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12.這い寄る影と女神のしもべ⑤
しおりを挟むソルシュレンの街はまさに泥沼と化していた。
マクスウェルはあの後、すぐにフィリルアース王に救援を依頼した。それを受けてすぐに軍を寄越してくれたはいいものの、あまりの蝗の数の多さに苦戦を強いられている。
ソルシュレンに軍を引き連れてきたのはクロエだった。クロエは、分析した結果を元に、どう対処すれば効果的に蝗を減らせるかを開示した。その対処方法の中で特に効果がありそうなものを、総員で片っ端から試していく。ただその頃にはもう、蝗球を吸収しきった巨大な蝗は見上げるほどに大きく膨れ上がっていた。動きは鈍化し、周囲の蝗も減ったが、それでも空を飛ぶ個体はまだまだ多い。しかも酷い事に、巨大蝗は通常サイズの蝗を産む事ができるようだった。もしもこれがまた爆発的に広がったら、今度は大陸中を覆ってしまうかもしれない。そうならないようにと、マクスウェルとレイナードは、トゥイリアースからの援軍を率いて巨大蝗の足止めを請け負う事にした。
まず、レイナードが巨大蝗の足元を深く土で埋める。これは思ったよりも効果があった。足元を沈下させ、そこに埋め込ませる。そして土自体を変化させ、煉瓦のように固めてしまえば、羽ばたいても重さで飛び上がる事はなかった。その勢いで口も塞ごうと試みたが、それはうまくいかず、かえって巨大蝗を暴れさせることになってしまった。
その隙に、最も火力のあるマクスウェルを中心に、魔導工兵達が巨大蝗の体力を削る。
魔導工兵は、殺傷力のある魔道具を用いて戦うことに特化した兵で、彼らは魔道具の扱いに精通している。今回使用するのは、特殊な金属製の網を発射して捕らえた相手を感電させるものだ。これで飛び交う蝗を一網打尽にする。
蝗の飛ぶ密度の減った空間に飛び込んで、マクスウェルは剣に炎を纏わせる。それを蝗の前脚に突き立てた。
思ったよりも巨大蝗の表皮は硬い。ぎん、と鈍い音を立てて剣を弾いた。剣は刺さらず火も燃え移らない。マクスウェルは舌打ちをして退がる。
「とんだ化け物だな!」
マクスウェルの魔法は、炎を操るものだ。直接燃やそうとするよりも、剣に纏わせて切り付けた方がより効果的に炎を移す事ができる。だが、この巨大な昆虫はどうだろう。剣は鋼のような外皮に弾かれるし、炎の熱に参った様子も見られない。外皮が厚すぎるのではなく、吸収した魔力が強固な鎧となって蝗の身体を覆っているらしい。生半可な火力では傷も付かなかった。少しでも外皮の薄い腹や関節を狙おうにも、巨体であることがそれを阻害する。これはもう蒸し焼きにしてやるしかないだろうかとそう思って構え直したところに、後方からガードマンの叫び声が響いた。
「殿下ァーッ! 一度お下がりください!!」
ガードマンは駆け寄って、マクスウェルの隣に並ぶ。
「どうした。何かあったか」
そう聞けばガードマンは首を横に振った。
「いいえ! ですが、先程から炎を使いっ放しでしょう!」
その言葉にマクスウェルは瞬いた。魔法を使うと、魔力と共に気力と精神力を削ってしまう。使えはしないが大の魔法好きらしいガードマンは、魔法を使い続けるということがどう影響するのかを知っているようだ。マクスウェルの体力を慮って、下がれとそう言っているのだ。
「レイナード殿も下がられました。ここは我らが。しばし休息を!」
「……わかった、任せる」
見た目に似合わず気が利くなと、マクスウェルは口角を上げる。ありがたく申し出を受け入れて、マクスウェルは一旦街の拠点へと戻った。
拠点にはクロエが居て、彼女は相変わらず難しい顔をして机の上を睨み付けていた。そこにはやはり、瓶詰めになった蝗がいる。
巨大蝗はマクスウェルとクロエの予測通り、元は小さな蝗だったようだ。それが共食いかなにかをきっかけに魔力を取り込み、周囲の個体よりも大きくて、たくさんの魔力を保有するものが出来上がった。それが更に魔力を求めた結果、小さな個体を産み出して魔力を蓄えさせ、吸収するに到った。蝗害が起きたのはどちらかというとそれの弊害で、本質的な災害はむしろこちらの方だ。異常発達した魔物が、周囲の魔力を取り込もうとしている。
そんな例は少ない。だから対処法は限られてくる。
「クロエ、どうにかならないのか?」
マクスウェルはクロエの隣に並んだ。
「魔力供給を絶つか、消費させないと。でも、それはつまり……」
「あれを全部始末するってことか。そりゃ大変だ」
巨大蝗を弱体化させるには、飛び交っている蝗を全て排除するのが一番だ。だが、さっきからそれをやっても追いついていない。それどころか巨大蝗から小さな蝗が飛び出して来て増えている。増えた蝗は、周囲の麦畑を襲う。そうやって麦や雑草を食べて、その魔力を取り込んだ。魔力を取り込んだ蝗が向かう先は巨大蝗だ。巨大蝗はそうやって魔力を取り込んだ蝗を再び吸収して、失った魔力を補う。とにかくきりがなかった。広大な麦畑の魔力を相手に戦っているようなものだ、際限がない。
「とにかく、やれる事をやろう」
それでも、マクスウェル達がやっている事は無駄ではなかった。蝗の群れは確実に数を減らしているし、巨大蝗の方は動きが鈍くなっている。いくら魔力を取り込む事ができると言っても、自身の分体を作り出し、それを吸収するには体力か魔力か、あるいはその両方を消耗するのだろう。なによりも、標的が絞られているというのは大きい。力のない領民達への被害は格段に減っていた。
騎士と、冒険者の働きには助けられている。その彼らに報いる為にも、もう一踏ん張りしないといけない。
さてと、とマクスウェルは首を回した。
「どれ、もう一発試してみるか」
「わたしは、村の人達をお世話して回るわ~」
