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7.メリー・クリスマスは事件の後で 後編③

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 宝石店から一気に駆け出したアルベルトがまず目指したのは、王都の北側で最も高い教会の屋根だった。魔力に物を言わせ、瞬間的に筋力を高めれば馬を抜くこともできるが、長続きしない。まずは目標を見つけ出す必要がある。さっき宝石店で聞いた限りでは、盗賊共が店を出てからそう時間が経っていないらしい。
 ならばまだ王都に居るはず。慌ただしく走る馬車がそうだろうと算段を付け、街路樹から塀へ、塀から屋根へと飛び移ったアルベルトは、屋根伝いに教会までやってきた。教会の屋根はさすがに高かったので、窓の縁や壁の出っ張りを使って駆け上がったが、途中で一部を崩してしまった。が、リリアンのティアラの為には必要な犠牲である。それにこの程度であれば、レイナードであればその場で修正できるだろう。だからすぐにそのことは頭から消し去って、アルベルトは見晴らしのいい場所まで登っていった。
 天気のいいこの日、月明かりに王都はよく見渡せた。街灯が並び、家々に灯る明かりとで、温かな夜景が広がっている。高台でそれを見下ろす恋人達も街にはいたが、アルベルトは景色に意識を向けることはなかった。しんと冷える空気を頬に受け、目を細める。移動中練り上げていた魔力を目に集中させ、そうしてできる限り、視界全体を視るように、意識を視野の全てに向ける。
 幸いにもこの教会から南は低地になっており、見下ろせる位置にある。北側は王城と高位の貴族の住まう地域となっている為、逃亡するのには使用しないだろう。愚か者共が向かったのはまずこの南方面であることは間違いない。であれば、南に広がる街全てを見れば、連中を見付けることができるということである。
 そう言うのは簡単であるが、数十万の人々が暮らす街は、見ようと思って全てを見られるものではない。けれども最低限、視野に入る範囲だけでも把握できれば、街の三分の一から四分の一くらいは見渡したことになるだろう。街道に限ればもっと範囲は狭めることができる。実現するには無茶があるが。
 おそらくだが、逃亡には馬車を使っているはずだ。幌ではない箱のもので、それでいてそれなりに品のあるもの。万が一、盗品が露見してしまった場合でも、商品として運んでいる体裁が取れる程度にはきちんとしているものであると、アルベルトはあたりを付けていた。これは過去の資料を読んでそう思ったことだった。どうも見てくれを気にする連中だと気が付いたのだ。
 だからアルベルトは、この国で多く流通している馬車を特に注視して、おかしな動きをするものがないかを探した。紋章のあるものは爵位のある家のものだから当然パスだ。怪しいのは『そこそこ新しくて、きれいなのに、なぜかやたらと急いでいる馬車』である。
 今までと違い、これだけの騒ぎになったのだ。連中がこのまま行方を眩ませるつもりなら、すぐに他国へ出るだろう。であればそれなりの距離を行くことになるので、古いものは避けるはずだ。それに加えて、万が一盗品が露見してしまった場合、取り扱っている商品だと誤魔化すのであれば、やはりくたびれた馬車では怪しまれる。商人を装うには、新品とは言えないまでも、きれいな状態のものであったほうが都合がいい。
 急いでいるのが怪しいというのは、降神日こうしんびのこの時間、出歩いていてなおかつ馬車を飛ばしているような輩は、まずまともな理由ではないからだ。貴族であればまず紋章入りの家のものを使うだろうし、庶民は馬車を借りて急がせるようなことはしない。急病で病人なり医者なりが乗っている場合もあるだろうが、そういう場合はやはり国か貴族の紋章が入っているはずだ。それ以外で急ぐとなると、身を隠しておきたい理由がある者に限られてくる。

