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幕間 アルベルトの居ない王都

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「はあ、やはりこうなったか」

 トゥイリアース王グレンリヒトは、ふう、と息を吐いた。

「まったく、うまくいかないものだな」
「それはそうよ、うまくいく方がおかしいわ。抑圧されていれば反動が出るのは自然の摂理なのだし」
「とは言ってもなあ」

 思わずまたため息が溢れる。どうにも憂鬱だった。やらないといけない事は山積していたが、それに手を付ける気になれない。
 普段は、本音はどうあれ落ち着いている城内が、この間から騒がしくなっている。怒号が飛ぶとか、何か危機があって対応に追われているとか、そういう騒がしさではない。そこかしこで囁かれる小さな声が、あまりにも大量に、あちこちで頻繁に交わされているせいだ。
 それは例えば、公共で行われている工事を遅らせて工賃を不当に得ようとする口裏合わせであったりだとか、政敵の不正のでっちあげだとか、つまるところ悪巧みだ。無論そればかりでなく、国として正しい動きを取ろうとする者達も多かったが、それらが入り乱れた結果、実に多くの者達が動いたらしい。悪巧みのそれらが直接王の耳に入る事はないが、そういう動きが見える機会が増えたせいだろう、動きを掴んだ側近達の報告が相次いだ。それもあってグレンリヒトの周囲は慌ただしくなっている。
 予想していた事だが、今回は酷い。それもこれも、ここの所アルベルトの動きが活発だったせいだろう。
 アルベルトが何か事業を起こす。奴のやる事は規模が大きいから、たくさんの金と物が動く。雇用も生まれるし、事業に携わる多くの家や商人は利益を得る事になる。そうすると、当然、それが不都合になる家もたくさんあるのだ。利益を得る為関わろうとして断られたり、ライバルを蹴落としたかったりと理由は様々だが、アルベルトが、いや、ヴァーミリオン家が台頭していると困る。そういう連中が、アルベルトが不在の今、得られるはずだった利益を補おうと暗躍しているのだ。

「ここまでとはな」

 と、それがグレンリヒトの率直な感想だった。過去の例からいって、多少なりとも今回もそういう動きがあるだろうとは思っていたが、今回は予想以上だ。

「リリィローズ織、ティーメル牛、ドレスの生地に蝗せんべい……はそれ程でも無いわね。それと、今回のミスリル鋼でしょう。確かに例年と比べると派手かしら」
「規模がでかかったからなぁ」
「そうねぇ」

 グレンリヒトとシエラは、机に積まれた書類の束を前に重苦しい息を吐く。

「あいつは本当に、居ても居なくても困るな」
「そうねぇ。本当にねぇ」

 書類は悪巧みの結果改竄されたものであったり、その証拠だったり報告書だったりと様々だ。それらを全て精査して承認する。それがグレンリヒトとシエラの仕事であったが、山と積まれたそれがいくつも立ち並んでいるのを見ると手が出ない。

「マクスウェルに少し回すか……」

 グレンリヒトがぽつりとそう溢したが、あら、とシエラが夫に向く。

「レイナードも一緒に領地へ帰っているとかで、あの子も手一杯なんですって。クロエが手伝いに行くくらいだから、相当じゃないかしら」
「……そうか。じゃあ、無理だな」

 一山くらい、息子に押し付けようとしていたグレンリヒトは手を引っ込める。代わりに隣の山の一番上に乗せられた書類を手元に取ったが、署名が厄介な狸爺のものだったので、思わず手が止まる。うまく出し抜いて甘い汁を啜るタイプの男だが、アルベルト相手にその手法は通用しないせいで、苦汁を舐めさせられる事が多い。アルベルトが不在の間を狙って嘆願書を出したようだが、仕事を任せると税金で無駄な事をするから、印を押す気にはなれない。却下したところで書き直した同じ物がまた届くだけだ。手にしたその嘆願書を、グレンリヒトはそっと別の山の下の方へ差し込んだ。そしてその山を机の端の方へ移動させる。こうすれば、かなり後回しにできるだろう。
 書類を裁決し、面倒そうなのが出てくれば、同じように別の山に差し込んで移動させる。それを繰り返しているせいで、最初の山がまた戻って来る事になるのだが、とにかく数を減らさない事には始まらないとグレンリヒトは判を押していった。シエラが目を細めているのは見えていなかった。見たら手が止まってしまうからだ。呆れた顔のシエラを直視しては、無心で仕事をするのが難しくなる。グレンリヒトはひたすらに書類に目を通していった。