「そうか、気を付けろよ」
「貴方もねぇ、マクス」
そう言って手を振り、ごくごく軽い調子で駆けていくクロエを見送る。いつもと大差ない様子がなんだか微笑ましい。ふっと肩の力が抜けた気がした。
マクスウェルは気合を入れ直して、装備を検める。そこへ、休憩しながら巨大蝗の様子を観察していたレイナードがやって来た。マクスウェルもだが、レイナードも虫の死骸にまみれたせいでぐちょぐちょになっている。適当に顔を拭っただけでは綺麗にならなかったが、まあ不快感は薄らいだのでいいだろう。これからまた汚れる事であるし。
同じく顔を拭うレイナードに、マクスウェルは声を掛ける。
「どうだ様子は」
「勢いが衰えない。予想以上だな」
レイナードはいつもの様子とあまり変わりない。タイミングを見計らい、剣を振るっていたマクスウェルと違って、常に土魔法で蝗を減らす作業をしていた。それだけでなく巨大蝗の足場も崩れないよう調整していたはずだ。疲労は募って魔力は減っているに違いない。それなのに休んでいる間も蝗の群れから目を離さなかったようだ。
「そうじゃなくて、お前のだよ」
「僕が? なんで」
「なんでじゃない。休めたのかって、そう聞いてんだよ」
ああその事か、とレイナードは目を細める。
「これくらいどうって事ない。リリーに会えない苦しみに比べれば」
「……あ、そ。心配して損した」
「僕のことより、マクスはどうなんだ。働き詰めなのは自分の方だろう」
マクスウェルは肩を竦めた。巨大蝗に対峙するだけでなく、各方面への指示を出すのはマクスウェルでなければならない。その為に来たと言っても過言ではない。想定以上に大きな相手だから苦戦しているが、そもそも魔物討伐はこんなものだ。
「俺だってなんてことないさ」
「そうか。じゃあ行こう」
「いや、ちょっとは遠慮しろよ……」
すっぱりと言い切って行ってしまうレイナードの背中に、マクスウェルは言った。元々あんな感じだが、今はより一層レイナードは素っ気ない。多分、早く終わらせて帰りたいのだろう。気持ちは分からなくはないが、彼の動機は「早く妹に会いたい」というものだ、どうしても呆れの感情が先立つ。
「マクス、早くしろ」
「お前な……」
振り回されるマクスウェルとしては文句のひとつも言いたくなるが、レイナードにここで帰られても困る。仕方なく文句は飲み込んで、マクスウェルはレイナードの後を追った。
戦場では魔導工兵と騎士が奮闘していたが、状況は好転していなかった。ガードマンの元に駆け寄れば、彼は疲れを見せない動きで蝗を屠っている。多数の虫を相手取るということで、急拵えの虫取り網を振り回し、網の中の蝗は手元のスイッチを入れて感電させる。簡易式の魔道具だが、魔法を使って魔物を倒せると喜んでガードマンは網を振っていた。
「おお殿下! もうよろしいので?」
「ああ。助かったぞガードマン」
「なんの。アルベルト様に鍛えて頂いたのが生きておりますぞぉ!!」
「そ、そりゃあよかったな、うん」
なぜか生き生きとしているガードマンに圧倒される。
「状況はどうだ」
「芳しくはありませんな」
そこは意外と冷静に返して、ガードマンは虫取り網を握り直した。ガードマンの足元には蝗の死骸が山になっていたが、空を飛ぶ蝗の群れに変化があったようには見えない。
「やっぱりだめみたいだな」
「とは言え、やらないわけにはいきません。でなければ彼奴に近付く事すら出来ませんからな」
「そうだな、その通りだ」
群れは巨大蝗を覆うように周辺を飛んでいる。これを突破しなければあのデカブツには手出しできない。ガードマンをはじめ、騎士が虫取り網で蝗を捕まえ、数を減らしている隙に、魔導工兵が巨大蝗に縄をかける。縄は電気を通す金属製で、これに魔石を使って感電させようとしたのだが、身体が大き過ぎるのか魔力差があるからか、効いているように見えなかった。出力を上げようとしたところで巨大蝗が閉じていた羽を広げて、身震いした。その衝撃で縄が外れる。慌てて全員が退去するはめになった。
他に効果的な手段がなく、もう一度試そうかと準備をしていた時だった。突然巨大蝗の身震いが勢いを増した。
「チッ」
巨大蝗の足元を捉えていた煉瓦状の土にヒビが入る。レイナードはすぐにそれを修正した。
だが、悪い事は重なるものだ。薄暗かった空に広がる雲が厚さを増しており、ついにそれが驟雨となって降り注ぐ。瞬く間に乾いた地面を黒くした。
「……まずいな」
マクスウェルは顔を歪める。
雨の中では、火の魔法は威力を落とす。更に言えばレイナードが固めた地面も、水を吸えば緩くなる。土を岩のように変質させれば捉え続ける事は可能だが、そうなるとここを畑に再生するのに膨大な労力を割かなければならなくなる。非常事態なのだからと割り切ればいいのだろうが、レイナードの消耗が激しくなってしまう。けれど、ここで巨大蝗に飛ばれてはまずい。どうするべきか、と逡巡していた時、巨大蝗の脚が一本ずぼりと土から抜けた。咄嗟にレイナードが地面を隆起させそれを追った。粘土質の土を、マクスウェルが高火力で焼いて固める。脚の七割ほどを覆って再び拘束には成功したものの、巨大蝗は激しく身震いをしている。このままではもう一方の脚が抜けるのも時間の問題だ。
やるしかないな、とマクスウェルが柄を握り直し、魔力を高めていた時。身震いをしていた巨大蝗の口ががぱりと開く。そこから、大量の蝗が溢れ出た。
雨に打たれ、魔導工兵達の手によって減っていた蝗が、空に広がった。その中の一部が渦を巻いてマクスウェル目掛けて飛んでくる。
「来るぞ! 構えろ!!」
叫んで、思い切り剣に魔力を込めた。熱を帯びて燃え上がる刀身はジュッと音を立てて蒸気を上げる。雨は弱まる気配が無い。
ぬかるむ足場の中で、マクスウェルは駆け出した。
