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4.娘を害するものは羽虫だろうと容赦しない①

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(まったく。リリアンに感謝するべきだな、こいつらは。リリアンが来なければ、こんなものに出席なぞしないのだから)

 必要のない勲章を与えられそうになって、それは断ったのに、受勲式なんかに出席させられている。アルベルトは正直面倒くさくてたまらず、むすっとした表情で周囲の話を聞き流している最中だ。
 レイナードが出席するのでそれでいいと思っていたが、どうしてだか家族の同伴が許されており、当たり前のようにリリアンが着いて行くと言い出した。驚いていると「え? お父様も行くのですよね?」と小首を傾げるので、あまりの可憐さに「もちろん!」と即答したのだ。

(まあ、着飾ったリリアンを見るいい機会だからな!)

 そう、お陰で今年着せる機会がなかったドレスを纏うリリアンを見ることができたのだ。おべっかを使いにアルベルトの周りをうろちょろしている連中が非常に鬱陶しいが、遠目から自然体のリリアンを観察できるので、割り切ることにした。礼儀作法の完璧なリリアンが社交している姿は美しい。会場で最高の輝きを放つリリアンを見るだけで、気分が上向くというものだ。
 リリアンの為に作られるものは、常に最先端の技術が使われている。布地から染め方は勿論、デザインは洗練された、その先を行く物でなければならない。だから専門の職人達が日夜研究に研究を重ね、試行錯誤しているのだが、それで常に良い物ができるというものでもない。今日リリアンが着ているのはお披露目の機会を伺っていたものではあるが、どちらかというとリリアン好みの新作を作ったというだけで、今年の技術の集大成ではない。それは新年を祝うパーティーでお披露目になるだろう。現在、作業場で追い込み中のはずだ。

(どんなものでも完璧に着こなすのだから、リリアンは素晴らしいな)

 このドレスを見た時の、ぱあっと花が綻ぶような笑顔は実に見応えがあった。そして身に纏った時の素晴らしさったら。生憎と今夜は曇り空で星も月も見えないが、アルベルトの目の前には満点の星空があった。眩いばかりの星空が。リリアンも出来栄えに満足しており、頬を紅潮させていたから、アルベルトはそれだけでもう満足だった。だからパーティーなんぞ行かなくてもいいと思ったがそういうわけにもいかず、渋々王城へ赴いたのである。

「それにしても本当に、ヴァーミリオン家には驚かされる」
「本当ですなあ。毎度のことながらあっぱれとしか言いようがございません」
「ええ、当家もあやかりたいものです」
「あっはっは」

「帰りたい」
「父上。まだ早いです」

 寄ってくる重鎮達を無視する父親に代わって、レイナードが一言二言言葉を交わしていると、人の切れ目を狙ってアルベルトがぼそりと呟く。速攻で諌めるレイナードだったが、これではどちらが親なのかと問いたくなる。この人はこういう人だしと、割り切っているから別段気にしていないのだが。とは言え多少は役目を果たして欲しいと、レイナードはアルベルトに向き直す。

「僕はリリーの元へ行ってきます。そろそろあの子のところに誰かしら寄ってきそうなので。父上は、ここら辺で少し会話をして下さい」

 途端にアルベルトは眉間にぎゅっと皺を寄せる。口もとんがらせて不満を訴えた。

「そんな顔してもダメです」

 まあ、レイナードにそんなもの通用しないが。息子は無慈悲にいいですね、と言い残して去って行く。と、わっと人がアルベルトに近寄ってきた。当主で役職付きの男性から、その男性の夫人であるはずの女性まで盛りだくさんだ。アルベルトはうんざりする。これだからパーティーは嫌なのだ。
 意味の無いおべっかを、アルベルトは右から左に聞き流して、ひたすらリリアンの鑑賞に神経を向けて堪える他なかった。
 そのリリアンはと言うと、親しい友人との世間話に花を咲かせていた。友人達は皆、位の高い貴族の御令嬢ばかり。年若いこともあり、その一団は実に華やかである。リリアンは三人の友人に、近況を聞かせていた。

「この度のことはとても勉強になりましたわ」

 リリアンの言葉に、友人達は感嘆の声を上げる。

「さすがはリリアン様ですわ。皆がそのような心持ちであれば、不正も無くなるでしょうに」
「それだけでは立ち行かない、ということでしょう」
「わたくし達も国の一端を担う身ですもの。気を引き締めなければなりませんね」

