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19.突撃! 魔法天文台 〜リリアンの職場訪問〜②

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 その頃、魔法天文台まほうてんもんだいでは職員や魔導士が大騒ぎで塔内を行き交っていた。

「もうすぐ総帥がいらっしゃるぞ!」
「おい、見られてまずいものは片付けろ。急げ!」
「そうは言っても~、もう間に合わないって~」
「ベンジャミン殿が事前に知らせて下さっていたのに、なんでやっておかなかったんだ」

 あちこちの部屋からそんな声が聞こえる。それらを尻目に廊下を進み研究室へと戻るのは、年度末の慌ただしさを彷彿とさせた。
 ただし自分達も結構な量の荷物を抱えているので、人の事は言えない。若い魔導士は前を行く背中に声を掛けた。

「総帥がいらっしゃるだけにしては騒がしいですね」

 彼がそう言うのを、師である女性は一瞥する。

「そりゃあ、それだけじゃないからさ。あのアルベルト様がいらっしゃるのだからね。下手に目に留まってはまずいから」
「え? そうなんですか?」

 弟子の魔導士はぱちぱちと目を瞬かせる。師の言葉は彼にとって意外でしかなかった。

「普通に目に留まった方がいいのでは。だって総帥ってあれですよね。過去の魔導士の中でも最高だっていう」
「ええ、そうね。魔道具の開発はもちろん、現代の魔法の在り方を一変させた傑物よ。魔法学の歴史書に名前が載ったわよね」
「しかも王弟で公爵家当主。滅多にお会いできないじゃないですか。そんな方ならいっそ、お近付きになった方がいいのではないですか?」

 ああ、という声は師のもの。そうねえ、と歯切れ悪く続くのに、弟子は更に首を傾げる。

「師匠?」
「うーん……あなた達の年代だとそうなのかも知れないわね。でも、悪い事は言わないからやめておきなさい。少なくとも、あたしの弟子であるうちは、接触を禁止するわ」
「えっ」

 弟子の困惑は更に深まる。思わず力が抜け、ずるりと手の中の荷物が落ちそうになったのを抱え直した。

「ど、どうしてですか?」
「それだけのお方ではない、という事よ。さ、分かったなら早く片付けて。決してあの方に粗相の無いようにね」

 ぽかんとする弟子を置き去りにして、師はさっさと研究室へ入ってしまう。その背中を見送る彼は先程の言葉を反芻していた。
 彼の師である女性は、変わり者が多い天文台の中でも破天荒で知られている。その彼女がそこまで言うのは彼女に師事して十年で初めて聞いた。その事実に思い至った時、ふるりと身が震えたのは何故だろう。
 慌てて彼も研究室に飛び込む。師匠が一見がらくたに見える、作りかけの魔道具を箱に詰めているのを見て更に危機感を覚えた。持っていた荷物を机に乗せてそれを手伝う。
 この日、あちこちの研究室で似たような事態が起きていたのだが、片付けに集中していた彼がそれに気付く事はなかった。


 そんな中、ヴァーミリオン家の馬車が魔法天文台に到着する。アルベルトの手を借り、馬車から降りたリリアンは、目の前の建物を見上げた。
 魔法天文台は石造りの塔で、高さはそれほど無い。代わりに五本あるそれが通路で繋がっている。そう聞いていたのだが、馬車が着いたのはごく普通の建物の前。どういう事なのかしらとリリアンは首を傾げる。
 研究所ではあるが、魔法天文台は魔導士達の生活の場だ。所属する魔導士のほとんどがここに住んでいる。五角形になった研究所とは別に寮となっている建物が存在していて、現在ではこの建物が出入り口となっているのだそうだ。
 かつては五本の塔、それで充分だったのだが、所属する魔導士が増えたものだから部屋数が足りなくなった。それで塔に囲まれた中央の中庭が、大改造によって研究室に作り替えられた。中庭はそのまま中央の研究室の屋上に移されている。今では五角形になったそれが、魔法天文台と呼ばれていた。
 中央の研究室はいくつかに区切られている。そちらの方が、以前まであった塔内の研究室よりも広いそうだ。弟子の多い魔導士が優先的に広い方を使っているらしい。取り合いにならないのかと聞けば、そういう時は研究内容によって決めるそうだ。要は、世間にとって有用かどうか。