◆◆◆
その頃、ソルシュレンの街中では、蝗の群れから逃げてきた人々が教会で保護されていた。彼らは近隣に住む者達で、広大な小麦畑の中に家を持っていた。周囲が小麦畑という事もあり最も被害に遭った者と言えるだろう。中には畑と倉庫の野菜はもちろん、服を齧られたという者もいたくらいだった。
彼らは救援にやって来た冒険者の手を借り、ソルシュレンの街に逃げ込んだのだ。着の身着のままの彼らを介抱する神父は、雨粒を落とす空を見上げる。
空にはまだ無数の虫がいる。それらが雨雲を隠すように広がっていて、悍ましく渦を巻いていた。
「なんてことだ……我々はどうなってしまうのだ」
神よ、と天に向かって祈ろうとした、まさにその時だった。あれだけ分厚かった雨雲と蝗の群れの合間を縫って、教会の上に一瞬だけ光が差した。そして——その光の中に、人影があったように見えた。
「あれは……?」
目を細め、それを確認しようと瞬きをしたその間に、その人影は消失していた。
おかしい。確かにそこには、なにかが居たはず。それを確かめる為、何度も瞬きをしているうちに、光は再び雲に遮られてしまう。その後に残ったのは何もなかった。
高い教会の家根の、その端を見上げ、神父はただ呆然としていた。
◆◆◆
その教会の家根から飛び降りる影があった。影は教会の家根から塀伝いに隣の建物に飛び移ると、そのまま屋根の上を走る。
それは、家から全力で馬を走らせて国境を越えてきたアルベルトだ。ついさっきソルシュレンの街に到着して、大きな魔力を感じた為に様子を窺っていたのだ。見晴らしの良いところへ登ったわけだが、なんとかと煙は高い場所を好むというのは、あながち間違っていないのかもしれない。
アルベルトは昨日、家を飛び出してフィリルアース王国へ向かったのだが、肝心の場所をはっきり聞いていなかった。とりあえず国境へ向かい、そこで馬がバテたので詰めていた騎士に預けて走って来た。国境に良さそうな馬が居なかったのが、ちょっと痛手だった。お陰で少し息が上がっている。
ともあれ急いだ甲斐もあって、普通に馬を走らせるよりも速く到着した。場所は道すがら人々が噂しているのをちらっと聞いたし、何よりもこの魔力だ、ざっくり方角が分かれば感知することができた。それで現場はどうなっているのかと高い場所から見たわけだが、そう状況が良いわけではなさそうだった。それはちょっと見上げれば分かった。もう何日も群れと対峙しているはずなのに、まだ空には黒い影が無数に飛び交っている。数万は居るであろうそれにアルベルトは眉を顰めた。
(リリアンがこれを見たら卒倒するに違いない)
リリアンは虫があまり好きではない。こんなは光景とてもではないが見せられない。この場にリリアンがいなくて本当に良かったとアルベルトは思った。
民家の家根の上を走るアルベルトは雨に打たれていたが、風魔法で自分の周囲に空気の層を作っていたために濡れはしなかった。雨粒は層に沿って流れていく。屋根の上を走っているのは誰も居ないから速く移動できる、という理由の他に、防ぎきれない足元の泥汚れを避けるためでもあった。靴がぐちょぐちょのままリリアンの元に帰るわけにはいかないのだ。
ただ、屋根の上には当然誰も居ないものだから、空を飛ぶ蝗は自然と狙いをアルベルトに向けていた。今もちょうど群れの一団が、アルベルト目掛けて飛んでくる。雨で羽が重いのか、勢いは無いが数が多い。
「ふん」
それを一瞥すると、アルベルトは風を起こす。しゅるしゅると渦を巻くそれは次第に大きくなっていく。
蝗の群れがいよいよアルベルトに近付いてきた。後方から迫ってくる。その間にも渦は大きさを増していった。
そしていざ蝗が襲い掛かる、という段になった時、アルベルトはその渦を群れに向ける。渦は内側に向けて吹き荒れている。つまり、渦の中に吸い込まれていく形だ。進行方向に渦を差し出された群れは次々と吸い込まれていく。ある程度の数が吸い込まれたら、アルベルトは渦の中の温度を一気に下げた。すると、蝗の体に着いた雨粒を起点に凍りついていく。蝗の群れはあっという間に氷の塊に封じ込まれてしまった。
一抱えほどもある氷の塊は、人の居ないその辺に投げた。ごとんと落ちて割れた氷の下で、地面に集っていた蝗が潰れる。そうして蝗の群れを適当に始末して、アルベルトは次から次へ屋根に飛び乗り、大きな魔力の元へと向かっていった。
◆◆◆
雨足は相変わらず弱まる気配がない。悪くなっていく足元にぎりっと歯を鳴らして、マクスウェルは巨大蝗を睨み付けた。
この雨のせいで、感電の恐れのある魔道具は使えない。小さな蝗の群れを纏めて始末する事が出来なくなってしまい、討伐の勢いが衰えてしまった。薬草で燻すこともできない。網で捕えようにも、雨を含んで重くなった網を振り回すのはなかなか辛かった。
「くそっ。決め手が無いな」
レイナードは巨大蝗の足を止めるので手一杯、マクスウェルの方も雨のせいで思うように火力を出せない。持ち込んだ魔道具は、これほど大きな魔物を想定していない為に効果が出ない。せめて雨が止んでくれれば、火属性のもので一斉に焼けるものを。火属性の魔道具をマクスウェルが使えば火力の後押しができる。剣を蝗に突き立て、そこへ魔道具で畳み掛ければさすがにただではすまないはずだ。硬い外皮の内側で焼けていくだろう。
せめて、雨が弱くなってくれれば。マクスウェルはちらりと空を見るが、分厚い雲は晴れる様子がなかった。と言っても、蝗の群れで真っ黒に見えるせいかもしれない。
とにかくこのままではジリ貧だ。マクスウェルは側にいた魔導工兵を呼ぶ。
「他に有効的なものは無いのか!?」
「この雨では、凍結させるしかありません。ですがそれも出力に不安が」