 口々に言う言葉は十代そこらの女子としては堅苦しいが、リリアンの友人達は総じて政治への関心が高い。不用意に首を突っ込むことはしないけれど、意識は常に貴族として正しくあろうとする姿はすでに一人前だった。もっとも、すぐに次の話題に移るところは年相応である。

「——そうそう。実は、とても優秀なメイドが増えましたの」
「まあ。リリアン様がそうおっしゃるなら、相当なのでしょうね」

 リリアンは嬉しそうに微笑む。

「ええ。まだ拙いところはございますが、一生懸命頑張っているのですよ。皆様、今度我が家にいらした時には紹介させて下さいましね。あの子の良い経験となるでしょうから」
「分かりましたわ。その方のお名前はなんと?」
「ルル、と言うのです。素直で良い子なのですよ」

 そう楽しげに話すリリアンに、彼女達は扇子の奥で笑みを深めた。声を弾ませ自然と微笑むリリアンは三割増しで愛らしい。月の宝玉の輝く様子を間近に、半ば恍惚とするしかなかった。


(——なによ、なによ、なによっ。なによその素敵なドレスはぁっ!!)

 豪奢な扇子の影で、ぎりぎりと歯ぎしりするのはセレスト・アズール。アズール公爵家の一人娘である。ギッと睨みつける視線の先にいるのはリリアン・ヴァーミリオン。同じく公爵家の娘で、家族にたいへん大事にされていることで有名だ。
 そのリリアンが今が身に纏っているのは、夜空をそのまま落とし込んだような紺青のドレス。満点の星空に似たきらきらと輝く光は、きっとドレスに縫い付けられた宝石だろう。腰から広がるラインは変わり映えのしない型だが、露出の少ない上品なデザインで、少女から淑女への過渡期にある彼女の姿を、素敵なレディに見せてくれている。
 ドレスが星空ならば、その中央にある彼女の髪は月だろう。つまりあれは、彼女こそがこの空そのものであると、そういう意図を持たせたものなのだ。

(そんなの——素敵に決まっているじゃない!)

 現に周囲はリリアンに釘付けだ。月の宝玉と名高い彼女は、参加すればパーティーの話題をかっさらっていく。
 それがとにかく気に入らなくて、セレストはリリアンを睨みつけていた。


 王都の孤児院全てに調査が入るという、前代未聞の騒動が起きてから約ひと月。この日は王城で、その件で功績を上げた王太子マクスウェルへの叙勲式が行われていた。あの一件、最も大きな功績はアルベルト・ヴァーミリオン公爵にあるのだが、彼が「そんなもんいらん」と言ってまともに取り合わなかったため、彼への受勲は無しになった。代わりに責任者のマクスウェルと、現場の指揮を任されたレイナード・ヴァーミリオンに褒賞を与えることになり、公爵家に対し何もしないわけにいかない王家の人々はほっと胸を撫で下ろした。レイナードが断っていたら土下座して受けて貰っていたところだ。
 そういうわけで式典となっているが、ここにいるのは王城で行われる定例会議に参加する貴族家の当主とその家族のみ。大々的に行うほどでもないので受勲者当人と王のみでの式となっておかしくないが、国家運営の施設を利用しての着服という、起きてはならない事態が起きてしまったことから、王は改めて国家の中枢に近い役職の者を召集し、注意を促した。最終的に彼らの努力があって関与していた者達は皆処罰されたが、事件を防げなかったのは事実。それを決して忘れないようにと、王から言葉があり、受勲式はそれで閉幕となった。
 その後は、その会場で立食のパーティーとなった。どちらかと言うとこっちが大切で、要は情報共有の場として王が準備したのだ。叙勲式はこのパーティーのための口実のようなもの。功労会の体裁でのパーティーとなる。この件で携わった者達が招かれ、各々手にしたグラスを傾けては王城の料理に舌鼓を打つ。そうしながら、これからどのように立ち回るべきかを皆で囁き合うのだった。
 今回は、要職に就いている当主は家族を伴うことが許されている。これは国の中枢を担う家族同士の交流を重きに置いているためだ。夫人のみならず娘や息子を連れることも許されているから、会場は舞踏会のように華やかだった。
 アルベルトはワインのグラスを片手に、無表情になっていた。