◆◆◆


 グレンリヒトがシエラに半目を向けられていた頃、マクスウェルも自分の執務室で書類と向き合っていた。ただ、そこには、彼の他に三人の人物が居る。マクスウェルの婚約者のクロエと、マクスウェルの弟である第二王子のルーファス、それからルーファスの婚約者、セレストだ。
 なぜクロエのみならずルーファスとセレストまでもがマクスウェルの執務室にいるのか。その理由はレイナードにあった。レイナードがヴァーミリオン領へと戻ってしまったせいで、グレンリヒト同様マクスウェルにも大量の仕事が舞い込んだのを捌ききれなくなったのだ。
 それでクロエが応援に駆け付けたわけだが、それでもとてもではないが追い付かない。

「どうしろっていうんだ、この大量の書類!」

 うがあっ、とマクスウェルは叫んで頭を抱える。机の上は紙でいっぱい、いつもレイナードが座っている場所に居るはずのクロエの姿が見えないくらいの量だ。薙ぎ倒してやりたい衝動に駆られるが、ざっくりと分類されたそれを崩すだなんてとんでもない。椅子に座るにも気を使う有り様で、クロエも最初部屋に入った時には目を丸くしたくらいだ。
 纏め終わった書類を机でとんとんと揃えて、クロエは頭を抱えるマクスウェルに向いた。

「他に誰か、お手伝いして貰ったらどお?」
「そうは言っても、お前以外に居るか? 父上も母上も似たようなもんだろ」

 そうよねぇ、とクロエは頰に手を添える。

「王族以外には見せられないものねぇ。そのせいで陛下達もお忙しいみたいだし……なら、そうだ、ルーファスはどうかしらぁ?」
「は? ルーファス?」
「そう、ルーファス~。あの子だって王族じゃない」
「それは、そうだけど。あいつはまだ成人前だし」

 その言葉に、あら、とクロエは瞬く。

「マクスだって、成人前からやってたじゃない。ならルーファスだって、いいんじゃないかしらぁ」

 マクスウェルはクロエの言葉に、ぱちぱちと瞬いた。そして五秒くらい固まって、その後盛大にため息をを吐く。嘘だろ、と呟くと、そのまま両手で顔を覆った。

「その発想は無かった」
「なんで~?」
「いや、まあ、俺が居たし」

 気まずそうな声で言ったマクスウェルに、クロエはにこりと笑みを向ける。クロエは、王太子となるべくマクスウェルが大変な努力をしていたのを知っている。責任感が強い彼の事だ、きっと弟達に苦労をさせたくないとか、立派な姿であろうとした結果なのだろうと、そう思う。それが少しばかり裏目に出てしまったようだが、なに、変えられるのなら今から変えればいいのだ。
 クロエは、普段通りの明るい調子で言った。

「あなたに何かあったら、後継はあの子でしょう? ならオッケーよ。ぜーんぜん大丈夫。お任せしちゃいましょ~」

 無駄に重く考えて欲しく無いが為にそう言ったのだが、なぜかマクスウェルは薄く笑みを浮かべたまま硬直している。どうしたのだろう、とクロエが首を傾げても、そっと目を逸らされてしまう。

「マクス?」
「ああいや、うん。そうだな。その通りだ」
「そうよぅ~?」
「うん……楽になるもんな。それは良いが、お前の口からそんな言葉聞きたくなかったかな……」
「え? なんで?」
「いや……うん……」

 一切悪びれた様子のないクロエに、マクスウェルは言葉を飲み込んだ。彼女の事だから、本当に悪気は無いのだろう。マクスウェルに何かあれば、その時はルーファスが王太子となる。婿入りが決まっている身ではあるがその辺の変更なんて問題にはならない。
 ただ、クロエがそれを言ったという事が、マクスウェルの胸を抉った。思う所が無いからこそはっきりと言えるのだろうが、だからと言って聞かされたいものでもない。
 がっくりと肩を落とすマクスウェルだったが、そうしていても始まらないので立ち上がった。ルーファスは丁度セレストとお茶をしているらしい。セレストには可哀想な事をしてしまうが、緊急事態なのでどうにか許して貰うしかないだろう。
 そんなわけでクロエを伴い、マクスウェルはルーファスとセレストがお茶をしている所に乗り込んだ。急な来訪にルーファスもセレストも目を丸くする。