マクスウェルは眉を寄せる。熱を奪うのは火属性の分野であるが、マイナス方向に向かわせる適正は、生憎マクスウェルは持ち合わせていない。不安のあるという出力を補うのは無理だ。
「レイナード殿ぉ!!」
その時、ガードマンの叫び声が聞こえた。咄嗟に振り返ると、巨大蝗の足元で剣を振るうレイナードに大量の蝗が群がっているのが見えた。
「んにゃろう!」
マクスウェルは駆け出す。魔力を剣に乗せて振れば、潰したり斬ったりしていなくても熱で蝗を焼くことができた。とにかくそうやって数を減らすしかない。もっと火力を出せればいいのだが、雨の中だと火属性の魔法は威力が下がる。それを押し切ろうと魔力を強めると消耗が激しい。半端な火では雨ですぐに消えてしまうから、剣を熱する程度の最小限の威力に抑えた方が効率的なくらいだった。
「レイ、無事か」
「……ああ」
ガードマンと共に辿り着けば、レイナードは怪我は無いものの分かりやすく苛立っているようだった。
水を含んだ土は、土属性にしか適正が無い場合、思うように操りきれないそうだ。苛立ちはそのせいだろう、巨大蝗の足元を拘束するのに、操りにくい泥を操作するため随分と魔力を消費している。土属性で獲物を仕留めるならまず生き埋めにするのが手っ取り早い。ただそれも、今回ばかりはうまくいかなかった。なにしろ相手が大きすぎる。顔の位置が高いし、体も大きい。せめて多少なりとも弱らせれば可能だったろうが、まさか周囲の魔力を吸収するのに小さな個体を放出して回収するという方法を取るとは誰も思っていなかった。
マクスウェルとレイナードとでは、相手と状況が悪すぎた。それにレイナードはもう何日もリリアンと会えていない。その影響がはっきり出ているのがマクスウェルにはわかった。魔力操作も乱れ、集中を欠いている。体力の方は大丈夫そうだったが、それでもいつまで正気でいるかわからない。早急になんとかしなければならなかったがその方法が無い。正直に言って絶体絶命、その一歩手前であった。
ぶぶぶ、という羽音はすでに耳に馴染み過ぎて違和感が無い。
「どうだ、レイ。沈下させて埋めるのは」
羽音に混ざってそう言えば、レイナードは首を振った。
「さっきからやってる」
「は?」
マクスウェルは瞬く。さっきからやっている、とレイナードが言う割には、巨大蝗には変化が見られない。どういう事なんだと視線を向ければ、レイナードは憮然とした表情で巨大蝗を睨み付けた。
「沈めるよりも早く脱出してるんだ。さっきから羽ばたいてるだろう、あれはぬかるみから抜け出そうとしてるんだ。……雨が降る前に埋めてしまえば良かった」
そう言ったレイナードの顔色は、マクスウェルがいつも見ているものよりも悪そうに見える。ひょっとしたら脚が一本抜けた時からずっと、レイナードは巨大蝗を束縛する為継続して魔法を使い続けていたのかもしれない。
「お前な、なんで早く言わないんだ」
「何を」
「ずっと魔法使いっ放しだって事をだよ! あと埋めた方が良さそうだと思ったんならそれも言え、いつだって方針変換したのに」
気を利かせたつもりでマクスウェルはそう言った。だというのに、レイナードはぎゅっと眉を寄せる。おや、と思った時、レイナードが不服そうに口を開いた。
「……リリーが」
「……リリアンが?」
トゥイリアース王国の王都に居るリリアンが、今なんの関係があるのか? マクスウェルは首を傾げる。
「リリーの魔力が感じ取れないかと思って、夕べ魔力で索敵してみて。結局なにも感じ取れなかったんだけど……」
ひくりとマクスウェルの頰が引き攣る。
「当たり前だろうが! ミリールまでどれくらい離れてると思ってる。何をしてるんだお前は!!」
「……父上の気持ちが分かった。なにもせずにいられなかったんだ」
そう言ってレイナードは両手で顔を覆った。トゥイリアースから離れて八日ほど経っている。どうやらもう、限界が来ていたらしい。レイナードはすでに正気を失っていた。そのせいで生き埋めにするタイミングを失ったと見て間違いないだろう。しかも信じられない使い方をして大量に魔力を消費してしまっているようで、魔法の精度が悪いと感じていたのはそのせいなのだろう。その状態でもこれだけの規模のものを維持していたのはさすがだったが、もしも万全の状態だったなら、もうカタがついていたのかもしれない。そう思うと手放しで褒められない。
「もしかしなくても思ってるよりマズい状況か、これ!?」
マクスウェルにはまだ多少魔力の余裕があるが、だからと言って消費しきってしまえば、いざという時動けなくなる。マクスウェルまで身動きできなくなってはまずい。
どうする、とマクスウェルは思考を巡らせた。まだ辛うじて巨大蝗はレイナードが押し留めている。だが巨大蝗が消耗した様子はなく、空の大群はまだまだたっぷりと飛び回っていた。辺りを見回すとトゥイリアースの騎士にもフィリルアースの騎士にも疲れが見えている。泥まみれになりながらも奮闘してくれている彼らは、持ち前の体力でなんとか補っているようだが、それもそろそろ限界だろう。
その向こうには冒険者の姿があった。時には危険な場所へ赴き魔物を討伐する事もある冒険者は、この場では有難い存在だった。だがそれでも、この数の虫を相手取るのは無理があった。魔物とは言えそもそもが規模がおかしい。騎士と冒険者と、合わせて百名ほどで対峙する相手ではなかった。