「それでも決められない場合は、どうするのですか?」

 リリアンがそう聞くと、アルベルトは不敵に笑みを浮かべる。

「聞き分けの無い者に渡す予算は無い。そう言えば大抵はすぐ決まるな」
「それは、そうでしょうね」

 さもあろうと頷いて、リリアンはアルベルトの後に続いて扉を潜った。
 エントランスは意外に広い。研究施設と聞いていたからどんなものなのかと思っていたが、リリアンが見る限り王城の雰囲気に近かった。石造りなのはもちろんとして、絨毯も立派なものだ。少しばかり古いデザインなのが歴史を感じさせる。
 全体的にすすけて見えるのに、壁に掛かった照明だけはピカピカだった。きっとあれだけが最新の魔道具なのだろう。
 ぐるりと見回しているとアルベルトがリリアンの手を取った。

「まずはこっちだ。面白いものがあるから」
「面白いもの?」

 引かれるがまま、リリアンはそれに従う。向かっているのは、入ってきた扉から時計回りに一つ目の塔だ。

「天文台に新しい魔導士が所属した際に、その魔導士の素質を見極める行事がある。リリアンにはそれを体験して貰おうと思ってな」
「まあ。そんな行事があるのですね」
「その者の能力を知るのは重要だからな。元々魔導士達の間にそういう風習があったそうだ。が、その手段というのが確実ではなかった。精度が低かったんだ」
「精度が低いとどうなるのです?」
「属性はすぐに分かるんだがな。保有している魔力量の判断に振れがあったんだ。そのせいで魔法陣の発動がうまくいかないばかりか、事故が多発していた」
「まあ……」

 魔法の発動にはリスクがある。魔力が足りずに魔法陣が発動しなければそれ程でもないが、込める魔力量が多過ぎる場合、属性が違う場合には暴発する事がある。反発と言えばいいのか過剰に反応してしまい、大事故に繋がることもあるのだそうだ。
 リリアンがそういう事故があったと聞いた事はない。それは近年になって対策が講じられたからだとアルベルトは言う。

「それをどうにかしようと作ったのが、あれだ」

 アルベルトが指し示す先、ひらけた室内の中央に大理石でできた台がある。扉のつけられていないそこは窓が無く薄暗かった。

「足元に気を付けて」

 その言葉に従って、中央の台に近付く。

「もしやこれは、お父様が作られたの?」
「そうだな」

 頷くアルベルトはどこか自慢げだった。その理由はリリアンにもなんとなく分かる。実用的なものだと言うが、台座に置かれているのはそうとは思えない、神々しさのようなものを漂わせている。
 台座の上に乗っているのは白い水晶玉だ。不思議な雰囲気のあるそれは、よくよく観察してみると中でなにかが渦巻いているような、そんな魔力を感じる。
 曖昧な判別しかできなかったものを確実にする為に開発した。対外的にはそういう理由付けがされているが、実際にこれを作ったのは、従来の手段ではアルベルトの魔力量が測定できなかったからだ。
 自分の魔力量が多いのは理解していたものの、それがどの程度なのかは分からない。そこへ視認する手段があるとなれば試したくなるというもの。それで早速それを取り寄せて試したのだ。クラスター状の白く濁った水晶に魔力を注ぎ、色と光量で属性と魔力量を判別するという説明を右から左に聞き流し、アルベルトは水晶に魔力を込めた。次の瞬間、パンと高い音を立てて水晶が四散した。
 どういう事かと思ったが、どうやらアルベルトの魔力に水晶が耐えられなくなった結果らしい。ちょっと、ほんの少しだけ魔力を込めただけなのに、水晶は砕け散った。
 自分の魔力量がどの程度なのか見られると思っていたのに、確認できなかった。そうなるとなんだか少しもやもやする。
 なので、その測定用の白い水晶を素材に、もっと耐久性のあるものを作った。ついでにいまいちだった精度も的確に判別できるようにした。完成した装置に魔力を注ぐと、石は煌々こうこうと輝く。それでようやくアルベルトは満足したのだ。
 確認したかった事が確認できたので、装置は廃棄しようと思っていたが、請われて天文台に寄贈したというわけだ。ただどのくらい魔力量があるのかを知るだけのものなのに、なぜか部屋も移され立派な台座が用意された。それでより儀式っぽく見えるようになっていたのには呆れたものだ。
 ともかくそうして設置された判別装置。台座に鎮座した水晶玉に手を乗せれば、その人物の魔力量と属性が判断できるのだという。

