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1 はじまりは

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「あッ、ぅんんん、ぁぁぁあ、だめだめぇ」
「気持ちいいな」
「あっ、あっ、あっ、ッく、ぅん! はぁッあんぁん、ゆぅゆっくりぃぃ、ぁあ」
「いいぞ、ゆっくりな」
「あぁぁ、ぁあ、だめ、こんなっ、こんなのッ、はぁはぅんー、あぁぉ……きもちぃぃ、が、ずっとぉ」
「いいだろ?」

俺がここ人の前に現れたのは正しくこの人に抱かれるためだ。ただこの人にそれをする意味と価値があるかどうかは大きな疑問だ。

この人はとてつもないお金持ちらしい。
その上、容姿も誰もが振り返るほどに格好いい。身長が高くて、無表情だと怖そうではあるが、だからこそ少し微笑まれる効果は絶大だ。

ただ少しいかがわしい噂がある。
性的指向に関することで、本人はそれを肯定も否定もしていない。
それは所謂初物食いという奴で、男女問わず未経験の相手だけが対象らしい。そして一度抱いたらそこで終わり。
その代わり、欲しい物を何でも一つ貰えてお別れだ。

俺は別に欲しいものがあったわけじゃない。
俺は捧げられた生贄だ。
実家の負債を肩代わりする条件として提示され、俺は初めてこの人に会った。当然提示したのは実家の方で、よくも日頃悪し様に言うくせに、こんな時だけ貢物に仕立て上げるのだから底知れぬクズぶりだ。

俺自身は正直どうでも良かった。実家に振り回されるのも、幾度となく期待していた自分に幻滅するのももう嫌気が差していて、この役目を最後に実家とは縁を切る契約をした。
ちゃんとした、正式な段取りも組んだから、実行されれば反故にされることは無い。
実家としても上手く厄介払いできたと目の前で喜ばれたから、そんな心配するだけ無駄かもしれないが。

あとは26で童貞で処女だって信じてもらえるかが問題だったくらいだ。

信じてもらえたから、こうなっている。

いや、違う違う。

いや、おかしくない?
一回でさよならのはずだよね?
え? これ何回目?
出会って、初めてやってから、半年以上経ってますけど、まだこの人は俺のこと抱こうとして、それで抱いて、しかもまだまだ的な雰囲気いつも醸してるんですけど?
え? なに? なんなの?!


俺はあの日指定されたホテルのロビーに一人でいた。
白シャツにジーパンというかなりの軽装。その方が脱ぎやすいし、脱がされやすいかと思ってだ。
自由の鍵を握る相手を見るのはその時が初めてで、行為の事なんかどうでもいいから信じて、することしてくれとだけ願いながら待っていた。

真っ昼間で、かなり天気がよく、さんさんと光が降り注ぐ中、その人も一人で来た。グレーのスーツで黒シャツ、ノーネクタイ。それが違和感なく完璧に似合っていた。

「威(たける)」

いきなり呼ばれて、びっくりして立ち上がる。

「そうです」
「井ノ上 煌弥(こうや)だ」

近くに立たれると見上げるほどで、納得の格好良さだった。
三十を少し過ぎたくらいだと聞いている。男の色香が凄くて、この人ならどんな相手でも選びたい放題だなと、俺は反射的に今日の失敗を確信した。

未使用品であること以外に惹かれるところなど一つも挙げられない。だからこそこの年まで誰にも見向きされなかったのだ。

「あの、」

思わず謝ろうとしたら、隣に座られ、俺も手を捕まれ座るよう促された。
大きな、細長い指と綺麗な爪の手だった。

「ここに来た意味は理解してるか?」

手を掴まれたまま聞かれ、俺はしっかり頷いた。

「証明のしようはないんですが」
「ああ、あれは気にするな」
「え? いいんですか?」
「俺が判断することだ」

それでいいなら、大変有り難い。
あとはすごく普通の俺で大丈夫かだけだ。そしてそれがかなりのハードルだ。

「えっと」

じっと見つめられる。品定めしてるんだろうか、そんなに見ても何も出てこないのに。

「おいで」

魔法の言葉の様だった。

繋がれたままの手を引かれ、気づけばあっという間にベッドの上にいた。
シャワーとか浴びなくても大丈夫なのだろうかと視線が泳ぐ。
体の準備は自分で既にしてきてあるから問題ないが、汗かく季節でもないけど、セオリー的なのはどうなのかと思考が巡る。

押し倒されたあとも、また上から見つめられる。
何かした方がいいのかと迷う。

「素直にしてればいい」

彷徨ってしまう視線で感じ取ってくれたのか、男が言う。
俺は、そうか、と頷いた。

そこからは正直あまり覚えていない。
やっぱり緊張してたし、知らない感覚の連続で翻弄されるばかりで、それが次から次に来て、何もできないし、何かできる余裕なんかどこにもなかった。