トゥイリアースからの援軍はこれ以上望めない。フィリルアースの王都から続けて騎士がやって来る手筈ではあったが、クロエによると、その援軍はソルシュレンの周辺に散らばっているらしい。巨大蝗の討伐はマクスウェルら先遣隊に任せ、後続の援軍は蝗の群れをソルシュレンに押し留めているそうだ。そのお陰で他の地域には被害は広がっていないが、この通り討伐の手は心許ない。それはきっと、雨によってマクスウェルの持ち前の火力が活かされていないのと、レイナードがリリアン欠乏症で弱体化しているという理由が大きいだろう。そうでなくともフィリルアース王国の騎士は、トゥイリアース王国の騎士ほど屈強ではない。国民性とでも言えばいいのか、フィリルアース王国の者は争い事が苦手なようで、そもそも騎士団の規模が小さい。少数精鋭とも言えたがガードマンほどの強さを持つ騎士も少ないのだそうだ。
考えている間にも蝗の群れは襲撃を続けている。少しずつだが、確実に削られているのはこちらの体力だけかもしれない。
マクスウェルは強く剣の柄を握った。レイナードはもうあてに出来ない。巨大蝗の足元を固めているだけで限界だろう、であれば自分がなんとかするしかない。この雨で、どれ程の火力となるか分からなかったが、魔道具の動力として組み込まれている魔石を取り出せば魔力の底上げができる。それがあれば蒸し焼きにする事くらいならできるかもしれない。
そう思って、魔導工兵に魔道具を分解するよう、指示を出そうとした時だった。空を飛ぶ群れの様子を見ようとしたのだろう、ふいに視線を上げたガードマンが叫んだ。
「殿下! 風車の上に、何者かが!」
「何?」
マクスウェル達が奮闘している場所の近くには、確かに風車があった。中で魔道具を調整するのに都合が良いので使わせて貰ってはいたが、魔導工兵が上に登る事はないはずだ。使えなくはないが足場が悪く不安定になるからと、登らないように言い伝えてあった。
それを登るとはどういう事だろう。マクスウェルもガードマンの指差す先を見上げる。そこには確かに人影があった。
「——叔父上!?」
マクスウェルの叫びにも似た声に、レイナードもそちらに視線を向けた。高い風車小屋の屋根の上、そこには確かに見慣れた人物の姿がある。雨の中で厳しい視線を投げかけているのは紛れもなくレイナードの父、アルベルトだ。ガードマンが隣で「おおお!!」と歓喜に震えていた。
「レイナード、マクスウェル。お前達二人が居ながら、なんだこの体たらくは」
そんな中で聞こえるアルベルトの声。その声は冷え切っていて、顔付きは険しい。なぜかは分からないが怒っているようだ。言葉から察するにその矛先はレイナードとマクスウェルのようだった。その事にレイナードは眉を顰める。
「父上? どうしてここに……まさか」
そもそも、アルベルトが単身隣国へ来るというのはあり得ない話だ。国内でさえリリアンの側を離れたがらないアルベルトが、わざわざフィリルアースへやって来る。一体どういう事なのだろうかと思い至って、レイナードは半分閉じかかっていた目を見開いた。
「リリーの身に何かあったとでも!?」
「そのまさかだ。お前達のせいでリリアンが苦しんでいるんだぞ!」
「それはどういう事ですか!!」
「分からんか、リリアンの嘆きが!」
嘆き、と溢したのはマクスウェルだ。一体なんの事なんだと首を捻る。が、レイナードには理解が出来たらしい。そんな、と呟いて愕然としている。
「レイ、なんなんだ、一体」
「そんな……リリー、お前は本当に……」
レイナードはマクスウェルの声にまったく反応しなかった。だめだこりゃ、とマクスウェルはレイナードから離れる。本格的に使い物にならなくなってしまったようだ。仕方なくマクスウェルはアルベルトに向く。
「そうは言っても叔父上、俺達の魔法じゃ相性が悪くて」
「ふん」
アルベルトはマクスウェルの泣き言を一蹴した。
「な、なんだ……?」
アルベルトの掲げる片手に魔力が集中していくのがわかる。元々魔力量でアルベルトに敵う者は、マクスウェルが知る限り存在しない。そのアルベルトが渾身の力で練り上げれば、それだけで凄まじい熱量になる。まだ発動していないのにこれか、とマクスウェルは背筋を凍らせた。
そんなアルベルトに脅威を感じたのか、はたまたその魔力が目的か。空を飛び交っていた群れが、突如として集まり始めた。巨大蝗の真上に分厚い虫の層が出来る。そのせいで、まだ昼間だというのにそこだけ夜が来たような暗闇に包まれた。羽音が重なる。低く轟く羽音は空気を震わせ、マクスウェル達の呼吸を乱した。まだこんな事が起きるのか、と顔を歪ませるマクスウェルの目の前で、その闇が一箇所へ向かって突風を巻き起こした。アルベルトに向かって群れが飛び立ったのだ。あまりにも多くの個体が向かった為に、虫の持つ魔力と羽の振動とが重なり、突風になって吹き荒れる。
魔力の無い者はぬかるんだ地に伏せ顔色を無くしている。マクスウェルも片膝を突きそうになっていたが、それよりもアルベルトから発せられる圧力の方が気に掛かる。項垂れるレイナードを背にするようにして、マクスウェルはアルベルトの方向へ体を向けていた。
そんな蝗の大群を前にしても顔色ひとつ変えないアルベルトは、掲げた片手をすっと群れに向ける。それを勢い良く横へ薙いだ。次の瞬間、群れが端の方から爆発した。
ぼぱんっ、という破裂音を皮切りに次々とそれが続く。あまりに連続する為に常に大気が震えている。鼓膜を揺らすそれは、群れを消滅させるまでの間続いた。その間、僅かに十数秒。だが体感では数分ほどに感じた。何が起きているのか理解できない者達はただ身を竦め呆然とする。
だが、マクスウェルには分かった。アルベルトが何をしたのかを。
虫の体内の水分を一気に熱して爆発させたのだ。あの片手の一薙で。もちろん一匹一匹に標的を絞り魔法を使うというのは、いかにアルベルトとはいえ魔力操作が手間になるだろう。回数が嵩めばそれだけ消耗も激しい。というか、あのアルベルトがそんな繊細な魔法の使い方をするはずがない。アルベルトは群れが通り過ぎる空間に限定して魔法を発動させたのだ。