「判断基準は以前と変わらない。属性は色、魔力量は光量だ」
「前にドレスに使った魔石とは違いますの?」
「少し違うな。あれは込めた魔力量によって光り方が変わるが、これは魔力の質だけで判断ができる。魔導士の間でだけ知られた物質だそうだ」
「まあ、それで」

 珍しくて不思議だと思ったが、そういう理由なら納得だ。リリアンは改めて水晶玉に視線を向ける。

「どんな風になるのですか?」
「それはこれから見せる」
「リリアン様、こちらを」

 アルベルトが装置に手をかざす前に、ベンジャミンがリリアンに黒いレンズの眼鏡を差し出した。首を傾げながらリリアンはそれを受け取る。

「これは?」
「かなり眩しいですから。着けておかないとまずいです」
「まあ」

 見れば、ベンジャミンも一緒にいたシルヴィアも、いつの間にか同じものを着けていた。リリアンは彼の助言に従って眼鏡を掛ける。それを確認したアルベルトは装置へ魔力を込めた。
 白い水晶玉の中央が淡く光ったように見えた次の瞬間、部屋は真っ白な光で埋め尽くされる。真夏に太陽を見上げた時のような強烈な光だ、確かにこれは、この眼鏡無しでは居られないだろう。

「まあ。とっても明るいわ!」
「凄いだろう。私くらいだぞ、これだけ光らせられるのは」
「そうなの? さすがお父様だわ」

 強い光の中にいるせいで、アルベルトの顔は影になっていてよく見えない。それでも声色からして得意げになっているのが分かった。リリアンはくすりと微笑む。
 今はとても明るいが、魔力量が少ない場合は光量が少ないらしい。部屋が薄暗いのはその為だという。明るい室内では確かに、淡く光るだけだと確認が難しいだろう。
 そんな煌々と光る水晶玉の真横に居て、アルベルトは眩しくないのだろうか。リリアンはふと気に掛かった。

「お父様は眩しくないの?」
「少しな」

 やはり多少は眩しいらしい。それでも水晶玉から手を離さないのは、リリアンにじっくりこの様子を観察してほしいからに違いない。
 それでリリアンは、改めて室内を見回す。薄暗い中では見えなかったが壁の装飾は見事だった。大教会に見られるような、蔦の細かな彫刻が施されている。
 壁が妙に白っぽく見えて、ようやくリリアンはそこに思い至った。

「属性が色に出るというお話でしたけれど、白いのはなぜ?」
「複数の属性持ちだと色が混じることがある。そのせいだ」

 そんな事があるのかとリリアンは目を見開く。何もかもが初めて見聞きすることばかり。まだ天文台へは来たばかりだが、リリアンにはとても刺激的だった。
 驚くリリアンの姿に満足したアルベルトはようやく水晶玉から手を離した。すう、と明かりがなくなって、室内は入った時よりも暗く感じる。黒いレンズの眼鏡をベンジャミンに渡した後もずっとその感じが残っているのは、やはり光り方が強烈だったからだろう。
 アルベルトは、まだ目が慣れないリリアンの手を取って立ち位置を入れ替える。

「リリアンもやってみるといい」
「良いのですか?」
「勿論。普通に魔法を使う時の様にすればいいだけだから」
「では失礼して」

 内心、ちょっとやってみたいなと思っていたリリアンは、緊張しつつも楽しみに水晶玉に手を乗せた。言われた通り、魔法を発動させる時のように魔力を操ると、水晶玉の様子が変化する。
 最初はやはり中央が淡く光った。それが広がると同時に青く変わっていき、水晶玉が白から青に変化する。

「さすがリリアン! 見事な深い青、素晴らしい輝き。王宮魔導士以上の光量だ、さすがは私のリリアンだ!」

 色は、透明感のある濃い青。光の強さはさすがにアルベルトには及ばないが、直視できないくらいには強くて申し分ない。
 実際、リリアンの魔力量は相当なものだ。レイナードもかなりのもので、魔法使いとしてはマクスウェルとほぼ同等となる。この光の強さだと、そんなレイナード達と同じくらいの光量だろうか。リリアンは魔法使いとしてのポテンシャルがかなり高いと言えた。
 アルベルトはリリアンに対してお世辞なんか言わない。大袈裟ではあるが事実だけを述べる。だから先程のアルベルトの言葉はただの事実だ。リリアンは、本当に王宮魔導士よりも魔力があるのだ。
 そうとは知らず、いつもの様子で捲し立てるアルベルトにくすりと笑んで、リリアンはそっと水晶玉から手を離した。