「王宮でお食事を頂く機会はわたくし共には少ないので新鮮ですわ」
「本当に。それに確か、こちらの料理に使われているスパイスは、ヴァーミリオン家の御令嬢が求められたものが元でしょう? ようやく我が家でも伝手を辿って手に入れることが出来るようになったのですが、このような物をいち早く見つけるとは。先見の明がおありですのね」
「このワインもだ。元になる葡萄が災害続きで無くなってしまったと思われていたものを、種の状態で保管されているのを農民の話から推測して探し当てたというじゃないか。いや、それで国中で求められるほどの名品となるのだから素晴らしい」
「さすがはヴァーミリオン家ですな」
「おほほほ」
(はあ、鬱陶しい)

 リリアンを誉められるのは当然なのでそれは構わないが、下心の見える連中を相手にしなければならないのは苦痛だ。

(うん? あれは……シュナイダーのところの娘か)

 アルベルトは気ままに会場を移動する。ぞろぞろと人集りも付いて来るので、いい加減鬱陶しくなってきた。だからこの時にはもう周囲の言葉には耳を貸さなくなって、ひたすらリリアンの周囲に注視していた。そうしてリリアンに熱烈な視線を送る者の存在が目に付いたのだった。
 セレスト・アズールはりんごのジュースの入ったグラスをぐいっと煽った。

(以前目にした薄緑のドレスも素敵だったけれど。こういった発想を出すデザイナーを何人も抱えているのね)

 セレストの父、シュナイダー・アズール公爵は先の孤児院の件では直接的な関わりは薄い。だが別の国営の施設に関わる立場であるので、まったくの無関係というわけではない。セレストは公爵家の義務を果たすためにも出席しなければならなかった。
 公爵家というのは王家に次ぐ権力を有している。セレストはだから、公爵家の者は王家の次に豪華な物を身に纏わなければならないと、そう思っていた。現に他の公爵位の四家の者が身に着けている物は、実にきらびやかだ。
 その中でも一等輝いているのが、筆頭公爵家のヴァーミリオン公の一家だ。当主のアルベルトは王城では知らない者がいないくらい美貌の貴公子で有名だし、息子のレイナードも父親譲りの切れ長の目が凛々しく実に見目麗しい。まったく変わらない表情だけが欠点と言われるが、それに魅せられる令嬢は多い。そしてその二人にこれでもかと大事に守られている、末娘リリアン。ドレスは流行を捉えながらも伝統の形を残し、美しいシルエットをしている。宝飾品はお抱えの職人が一年中リリアンのためだけに新作を作り続けているらしい。その造形は洗練されており、使われる宝石は一級の上の特級品。国中の技術を集めて作ったそれらを纏うリリアンは、まさに光り輝いていた。

(さすがはヴァーミリオン家だわ。イヤリングひとつ、いいえ、ドレスのレースひとつとっても普通のものとは雲泥の差。あんなに繊細なレースを編める職人はそうはいないわ)

 セレストが纏っているドレスだって一級品だ。国内の服飾関係全てを統括するアズール家の一人娘が着るのに、そんな半端なものは準備しない。けれどそれも、リリアンの前では輝きが翳る。セレストはそれがどうしても許せない。

「リリアン!」
(あの声は……!)

 そんなセレストの耳にリリアンを呼ぶ声が入ってきた。その声に、セレストの機嫌は更に悪くなる。握り締めた扇子がぎちぎちと音を立てた。

「ルーファス殿下」

 リリアンが声に応えて礼を取る。
 アルベルトも、セレストの後ろ、遠くからそれを見ていた。リリアンを呼び駆け寄ったのは、王太子マクスウェルの弟。第二王子のルーファスである。奴は婚約者の決まっている身でありながらリリアンに言い寄るという、不愉快極まりないことをやる小僧だ。馴れ馴れしくリリアンを呼び捨てにしているのも気に入らない。一気に不機嫌になり表情にそれが出る。それで周りにいた者が「ひぃ!」と悲鳴を上げて後退ったのだが、アルベルトの目には入らない。第二王子の動向には気を付けねばならない。いきなり手を握ったりしたら、いくら王族と言えど許す気などなかった。

(あのクソガキめ……なんだか距離が近くないか? なんだ? 紳士にあるまじき距離感だろう、何を考えている。リリアンがさり気なく距離を保とうとしているのに気付かないのか? その時点でもう駄目だ、お前などお呼びではないことに気付け、馬鹿めが!)

 ちょっとイライラしてきた。魔力が漏れ出ている気がするが気のせいだろう。

(レイナード。これ以上そいつにリリアンの時間をくれてやるな)

 その頃にはレイナードはリリアンの側に控えていたので視線でそう訴えたが、気付いた彼は首を横に振った。直後、レイナードはちらっとリリアンに視線を移したのが分かる。それでアルベルトは、「リリアンが応えようとしているから引き離すのは無理」という息子の意図を読み取った。

(くっ、何故だリリアン……何故お前はそんなにも優しい!?)