そこを通るものを、内側から熱して爆発させる。なんて魔法だとマクスウェルは息を呑んだ。単なる出力ではマクスウェルの方がアルベルトよりも上回る。だが、マクスウェルにはこんな魔法の使い方は出来ない。魔法の使い方というのは、生まれ持った素質によるところが大きい。それに、アルベルトは確認されている全ての属性に対して適正がある。その適正と発想、そして膨大な魔力量。そのすべてを発揮すれば、空を覆う蝗の群れなど瑣末な相手であった。
「なんつー威力だ……」
虫の破片が舞い散る中、マクスウェルは呟く。未だに雨が降り頻る中でのこの威力、アルベルトの込めた魔力がどれ程多いかが窺える。
マクスウェルと同じように呆然とその様子を見ている者が多かった。
「おおおお! アルベルト様の魔法を見られるとは!! 前回も凄まじかったが、今回のこれも規模が素晴らしいであるな! なんたる破壊力だ!!」
ガードマンも何が起きたのかは分かっていないようだったが、輝くような笑顔で空を見上げていた。うおー、という叫び声が響く。
だが、これで終わりではない。まだ元凶と言える巨大蝗が残っている。
まさか分体をすべて消失させられるとは思ってもみなかったのだろう、触覚をあらゆる方向へ彷徨わせていた巨大蝗が、いきなりその大きな羽を広げ震わせた。風圧と共にギチギチという音が響く。
「逃げる気か!」
同時に身震いを激しくする姿は飛び立とうとしているようにしか見えない。ここで逃げられてはまずい、そう思っていると急激に魔力の圧力が増したのを感じた。マクスウェルは咄嗟に風車の上に振り仰ぐ。
大量の蝗を破裂させた後も魔力を練り続けていたアルベルトは、巨大蝗を睨み付けている。というか、ただただ羽音が煩くて仕方ない。
「うるさい!!!」
間近で聞くガードマンの爆声よりも酷い。喧しいものを嫌うアルベルトは、ついいつもより力が入ってしまうのを意図して止めなかった。思いのまま、全力で魔力を込め魔法として発現させる。
その魔力に、再びマクスウェルは背筋を粟立たせた。首筋の神経がじりじりと灼かれるようだ。やばい、という直感が脳裏に浮かぶ。
「来るぞマクス!」
それを現実に引き寄せたのはレイナードの叫びだった。レイナードは言うや否や、巨大蝗の周囲を抉り騎士達を守るように土壁を作り上げる。全力を振り絞っているらしいそれを横目に、マクスウェルは叫んだ。
「伏せろ!!」
その場に居た者が皆、マクスウェルの言葉に従った。
それを眼下にするアルベルトは高く掲げた片手を振り下ろした。
「リリアンの痛みを思い知れ!!」
その動きに呼応するように大気が割れる。大気を裂いたのは十三本の雷光だった。それが巨大蝗の四肢を、脳天を貫く。
十三。それはリリアンが零したため息と同じ数である。
閃光と共に炸裂音が響く。衝撃が大地を揺らし一同を襲った。頭上で鳴った炸裂音、その後に聞こえたバリバリと板が割けるような音が止んでも、多くの者は身動きができなかった。落雷の衝撃、それに膨大な魔力が乗せられて波紋となって周囲に広がっている。ましてや十三回も落ちたのだ、リリアンの苦悩と痛みと嘆き、それを身に刻めと言わんばかりに放たれた激しい雷は、魔力を保有していなければ対抗できるものではない。それなりに魔力量のあるマクスウェルでも、すぐに動く事ができなかった。
空気を震わせる衝撃が収まって、ようやくマクスウェルは顔を上げた。
ただ、そこには何も無かった。レイナードが高く作った土の壁も、あの巨大蝗の姿も。
マクスウェルはひくりと頰を引き攣らせる。
「マジか……」
巨大蝗は、アルベルトが落とした雷に打たれ蒸発してしまったらしい。
にも関わらず周囲の人間に被害が出ていないのはレイナードが防御壁を作ったからというだけでなく、アルベルトの方でもなにがしかを行ったからだろう。おそらく防御壁を利用して、魔力を遮断した。雷の魔力だけをだ。それは、周囲に被害が及ばないようにとの配慮だけでなく、雷の威力を上げる為でもあるだろう。内側へ雷を反射させる、それが出来れば、巨大蝗が跡形もなく消えていてもおかしくない。そもそも十三回も雷に打たれたら消し炭になるだろうが。
おかしくはないが、それを実行させるというのはおかしい。一体何重に魔法を行使しているのか。火属性にしか適正のないマクスウェルには検討がつかなかった。
ただ、これで脅威は去った。その事に風車の上で佇むアルベルトは満足げに頷く。
(リリアン……これでもう、お前が嘆く必要は無い)
そのアルベルトに陽が差す。アルベルトは効率良く雷を引き起こす為に、雨雲を利用していた。雨雲を活性化させ、落雷させたのだ。落雷にエネルギーを消費させられた雨雲は綺麗さっぱり無くなっている。小麦畑の上は、ぽっかりと晴天となっていた。
陽光を背負うアルベルトはまさしく輝いて見えた。物理的に照らされているから、というのもあるが、それを見上げる現地の領民、それから騎士と冒険者達には、その堂々とした立ち振る舞いは別の神々しいものに見えた事だろう。
「か、神……」
雨上がりの風車、そこに陽が当たりきらきらと光る雨粒。微風に煽られるアルベルトの銀髪は陽射しで輝く。
未曾有の悪夢を瞬く間に終焉に導き、青空をもたらしたアルベルトを、そのように感じても仕方のない事であった……かもしれない。その人影を拝む者まで現れた。
当のアルベルトは、用が済んだのでぴょいっと風車から飛び降り、帰路に着いた。もう心配する事はないのだとリリアンに伝える為、帰りも全速力だ。息子に対して一言挨拶をする、なんて事にも興味がない為無言で立ち去る。それは、ガードマンに捕まったらまた煩いからというのもあった。
「挨拶くらいして行っても良くないか」