「そういうわけで、ルーファス。お前ちょっと来い」
「は? なんで?」
「非常事態なんだよ」

 と、そう言うマクスウェルにルーファスはますます首を傾げる。クロエまで一緒なのだから、本当に異常が起きているのだろう。それは分かるが、だからと言ってどうして今なのか、と思わなくもない。
 ルーファスがリリアンにくびったけになって、本来の婚約者であるセレストを蔑ろにした。彼女を深く傷付けた。それを咎められ、ルーファス自身もその事を深く反省し謝罪した。セレストがその謝罪を受け入れた事で現在は関係修復の真っ最中だ。このお茶会もその一環なのだ。ろくに会話をしないのも問題だったが、そもそも二人一緒に過ごすというのがほとんど無かったものだから、シエラが激怒して強制的に時間を設けさせたのだ。
 ルーファスだって、どうにかしないといけないとは思っていた。けれど、なにから始めていいのか分からなかった。だから正直に言ってこの措置には助けられた。
 情けない話だが、と前置きをして、ルーファスは敢えてそれをセレストにも伝えていた。何かしないと、とは思ったものの、何から始めればいいのか分からなかった。母親に言われての事ではあったが、決して渋々やっているのではないと、そう伝えたのだ。正直に告白されて、はじめセレストは呆れたものの、ルーファスの言葉に嘘は無いと思えた。真剣にセレストと向き合おうとしているのが分かったのだ。長年ルーファスを追うだけだったセレストとしては、まずそれが嬉しかったから良しとした。いきなり自分から進んで何かをするというのはハードルが高いだろう。
 そういうわけで、何度目かのお茶会を楽しんでいた所だ。二人共ようやく慣れて、自然と会話を続けられるようになった頃だった。以前はあれだけセレストに対して不誠実だったルーファスを責めていたマクスウェルが、今はその機会を中断させようとしている。少し身勝手なんじゃないかとルーファスは眉を寄せた。

「セレストちゃん、折角のデートなのに、ごめんなさいねぇ。この埋め合わせは必ずさせるわ、ルーファスに」
「いえ、クロエ様。それは良いのですが……非常事態、とは?」

 そんなルーファスとは対照的に、セレストはマクスウェルとクロエの言葉に真摯に耳を傾けていた。セレストは彼女の父親譲りで、非常に真面目な性格なのだ。そういう所は好ましいなと、ルーファスはカップに口を付けた。
 その直後、クロエが至って真面目な表情で言った。

「マクスがね、死んじゃうかもしれないの」
「ぶふっ!」
「ええっ!?」
「いや、死なないから!!」

 マクスウェルは即座にクロエの言葉を訂正する。セレストは「そうですよね」と胸を撫で下ろした。その正面では、ルーファスが紅茶を吹き出し咳き込んでいる。「あらあら」とクロエがナフキンを差し出していた。
 元気そうなマクスウェルが、今すぐどうにかなるとはセレストだって思っていなかったが、クロエの言葉はどこまでが本気なのかいまいち掴み切れないところがある。だからこんな事はしょっちゅうだった。まあ今日は、久々に聞いたものだから驚いてしまったが。
 それはともかく、一体どういう要件なのだろう。顔を見合わせるルーファスとセレストに、マクスウェルはごく真面目な表情で言った。

「仕事手伝ってくれ」
「…………」

 ルーファスの咳がぴたりと止まった。


 ここの所気持ちを入れ替え、教育をしっかりと受けるようになったルーファスは、四苦八苦しながらも書類を片付けていった。セレストは関係のある資料を纏めたり、部下とルーファスとのやり取りをメモに書き写して、ルーファスの補佐をした。
 ルーファスなりに考えて、ひとつひとつの案件を確実に処理している。セレストがさり気なくそれを助けているお陰もあって、自然と二人の会話は多くなった。実にいい感じだ。仕事は片付くし、二人の関係改善にも一役買っている。将来的にルーファスがアズール家に婿入りし、王族から外れる予定である事を除けば完璧である。基本的に王族以外の目に触れてはいけないものがルーファスの手元にあるからだ。まあ、それは普段、レイナードが見ているものでもあるから、今更だが。

