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5.お父様はお母様!?②

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「今日は城へ行くんだったか」

 食後のお茶を啜りながら、アルベルトはリリアンを見る。完璧な仕草でカップを持ち上げるリリアンは父親を見ると頷いた。その様子に、アルベルトは「この様子の絵を描かせてもいいかもしれないな」と呟いた。朝日が差し込む中、美しい姿勢で座るリリアンは絵になる。レイナードが「何枚目ですか父上」と言っているのは、リリアンには聞こえなかったらしい。首を傾げて、今日の予定を告げた。

「ええ。いつものレッスンで」

 リリアンが通っているレッスンは王妃が監督しているもので、王妃によって選ばれた教師が行っているマナー教室である。一口にマナー教室と言っても、爵位の高い女性を招いたもので、王妃が選んだ人物しか受けることができない。なので毎回少人数での参加となるが、少人数が故きっちり学ぶことができる。それも王族に匹敵するものを、だ。王妃と、それに近しい者とが参加しているので、だから人気があった。これに参加できれば、それだけで彼女達と繋がりができるからだ。
 参加者が別の人物を教師に紹介し、その人物が王妃のお眼鏡にかなえば招かれることがある。競争率は高いが、おかしな人物が紛れることはない。それも人気の理由のひとつだ。
 リリアンは参加の資格を有しているが、マナーは完璧だし、家で家庭教師からも学んでいる。教師達は皆リリアンにはもう教えることはない、とまで言うくらい授業は済んでしまっている。城で学ぶと言っても、その実リリアンが覚えるべきことは少ない。

「リリアンにはもう必要ないんじゃないかな?」
「そんなことありませんわ」

 リリアンはカップを戻すと、ふわりと笑む。

「確かに、シエラ様からは合格を頂いていますけれど。それよりも交流に重きを置いていらっしゃるそうですから、いつもいろんな方とお会いできますの。成人前からそういった場に出る機会があるというのは、とてもありがたいことですわ」

 その言葉にアルベルトもにっこりと笑顔を返す。

「そうなのか。さすがはリリアンだ」

 と、そう言うが、実際リリアンが人脈作りに勤しむ必要はない。すでにリリアンは友人が何人もいて、その誰もが優秀でそれでいて有益な人物だからだ。更に言えば、彼女達は心からリリアンを慕っている。頼み事をすれば誠意を持って応じてくれるだろう。
 これをリリアンは何の他意もなく集めたのだから、アルベルトは内心頼もしくて仕方ない。打算も計略も何も無く人柄だけでこれだけの人脈を築いたのだ。素晴らしいの一言に尽きる。
 実を言えば、王妃がリリアンをマナー教室へ呼ぶのは、他の参加者へのお手本としているからである。十四歳ながらも作法は完璧で仕草は洗練されており、なにより気遣いも完璧。こうあるべし、とそのような意図をもって、王妃はリリアンを招いている。それ以上に「わたくしの姪っ子すごいでしょう、わたくしが育てたのよ」という自慢も含まれているが。