「……見付けた」

 そうして街を見ていると、馬車が一台、通常の速さでは考えられない動きで進んでいるのが目に入った。すぐ建物の陰に入ってしまったが、やがて別の建物の陰から出てくる。移動距離からして、明らかに馬を急がせている。屋根しか確認できないので馬車の車体はよく見えなかったが、紋章はなかったように思う。真っ黒に見えたのは装飾が少ないからだろう。それだけで充分だ。アルベルトは馬車の位置をよく確認し、目に集中させていた魔力を一旦解いた。
 すう、と小さく呼吸を吐く。と同時に、全身に意識を向ける。
 集中していた時間は僅かであるが、視界全てを把握するよう、神経を研ぎ澄ませる為に魔力を用いた場合、通常であれば相当消費するものである。だが、アルベルトは違った。ほとんど魔力は消費されていない。無尽蔵、とまではいかないが、使って有り余るほどの魔力が彼の全身には漲っているのである。
 だから呼吸をしたのは、魔力の残量の確認の為ではない。間違いなく、全身に魔力が満ちていることの再確認であった。
 魔力を練り上げるのは、魔力を動力にする魔法の密度を高める為に必要なことだ。つまり、少ない消費でより高火力に、より大規模に、魔法を発動することができる。
 アルベルトは普段、そこまで集中して魔力を練ることがない。そこまで密度を上げなくても、豊富な魔力の量でゴリ押しすれば、そこそこの規模の魔法が発動するからだ。
 だからこそ、集中して魔力を練り上げた時、凄まじい威力が出る。アルベルトは魔力が練り上がったのを自覚すると——そのまま走り出した。教会の屋根、棟の瓦を蹴り、ほぼ全速力で。
 そうして端が見えた辺りで、その先、棟の端に足場を作った。ぱきん、と音を立てて現れたのは分厚い氷だ。それが長く伸びていく。アルベルトが走る速度と同じ速さで伸びていくそれは、数メートルのところで下方へカーブを描いて続いている。氷のレールを成型しながらなおも駆けて行き、棟の端、氷の足場まで辿り着くと、そこで思い切り踏み切る。高く跳んだアルベルトは、そのまま氷のレールへ落ちていく。落ちた先は、ちょうどレールが下方にカーブしている辺り。着地した後は勢いが削がれないままに氷を滑っていった。氷のレールは、滑り台のように下へ下へと伸び、その末端は一変、ぐんと上を向いている。
 みちみちに込めた魔力でできた氷のジャンプ台。それを一気に下りきって、アルベルトは再び高く飛び上がった。
 手前の高層アパルトメントを飛び越え、街道を越えると、いくつもの段差が見える。低地との境目となる川を越えると、やがて目的としていた街道が近付いてくる。
 白い吐息が後方へ流れていく。吹き付ける風に、アルベルトが目を閉じることはない。視線の先にはあの馬車があった。
 教会からこの街道まで、高低差がある為にいくつかの坂道を下って行かなければならない。そのせいで馬車では移動距離を稼げなかったのだろう。標的を捉えたアルベルトの瞳はぎらりと光る。
 このまま着地するつもりは無い。跳躍している間も練り続けていた魔力を再び漲らせ、落下地点に氷を張った。ただし、石畳の凹凸の影響が出ないくらい厚くする。初期地点だけは一・五メートルくらいの高さのある壁を作った。それを、内側にカーブを付けながら高さの三倍くらい、長く伸ばす。それと同時に着地する間際、靴底に氷で刃を生やした。
 靴底の刃で落下の勢いのまま滑ったアルベルトは、壁を登るようにして街道に戻った。街道には、すでに氷の道が出来上がっている。
 落下時の勢いを最大限に利用する形になったアルベルトは、その氷の道を滑って行った。景色の流れていく速さから言って、馬と同じくらいの速度が出ているだろう。それを可能にしたのは、風の魔法での後押しをしているから、魔力で全身の筋力を補助しているからである。
 街道の氷は、アルベルトの進みに合わせて先へ先へと伸びる。次から次へ、パキパキと分厚く氷を張りながら、風で後押ししつつ筋力を補助し、スケートの要領で進んでいく。靴底の刃は削れて消耗していくので、それの修復も必要だ。
 この時のアルベルトの魔力の消費量は尋常ではなかった。例えるなら、蛇口を全開にしている状態だ。その状態を維持するのは消耗が激しく、常人なら五分と保たない荒技だった。が、アルベルトは涼しい顔をして、ひたすらに馬車を追った。実際、余裕だったのだ、一晩追いかけ回すことができるくらいには。追って追って追い詰めて、確実に愚か者を捕まえるつもりであった。
 アルベルトにとって、リリアンの物はすべて、それそのものがリリアンと同意義である。つまり持ち去られたサファイアのティアラはリリアンそのものであり、すなわちそれは、リリアンが連れ去られたということに置き換わっている。だからアルベルトは全力を投じる。

「リリアーーーーン!!!」

 青筋を立てて、視界に捉えた馬車に向かって叫ぶ。爆速で湧き上がる魔力が叫びと共に広がり、王都の一角を飲み込んだ。その叫びには堪えきれない怒気が混じっていて、知らずのうちに巻き込まれた人々は身を震わせたとかなんとか。