 あろうことかこんな奴にも天使の如き慈愛を向けるリリアンの優しさ。それでこそリリアンだと、思わず手に力が入るアルベルトである。内心複雑ではあるが。
 後方でそんな暑苦しい光景が広がっているとは思いも寄らないセレストも、複雑な心境で視線を向けていた。

(ルーファス様……)

 何を隠そう、ルーファスの婚約者こそ、このセレストなのである。
 王族ともあろう者がパーティーの会場で婚約者を一人に放置しておく。普通ならあり得ないことだが、この功労会はきちんとした舞踏会ではないので、その辺の社交界のルールは適応外となっていた。そもそもルーファスは王家の人間として末席に居たに過ぎない。入場のエスコートだって不要で、セレストは家族と一緒に居るのが相応しいくらいだったから、どちらかというと、セレストのエスコートを放棄していることではなく真っ先にリリアンに声を掛けたこと、それが問題だった。この場合、ルーファスはセレストにまず声を掛けるべきであった。
 離れた位置で、ルーファスとリリアンは歓談している。遠くからでも分かる、いつもみたいにルーファスはリリアンの気を引こうと、次から次へと話題を投げかけているのだろう。そしてリリアンは扇で口元を隠して、相槌を打つのだ。軽やかな笑い声でルーファスを惑わしているに違いない。
 セレストは、本当に、それが気に入らない。

(ルーファス様の婚約者はわたくしなのに。リリアン、リリアンって、あの子のことばかり)

 空になったグラスを給仕に突きつけて、セレストは新しいものを受け取る。

(おおおおおい!! いい加減にしろぉぉぉ!!)

 空になったグラスを握り締めて、アルベルトは目を血走らせる。

(もういいだろ! 近い近い近い! そんなに話すことないだろお前ぇぇ!)

 アルベルトは本気で気に入らない。へらへらした締まりのない顔でリリアンに話題を振るが、リリアンが親戚付き合いで相手をしているというのが分かっていない王子が。

(あの子もあの子よ。ルーファス様には婚約者がいて、それがわたくしだって分かっているのかしら。——なによ、誰も彼も、リリアン、リリアン、リリアンって、そればっかり!)

 セレストが受け取ったグラスの中はさっきと同じりんごジュース。未成年がいる立食パーティーだから、ジュースも豊富に準備されている。王城で出されているだけあってとても美味しい。セレストはグラスの中のジュースをじっと見る。

(あいつもあいつだ。婚約者のいる身でありながらリリア……おおい! だから! 近い!!)

 アルベルトが受け取ったグラスには強く握り締めた為にヒビが入っていた。会場の大人に大人気のワインは、アルベルトの無意識に出力された魔力によりすでに蒸発してしまっている。アルベルトは渾身の力でルーファスをじっと見る。

(あの子がいると、みんなあの子しか見ないんだから)
(あいつ、リリアンしか見てないな!?)

 光がちらちらと目に入る。リリアンがレイナードに促されルーファスに礼を取り動いたからだ。ドレスが揺れて、宝石がシャンデリアの光で輝く。話を切り上げ場を離れるようだ。ルーファスはそんなリリアンの後ろ姿に手を伸ばしたが、その手は所在無さげに宙を彷徨う。振り返って貰えなかったルーファスはがっくり項垂れていた。

(……わたくしのルーファス様を袖にするというの?)
(いよぉーーーし!! 良くやったレイナード! 少し遅いが、いいぞ! そのまま引き離せ!!)

 愕然とするセレストとは対照的に、アルベルトはにんまりと口角を上げ笑みを浮かべる。さっきまでとは打って変わって喜びを表したアルベルト。百面相を見せるその姿におべっかをしに来た人達はじりじりと距離を取った。
 ひとまず危機(?)が去って、他になにか危険がないかとアルベルトがすっと視線を巡らせた時だった。無意識に漏らしていた魔力の範囲内で、ぴりっと刺激があったのを感じた。ごく弱い静電気のようなものだ。瞬間、アルベルトの表情が引き締まる。魔法に精通するアルベルトだからこそ感じることのできた感覚に周囲が気付くはずもない。というより、彼の表情の切り替わりのほうが気になってそんなものに意識の向けられる者などいなかった。
 アルベルトは刺激を感じた場所へ視線を滑らせた。そこには一人の令嬢の姿があった。
 その時セレストの視線の先では、リリアンがどこかの貴族に声を掛けられていた。その姿が楽しそうに笑っているように見えて——セレストはぶわりと怒りに全身を震わせた。