風車から飛び降りたアルベルトがてっきりこちらへ来ると思っていたマクスウェルは、いくら待ってもその姿が見えない事で、ようやくアルベルトがさっさと帰ったのだと気付いた。それでぽつりと溢す。まあ、会ったとしても文句を貰うか、リリアンの事しか喋らないだろうから別に構わないが。
それよりも、とマクスウェルはちらりと視線を動かす。
「僕も帰りたい」
そこにはむすっとした表情のレイナードが立っている。アルベルトからリリアンの名前を聞いた為か、それとも雷光の魔力に当てられたのか、レイナードは正気に戻ったようだった。それでももう脅威となる魔物はすでに居ない。自分はもう用済みだろうと言わんばかりだ。
それをマクスウェルは怒鳴りつける。
「お前はまだだめだ、誰がこれを平すんだ!?」
「僕の知った事じゃない」
「お、お前な!」
なんて事を、とマクスウェルは続けた。非常事態とは言え、小麦畑だった場所はめちゃくちゃだ。苗の姿は見えず畝も無い。なんなら焦げて固まってがちがちで、植物を植えられる状態ではない。
フィリルアース王国は農業大国というだけあって、農業に魔道具を用いているらしい。それがあれば畑を整えられるだろうが、それにしたって酷い有様だった。蝗球の様子を見るのに地下に穴を掘って固めた事でもあるし、大きく掘り返して耕やさなければならないだろう。それだけ深く掘れる魔道具があるかどうか分からなかったし、何よりもあの落雷の威力は強すぎた。大きく抉れた地面を戻すのは、トゥイリアース王国の代表者である自分達が行うべきだろう。
「帰りたい……」
ただ、それを言ってもレイナードの表情は変わらなかった。
「リリーに会いたい」
「ああもう、わかったから。とりあえず休もう。そんでここを元に戻す。そうしたら帰っていいぞ、一時的にだけど」
「休んだら休んだだけリリーに会うのが遅くなる。今からやろう」
「やめろ、無理に決まってるだろ! そんなフラフラな状態でこれ以上やってみろ、ぶっ倒れてその分帰るのが遅くなるぞ!」
「それはだめだ……リリーに会えなくなる……」
「だから休めって言ってるだろ!」
そんな押し問答を繰り広げていると、「それは殿下もですぞぉ!」と叫ぶガードマンの手によって、二人揃って宿の部屋に押し込まれてしまった。
それでもなお出て行こうとするレイナードをベッドに投げ飛ばすと、さすがに限界だったようですぐに寝付いた。やれやれ、とそれを確認したマクスウェルも床に着く。横になって分かったが、自分も相当疲弊していたようだ。目を閉じるとすぐに眠ってしまった。
夕方になってマクスウェルが目を覚ますとクロエの姿があった。軽食を準備してくれていた彼女は、ガードマンに部屋に押し込まれてからの事を聞かせてくれる。
あの後、ガードマンが先頭に立って事後処理をしてくれたらしい。手分けをして周辺を見回り、異変が無いかを確認した。魔導工兵が言うには、周囲の魔力量が多いとの事だったが、それはあの雷のせいだろう。しばらく経てばそれも霧散するはずだ。それ以外には特に目立った異変もなく、別の巨大になりそうな蝗も居ないということだった。
群れていた蝗はアルベルトが爆散させただけで終わりではなかった。少なからず周囲にもいくらか居た。例えば、ソルシュレンの街中のように。ただそれはフィリルアース王国の騎士達が処理をしたとの事だ。雨が止んだ事で薬草を使えるようになったのと、巨大蝗が消滅した影響か、集団で動く事がなくなり一匹一匹の魔力量も減少しているようで簡単に退治できるようになっているそうだ。残る蝗も後僅かと聞いて、それは良かったとマクスウェルは頷く。
「お父様がありがとうって~」
ようやく安心出来たのか、疲れを残してはいるが、クロエはいつもの調子でそう言った。それでマクスウェルはほっと胸を撫で下ろす。
「あの魔物があんなに大きかったのはどうしてなんだ」
クロエは、マクスウェル達が巨大蝗に対峙している間、街で救援活動をする傍らそれをずっと解析していた。原因が判れば今後の対応に役立つ。そうでなくても、何故今回のような事が起きたのか、それは誰だって気に掛かるところだ。過去に例は無いように思う。魔物に関する事象としても無視できる事柄ではない。
「うーん、調べてみないとわからないけど……龍脈が大きく蛇行したとかかしらぁ。表層に露出して、魔物が活性化してるのかも~」
「魔石を取り込んだ可能性は?」
「もちろん、それもあるわぁ。けど、蝗でしょう? それほど大きな魔石を、こんな虫が飲み込めるかしらぁ。その線は薄いんじゃないかって、わたしは思っているけれど」
「少し調べた方が良さそうだな」
「そうねぇ、お父様にも伝えておくわあ。あとはじぃ~~っくり、調べるつもり~」
そう言うクロエはどこかうきうきしているように見えた。クロエはこの後、この件について掛かりきりになるだろう。昼夜問わず研究に明け暮れる姿が目に浮かぶ。
まあ、それはその時に止めるとして、とマクスウェルは対面のベッドに視線を向ける。まだレイナードは眠っていた。消耗しきっていたから仕方ないだろう。直前にくだらない使い方をしていたのは褒められた事ではないが、レイナードが居なければ被害が広がっていたのも確かだ。もしも途中で巨大蝗が飛び立っていたら、移動先の小麦畑が食い尽くされていただろう。
その貢献に報いる為にも、可哀想な気はするが起こしてやらないといけない。さっさと畑を元に戻して貰って、一度国へ帰してやろう。マクスウェルはそう考えて、すっぽりと頭まで覆っているレイナードの布団を剥いだ。
「おいレイ、そろそろ……」
だがそこにはレイナードの姿は無かった。枕とクッションがいくつか、それが布団の下から現れる。なんだこれは、と声を詰まらせるマクスウェルに、クロエはおっとりと微笑んでみせた。
「レイなら帰ったわよぉ」
「はあ? 帰った!?」
「一時間くらい前かしらぁ。いきなり起きたと思ったら、『リリーが呼んでる!』とかなんとか言って、出てっちゃってぇ」