 その範囲にはきちんと馬車が含まれていた。その馬車の中で、異変を感じた二人は息を止めた。
 どうしてだか、不意に寒気を感じた。ぞわっと背筋を駆け上がるそれに身震いをして、アンジェは上腕をさする。

「な、なんだか冷えない?」

 服装はきちんと整えられており、裕福な商人と言った出立ちだ。あのレザーの上下は、勿体無いが三人分を鞄に詰めて、途中の川に投げ込んである。
 そのアンジェの正面、同じくらいのスーツに着替えたドゥランも、どこか落ち着かない様子でいた。

「そんなはずはない」

 言いつつも、ドゥランも鳥肌が立っているのを自覚するしかなかった。背筋が凍えるくらい寒いのに、どうしてだか冷や汗が止まらない。見ると、手にも汗をかいていた。今更ながら緊張しているのだろうかとも思ったが、なんだかそれも違う気がする。
 宝石店に忍び込み、ここまでは順調だった。なんとか店の者に見つからないうちに馬車に飛び乗ることができた。ぎりぎりだったがなんとかなった。御者を務めるトロワを含め、急いで服装を整え、準備しておいた馬車に飛び乗って、ようやく落ち着いた今、どうしてこんな風に汗が止まらないのかがわからない。
 そんなドゥランとは対照的に、上腕をさする手を止めたアンジェは、膝の上に乗せた装飾品を再び手に取った。

「はあ。それにしても……すごいわ、このティアラ」

 それは、あの宝石店から盗み出した装飾品のうち、最も豪奢なティアラだ。店員から鍵を奪い、ドゥランがその店員に変装をして従業員一同を店内から追い出す。煙玉を使って火事を装い、混乱を招けば、意外とすんなりうまくいった。その隙に奪った鍵で金庫に侵入する。その金庫の中でも、更に厳重に保管されていたのがこのティアラだ。それを見た瞬間、状況も忘れて三人が魅入ってしまった。
 素晴らしかった。青く輝くサファイアは、少ない照明でも十全に輝きを放っていた。その青は今まで見てきたサファイアで最も深い青をしていた。一目見て、地上にあるサファイアの中で最高の品質をしたものだとわかった。そしてそれを認めた時、ドゥランにはひとつの確信が生まれた。このティアラこそ、ヴァーミリオン公が求めたものに違いない、と。
 馬車に乗り込んでから改めて取り出し、それからずっと眺めていた所をアンジェにひったくられた。ドゥランはそれがいい気分がしなかった。

「お前なあ」
「なによ、いいじゃない見ていたって」

 フン、と鼻を鳴らすアンジェに、ドゥランは苛立ちを隠せなくなる。アンジェの手からティアラを奪い取った。

「ちょっと!」
「いい加減にしろ! 俺だってよく見たいんだよ!」
「なら、そう言いなさいよ!」

 アンジェの言い分はもっともであったが、ドゥランはそれを無視する。視界の端でアンジェがむくれているのが見えたが、ドゥランはティアラに集中していた。

「素晴らしい……。これだけのサファイアが、世にいくつあるか。史上でも稀だぞ、ここまでの品は」

 ドゥランは恍惚としている。少しばかり気色悪かったが、その言葉には同意だったのでアンジェは黙って肩を竦めた。

「これがヴァーミリオン公があの店で購入したものに違いない」
「ええ。そうでしょうね。あんなに美しい男なんだもの、これくらいじゃないと釣り合わないわ」

 にんまりと笑むアンジェだったが、ふとなにかに思いついたように眉をしかめた。どうした、と言うドゥランは訝し気だ。
 アンジェは眉をしかめたままドゥランに向く。

「けど、大丈夫かしら。ドゥラン、あんた言ってたじゃないさ。ヴァーミリオン公は凄い魔法使いなんでしょう?」
「それがどうした?」
「他国にも知られる程の魔法使い。それがどのくらい凄いのか知らないけど、魔法でこのティアラの場所が判ったりしない?」
「はっ、そんなわけ……」

 アンジェの言葉に、何を言っているんだか、と笑おうとした時、どうしてだかドゥランは悪寒がした気がした。ぞくりと背中を駆け上がる不快なものがあった。そんな事あるわけない、と思ったが、なんだかそうなってもおかしくない気もした。
 ヴァーミリオン公がとてつもない魔法使いだ、というのは聞き及んでいたが、それがどういうものなのか、魔法使いを間近で見たことのないドゥランには把握できなかった。
 とは言え、ヴァーミリオン公に限らず、騎士が追って来ている可能性もある。とりあえず、一度トロワの様子も確認しようと、御者台の小窓に視線を向けると、丁度外から声がかかった。