「やれば出来るじゃないか、ルーファス」

 あまりに膨大過ぎて途方に暮れていたものの、弟の助けもあって少しずつ処理が進んでいった。それに気を良くしたマクスウェルはそう言ったが、彼からは冷たい視線を向けられるだけだった。
 いきなり仕事を手伝って欲しいと言われたルーファスは半目でじとりと兄を見た。未だかつてそんなセリフを向けられた事なんてなかったのだ。それがどうして今になって、と思ったが、半ば強制的に連れ込まれた執務室、その机に積み上がった書類を見て納得した。寝ずに休まずに処理をしたとしても、いつ終わらせられるのか検討のつかない量の紙が置かれていたのだ。その内容までは分からなかったが、これはそのままにしておくとまずいと、さすがにルーファスも危機感を抱いた。ルーファスはその場で協力を申し出たのだ。
 セレストには悪いが、お茶会はまたの機会にしよう、と言おうとしたところ、「ではわたくしは整頓をしますわね」となぜか前のめりだった。瞬くルーファスに、セレストは首を傾げるどころか「さ、ルーファス様、お早く」とせっつく。やる気満々だった。

「あら。セレストちゃん、お手伝いしてくれるのぉ?」

 クロエがゆったりとした口調でそう言えば、セレストは逆に驚いた顔をした。

「いけませんでしたか?」
「うぅん、ちっともぉ。でも、いいのかなぁって」
「お茶会の事でしたら、お気になさらず。それよりも、ルーファス様がやるのでしたら、わたくしはそれをお助けするだけです」

 セレストがそう言えば、クロエは「まあ!」と口元を両手の指先で押さえる。

「すごいわぁ! セレストちゃんてば、愛が、愛がすごい! ねえマクス、聞いたぁ?」
「あ、うん」
「いいわぁ。すごいわねぇ! セレストちゃん、ルーファスの事、ずっとずぅ~~っと助けてあげてちょうだいねぇ」

 うふふ、と上機嫌なクロエを前に、セレストは顔を真っ赤にしていた。セレストとしては、ルーファスを手伝うのは当たり前だと思っただけだったのだが、自然とそう思える、という事は、つまりそれだけ彼の存在が大きいという事だ。クロエに指摘されてようやくどういう事なのか理解したのだろう。
 手にした書類がぐしゃぐしゃになっていたが、ルーファスはそれをそっと引き抜いて皺を伸ばす。「じゃあ、この辺のやつから始めようか」と声を掛ければ返事は無かったが従ってくれた。
 ルーファスとセレストが作業に取り掛かったので、マクスウェルとクロエも顔を見合わせると自分達も手を動かす。そうして紙を捲る音、ペンを走らせる音と、マクスウェルの部下が出入りする扉の音とだけが室内に響いた。
 しばらくの間は無言のままだったが、作業に集中していれば緊張も和らぐ。会話をしながらセレストと二人、順調に処理をして仕分けをしたものの、これだけ時間が経ったのに片付いたのは一山、の三分の一程度。はあ、とルーファスはため息を溢す。

「この量はおかしいんじゃないか」
「そうなんだ、おかしいんだよ」

 ふ、とマクスウェルは笑みを浮かべて遠い目をしてみせた。

「いつもは提出されないちょっとしたやつとか、どう考えても無茶だから却下されるのがわかってるやつとか、そういうのが本当に重要なやつに紛れてるんだ。普段はレイの奴が片っ端からそういうのを弾いてるんだよ。有無を言わさず受け付けない、即却下する、それでも渡そうとする奴には、受け取れない理由と却下の理由を、正論で淡々と言って聞かせる。真顔でな。舐めた態度の奴は、決まって青褪めて帰っていくからな。あれは見ものだぞ」
「見もの、って」
「実際スッキリするんだぞ」
「そ、そうなのか」

 うん、と頷くマクスウェルは真剣そのものだ。兄の苦労を垣間見た気がする。
 ただ、その言葉が本当なのだとしたら、いささか問題だ。ルーファスは口を尖らせた。

「でもそういうのが混じっているせいで、本来の業務ができないっていうのは問題だろ。どうにかするべきなんじゃないのか?」
「そうしたいのは山々なんだけどな」
「何か問題でも?」

