な笑顔で言った。
「──うん。手、突っ込んでみよう。」
その言葉に、リディアとフィオナは驚愕し、精霊は怯えながら、さらに喚き出した。
「はぁ⁉︎ お前、これから精霊の核に触れようとしてんのか⁉︎ ほんまにわかってんのか⁉︎ そんなことしたら、どうなるか分かってるんか!」
精霊の核に触れる。つまりマナの構造に直接干渉する危険な技法で、精霊に激しい痛みを伴うが契約が難しい時の最終手段である。
周囲の学生たちは、このやり取りを興味津々で見守りながらも、どこか距離を保ちながら見つめていた。かつて自分たちも同じ状況に立たされた記憶が蘇り、リディアの奮闘に共感しつつ、心の中で「やってしまえ」と密かに応援していた。
「おや?怖がりですか?あれだけ強気だったのに、意外ですね。」
ロバートは冷ややかに、意地悪い笑みを浮かべながら言った。
「ベっ、べつに──。ほんなら、やってみぃ!」
「では、遠慮なく。」ロバートは静かにリディアに近づき、小声で囁いた。「精霊が──」
リディアは一瞬目を見開き、驚きと困惑を浮かべながらロバートを見つめた。最初は戸惑っていたが、リディアは意を決して、「えいっ!」と声を上げながら手を写書に突っ込んだ。
精霊は「ギャ~~!」雄叫びを上げるが、ロバートは余裕の笑みを浮かべ、フィオナは青ざめながらも、その様子をじっと見守り、リディアは目をぎゅっと閉じた。次第に精霊の抵抗が弱まり、「なんや、ええ匂いがしてきたで‥」と酩酊したように呟き出す始末。
「やっぱり──そうだったんですね。エリサリス嬢の場合は魔石よりも薬草の方が良さそうかと。」
ロバートが冷静に説明しながら伝達魔法を使い、儀式用の薬草も手配する。その手際の良さに、二人は感心しながら見守っていた。ついでとばかりに、彼は手にした書物から薬草の効能についても解説をし始めた。
「手に馴染んだものですし、薬草のマナや成分が直接作用しますから。」
リディアはその解説に感心し、ロバートの言葉に頷いた。「薬草‥なんかしっくりきますね。」彼女は目を伏せながら、薬草と自身の感覚がどれほど深く結びついているかを考えた。
「実際、薬草に携わる者は手に、その結果が現れると言われています。手に染み付いたマナと成分が、他では作り出せない独自の薬を生み出すこともありますから。」
ロバートは続けて、薬草の種類やその使い方についても話し始めた。
「たとえば、オリーブはマナ不足に使われ、パインは自責の念を和らげる。精神的な問題にはヘザーやゴースが用いられます。」
リディアは興味深そうに聞き入った。
「そうなんですね。私はコルカの森でよく薬草を採取しているんですが、調合の経験はなくて、そういった知識があると助かります。」
「もちろん、医薬師のマナの質が関わりますし、薬草の効能や適切な使用方法を知ることは非常に重要です。」ロバートは微笑みながら言った。「クラブアップルは風邪や浄化に、スターオブベツヘルムはトラウマの解消に使われます。いろいろな用途があるんです。」
「ありがとうございます。実は、エリサリス領では薬草の採取が盛んで、私もその恩恵を受けています。あと、森には古い石碑があって、いつか解読したいと思っているんです。」
「それは興味深いですね──。もし手伝えることがあれば、ぜひ声をかけてください。」
フィオナはそのやり取りを見守りながら、リディアの夢と探求心に感心し、優しく応じた。
「それは素晴らしいですね、リディア様。森での経験は本当に貴重ですし、あなたの夢が実現するように、何かお力になれることがあればお知らせください。」
「はい、ありがとうございます。」
リディアは感謝の意を表し、心からの微笑みを浮かべた。
その後、フィオナが図書役員に呼ばれると、ロバートは自分の書物を手に取り、「では、私もそろそろ失礼します。」と礼をして去る準備を始めた。
「薬草を持ってきてくれる友人が、もうすぐ到着すると思います。エルサリス嬢はここでお待ちください。」
リディアはお礼を言おうと「ルミナス様」と声を発したが、ロバートはそれを遮り、「お礼はリベラリオン嬢に」と微笑んで応じた。彼はフィオナにも帰り際、丁寧に挨拶し、静かにその場を去っていった。
──しばらくして、ノアが護衛と共に何種類もの豊富な薬草を抱えて図書室に現れた。その様子にリディアは恐縮し、慌てて頭を下げた。
「カーレン公子⁈申し訳ありません‼︎」
ノアは薬草をテーブルに置き、恐縮するリディアに優しく微笑みながら答えた。
「偶然だよ。廊下で薬草に埋もれてる友人がいたから、ちょっと手伝っただけさ。それに、君の兄リヴァイ殿やリオには、いつもお世話になってるからね。これくらい当然さ──。」
その言葉を聞いたリディアは、安堵の息をつき、目尻を少し下げながら微笑んだ。
「ありがとうございます。ところで、兄とは…」
兄についての話を切り出そうとしたが、ノアの侍従に促され、「では、失礼するよ。」と急ぎ足でその場を去っていった。「えっ!」と、リディアは再度お礼を言おうとしたが、ノアの後ろ姿を見送る事となった。
「さぁ、契約するで~。これからよろしくな。」
復活した精霊は、まるで別人のように腑抜けた顔で調子よくなり、リディアはその態度に驚きつつも、「何なの?」と冷ややかな目で見つめた。
契約の儀式が進む中、図書館内は薬草の香りに包まれ、秋の風が穏やかに流れ込み、外の紅葉が淡い光で室内を和らげていった。リディアは心の中で感謝の気持ちを抱きながら、いつか皆をあの森に案内できる日を夢見た。
彼女の心には穏やかな安堵が広がり、静寂と香りがコルカの森を思い起こさせた──。
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