(なによっ。あんな子、居なくなっちゃえばいいんだわ!!)
(セレスト・アズール——何をする気だ)

 ここからではセレストの表情はわからない。アルベルトは咄嗟に胸の内ポケットから丸いレンズを取り出す。片眼鏡のようなものだが、アルベルトが特別に作り上げたものだ。魔力を通すことで遠くのものを拡大して映し出す特殊な魔道具。さっと右目に掲げ、魔力を流す。そうしてセレストの左斜め前の夫人が持つグラスに視点を合わせる。そこには鬼神のような形相のセレストが映っていた。

 ——なにも、完全に排除しようだなんて思ってない。ちょっと、ほんのちょーっと会場に居られなくなればそれでいい。例えばドレスが濡れてしまったら、普通、その令嬢または夫人は着替える為に会場から下がる。高価なドレスを汚れたままにはできないし、汚れが他の人の衣装に付いてしまうかもしれないから。
 今日リリアンが着ているドレスはとても素敵なものだ。これを汚すのはちょっとだけ気が引ける。でも色の薄いりんごジュースなら、染み抜きもそんなに大変ではないだろう。セレストはグラスを持った右手に力を込める。そう、セレストはさり気なく、リリアンのドレスにこのりんごジュースをかけて下げさせようと思いついたのだ。

(ふん。ルーファス様をぞんざいに扱うからよ。報いを受けるといいわ!)

(……とか思っているなその顔は!? そうはさせるか!)

 アルベルトは類稀なる頭脳と変人的な観察力をもって、セレストの思考をほぼ正しく想像した。そして魔道具を仕舞い込むと、即座に魔力を練り上げ展開する。
 そうとは知らず扇子の奥でにんまりと笑って、セレストは一歩踏み出した。リリアンはこちらに背を向けて会話中、気付く様子はない。それを確認して、よし、と思った時、その違和感を感じ取った。

(……? なにかしら?)

 どうしてか、前方にいるどこかの令息がぎょっとした顔でこちらを向いている。彼の他にも何人かが同じような表情で、セレストの方を見ている気がする。どうしたのかしらと首を傾げ、セレストは自分の姿を見下ろした。特におかしなところは見当たらなくて、より一層首を傾げる。
 それから、なんだか寒気を感じた。もう冬になったのだからそれ自体におかしいところは無いが、さっきまではそんなもの感じなかった。そもそもが王城の中であるし、きちんと暖房があるので寒さを感じるはずがない。それにどういうわけだか、右手が妙に冷える。

(右手?)

 まさかジュースを手に零したのだろうかと、ふと自分の右手に視線を移して、セレストは目を見開いた。

(な、なにこれぇ!!)

 りんごジュースは、グラスとセレストの右手ごと、凍りついていたのだ。
 驚きのあまりセレストは右手をぶんぶん振り回すが、無論氷が解けるはずもない。やだ、なんで、と言っているうちに、さらに寒気が増してきた。右手から肘、肩の方までひんやりとしてきて、セレストの焦りは増す一方だ。周囲から人々が距離を取り始め——そこで背筋が凍るほどの殺気がセレストのうなじを撫でる。
 足元から背中を駆け上がり首に伸びる冷気。それが殺気を纏って呼吸を阻害するかのようだ。目を見開いて、セレストははくはくと口を動かす。

(なにが——)

 涙がうっすら浮かぶ目をふと動かすと、周りの人達が、ある一点を見ているのに気付く。みなセレストの背後を、青い顔をして見ている。

「なんなの……?」

 何があったのだろうか。こんな殺気が王城で放たれていいはずがない。セレストは解を求めて目線を彷徨わせ、ゆっくりと後ろを振り向いた。
 瞬間、ヒュッと息を呑んで硬直した。

(ひぃやあああああああ!!)