 首を傾げ、そう聞けば、マクスウェルは引き攣った笑みを浮かべてルーファスを見る。

「どうにかできなかったから、レイがひとつずつ潰してるっていうか」
「……ああ、そういう……」

 思わずルーファスも釣られて頰を引き攣らせる。政治的な圧力を掛ければ軋轢が生まれる。それを回避するには、理解して貰うしかない。だがそもそも理解しようとしない輩にはやんわり言っても無駄だ。だから正論をぶつける。それが決して逆らえない相手からだったら、さすがの連中も大人しく引っ込むしかないだろう。それで言えばレイナードは実に適任と言えた。というか、彼以外にそんな真似が出来る人間は、王国内に居ないかもしれない。
 そのレイナードを片腕として持てたのは、マクスウェルにとって幸運と言える。そのせいで苦労している事もないわけでもないが。

「レイが居ないってだけじゃないわぁ。ここまで酷いのは、他にも理由があるのよぉ」

 部屋を一時的に出ていたクロエが、グラスを手に戻って来た。そちらに視線を向けたセレストは一瞬驚いた表情を見せたが、すぐにそれを引っ込めた。

「他の理由、とは」
「ヴァーミリオン公が王都に居ないでしょう? レイも居ない、ヴァーミリオン公も居ない。そんなチャンス滅多に無いから、今のうちに、と思ってるんでしょうねぇ」
「ああ……」

 その名前にセレストは目を細めた。ヴァーミリオン公は、その見た目から婦人達の間で人気が高かったが、男性からは畏怖の対象であった。実際、やる事はある意味で的確だが、苛烈と言っても良かった。物事に対して妥協しない、と言えば聞こえはいいが、理想が高すぎる。彼の理想に合わせるのは相当な努力と工夫が必要だというのを、セレストは良く知っている。その努力と工夫が出来ない人間など、彼は簡単に切り捨てるだろう。でなければ理想になんてとてもではないが到達出来ないから。だから、そういう事が出来ない人達からしてみれば、あのアルベルトという人は避けたい存在なのだ。
 ただ、セレストは父とのやり取りを見ているので、そんな人物とは思えなくなっている、というのが本音だ。あれはただ、娘の事しか眼中にないだけの親馬鹿である。セレストは父シュナイダーと同じくそう考えるようになった。アルベルト本人はそれを聞いても「ふーん」で済ませるだろうが、セレストがそう思っている、という事実は、出来れば周囲には隠しておきたい。セレストは絶対に口にしないようにしよう、と心に誓った。
 それよりも、セレストはとある物の存在が気になって、どうしても視線をそちらへ向けてしまう。

「ところでクロエ様、そちらのグラスは一体?」

 クロエの手の中にあるグラス、そこには緑色の液体がなみなみと注がれている。

「これ? これはねぇ、わたし特製の栄養ドリンク! マクスの顔色が悪いから、元気になって貰おうと思って~」

 そう言ってクロエが掲げるようにして見せれば、ところどころ紫が混じった緑色の液体は、ぼこんと気泡を表面に浮かべた。一体何が入っているのか。セレストには見当も付かない。
 ルンルンとした足取りでマクスウェルの前まで向かうと、クロエはそれを机の上に置いた。ごとん、とグラスが音を立てる。
 おかしい。普通に持って、指四本より少し長いくらいの大きさのグラスなのに、どうしてそんな重たそうな音になるのか。マクスウェルはひくひくと頰を引き攣らせた。

「あー……一応聞くが、これ、何が入ってる?」
「うふふ。聞きたぁい?」
「……あ、いや、いい……」

 グラスを持つと、ふー、と長く息を吐いた。精神集中をしているようだ。何度かそれを繰り返すと、マクスウェルは一気にグラスを傾け飲み込む。
 数秒で飲み干したマクスウェルは、顔のパーツをぎゅうぎゅうに中央に集め、ぬぐぅと唸った。

「舌が痺れる! 水!」
「お水飲んだらダメよぉ、効果が薄れちゃうから。そしたら倍飲まないと」
「グゥッ!」

 倍の量を飲むのは嫌なのか、それ以上は何も言わずに顔を顰めて硬直している。頻繁に口をモニュモニュと動かしているのは、後味が悪いからだろうか。詳細を聞くとこっちまで気分が悪くなりそうだったので、ルーファスは詳しくは問わなかった。
 その特製ドリンクのお陰か、その後のマクスウェルの働きは凄まじいものであった。倍の速さが出ているのではないかと思うくらいの勢いで、書類を捌いていく。
 素晴らしい効き目だな、と感心していたのだが、きっかり三時間後に、マクスウェルが突然ばたりと机に突っ伏した。慌てて駆け寄ると、すっかり放心してしまっている。