「ドゥラン! 後ろに何かいる!」

 トロワのその叫び声に、ドゥランは慌てて詰め寄った。まだ盗みを終えたばかり、追手がかかるには少し早い。

「どういう事だ!?」
「わからん! 見えん!」

 馬を駆るトロワには、これ以上聞いても無駄だろう。ドゥランはぎりっと歯を鳴らした。急いで振り返る。トロワの声が聞こえていたアンジェが、すでに後ろの窓から双眼鏡で後方を確認していた。

「アンジェ、何が見える?」

 聞いても、すぐにアンジェからは答えが無かった。おい、と強く言って、それでようやく振り返る。アンジェは戸惑いと焦りをいっぱいにして叫んだ。

聖人せいじんよ! 聖人の格好をした誰かがスケートで追いかけてくる!」

 ドゥランはその声に眉間に皺を寄せる。

「何言ってる? ここは街道だぞ、スケートなんかで追ってくるわけないだろう!」
「知らないわよ! でもあのフォーム、間違いないわ! すごい速さよ、追い付かれる!!」

 アンジェが嘘を言っている様には思えない。それだけの気迫があった。ドゥランはアンジェから双眼鏡を奪い取ると、自分の目で後方を確かめた。
 双眼鏡を覗くと、馬車の後方、遥か先ではあるが、確かに何かが追ってくるのが見えた。月明かりで、それがローブを纏った人物だというのがわかる。動きは完全にスケートのものだった。どうやってか、街道をスケートで進んでいるようだ。
 その人物の大きさは、馬車が二頭立てで走らせているというのに小さくなる気配がない。馬車と同じ速さで迫っているようだった。

「なんなんだ、あれは!」
「知らないわよ!」

 自然二人の声は焦りで叫びになる。ここで万が一、捕まるわけにいかないのだ。

「いや待て、まだ俺達が『インビジブル』だとばれたわけじゃないだろう」
「そ、そうだけど、でも」

 アンジェは狼狽えてドゥランと後ろとを交互に見る。その困惑はドゥランにもわかる。あれが何なのかはわからないが、まだ誰にも自分たちの正体は割れていないはずだ。店からは誰の視界にも入らないルートで出たし、馬車を出す時も最大限の注意をしている。それに、自分達が宝石店に居た時間帯、あんな聖人の仮装をした人物は近隣に居なかったはずだ。勘付かれる道理が無かった。だから、追われる理由がはっきりしない。疑われている可能性は高いだろうということだけは分かる。
 追われてはいるが、逃げ切れるならばその方がいい。それに万が一のことがあったら、消してしまえばいいだろう。ドゥランはそれを胸に刻んだ。

「トロワ! 何かに追われているかもしれない。ルートを変えてくれ!」

 トロワはそれには返事をせずに、手綱を握り締める。

「曲がるぞ、掴まれ!」

 トロワの声が響くやいなや、車体が大きく左に傾く。

「きゃあっ!」
「ぐぅっ」

 アンジェは大きくバランスを崩すがなんとか座席にしがみついた。ドゥランも、ぎりぎりで踏ん張る。
 アルベルトは馬車が右の道に逸れたのを把握すると、氷のコースを即座に修正し体を倒す。その動きには一切の無駄は無い。
 結果として、バランスを崩しながらとなってしまった馬車は失速、アルベルトは速度を維持していた為距離を縮めることになった。
 再び双眼鏡を覗いていたアンジェはごくりと喉を鳴らす。

「何者なの、あれは……」

 カーブを曲がる聖人のフォーム、それがアンジェの記憶と重なる。あれはそう、幼い頃にたまたま見た、スケートの名手のフォームと酷似している。伝説とまで言われた、最速の男に重なった。
 アルベルトの方はただ、ごく自然に最適な姿勢を取ったまでのことだった。スケートという競技があって、それがどんなものなのかという知識はあったものの、実際目にしたことは無い。だからフォームがどうとか、そういうことは知らなかった。器用で運動神経が良く、勘のいいアルベルトは自ら走法を編み出した事になる。