「そ、それで!?」
「バッと畑綺麗にして、お馬さんに飛び乗って、『帰る!』って~」
「……畑は綺麗にして行ったのか……」
「そうよぅ。だから止めなかったんだけど~」
マクスウェルは力無くシーツを握っていた手を下ろす。一時間ほど前に馬に乗って出て行ったのなら、もう追っても無駄だろう。畑はきちんと戻したようだし、これ以上引き留めてまた正気を失われても困る。
リリアンに会って、少し復活したならすぐ呼び戻そう。マクスウェルはそう決めて、クロエの運んでくれた軽食に手を伸ばした。
それから十数時間、朝を迎えたヴァーミリオン邸に、当主のアルベルトが帰還した。行きとほとんど変わらない姿で戻って来た彼は、満面の笑みを浮かべ、愛娘リリアンに隣国の脅威が去った事を告げる。
リリアンはアルベルトの口からそれを聞き、まず最初に父をきつく咎めた。急に飛び出すとは何事か、他国で起きた事に勝手に手を出せば、立場が悪くなるのはトゥイリアース王家であると。
のみならず、今帰って来たということは、夜通し走っていたということ。行きも同じでなければ、こんなに早く戻る事はなかっただろう。どうしていつもそんな無茶をするのだと、そう言ったのだ。
「だが、それは一刻も早く、リリアンに安心してもらおうと」
「わたくしの気持ちなんてどうでもいいのです! お父様、お父様はわたくしが、お父様の身を案じない薄情な娘だとでもお思いなのですか!」
「そ、そんな事はない!」
涙目でそう叫ぶリリアンの、魂の叫びにアルベルトは瞠目する。アルベルトはそこまで考えていなかったのだ、リリアンの為になんとかしようと、それだけを思って飛び出した。その行動がリリアンにどんな影響を及ぼすのか、そこまでに考え至らなかったのだ。
「すまなかった、リリアン。私が悪かった」
そう言って頭を下げたのだが、そのアルベルトをリリアンはきつく睨み付ける。
「いいえ、お父様は分かっていません! わたくしにはあれだけ我慢させたというのに、お父様はすぐにフィリルアースに向かってしまわれた。分かっているのですか、グレンリヒト様が、マクスウェル様が、そしてお兄様が、何の為に動かれたのかを!」
「リリアン……!」
リリアンの言葉にアルベルトは息を詰まらせる。そうだ、アルベルトがリリアンに言ったのだ、いくら隣国を助ける為とは言え、無茶をしてはならないと。リリアンはアルベルトの言いつけを守り、自分の気持ちを押し殺してまでそれに従った。なのにそれを言ったアルベルトの方が、我慢できずに飛び出して行った。
己が領地で起きた事ならば、リリアンもこんなに憤ったりしないだろう。けれども今回は他国との兼ね合いもある災害である。それを「はい終わらせました」の一言で済ませようとする父親を、貴族の鑑であるリリアンが見逃すだろうか。
トゥイリアースの貴族には自分達の食事を削ってでも支援をしろと通達がなされている。王が、王妃が、そしてリリアンが、それを後押しするよう行動をしていた。その矢先にアルベルトが原因である魔物を排除した。それが国内に、どんな影響を及ぼすのか。それを考えた事があるのかと、リリアンはそう言っているのだ。
今までリリアンはアルベルトの行動に一切巻き込まれず、ただその恩恵を享受するだけだった。それがどうだろう、今回ははっきりとその被害を被っている。リリアン自身の被害はただ気持ちを置いてきぼりにされた、というだけではあるが、それすらも初めてのことであって、すっかり混乱しているようだ。
そうしてアルベルトは、彼にしては珍しく、ほとんど生涯初めてというくらいには、深く深く反省した。
「す、すまない。本当に。もう勝手な真似はしないから」
「ええ、そうなさって下さい! ベンジャミンやお兄様のお気持ちが、わたくしにもようやく分かりましたわ」
「あとほら、私はこの通り怪我もなんともないから」
「なんともなくて当たり前です! 無事に戻って来なかったら、承知しません!」
「あああ、リリアン、すまなかった。だから許してくれ」
「許すに決まっていますでしょう! もう! お父様のばか!!」
「り、リリアンに馬鹿って言われた!! 初めてだこんな事!! 本当に悪かった、リリアン、頼むから落ち着いてくれ!」
今までこんな風にリリアンが取り乱したことなんてなくて、アルベルトはどうしたらいいのか分からなかった。助けを求めるようにシルヴィアとベンジャミンをちらちら見るが、彼女達は壁際に控えたまま動こうとしない。その顔を見れば理由がわかる。二人の顔にははっきりと、「少しは懲りて下さい」と書かれていた。
「とにかく今日は、ゆっくり休んで下さい!」
「わ、わかった。リリアンの言う通りにする。だからもう怒らないでくれないか」
「怒ってなんかいません!!」
リリアンの憤激は、レイナードが帰って来て彼女を宥めるまで収まらなかった。どんなにアルベルトが言い聞かせても止まらなかったというのにである。その事に衝撃を受け、撃沈するアルベルトと、疲労困憊の状態でリリアンを宥め、それを言い訳にリリアンの側から離れようとしないレイナード。リリアンは取り乱した事が恥ずかしいのと父と兄が無事に帰って来て安心したのとで呆然としていて、邸内はめちゃくちゃだった。
「アルベルト様。これに懲りましたら、軽率な行動は控えて下さい」
「……善処する」
あまりの出来事にそう答えるアルベルト。ちゃっかりと言質を取ったベンジャミンは頷くとそっと部屋を後にした。
部屋に残ったのは、それぞれ茫然自失とするヴァーミリオン家の三名だけ。
長い長い一日が、ようやく終わろうとしていた。
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