「こんな体験もできるのですね。良い事だと思いますわ」

 天文台は普段、見学者が来るような施設ではない。居たとしてもこれを試させたりはしない。リリアンだから特別なのだが、それを口にする必要はないだろう。笑顔を浮かべたまま、アルベルトは黙っていた。

「ところでお父様、天文台でご用があったのではないの?」

 その後は、アルベルトに割り当てられた部屋へ案内しようとしていたのだが、ふとリリアンがそんな事を言う。その言葉にアルベルトはすっと視線を逸らした。

「いや、うん、それはまあ、うん」
「でしたら早く済ませないと。職員の皆さんがお困りなのでしょう?」
「それは……いや、あれは言葉の綾だ、多分。きっとそこまで急ぎじゃないんじゃないかと」
「まあ」

 突然廊下を進む足を止めたリリアン。足音が止まったのでアルベルトは振り返った。そこではリリアンは眉間に皺を寄せ、怪訝な目を父親に向けている。

「お父様。それはほんとう?」
「いや、……うん」

 そんなリリアンを直視出来なくて、思わず視線を逸らしてしまった。両方の指先を擦り合わせもじもじするアルベルトに、リリアンは言う。

「早く済ませてしまいましょう?」
「……はい」

 アルベルトは渋々、所長室へ向かった。


◆◆◆


 所長室は五つある塔のうち、出入り口から最も遠い塔の最上階にある。不便そうに思えるが、かつての権威の名残だそうだ。
 螺旋状の階段を上がり、最上階まで登ると窓からの景色に空が見えるようになる。思ったより高いのね、というリリアンの言葉を新鮮に感じながら、このフロア唯一の部屋へ入っていく。
 扉の向こう側はごく普通の執務室と変わりなかった。そこにいるのは眼鏡をかけた白衣の女性と、くたびれた様子のやつれた男性。
 扉が開くなり振り向いた女性は、「あら、まあ!」と声を上げた。

「アルベルト様ではありませんか!」
「知らせは出しただろうが」
「本当にいらっしゃるとは、というのが本音でございます」

 女性の言葉は、アルベルト相手にしては無礼にも聞こえる。ただ、アルベルトがそれを気にした様子がなかったので、リリアンもそれを指摘するのはやめた。
 所長室には大きめの机が二つ置かれている。そのうちの一つは綺麗に整頓されているが、もう一つは書類が山積みになっていた。その、書類がいっぱいの方に女性は向いている。その机を前に座っている人が居るからだろう。

「ああ、よく来て下さいました」
「リリアンが来たがっていたからな、ついでだ」

 たくさんの書類を前にしていた男性が椅子から立ち上がる。彼は机をぐるりと回り込んで、アルベルトと位置を入れ替わった。

「整理はしておきましたので、こちらからお願いします」
「準備のいい事だな、相変わらず」
「それだけが取り柄なので」

 人の良さそうな人物ではあるが、強かな所もあるようだ。にこにことしながらアルベルトを椅子に座らせ、早速処理させようとしている。見事な手際である。
 それを見守っていたリリアンを、男性が振り返った。

「魔法天文台へようこそ、リリアン様」
「わたくしをご存知なの?」
「ええ、もちろん。閣下がブロマイドを見せびらかして……ごほん、ヴァーミリオン家の研究結果を開示して頂きまして、その際にお顔を拝見しております」
「まあ」

 ついうっかり溢れてしまった本音を、男性は笑みで誤魔化す。少しも悪びれていない様子なのがおかしい。リリアンもつい笑ってしまう。
 アルベルトが彼の後ろから睨み付けているのを知ってか知らずか、男性はそのままリリアンに向かって腰を折った。

「私は魔法天文台の所長を務めております、オリバーと申します。そちらは副所長のエマと言います」
「初めましてリリアン様、エマ・ソレインと申します。エマとお呼び下さい。お目に掛かれて光栄です」

 ええ、と返して、リリアンは首を傾げる。
 オリバーもエマも、羽織っているのは白衣だ。塔の中で見かけた魔導士とは違う。魔導士達は、いずれも黒っぽいローブ姿だった。個人の自由なのかもしれないが、どうして彼女達だけ白衣なのか。
 白衣姿の彼女達は、魔導士というより学者に見える。