「なんなんだ、あれは!」

 ドゥランは叫んだ。苛立ちだけではなく、得体の知れない物への恐怖があったのは認めなければならない。

「あんなのが、馬を追えるものなのか!?」
「そんなわけないわ」

 アンジェは力無く双眼鏡を下ろした。

「少なくとも常人じゃない。異常よ、あんな装備でこの速さに付いて来られるわけがないわ」

 ドゥランにもトロワにも言った事はないが、アンジェは北方の出身だ。河も湖も、冬は分厚い氷が張る。河と湖ばかりの土地ではスケートでの移動が多かった。そして自然、速さを競う競技が生まれた。
 その土地では、スケートで速さを出すなら、風の影響を受けないよう、ゆとりの少ない衣類にすることが常識だった。氷の表面は引っかかりが無いこと、それとスケート用の靴は、金属の刃が付いた専用の物を使うこと。それが絶対条件だと言われていた。
 だが、馬車を追いかけてくるあの聖人はどうだろう。ばたばたとローブをはためかせ、どうやってか街道を進んでくる。靴は、専用の物を使っているかもしれないが、それでもやはりこんな道を滑るのは無理だろう。現に馬車の車輪は少なからず段差で跳ねる。スケートでこんな速さを出せるとは思えなかった。

「じゃあ、あれは一体何なんだ?」

 ドゥランの声には、苛立ちが含まれていた。当然だ、こんな風に追っ手がかかるとは思ってもみなかった。
 本当に追っ手かどうかもわからず、振り切るしかないが、アンジェには、あれが追いついてしまうような気がしてならなかった。
 アンジェは「分からない」と言うと、真剣にドゥランに訴えた。

「ドゥラン。まずいかもしれない。本気で、全力で逃げなきゃ……!」
「くそっ!」

 だん、と拳を壁に当て、ドゥランはぎりっと歯を鳴らした。そしてすぐに、馬車の前方に寄る。

「トロワ、とにかく飛ばせ! なんとしても振り切るんだ」
「言われなくて分かってる!」

 アンジェは、ひとまずドゥランに自分の訴えが通ったことに安堵した。これでなにを馬鹿なことをと言われてしまったら、もうどうにもできなかったからだ。
 しかし、依然として謎の聖人の脅威は去っていない。こうなったら様子を伺いつつ、追跡を妨害するしかない。
 ドゥランとアンジェは視線を合わせると、それぞれ座席のクッションを外した。隙間に隠してあったのは銃だ。魔導の動力を組み込んだ小型のもので、魔法を使うことのできない者でも扱える。弾には魔石を使用しており魔力を込めたものを発射する。銃身の内部に刻まれた魔法陣を経て、魔法が発動する仕組みだ。連射できるという利点があるが、弾数は少ない。鉛弾よりは威力があるから、まとめて当たれば相当なダメージになる。ちなみに銃そのものもそうだが、弾がとにかく高額なので予備を準備することができなかった。これだけで足止めできるかどうかと言われると、正直微妙だ。

「直線よりも曲がり角の時の方がいいかしら?」
「そうしてくれ。トロワ! この先のルートは」
「三百メートル先を右、その後五十メートル程行ってから左に入る。そこで川に出る」

 ドゥランは顔を顰めた。

「川に船を流して囮にする予定だったな。それはパスだ。そこまでで引き離せない」
「……チッ!」

 トロワの余裕の無い舌打ちが聞こえてくる。

「最短で街を出るしか無いぞ」
「そうだな。追われてる以上、撹乱も出来ないだろう」
「街を出る前に、引き離さないと」
「分かっているとも」

 言っている間にも、ドゥランは後方を見ているが、聖人との距離が離れる様子は無い。いくらなんでもそこまで聖人の体力が持つとは思えなかったが、不思議と追い付かれてしまうのではないかという不安がドゥランを支配する。
 ドゥランは手の中の銃を確認し、トロワに向かって叫んだ。

「ルートは予定通りに! 直線の通りで仕留める!」
「……了解」

 トロワからの返答は渋いものだったが、もうそれしかないというのは分かっているのだろう。ドゥランの指示に従い、馬を駆る。もうすぐ最初の曲がり角だ、衝撃に備えてドゥランとアンジェは銃を握ったまま、座席に縋り付いた。その間で、視線を合わせる。

「二つ目の角を抜けた先、奴の姿が見えたらすぐに撃ってくれ」
「わかったわ」

 アンジェが頷いたのを見て、ドゥランも頷き返す。と同時に、手の中の銃を確認する。ドゥランのものはアンジェの銃よりも銃身が長く、命中率はある。が、連射性は悪い。しかも弾は三発しかない。まさか使うことになるとは、というのが本音だった。
 が、もうやるしかないと、腹を括った。ぎりっ、と奥歯が鳴る。