「ですのでお父様、本日も行って参りますね」

 リリアンが行くと言うのであれば、アルベルトには止める理由はない。

「ああ。気を付けて行っておいで、リリアン」


 そんなやり取りを経て王城へやってきたリリアン。毎日出仕しているレイナードと共に来ても良かったのだが時間が合わなかった。とは言え屋敷から城までは馬車で十五分くらいの距離だ、別々でも馬車が出せない、なんてことはないので、リリアンはシルヴィアを伴って慣れた足取りで城内を進む。アルベルトが譲らないので、護衛の騎士もいるのだが、彼らは馬車に残してきた。いくら護衛の為とはいえ私兵を城に入れるのは憚られたからである。片道十五分の間にどのような危険があると言うのかわからないが、娘を思う父親の気持ちを無碍にできず、リリアンは受け入れている。
 レッスンは、実際のお茶会のように行われる。季節や祭典の有無によって、事前に使用する部屋の案内がある。部屋ごとに調度品が異なっており、壁紙も絨毯も色彩が違う。会場となる部屋がどんな色彩なのかを把握して、ドレスや装飾品を相応しいものにしなければならない。招かれた時点から、レッスンは始まっているのだ。
 今日の会場は、通称「花の間」と呼ばれている部屋となっている。歴代の王妃が私的に使う部屋で、調度品に大小様々な花が用いられていることからこの名で呼ばれる。全体は落ち着いた色調で華美ではない。強い色のものが取り除かれているので、ゆっくりとした交流の場とするには無難である。つまりこれは新参の者にしてみたら入門編に最適であり、古参の者からすると少しだけ冒険ができる。場所を選ぶ色合いのドレスでも、下品でなくて場に合っていれば問題視されない。舞踏会ほどじゃなくても、いつもよりちょっとおしゃれをして見せ合いを楽しんでね、という王妃の気遣いでもある。
 そんなわけで本日のリリアンは、淡い紫のドレスを身に纏っている。しっとりとした光沢のある生地に色味の異なる紫の糸で刺繍が施されており、煌びやかではないが華やかさがある。若い女性らしくドレープがたっぷりととられていてボリュームのあるスカートだ。装飾品は細いチェーンのネックレスだけ。その代わりに凝った編み込みを施した髪が、ドレスと同じ紫のリボンで纏められていた。地味にならないのはやはりリリアンの銀髪によるところが大きいだろう。華美になりすぎないよう、装飾品を抑える必要があったくらいだ。

(あら?)

 もうすぐ花の間——というところで、向こう側からやって来た人物に、リリアンはすっと礼を取る。相手はリリアンを認めたらしく、足を止めた。

「やあ、リリアン」
「ご機嫌よう、マクスウェル様」

 回廊の向こうからやってきたのはリリアンの従兄弟、王太子マクスウェルであった。マクスウェルはリリアンに頭を上げるよう促し、リリアンがそれに応じると破顔する。

「今日はレッスンの日だと聞いたが」
「ええ。その通りです」
「母上が我が儘を言ってすまないな。断ってもいいんだぞ」
「毎回楽しみにさせて頂いているんですのよ。断るだなんて、とんでもない」
「そうか? それならいいが」

 従兄弟同士ということもあるが、マクスウェルはそれ以上にリリアンを可愛がってくれていた。本当の妹のように接してくれるから気安い。リリアンもマクスウェルも、始終にこやかだ。

「ところで、わたくしに何かご用でしょうか?」

 リリアンがそう尋ねたのは、マクスウェルがレッスンがあることを知っていたからだ。おそらくだがリリアンがここへやって来ることを見越していたのではないかと思う。
 そう言うと、マクスウェルは頷いた。

「ああ、レイナードから、君が来ることを聞いてね。場所は母上に確認した」
「まあ。では、どういったご用件で」
「いやそれが、用があるのは君じゃないんだ」

 リリアンは首を傾げる。ここにいるのはリリアンとシルヴィアだけ。侍女のシルヴィアに王太子が用があるとは思えないが。
 考えていると、マクスウェルはリリアンの背後に視線を向けた。

「レイ。居るんだろう、出て来い」

 えっ、と声を上げたのはリリアンだ。マクスウェルの視線の先を追う。するとリリアンの後ろの、少し離れた柱の影から、兄がちょっとだけ顔を覗かせたからますます驚いた。

「お兄様!」

 一体いつから後を付けていたのか。まったくわからなかった。戸惑っているとマクスウェルが呆れた声を出す。

「お前なあ。休憩に行くはいいが、どこまで行くんだよ。リリアンが来るって言ってたからなんとなく予想はしてたけど」
「いや、だって。家を出る前にリリーのドレスを見られなかったから」

 レイナードは言いながら柱の影から出てくる。そうしてリリアンの前に立つと、いつも無表情の顔を綻ばせた。

「リリー。良く似合っている。素敵だよ」
「ありがとうございます、お兄様」

 うん、と頷くレイナードをマクスウェルは睨みつける。

「だからって仕事を抜け出すなよ」

 が、レイナードは意に介した様子はない。キリッとした顔でマクスウェルを見返した。

「嫌だ。リリーの新しいドレスは必ずこの目で見ると決めているんだ」
「うん、仕事中じゃなきゃいいぞ。思う存分見てやれ」
「じゃあそうする」
「阿呆。今は仕事中だろうが。休憩は終わりだ、終わり」
「待てマクス、あと十分延長しよう」
「駄目に決まってんだろうが!」