「魔法天文台には魔導士しかいないと聞きました。あなた方も魔導士なの?」
「はい。いつもローブではなく白衣なので、薬学の研究者などに見られがちなのですけれど。れっきとした魔導士です」
「ローブではないのはなぜ?」
「この方がより研究者っぽいでしょう? 見た目を重視した結果です」

 リリアンは再び「まあ」と呟いて笑顔を浮かべる。エマの胸を張る姿が可笑しかったのだ。
 そんなリリアンにエマも微笑む。

「専門は魔力が生物に及ぼす影響の観察、及び分析ですわ」
「難しい研究をなさっているのですね」
「その分、やり甲斐がございますよ」

 エマは、何も知らないリリアンに対しても実に丁寧だった。面倒がらずに説明するのは当然として、内容が分かりやすい。楽しんで貰おうとしているのが分かるから、リリアンも真剣に彼女の話を聞いている。
 部下の意外な一面を確認したのはいいが、リリアンへの説明をするという役目を譲った覚えはない。アルベルトは楽しげなリリアンの様子を複雑な思いで見ていた。

「リリアンを案内しないといけないんだが」
「ですが閣下、こちらは一刻も早く処理して頂かないと困るのです。なにしろ本日中に城に提出しないといけませんから」
「だったら兄上に猶予を貰うよう言っておく」
「その手間を考えたら、処理してしまった方が早いですよ」

 ちっ、と舌打ちをしたアルベルトは、そのままエマを睨み付けた。

「リリアンが退屈するといけない。ソレイン、そのままリリアンの相手をしていろ」
「ええ。ではアルベルト様、承りますのでなにかください」
「…………」

 エマは頷くなり、手のひらを上にして両手をさっと前に突き出す。それにリリアンは驚いた。アルベルトの命令に対して、なにか対価を要求する人を初めて見たのだ。思っていたより、魔導士というのはしたたかなようだ。

「いつも言っていますのに何も頂けないのですもの。今日ぐらいは良いのでは?」
「いつも言っているが、私にそんな事を言うのは貴様くらいだぞ」
「ええ、それに何の問題が?」

 訂正、相当強からしい。魔導士全般に言える事なのか彼女限定なのか、リリアンに判断はつかなかったが。
 半分呆れた心地でいるリリアンの前で、エマは更に畳み掛ける。

「なにか、ごく少量で構いません。例えば、アルベルト様の髪の毛ですとか」
「か、髪の毛?」

 驚いて、思わずリリアンが口に出すとエマは真剣な表情で頷く。

「ええ、髪の毛です。なんなら切った爪でも良いのですが。魔力というのは人体に宿りますが、それは全身に行き渡っているのです。通常、そこまでではないのですが、アルベルト様ほどの魔力量ですと、髪の毛一本だけでも相当な魔力が残っています。研究用にそれを頂けないか、いつもお願いしているのですが。一度も頂けたことがないのです」

 本気で残念がっているエマに、呪術に使わないのではないなら構わないのでは、とリリアンが考えた時だった。ごほん、と咳払いが聞こえたので、思わず振り返る。

「当然です。旦那様の魔力はとても強力ですから。いくら天文台の研究用とは言え、お渡しするわけには参りません」

 そう言ったベンジャミンは渋い顔をしている。怒っているようにも見えた。やはり不遜なのだからだろうか。
 父親が凄い魔法使いだというのは、リリアンももちろん知っている。それ故に魔法研究の分野では有名なのも。
 実際、アルベルトが使う魔法はとても大規模ですごい。隣国で畑を耕したり種蒔きしているのを見たリリアンは、それを実感した。
 では、だったらその娘のリリアンの髪にだって、それなりの魔力があるのでは。さっきの水晶玉を使った儀式、それを見たアルベルトの反応からしても検討外れではないかも知れない。そう思い、リリアンがすっと視線をベンジャミンの隣にいるシルヴィアに向けると、彼女は頷いた。