「曲がるぞ!」

 トロワが叫ぶ。ドゥランは歯を食いしばって、後方を睨みつけた。

「やってやる……!」

 聖人の姿には変化が見られない。引き離すことも近付くこともなく、ただそこにあった。

 アルベルトは、フォームを崩さずただ淡々と足を運んでいた。魔力の消耗はほとんど無い。ここまでは後ろに着きながら馬車の様子を伺っていたのだ。
 最初は無茶な速度で角を曲がったので、追跡に気が付いたのだろう。振り切ろうとしたにしてはお粗末だが他に方法があるわけでもなし、想定内である。この後はどうあっても最速で街を抜けるしかないだろうから、アルベルトはこのまま追跡を続ければいいだけだ。それは問題が無いので、余裕の構えで馬車を追う。ただ、必ず引っ捕らえて粛清してやるつもりなので、やる気と魔力と殺意を絶えず限界まで高めておくのに注力する。どちらかと言うと今すぐ馬車を爆破させてやりたい衝動を抑えるほうが苦労した。でもまだあの馬車にはリリアン(のティアラ)が乗っているから、リリアン(のティアラ)の無事を確認するまでそれは出来ない。ひたすらに馬車を睨み付けて、アルベルトはその後を追った。
 しばらく走ると、馬車は速度を落とさず右の道へ入って行った。今度は速度を落とさなかったので、これは予定通りの動きらしい。
 そうすると、とアルベルトは王都の地図を思い浮かべる。
 王都の南、教会の位置は北に近い。そこから飛んで、今は王都の中央からやや南東を進んでいる。ここから右に入ると、西方向へ向かうことになる。その先はあまり大きくない通りだ。それに、王都から出る門までは曲がり角やカーブが多く、速度を出し難い。
 途中、川がある。貨物を倉庫に運ぶのにも利用されている川だ。もしかしたらそこに船を用意しているかもしれない。貨物船は年中動いているのでそれに紛れて逃げるか、それとも大通りに戻って馬車で逃げるか。
 アルベルトが追って曲がると、馬車はすぐの角を左に入っていった。

「船を使う気か?」

 アルベルトは眉を寄せた。この速度で船に乗り移るのは無理があるだろう。馬車を囮に船で逃げるなら、馬車に誰かを残すことになる。なんとなくアルベルトは、ここで馬車を捨てたりはしないだろうなと思った。乗り捨てるには馬車も馬もしっかりし過ぎている気がする。このまま捨て置くには惜しいのではないだろうか。もしも船を準備していたならば、船の方が囮で、このまま馬車を使うつもりなのではないかと思った。
 最初から馬車で逃げるつもりだったなら、さすがにこの速さでは馬が疲れて乗り潰すことになる。もしかしたら元々そんなに速度を出すつもりはなかったのかもしれない。
 そんな事を考えながら、馬車に続いて右に曲がった、その時だった。前方で小さな魔法が発動したのを感じ取った。同時に馬車から光が見える。
 アルベルトは瞬間、障壁を作った。魔力は充分にあったから造作もなかった。瞬きよりも早く、それはアルベルトの前方に形成される。
 馬車から放たれた魔法は障壁に当たると、火花のような光を残してそのまま霧散して消えた。障壁に取り込まれたのだ。色のない炎のような揺らめきにいくつも赤い色が混じる。その時に射撃音を確認したから、アルベルトはこの魔法が魔法銃によるものだと理解した。
 障壁に当たった魔法は無効化され、吸収されている。当たった感じからするとよく流通している炎性の下級の弾だろう。こんな弾だと、何万発撃ってもアルベルトにはかすり傷すら与えることは出来ないが。
 ふん、と鼻を鳴らして、前方を見据える。
 魔法銃は、購入するのに面倒な手続きが必要な代物だ。貴族なら伝手と金があればどうとでもなるだろうが、庶民はそうはいかない。銃身に刻む魔法陣を描ける魔導士が少なくて作るのが大変だからとにかく高額なのだ。簡単に威力が出せる分、購入に関して厳しくならざるを得ない。他国でどうなのかは分からないが、そもそも他国で造られているとは思えなかった。魔法銃の発祥はここトゥイリアースなのだ。
 なのにそれを使ってくる馬車がある、それも二丁だ。銃によって撃った後の弾の威力は決まっている。さっき無効化した魔法には強弱があった。二つの銃があることの証左である。
 表立って商売できない輩が構造を解析して模造品を売っているという話があった気がする。おそらくそういうところからの入手品だろう。偶然とはいえしょうもないものを見つけてしまったものだと、息を吐く。
 この程度何の障害にもならない。アルベルトは変わらず馬車を追った。