 首根っこを掴んで連れ戻そうとするマクスウェルをどうにか押し止めようと、レイナードは必死だった。どうしたものかとリリアンはそれを見守っている。シルヴィアは無表情を貫いていた。侍女の鑑である。
 やがてマクスウェルがなにがしかを耳打ちするとレイナードが顔色を変えた。

「ぐっ……わかった。仕方がない、仕事に戻ろう……!」
「当たり前のことを言いながら苦渋の決断みたいな顔をするな!」

 締め切りがどうとか聞こえたので、おそらく提出期限が迫ったものがあるのだろう。
 茶番と言って差し支えないが、鬼気迫るレイナードの様子にリリアンは口を挟めない。

「必ず戻ると約束する。だが、せめてその前にリリーと一言話してもいいだろうか」
「お、おう。そのくらいなら構わないぞ。でも冤罪で身柄を確保される罪人のようなセリフを吐くな」
「ああしろこうしろと細かいな」
「お前凄いな。俺の話を聞く気がまったく無くて」

 その言葉にレイナードはふいっと視線を逸らした。アルベルトが居る時は父親を抑えるのに徹するが、居なければこうである。妹を独占する機会を逃さないのだ。ましてやレイナードは日中は家に居ないことが多い。予定をすっぽかして権力と能力とで後から対処するアルベルトとは違い、真面目に出仕しているからだ。

「お兄様、マクスウェル様が困っています」

 だけど、当の妹にそう言われてしまえば、レイナードは改めるしかない。がっくりと肩を落としてリリアンに向き直った。

「リリー……もう少しお前の姿を見ていたかったが、仕方がない。仕事に戻るとする」
「ええ。頑張って下さいね、お兄様」
「うん」

 そう言うとレイナードはもう一度リリアンの姿を見て、目を細める。そうしてそっと抱き寄せ、優しくリリアンの頭に唇を落とした。

「綺麗だよ、リリー」

 じゃあね、と言い残して、そうして王太子を伴って戻って行った。

「俺は何を見せられているんだ。戦場にでも行くのかこいつは」

 まるでお芝居の一幕のような光景に、マクスウェルは精神力をゴリゴリと削られたのだった。
 そんな二人を笑顔で手を振って見送るリリアン。毎朝父か兄を見送る際、似たようなことをされるので、このくらいなんともないのだ。行きましょうか、とシルヴィアに声を掛けて、リリアンは先を急いだ。早めに到着しているとはいえ遅くなるわけにもいかない。花の間はもうすぐそこだ。

「…………」

 この時リリアンは、一部始終を見られていたことに気が付かなかった。


◆◆◆


 定刻になり、花の間に参加者が揃うとすぐにレッスンが始まった。今回呼ばれているのはリリアンの他に、アズール公爵家令嬢のセレストと、アズール家と懇意にしているラッカルト伯爵家令嬢、それからファンデル侯爵家令嬢の三名。同室の窓際にもテーブルがあり、そこではそれぞれの母親が同じようにお茶をしている。令嬢のみならず親同士も交流を持てる、それもまたこの教室の魅力だった。これを足掛かりに親交の手を伸ばそうと、ラッカルト伯爵夫人とファンデル侯爵夫人は優雅な笑顔の下でぎらぎらと目を輝かせている。
 レッスンを受ける若い娘達もその実必死だ。ここで優秀なことを教師に覚えて貰えば、その噂が城内に広がり良い縁談に繋がるかもしれない。もしくは王妃の目に留まれば、王妃から縁談が頂けるかもしれない。そうなれば実家の名も上げられる。そんなチャンスを見逃すわけがない。
 だからこの場には、礼儀知らずで無礼な振る舞いをする者は入れないはずであった。
 事が起きたのはレッスンが無事進行し、各々緊張が解れた頃である。

「セレスト様。近々新しい生地が売り出されると伺いましたが、本当でしょうか?」

 言ったのはラッカルト伯爵令嬢だ。クリーム色のふんわりしたドレスはボリュームがあり、それに合わせたのか髪もふわふわ巻かれている。何度もセレストに懇願し、今回念願叶ってようやく初めて参加することができた彼女は興奮していた。家で必死に覚えた作法は、とりあえず教師から良を貰えた。それで浮かれていたことは否定できない。少々大きくなってしまった彼女の声を、セレストがやんわりと嗜める。