「あ、兄上!?」
「あら。効き目切れちゃったのねぇ。新しいの作ってくるわあ」

 慌てるルーファス、セレストとは対照的に、クロエはやはりゆったりとそう言って部屋を出て行く。クロエが戻る頃、マクスウェルは我に返っており、特製栄養ドリンクを見るなり悲鳴を上げた。

「嫌だ! もう飲みたくない!!」
「でも、効くでしょう~?」
「効くけどォ!! 頼むから止めてくれ、死ぬ!」
「死んじゃったら大変だから飲むんじゃない~! ほら、さっきみたいに一気に、ぐいっと!」
「止めろぉーー!!」

 抵抗は見せたものの、口元にグラスを当てられると観念したのかマクスウェルはそれを飲み干した。振り払ったりしないのが彼の優しさなのだろうが、それではいつか身を滅ぼすのではないかと、やはりバリバリと処理を進める兄を見て、ルーファスは心配になる。

「飲まなきゃいいのに」
「マクスウェル様はすごいですわね。あれが愛、というものなのでしょうか」
「うーん。どうなんだろう……」

 ルーファスには、兄の行動は理解出来ない部分が多かった。だが自分に置き換えてみれば、分からないでもない。例えばリリアンがあれを差し出してきたらと考えれば、飲むの一択だ。だとしたらそれはやはり愛なのかもしれない。でも、なんでもかんでも受け入れるのが愛なのかと問われると、違う気もする。よく分からなくて、結局ルーファスは言葉を濁すに留めた。
 ここで「そうかもしれないけど、自分にはセレストの愛の方が分かり易いかな」。そんな風に言っておけば、かなり点数を稼げたものを。ルーファス達の会話が聞こえていたクロエは内心肩を竦める思いだった。そういう所が足りていないのよねぇ、と目を細める。これがマクスウェルなら、きっとクロエにそう言ってくれるのだ。なんだかんだで彼は気が利くから、きっとそうに違いない。
 とは言え、セレストはかなり現実的なタイプだから、もしかしたら「何を言っているんだこいつは」と思うかもしれない。それでもセレストに応えようとする姿勢は評価してくれるだろう。だからやっぱり、分かり易いロマンチックな言葉を言うべきだったのではないだろうか。

「長く掛かりそうねぇ」
「クロエ様、何か仰いました?」
「ううん。なんでもないの~」

 目の前の二人の事は、時間が解決してくれるだろう。今はとりあえず一日でも早くレイナードに戻って来て貰いたい。婚約者の身を案じるクロエは、ただそれだけを思った。

「副作用が出る前に、戻って来てくれるといいんだけどぉ」
「……義姉上、今なんて言いました!?」
「副作用が出る前に戻って来てくれるといいんだけど、って」
「これ、副作用があるんですか!?」
「そうなの~。でも常飲しなければだいじょうぶよぉ」

 具体的にはどんな症状が、と問われ、クロエは正直に「魔力過多による幻覚幻聴、頭痛とか吐き気とか、色々」と答えると、ルーファスは青くなった。そして黙ったまま、マクスウェルに水を飲ませる。
 結局レイナードが不在となる間は、マクスウェルとルーファス、それからクロエとセレスト四人体制で処理をする事になった。
 無論クロエの特製栄養ドリンクは、以降は使用が禁止された。副作用の心配は無いし酷い味に耐える必要も無くなったが、代わりにマクスウェルの処理速度が落ちた。そのせいで本当に終わりが見えない。クロエは一人だけぴんぴんしているが、他の三名はぐったりしている。

(優秀だって聞いてたけど、本当だったんだな)
(この忙しさを普段こなしている……? とんでもない方だったのね……)
(レイ、頼む、帰って来てくれ……今すぐ)

 悲壮感漂うマクスウェル達は祈ったが、残念ながらそれはレイナードには届かなかった。ヴァーミリオン家の本邸でリリアンと過ごすレイナードの頭の中には、王都のマクスウェルの事なんてこれっぽっちも存在していなかったのだ。
 レイナードは、祖母と楽しそうにお茶をするリリアンの姿を堪能している。

(最高だ。ずっと帰らずこのままでいいんじゃないか)

 割と、いや、かなり本気でレイナードはそう思った。
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