 一方、馬車の中ではドゥランが驚愕に声を荒らげていた。

「なんで効かない!?」

 銃は、確かに作動した。アンジェの銃もだ。全弾を順番に撃って逃げ場を無くし、ドゥランの持つ銃では急所を狙ったはずだった。だがそれは、聖人に当たるどころか、ある一点で赤く光って消えてしまった。着弾して破裂する魔法が発動した気配はない。消えてしまったとしか思えないのだが、それがどうしてなのか全く検討がつかなかった。

「どうなってるのよ!」

 アンジェが、手にした銃を床に叩きつけた。

「確かに撃ったわよね!?」
「ああ、そのはずだ」
「じゃあ何なのよあれは!」
「俺が知るか!!」

 声は自然怒鳴り声になった。この銃は切り札であったから、ここまで何の効果も出せないとは思っていなかったのである。なにしろこの魔法銃というのは、魔導士でさえも打ち倒せると言われる代物だからだ。
 魔法というのは、自然現象の再現と言われている。自然現象の前に人は無力だ。だからそれを起こせる魔導士は、何の魔力も持たない人にとっては脅威となる。
 それをひっくり返せるのが魔法銃だ。だからこの銃と弾は高い。物凄く高い。トロワが散々苦労をして手に入れたものだった。
 それが、何の効果ももたらさなかった。ドゥラン達が動揺しているのはその為である。

「おい、どうした!?」

 騒ぎが聞こえたのだろう、トロワがこちらに問いかけてきた。ドゥランは捻り出すようにそれに答える。

「銃が効かない」
「なんだって?」

 トロワの声に困惑が混じった。

「弾が撃てなかったのか?」
「いや、撃てた」
「外したのか」
「そういうわけじゃない」
「じゃあ、何だって言うんだ?」

 状況のわからないトロワに、見たままを伝えたところで伝わらないだろう。はっきりとその目で見ていたドゥランにも、何が起きたのかわかっていないのだから。

「分からない。弾が消えたんだ!」
「……はぁ?」

 何を言っているんだ、とトロワは不機嫌な色を隠さなかった。というか、隠せなかった。こんな時に何をふざけているんだと続けたが、それに返ってくるドゥランの声は混乱しているものの真剣なものだった。

「撃った弾が追っ手に当たる手前で消えたんだ。不発で落ちたようにも見えなかった」
「どういうことだ……?」

 思わず声を潜めるトロワだったが、それよりも、という悲鳴のような声が上がった。アンジェだ。

「どうするのよ、あれを消すどころか足止めもできなかったじゃない! 追い付かれるわよ!」

 ぎり、と鳴らした奥歯は、本日もう何回鳴ったかわからない。そんな事言われてもドゥランにもどうしたらいいのかなんて分からなかった。
 くそっ、というトロワの声も何度聞いたことか。途方に暮れながらも、次の手を考えるのはドゥランの役目だった。アンジェの甲高い声を背景に、とにかく打てる手が無いか思考する。けれども、装備はこれで全部だ。短剣くらいはあるが、まさかこれを投げるわけにもいかないだろう。
 そもそも、いつもの彼らの手口は、客や従業員に化けて忍び込み、痕跡を残さずそっと逃げ出すものだ。今回やったように、火事を装って騒ぎ立て、その隙に逃げるなんてことはしなかった。ぎりぎりでそれをやる事になったものだから、逃走時の準備が足りなかったのかもしれない。だが、そもそも追っ手は付かないはずだった。ゆくゆくは追われることになっていただろうが、王都から出もしないうちに追っ手に見付かる筈がないのだ。そうならないような準備だけはしたから。だから武器は最低限しか載せていなかった。

「ああ、くそ」

 ドゥランは苛立ってどうしようもなくて、そう溢した。どうにも手段が浮かばない。何かないだろうか、と思っても、狭い馬車の中には盗品の宝飾品と、弾の無くなった銃と、一本だけの短剣しか無い。
 こうなったらトロワに頑張って貰って捲くしかないなどと、希望的観測が浮かんだ時だった。ふっと何かが、ドゥラン達の周囲を覆った気がした。と、御者台から「うわ!」とトロワの悲鳴が上がる。