「お嬢様の頭髪も、公爵家で然るべき処理をしております」
「そうなのね」

 知らなかったわ、と続けてリリアンは瞬く。今まで随分丁寧に使った櫛の手入れをしているなあと思ったのは、それも理由なのだろう。
 感心しているリリアンは知らない事だが、櫛に残った銀髪は、綺麗に汚れを拭った後、専用の瓶に入れ保管される。残留した魔力が無くなれば焼却処分されるが、それまでは厳重に管理されるのだ。
 これには大事な理由がある。万が一公爵家の者に何かがあった場合、緊急用の魔力供給源とするためだ。
 アルベルトのものが一番効果が高いが、子供達のものであっても充分に魔力が残っている。魔石からの魔力供給は効率が悪く時間が掛かるが、頭髪などを使用した場合はすぐに補給されるのが確認されていた。有機物であるのが重要なのか、それとも血族のものだからなのかはまだ解明中だが、有用だと判断されたのだ。
 そしてこれらは、もしもの際に王家に渡される。そういう意味でも重要と言えた。
 もっともそれはエマも知らない。彼女は思いの丈をぶちまけていた。

「はっ……! そうだわ、閣下のものが駄目なのでしたら、リリアン様のであればどうでしょう!?」

 がばっと顔を上げたエマの眼鏡が、きらりと光を反射した。頰を紅潮させたエマは満面の笑みを浮かべているが、それを向けられたアルベルトは、目を細めてエマを睨み付けている。

「駄目に決まってるだろうがド阿呆」
「だってアルベルト様はくださらないではないですか。なら、リリアン様のものをください! 一本でいいですからっ!!」
「…………」

 ぴくりとアルベルトの口角が上がる。目を細めているのにそうするのは怒っている時だ。リリアンは驚いていたが、それ以上父親の様子を確認する事はできなかった。リリアンの視界をシルヴィアが遮ったからだ。
 シルヴィアは、リリアンとエマの間に立ち塞がるように前に出ている。ちらりと見える横顔は警戒の色が濃い。エマがリリアンの髪を抜き取るのを警戒しての事だろうが、ここでリリアンを襲うくらいなら、すでにアルベルトを狙っていそうなものだ。気にし過ぎなのではないかというリリアンの思考は、アルベルトが強く拳を机に叩き付けた音で霧散した。

「私だって研究に使いたいのに我慢しているんだぞ、それを貴様なんぞに渡すとでも思うか!? 身の程を知れ、馬鹿者が!!」

 怒鳴るアルベルトからは魔力が漏れ出ている。耐性が無ければ血の気が引いて、青褪めるくらいには迫力があるものだ。シルヴィアの後ろで見ているリリアンも、久々に見る姿に驚いていたのだが。

「じゃあ、なにかください! 別のものでいいので!」

 エマはこれっぽっちも気にした気配が無かった。それどころか更に手を突き出して報酬を要求している。
 リリアンはその姿に目を丸くした。このエマという人物は、リリアンの想像よりも遥かに強かで、それでいて怖いもの知らずのようだ。大抵の人はアルベルトに怒鳴られると顔色を失くすというのにそれがない。その上で更に要求を通そうとしているのは、はっきり言って凄い。
 呆気に取られるリリアンの前で、アルベルトは胸ポケットから青い筒を取り出すとそれをエマに向かって投げつける。

「えっ、これは……!」

 危なげなくそれを受け取ったエマは、手の中を見るなり歓声を上げた。

「まさか、ミスリル!?」

 リリアンも見せて貰うが、エマの手にあるのはミスリル製の武具〝リベラ〟で間違いなかった。が、あれは今レイナードが持っているはずなので、それとは別のものだ。これはもっと短くて、中央にあるはずの切れ目が横にずれている。二つに分かれる、というよりも、蓋が付いていると言った方がしっくりくる。
 エマは、筒を振ったり目の上に翳してくるくる回したりして観察している。

「こ、こ、これは一体どういう魔道具なんですか? 振るとさかさか音がする……とても純度の良い魔力を感じるわね。どう使うのです!?」
「蓋を外せ」

 興奮気味の彼女に向かって、アルベルトが蓋を外すよう指示した。言い放つ声は冷え切っている。

「蓋?」
「これですわ。浅い方を上にして、そこを回すのです」

 全く見た事も無ければ分からないだろう。リリアンは余計だろうと思いながらも、横から示してみせる。
 リリアンの説明で合点がいったエマは、言われた通り蓋を外した。

「砂状のミスリル……?」

 筒をひっくり返すと、手のひらに中身が溢れてくる。青く光るのは、砂状になったミスリルだ。
 リリアンはそれを見て、すぐにその筒がレイナードの持つ〝リベラ〟と同じものなのだと理解した。不思議そうに砂を指先で手のひらいっぱいに広げるエマの姿は既視感がある。祖父であるゴットフリートが同じ事をしていたのを思い出した。
 リリアンも砂を触らせて貰ったが、さらりとしたそれはごく細かく、濡れた指でも不思議とくっついたりしない。それなのにどこかしっとりとした手触りで、レイナード曰く魔力を放出すると固まるのだそうだ。
 このままエマが触っていて、不用意に魔力を放出してしまったら、大変な事になるのでは。そう思っていると、慣れた魔力が湧き上がるのを感じた。机の向こうで険しい表情のままでいるアルベルトのものだ。
 ぶわりと上がったそれは、エマの手の上の砂を動かした。