「ええ、それは本当ですわ。でもそのように声を上げてはいけませんよ」

 セレストはその言葉の通り、ただ単に声が大きいと注意したつもりだったが、彼女は違うように捉えたようだ。心得ているとでも言うように、意味ありげに頷いてみせる。

「分かっています。なんでも、今までにない発色で、とても手触りが良いのでしょう? 秘匿されるのは当然のことですわ」

 その言葉にセレストは言葉を詰まらせる。どうやら彼女は声が大きい、というのを、「今はまだ秘密だから隠して欲しい」と解釈したようだ。でも秘匿する、と言いつつ特徴をぺらぺらと述べるのだから、本当に理解しているのか怪しい。

「それにしてもアズール家はすごいです。次から次へ新しいものを開発なさるのですから」

 それは、半分正しくて半分間違いだ。新たに開発されるもののうちの大半は、実はヴァーミリオン家で研究されたものだから。それを大量生産できる製品にして、安定供給させるのがアズール家の役目。だからすべてがアズール家の功績のように言われるわけにはいかない。けれどそれを知っているのはある程度の爵位の家に限られる。ラッカルト伯爵家には知らされていないようだった。
 特に隠す必要はないのだけれど、彼女に言ってしまっていいものなのか、セレストには判断がつかない。母に尋ねるべきかとそちらへ視線を向けるが、セレストの母親は会話を聞いているのかいないのか、カップに視線を落として静かにそれを味わっていた。それでいよいよセレストは、どのように言うべきかと考え込んでしまう。
 そんなセレストの様子に気付いていないようで、ラッカルト伯爵令嬢はセレストを褒め称える。

「そういった開発には、セレスト様も関わっていらっしゃるとか」
「え、ええ、そうね」

 それに大袈裟に「まあ!」と声を上げるのは、ファンデル侯爵令嬢だ。真っ赤なドレスと揃いのべにを塗った唇がぐっと広がる。

「素晴らしいですわ! となれば今度のものもセレスト様が手掛けられているのですね。新作が発表される度に、すぐさま完売してしまいますでしょ? あたくしも次こそは、発表と同時に手にしたいですわ」
(なんだ、新作を融通して欲しいという催促ね?)

 そうであれば、納得できなくもないな、とセレストは思った。お茶会ではこういったやり取りも珍しくない。でも、王妃が手掛ける、王城で行われるレッスン中にやるべき事ではない。彼女達の母親も止めも嗜めもしないがこれはだめだ。後で教師から注意をされるだろうし、王妃に伝わると二度とこの場に呼ばれないだろう。利益を求めるのは構わないという王妃でも、品が無いのはいただけない。こういうのは、セレストが個人的に招待した茶会でやるべきだ。
 セレストはそう思って顔を顰めていたが、その考えは違っていたようだ。直後、彼女達はじとりとした視線をリリアンに投げかけたのである。

「セレスト様は、そのように活躍されていますのに。リリアン様は普段なにをされているんですの?」
(……あなた達はなにを言っているんですの!?)

 ひぃ、とセレストは驚愕に喉を引き攣らせた。どうしてだか二人は得意気な顔でリリアンを見ている。リリアンはといえば、困ったように首を傾げていた。

「なにを、とおっしゃられても……」

 リリアンが普段していることと言えば勉強と奉仕活動、それと友人達との茶会だ。王城でのレッスンは週に二回あるから、それなりに忙しい。成人前の令嬢はここまでスケジュールがいっぱいなことはほとんどない。セレストだって、新しい製品の開発時期は、それ以外の予定は入れないのだ。だからリリアンは多忙なほうで、そもそも家の仕事に関わる令嬢のほうが珍しいくらいだから、それを理由にリリアンに難癖をつける方がどうかしている。というか、親しくもないくせに、そんなことを尋ねるだなんて礼儀がなっていない。
 彼女達はなぜリリアンにそのようなことを言ったのか。それがわからなくて、セレストは慌てて口を開いた。