「どうした!?」

 慌てて小窓に駆け寄って、そうしてドゥランにも分かった。さっきまでと視野が明らかに違う。

「な、何だ……?」

 どうしてだか、快晴だったはずの視野は、真っ白に染まっていた。

 アルベルトは銃弾を止めた後、しばらく馬車の後を追っていた。どさくさに紛れて馬車を変えたり船に乗り換えたりするかもしれないと周囲を見たが、それだけの余裕はあの馬車にはなさそうだった。次弾が来るかと備えてもその気配もない。よくもまあ、たったこれだけのちっぽけな装備でリリアン(のティアラ)を連れ去ったものである。余計に腹が立った。
 馬車が出たのは南の門への街道、大通りでほぼ直線だ。門まではまだだいぶ距離があるが、このまま逃げ切るつもりなのだろう。こちらの体力が保たないとそう思っているに違いない。
 馬車を引く馬が力尽きるのを待ってもいいが、そこまで気の長いアルベルトではない。幸い障害になりそうな建物なんかは、道の両端にしかないことであるし、ここで不届き者を引っ捕らえてしまっていいだろう。ようやく懲らしめることができると、アルベルトのやる気は限界を超えそうである。

「まずは馬車か」

 追うのも面倒になってきたので、アルベルトは馬車を止めることにした。
 まずは、馬車の周辺を魔力で覆い、視界を奪った。効果が拡散しないように、魔力の濃度を馬車周辺だけ調整する。丸く覆ってその中だけに吹雪を起こす。これで馬の脚を止める狙いだ。
 思惑通り馬車の速度が落ちる。それを確認すると、氷のレーンを加工して、先端を上向きにする。アルベルトは速度に乗ったまま、三度飛び上がった。
 跳躍した先、どごん、と派手な音を立てて、アルベルトは馬車の屋根に飛び乗った。と同時に視線を巡らせ、馬と車とを繋いでいる部品を悉く風の魔法で吹き飛ばす。そしてするりと御者台に降りると、狭いそこで驚く男と目が合った。
 そしてアルベルトは即座に膝を男の顔面に入れてやろうと思ったのだが——瞬間、脳裏に一つの影が浮かび上がり、同時に声がした。

『待って』

 それは唯一残ったアルベルトの良心だった。女神リリアンの姿で呼び掛けてくるそれに、アルベルトはなんの迷いもなく耳を傾ける。彼がリリアンの姿を無視するはずがないのだ。

『この方は本当に、盗賊の一味かしら。もしかしたら、無理矢理手伝わされた無関係の人かも』

 成程、女神リリアンの指摘はもっともである。彼女の指摘通りであるならばこの男は被害者となり得る。もしそうなら、このまま蹴り飛ばしては女神リリアンの意にはそぐわない結果となるだろう。なぜならリリアンは、無関係の者が傷付くことは望まないだろうから。
 それでアルベルトは男に質問することにした。

「おい。お前は連中の一味か?」

 くい、と顎をしゃくって馬車を示す。突然の空からの訪問者に慌てていた男は、それがなにを表すのか理解したようで、器用に馬の無い馬車を駆りながら忙しなく頭を動かす。

「な、なんだ、お前は」

 縋るでもなく詫びるのでもない、否定ではない男の言葉に、脳裏の女神リリアンが悲しげな表情をした。もうそれだけで、アルベルトには十分だった。

「そうか」

 言うや否や、御者台の縁から足を下ろし、足場を確保すると腰を落とす。脳裏で女神リリアンが残念そうに首を横に振っている。女神リリアンにそのような表情をさせることだけでもう重罪であるので、躊躇いは一切ない。ましてや一味の者だとなれば加減は不要である。
 男が抵抗をしないうちに、アルベルトは右手に魔力を集中させ——それを、全力で男の腹に叩き込む。
 どおん、と低い音が鳴り響いた。衝撃は車体を突き抜け、振動で馬車に纏わり付いた雪が飛び散る。進行方向と真逆の方向への衝撃が加わったことで、馬車は完全に停止した。
 男の体が当たった箇所は完全にひしゃげていたが、御者台であったことが幸いしたようだ。背もたれのクッションがいくらか衝撃を吸収したらしい。が、男は再起不能だった。白目を剥いて泡を吹いている。アルベルトはぬぅっと、姿勢を戻した。
 青い双眸が一点をひたりと見やる。馬車の中、ここに麗しのリリアン(のティアラ)を盗んだ不届者がいる。
 それでもう、制御が効かなくなった。許してやるつもりなどはなから毛頭無いが、加減をしてやるつもりもない。アルベルトは自身の魔力を総動員し、両手にそれを籠めると、思うがまま車体に爪を立てた。
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