「まあっ!」

 エマはそれに歓喜の声を上げた。凄いわ、どうなっているのと目を輝かせている。リリアンもそれを間近で見ているが、なんだか様子がおかしい。レイナードに見せて貰った時はもっとこう、砂が空中に持ち上がるように動いていたが、今のこれはエマの手を這うように……というか、纏わりつくように蠢いている。
 どうしてこんな操作をするのか。不思議に思って視線をアルベルトの方に向けると、物凄い形相で彼女を睨み付けている父親の姿があった。 

「ふざけた事を抜かす不遜な奴め……! このままお前の爪を剥いでもいいんだぞ!」

 しかも、なんだか怖い事を言っている。

「お、お父様」
「ああーッさすが閣下、素晴らしい魔力操作ですッ! 砂の一粒一粒に魔力が込められ正確に私の手を這っていく……ふひっ……! なんて繊細で精密な魔力の動きなの! それをこの身で感じ取れるだなんてっ……す、素晴らしい発明品ですわぁッ!!」

 が、その声はエマには届いていないらしい。というか、なんだかおかしな事を言っている気がする。アルベルトの様子にも気付いた気配が無かった。リリアンが見る限り、どう見てもアルベルトはかなり怒っているのだが。

「貴様なんぞに、いや、この世の誰にもリリアン自身から剥がれ落ちた欠片を渡すものか。それを、軽々しく要求するなんて」
「クヒッ……! 締め付けが強くなっていく! ど、どういう術式なんです? どうなっているんですこれはッ」
「喧しい!!」

 アルベルトの怒号でも、エマが怯む事はなかった。ふんふんと鼻息荒く自分の手を見詰めている。目は爛々と輝いて、砂の動きを追っていた。
 その姿は何かを彷彿とさせるのだが、驚くリリアンはそれに辿り着けない。女性の、いや、大人のこんな熱中する姿は、身近で見たような気がするのだが——。
 思案するリリアンの耳に、突然異音が入ってきた。ミシミシ、ギチギチと聞こえるのはエマの手元だ。
 まさかと思い振り返れば、アルベルトからは引き続き魔力が湧き上がっている。砂を操作し、強く絞め付けているらしい。
 それだけではないだろう。先程の言葉の通り、彼女の爪を剝ごうとしているのかもしれない。実際、砂はエマの爪先に集まっているように見えた。
 リリアンは慌ててアルベルトを静止する。

「お父様。生爪を剥ぐだなんて拷問みたいな真似、おやめになって」
「……リリアンがそう言うなら」

 そう言えば、アルベルトは眉間に皺を寄せながらもエマの手を絞めるのを止めてくれた。ふっと魔力が途切れ、砂が溢れ落ちる。
 これで安心だろうと胸を撫で下ろしたが、そんなリリアンの気遣いを、当のエマが台無しにした。

「待って下さい閣下、あと少し! 一分、いや三十秒だけでもッ」
「やるわけないだろうが!」

 吐き捨てるアルベルトは不満を全面に出している。虫けらを見るような目はよく他者に向けているもので、刺し込むような視線は誰もが震え上がる鋭いものだ。
 リリアンには見慣れたものだったが、それすらもエマが堪えた様子はない。

「はぁ、素晴らしい時間でしたわ……」

 ミスリルの砂が筒に戻った後のエマの手は、砂が這った跡が赤く残っている。ちょっと痛そうに見えるそれを、恍惚として眺めるエマの姿は、はっきり言って異常だ。ちょっと怖い。
 思わず後退ったリリアンと、それまで無言でいたオリバーとの目が合う。
 オリバーに動揺した気配は無かった。彼はやはり、人の良さそうな笑顔をリリアンに向ける。

「ここにいるのは、熱烈な魔法のファンばかりなのですよ」
「そ、そのようね」

 リリアンにはそれしか言えなかった。
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