呼吸でさえギリギリだった気がする。

戸惑っているうちに全部終わっていて、俺は自分がどうなっていたのか、相手がどうなったのか全然わからなかった。

「水だ」

起き上がりグラスを受け取る。
相手は全裸だし、俺もそうだ。確かなのは、受入れたそこに違和感が残っていて、さっきまでそこで繋がっていたんだろうってこと。

水を飲むと喉が乾いていたことを知った。

「もっといるか?」
「うん」

子供のように返事をしていた。
そんな自分にびっくりして、咄嗟に自分の手で口を押さえた。

「別に気にするな」

水を注がれながら笑われた。

「痛くはなかっただろ?」
「……はい」

いや、分からん。
たぶん痛くはなかったはずだ。痛かったらきっともっとちゃんと覚えてるはずだから。
初めからあちこち触られてビクビク反応する体を抑え込むのに必死だったし、どこ見ていいのか分かんなくて、でも知らぬ間に瞑ってばっかりになっててほとんど何も見てないし、声も出してたのかどうなのか。

「俺、ちゃんとできてましたか?」
「ちゃんとがどんな物かによるな」

それは出来てなかったってことでもあるのだろうか。

「大丈夫だ、問題ない」

俺からグラスを取り上げ、顔を手で上げられキスをされた。

少しぼんやりしていたらシャワーを勧められ、その後ホテルのレストランでゆっくり食事をして別れた。
ほとんど会話もしなかったし、俺はじわじわと解放の喜びが湧いてきて、美味しい食事を勝手に内心で祝い膳にして楽しんでいたから、これで完了したのだと思っていた。

一週間後、実家から連絡があり、絶縁が叶った。
あの人はちゃんとしてくれたんだと、一人暮らしの部屋でどこに向かうともなく拝んでおいた。

その次の日。
実家と関係のある職場を辞める手続きをした。
正式な退社はひと月後になるが、引き継ぎもせず次の日から来なくても大丈夫だと言われたのは流石に心に刺さったが、すぐに切り替えた。切り捨てられたが、それは俺も同じだからいい。

そしてまた次の日。
朝寝坊を決め込んでいた一人暮らしの部屋でインターホンがなった。
モニターに映るスーツの男にセールスを疑い、居留守をと思っていたら、しつこくチャイムを鳴らされて渋々ボタンを押した。

「はい」
『突然申し訳ありません。井ノ上煌弥の遣いの者です』
「えっ、え?」
『お時間が大丈夫でしたら、外の車で井ノ上が待っておりますので、よければお会いになられませんか?』
「へ? 外……待ってる?」
『はい、いかがでしょうか』
「ちょっ、ちょっと、すぐ、すぐ出ます」

びっくりして慌てて反射でスマホと、鍵だけ持ってサンダル引っ掛けてマンションのエントランスまで降りた。
単身者向けのマンションだが、部屋のドアとマンションの入り口はオートロックで最低限のセキュリティは確保されている。

エレベーターから出た勢いで自動ドアも抜けると中年でも爽やかさ漂うさっきの人がにこやかにいた。

「こちらへ」
「あの、本当に?」

笑顔で促され、磨かれた高級車の後部座席のドアを開けられる。
そこには言われた通りの男が座っていた。

「なんで?」
「いろいろな手続きは済んだだろ」
「それは……」

なんでそんなことを言うのか、そもそもそこまで詳しく俺のことを知っているのにも少々面食らうし、実家関係のことなら俺のことは軽く調べれば問題ないはずだし、詳しく調べるなら出会う前に済ませてるはずで、今になって言いに来る理由が分からない。

「とりあえず乗ったらどうだ?」
「……乗る?」

会いに来ただけでも驚きなのに、これからまだ俺とどっかに行こうと思ってるのか。

「あの、何か問題でもありましたか?」
「威が心配するようなことは何もない」
「そ、それならなんで」
「これからのことで話があるからだ」
「これから?」

そんなものこの人とはありはしない。
では何についてのこれからだ? 俺の就職先とか?

「とりあえず乗れ、食事は?」

考えが全くまとまらないせいで、不意に腕を引かれたらあっさり車に乗り込むことになってしまった。
さらりとシートベルトまで着けられて戸惑いしかない。

「え?」
「朝は食べたのか?」
「いえ……全然」

それどころかまだ寝るつもりだったし。
そう思ったら自分がスエット上下のままなのにようやく気がついた。白黒ボーダーと黒ズボン。見慣れてるはずなのにそう思えない。
なんか、囚人コントチックじゃん。

「着替え……」

呆然としすぎて、そんな言葉しか口からでない。

「これから別荘に行くから大丈夫だ。少し時間が掛かるから、空腹なら何か買っていくがどうだ?」
「べっ、べっそう?」

なにそれ。
いや、知ってるさ。言葉の意味はな。でもなんでそんなとこに行くんだろうか。
知らぬ間に走り出していた車はそこに向かっているのか。
もう混乱の極みだ。

「お腹は……空いてない気がします」

もうそんなの分かるはずもない。
自分の食事より考えなければならないことしかないのに、頭は全く働かない。
混乱しすぎて眠たくさえなってきた。
でも流石にそんなわけにはいかない。考えろ、どうなってる? どうすべきだ? 何がおきている?

「疲れてる様だな。少し寝ておけ」
「そんなわけには」

考えていたままのことだからすぐ言えたが、横から伸びてきた手に目を覆われてしまって、反射的に瞑ると睡魔にあっさり陥落した。
本来そんな無警戒な性根ではない。けど、実家と離れられたと一度安堵してしまったがために、張り詰めていた糸が切れて再度結ぶには余裕がなさ過ぎた。

蓄積された精神的疲労が睡眠を欲していたのだ。





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