「あなた達、どうしてそんな事を言うのです」
「まあ、セレスト様。どうして、とは?」

 ファンデル侯爵令嬢は、鳥の羽のついた贅沢な扇子をばさばさと扇ぐ。まったくもって品のない行為だ。

「セレスト様はお困りでしょう? ですからリリアン様には、一言申し上げねばと思っていたのです」

 それにラッカルト伯爵令嬢も同意した。

「そうですわ。セレスト様がいらっしゃるというのに、ルーファス殿下をたぶらかすなどもってのほか」

 その言葉にセレストはひゅっと息を呑む。
 セレストとリリアンの不仲は有名だ。今まではルーファスがリリアンの元へすっ飛んでいくのが気に入らなくて、リリアンにことあるごとに嫌がらせをしてきたが、今はもう、セレストにはそんなつもりはない。むしろリリアンをライバルと認定することで、真っ向から蹴落としてやる、と前向きになっているのだ。だから彼女達の気遣いは余計なお世話なのだが、当人がどのように考えているかなど、わかるわけがない。それにこの二人との付き合いは、それほど長くなかった。だからセレストがどんな思いでいるのかなんて、本当にわからないのだろう。それで社交界の噂をそのまま持ち出していると見える。
 にっこりと笑むファンデル侯爵令嬢に、セレストは頬を引き攣らせるしかなかった。いくらこれから流行るものとは言え、ドレスを融通してもらうのに、ヴァーミリオン家に喧嘩をふっかけておいてただで済むと思っているのだろうか。
 どう返したらいいかわからず固まるセレストに、ラッカルト伯爵令嬢が畳み掛ける。

「それに、わたくし見ましたのよ。先程マクスウェル殿下と、それにどこかの令息ともずいぶん親し気でしたわね。公爵家の方ともあろう者がはしたないですわ」

 いよいよ、セレストは色をなくす。

(なんなの。どういうつもり?)

 困惑して、隠した口元が歪むのを抑えられない。ファンデル侯爵令嬢はそんなセレストを気にも留めず、笑みのままセレストに言った。

「あたくし達はセレスト様の味方でしてよ」

 その言葉でセレストは気付いた。どうやら彼女達はリリアンのことを大いに見下しているようだ。どうしてそのような発想になるのだろう。ヴァーミリオン家の影響力と、当主の、愛娘に対する異常なまでの過保護っぷりを知らないのだろうか。
 さすがにこれは看過できないと、セレストは教師を務める女性に視線を向けた。だがセレストが口を開く前に、リリアンが声を上げる。それはリリアンに似つかわしくない、いつもより硬い声色だった。

「お二人のおっしゃることは誤解です。ルーファス様はただわたくしに挨拶をして下さっているだけですし、マクスウェル様も同様ですわ。それに、先程話をしていたのは、わたくしの兄です」
「まあ。そんなこと、どうして信じられると思うのかしら」

 リリアンは厳しい顔付きでファンデル侯爵令嬢を見る。

「そうですわね。初対面ですから、わたくしの言うことなど信じられないでしょう」
「まあ……そんな言い方なさらなくても。母親が居ないとそんなこともわからないのかしら」

 セレストはその言葉に目を吊り上げた。
 付き合いが浅いとは言え、彼女達はセレストからの進言でここに招かれたのだ。その彼女達が、あろうことかリリアンにこのような暴言を吐くようであれば、セレストはその責任を負わなければならない。そんなことよりも何よりも、その発言がセレストには許せなかった。

「あなた達、いい加減になさい!」

 少女達はビクッと肩を揺らす。

「たとえ事実がどうであったとしても、本人にはどうしようもないことで貶めていい理由なんてなくってよ!」

 セレストの剣幕に二人は驚いて顔を見合わせる。戸惑っているように見えるが、こうなることが予測できなかったのだろうか。セレストは信じられない思いで二人の少女を睨みつける。
 どのように言ってやればわかるのか。セレストがそれを考えていると、静かな声が響いた。

「確かに、わたくしには母がおりません」

 リリアンだ。
 彼女は凪いだ湖面のように、感情を乗せない顔で言った。

「でも、シエラ様が、わたくしが幼い頃からずっと気に掛けて下さいましたの。それこそ、母同然に。マクスウェル様も妹のように接して下さいました」

 はっと息を呑む声が聞こえた。それが本当なら、少女達の言葉はとんでもなく不敬になるはずだ。ようやくそれがわかったようだ。呆れてしまう。
 リリアンはそれで、やはり静かに続ける。

「ですから、それ以上おっしゃられるのであれば、わたくしはシエラ様とマクスウェル様に報告しなければならなくなりますわ」

 なにも言えない少女達にリリアンは微笑む。

「この話はここまでに致しませんこと?」

 はひぃ、というのは誰の声だったのか。よくわからないが、ともかく身の程を知ったらしい少女と保護者達が、挨拶もそこそこに席を立った。みんな慌ててドアに駆け寄るものだからそこで衝突し合っていて呆れが増す。教師は、そんな四人を追うようにして退室してしまった。おそらくこの部屋への接近禁止と、あとは王妃へ報告に行くのだろう。
 セレストは深く息を吐いて、それでちらりとリリアンを見た。

「リリアン様。あのお二人のことですけれど」
「わたくしは、気にしていません」
「わたくしが気にするのです」

 言い切って、それでセレストは俯いた。あの二人はしつこく、本っ当にしつこくアズール家に分かりやすく擦り寄って、この教室への参加をねだってきた。根負けして渋々王妃に掛け合ったのだが、どうやら間違いだったようだ。

「その、あの……申し訳ありません。わたくしからも謝罪致します。あのお二人を王妃様に仲介したのはアズール家なのです」
「……わたくしは、気にしません、と言いましたわ、セレスト様」

 その声にセレストは顔を上げた。見えるのは、いつもの穏やかなリリアンだった。

「ですから、これまでに。美味しいお茶を頂けましたもの。それでいいではないですか」

 ね、と首を傾げるリリアンは茶目っ気たっぷりに目を細めた。今日の茶葉はアズール家経由で用意されたものだ。リリアンは、それで貸し借りなしだと、そう言っているのだ。
 セレストは、これは敵わないわと、肩を竦めるのだった。



「お母様」

 リリアンが侍女を伴い退室して、花の間にはセレストとその母親が残った。セレストの母、ベロニカ・アズール公爵夫人は娘の声に顔をそちらに向ける。
 娘は問うような、責めるような顔つきだった。それもそのはず、彼女達と最初に接触したのはベロニカだったからだ。

「これでいいのですよ、セレスト」
「あの、いいとは?」
「王妃陛下からの依頼だったのです。彼女達があまりにもしつこいから、出入りできないようにしたいと」

 セレストはそれにあんぐりと口を開ける。はしたないですよ、という母親の声で、ぱっとそれを戻した。一緒に背筋もぴんと伸びたのがおかしい。
 まったく、とため息をひとつ、ベロニカはドアへ目を向ける。愚かな者達へ言うことは何もない。言ったことが理解できるとは思えないからだ。だからやることと言ったら一つだけ。

「リリアン様をあのように悪様あしざまに言うとは思っていませんでした」

 謝罪しないといけませんね、と、夫人はどこまでも冷静だった。


◆◆◆


 翌日リリアンは、いつものように玄関で母親の肖像画に朝の挨拶をしていた。今日は外出の予定はない。でも家庭教師の授業があるので、それに相応しいドレスを着ていた。朝からきちんとした格好をしていると気持ちがしゃんとするのだ。背筋を伸ばして、いつもよりちょっと長めに母親の肖像画を眺めている。
 そこへ、すっとアルベルトがやってきて、リリアンの隣に並んだ。

「おはよう、リリアン」
「おはようございます、お父様」

 リリアンの声にはいつもより張りがない。弾けるような眩しい笑顔もどこかかげりがあると、アルベルトは見抜く。
 ふむ、と顎に手を当てて腕を組んだ。

「リリアン、昨日のことを引きずっているのか?」

 その言葉にリリアンは顔を上げる。見上げる父の表情は、気遣う色が濃い。
 きっと父は昨日のレッスン中にあったことを全部知っているのだとリリアンは思う。まったく珍しいことではない。この父はいつだってなんだって、リリアンのことを全部知っているのだ。
 別段隠していたわけではないが、報告するべきことでもないのでリリアンは黙っていた。でも耳に入ってしまっているのであれば誤魔化せない。リリアンは諦めて、自分の口から何があったのかをぽつぽつと話した。

「昨日のことは気にしていませんから、何もしないで下さいね、お父様」
「うーん、どうしようか」
「本当に、やめて下さいね」
「でも、昨日から少し元気がないだろう?」

 指摘されてリリアンは目を見開く。

「お父様には、本当に何も隠せませんね」

 くすりと笑って、リリアンはまっすぐ、肖像画を見た。
 額の中で椅子に腰掛ける母は、それはもう美しい。貴族女性らしく品のある笑み、美しく見える完璧な姿勢、それでいて力強い目。画家の腕が良いのか、モデルが良いのか分からないが、素晴らしい出来栄えの絵であることは間違いない。この絵は、リリアンにとって何よりのお手本で目標だ。
 そんな母の姿を見上げる。

「もし……もしもですよ? お母様が生きていらして、一緒にお茶をしたら、街にお出掛けできたとしたら……楽しかったかしら、とちょっとだけ思ったんです」

 夕べ、布団の中で夢想したのだ。レッスンのお茶会、あれは監督の他に、母親達も交流できるように席が設けられている。そこに母も一緒に居たら。同じお茶を飲んで、同じお菓子を食べて、その感想を言い合えるだろうか。それとも、マナーの指摘をされるだろうか。あの場で意地悪をされたリリアンを、庇ってくれるだろうか。
 そんな事を考えたら、楽しかった。それと同時に悲しかった。母はもう、お茶を楽しむことも、お菓子を味わうこともできないのだと、それを思うと胸が詰まる。
 それを言うと、なにやら思案していたアルベルトが力強く頷いた。

「そうか。じゃあ私が『お母様』になろう」
「え?」
「まあ、お父様に任せなさい」
「ええっ?」

 言い終わるとアルベルトはベンジャミンを伴ってつかつかと行ってしまう。その方向は居間ではなく、表への扉だ。
 残されたリリアンは、「お父様、朝食はどうなさるのかしら……」と呟いた。できる侍女のシルヴィアは「厨房に軽食を用意するよう伝えましょう」と、そう言ったのだった。


 そういうわけでアルベルトは朝早く、アポ無しで王城を訪れた。王妃シエラにとある依頼を持ちかけるためだ。朝食前に現れて、部屋の隅っこを占拠すると、持ち込んだバスケットから朝食を出してそれを味わうのだから呆れる。お茶は持参していなかったようで、それは城の侍女に出させていた。「ここはお前の家か」と王が言うのも無理はなかった。それに対する「実家だが?」というのはアルベルトの弁である。
 優雅に朝食を堪能したアルベルトは、シエラの朝の執務が終わると時間を取らせることに成功した。義姉あねは呆れた顔を隠さなかったが、それでも話を聞いてくれるから助かる。
 アルベルトの依頼を聞いたシエラは眉を大きく上げてからぎゅっとそれを寄せる。呆れ、というよりは「何言ってるんだこいつ」という顔をしている。
 お茶を一口含み、シエラは深く息を吐いた。

「ねえ、それ、わたくしとリリアンとじゃだめなの?」
「貴女はもう叔母として接しているだろう?」

 だからと言って、と溢したが、それ以上続く言葉が見つからない。シエラはいったん口を噤む。

「それにしたって、身長があるから、すぐには無理よ」

 要求には応じるつもりだが時間がない。言外にそう伝えるシエラを、アルベルトはじとりと見る。

「……ファンデル侯爵家、ラッカルト伯爵家」
「そっ、それは……」
「わかっているとも、あれは事故のようなものだったのだろう? だが、リリアンが不利益を被ったのは事実だ」

 昨日なにがあったか忘れたか、と、アルベルトは王妃にそう脅す。

「貴女が責任を取るべきだと思うが?」
「……三日でなんとかするわ」
「二日」
「……仕方ないわね」
「よろしい」

 ものすごく偉そうに言うアルベルトを、シエラはじとりと睨んだ。もっとも、アルベルトはどこ吹く風だが。
 そのやり取りから二日。シエラは言葉の通り、アルベルトを呼び出した。アルベルトはシルヴィアを伴い用意された部屋に入る。別室ではリリアンが控えており、そちらはそちらで準備を進める手筈になっている。
 衣装はシエラが見繕って準備したものだ。あとはメイクや小物を調整しつつ仕上げる。その為にシルヴィアは、アルベルトのいる部屋とリリアンのいる部屋とを行ったり来たりする予定である。

「じゃ、始めるわよ」

 そうしてシエラは、己のメイク係の精鋭を、アルベルトにけしかけた。

 数時間後。
 そこにいたのは儚げな雰囲気をした貴婦人。編み込まれた銀の髪に、小さな帽子を斜めに着け、レースと生花の花飾りを差している。
 高位の女性らしく落ち着いたデザインのドレスは、近年流行の形状だ。リボンやフリルは控えめで、その分レースを使って繊細な美しさを演出している。二の腕にボリュームを持たせ、その下で絞りを入れることで肘から下をすっきりと見せているのだ。長い袖の先はレースが縫い付けられており、レースから美しく手入れをした指先を覗かせるのがお洒落とされている。
 が、その貴婦人の指先は太く、この国の成人女性にしては背が高い。それに肩幅があってガタイがいい。薄い桃色の唇から漏れる声は低くてとても淑女のものとは思えない。

「こんなものか。いいじゃないか」
「あなたって本当に顔だけは良いわよねえ」
「そうだが?」
「絶世の美女が出来上がったわ……」

 そう、アルベルトは物理的に『お母様』になったのだ。
 端的に言うと女装している。

「ちょーっとガタイが良すぎるから、近くで見ると違和感があるけれど。でも上出来でしょう。振る舞いは……まあ、そこそこに気を付けることね」
「ああ、感謝する」
「あらあ。喋らなければもっと素敵だわ。黙ってなさいな」
「そうはいかない。リリアンと一緒にお茶をしないといけないから」
「じゃ、小声で喋るといいわ」

 言い合っている間に侍女が扉を開ける。別室で身支度をしていたリリアンも準備が終わったらしい。シルヴィアと、あと廊下で会ったらしいマクスウェルがリリアンと一緒に部屋に入ってきた。
 リリアンは入ってくるなり目を見開いて、笑みを浮かべる。

「まあ、すごいわ!」

 きらきらしたリリアンの笑顔に、アルベルトは得意げに頷いた。仕草はどうしてだか、完璧な貴婦人そのもの。いつの間に身に付けたのか謎である。
 そして、扉の前であんぐりと貴婦人を見ているマクスウェルは、困惑していた。

「えっ、どちら様……?」

 さっきリリアンから「お父様と出掛けるんです」と聞いていたマクスウェルは、リリアンの父親が部屋に居ないことに戸惑っていた。部屋には謎の貴婦人と自分の母親しかいない。どうしたことか、とそう思っていた。

「マクスウェル様、あれ、お父様ですわ」
「えっ?」

 リリアンの声にマクスウェルは謎の貴婦人を観察する。どうしてだか、貴婦人には違和感を覚えていたのだ。そのひとつひとつを確かめるように、上から下へ、下から上へ、視線を動かす。
 足元。ドレスの裾しか見えない。違和感なし。
 手元。うん、ちょっと指がごつい。レースは綺麗。
 肩幅。うん、がっしりしている。
 顔。うん、アルベルト。

「……叔父上?」

 貴婦人はその言葉に、にっと笑う。

「ああ、そうだ」

 表情や佇まいは美しい貴婦人そのものなのに、聞こえたのは聞き慣れた叔父のもの。
 マクスウェルは「えぅっ」と声を漏らして、シエラを見た。

「母上これは、なん、なんですか……?」

 母子の前では、父子がきゃっきゃとお互いのドレスを褒め合っている。側から見れば母子に見えなくもない。

「なんかねえ、母と娘で、お出掛けしたいんですって」

 意味わからないわよね、とシエラは侍女達に片付けを命じ、マクスウェルの手の中の資料をひったくる。ぺらぺら捲って内容を確認した。王妃ともなれば忙しく、無駄な時間は無いのだ。資料は問題なさそうだったので、そのまま机の上にぱさりと置いた。

「これは大丈夫ね。じゃあアルベルト、リリアン、行ってらっしゃいな。お土産よろしくね」

 普段通りの母親に、どうして冷静で居られるのかと、マクスウェルは不思議でしょうがない。けれどこの人のことだ、なにか考えがあってのことだろうと、そう思うことにした。
 リリアンはシエラに感謝を述べると、アルベルトの手を引く。そうしてアルベルトは、美女の姿でリリアンと共に街へ繰り出したのだった。
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