 セレストの目に入ったのは、血走った目を見開いてこちらを凝視するアルベルト・ヴァーミリオンの姿だった。
 いつも囁かれる貴公子然としたアルベルトの姿はそこにはない。視線だけで射殺せるのではないかと思えるほどの強烈な眼力。一切の表情が抜け落ちているのに、怒りだけがその目に、顔に乗っている。禍々まがまがしい気配が魔力を帯び周囲に冷気として放出され、セレストの足元はその冷気で冷え切って、ドレスの裾は凍り始めている。

「あ、あぁ……」

 セレストは無意識のうちに後ずさっていた。とてもではないがそのまま立っていられない。本能的に逃げようとする足を止める術は、ただの令嬢のセレストにはなかった。
 だがその足もまともに動かず、冷気と向けられる怒気とで体はがたがたと震えている。どうしてだか分からないが、この殺意に似た怒気は自分に向けられているようである。でなければこんなに寒いはずがない。今すぐアルベルトの元へ駆けつけ跪き、許しを乞わなければと思うが、体は一向に動かない。

(こ、殺される)

 セレストは己の浅はかな行動を嘆き、涙を浮かべた。
 だがその時、アルベルトは実はたいへん焦っていた。

(しまった……加減を間違えた……)

 涼しい顔をしているが魔力を練り上げ過ぎて氷が厚くなってしまったことに動揺している。今更誤魔化しようもない。それで物凄く怒っている風を装っている。

(思わず威力を上げ過ぎた)

 冷や汗がだらだらと背中を伝う。周囲の人間はなにが起こったのかわからず戸惑うばかりで、セレストに駆け寄る者もいない。アルベルトには尚更だ。王弟を止められるのは王くらいだろうが、こちらの異変には気付いていないようだ。というか気付かれたくない。加減を間違えて年端もいかない少女の手を分厚く氷漬けにしてしまったなど知られたくもない。

(どうする……こっそり薄くしていけばセーフか?)

 とりあえずこのままだと氷が厚すぎるので、気持ち薄くしておいた。が、そのまま完全に解かすわけにもいかず、それ以上のことができない。

(おおい! 誰か!!)

 アルベルトが頬を引き攣らせた時だった。青い顔をしたセレストの足元が更に覚束おぼつかなくなる。あ、まずいな、と思った瞬間、セレストの左の肩をがしりと掴む手が現れた。
 セレストは右手にふわっとしたものの感触を覚える。驚いていると、凍った右手も掴まれる。いや、包まれる。ふわっとした感触のものはハンカチで、そのハンカチごと大きな手がセレストの氷漬けの右手を包んでいた。冷えたむき出しの左肩をさする手も大きい。それに気付いて、セレストは瞬いた。

「お父様」

 右手から視線を辿らせ、仰ぎ見る先には、見慣れた父の顔があった。だがその表情は痛みを堪えているよう。いつもセレストに見せてくれる、優しいものではなかった。

(シュナイダー君! 良くやった!!)

 アルベルトは真顔のままアズール公爵に賞賛を送る。彼はすんでのところでセレストを後ろから抱き込んだようにして支えてくれたのだ。実に父親らしい行動である。安堵した彼女が肩の力を抜くのがわかった。

(よしよし、これでいいだろう。あとはさり気なく氷を解かして……)

 するとすぐに、アズール公爵がまっすぐアルベルトに向かって歩き出した。

(シュナイダー君!? 何をしているのかね!?)

 ぴくぴくとアルベルトの頬が動く。
 それをセレストは、怒りだと読み取った。未遂であろうとどんなに些細であろうと、娘に害をなそうとするものを許さない、と。
 そんなアルベルトの元へ行くのは困難であったが、父に支えられた状態であればなんとか足を動かせる。正面から感じる怒気は一向に和らぐことはなかったが、それでも息ができない、なんてことはなくなった。セレストは父が進むまま、歩みを続ける。
 シュナイダー・アズールは、冷気の中心までやってくると、その場で頭を下げた。娘が困惑して見上げてくるがそれは無視しなければならなかった。何故なら、目の前の男が本気で怒っているからだと、シュナイダーはそう思っている。

「ヴァーミリオン公。娘が、大変失礼を」
「……」

 返答は無い。当然だろうと、シュナイダーは思った。

「申し訳ない」

 謝罪の言葉を重ねても、返事は貰えない。謝罪を受けて貰えるまで、シュナイダーはそのままの姿勢を保つ気でいたから、それは別段気にならなかった。周囲からは人が引いている。固唾を呑んで見守っているのが分かる。この後根回ししなければならないことは明確だが、それもどうでもいい。まずはこの男に、怒気を鎮めて貰うのが何よりも大事だった。
 シュナイダーは、セレストがジュースを受け取った辺りから、遠目にその様子を視界に入れていた。彼自身会話中ではあったが、娘が一人でいたので注視していたのだ。その後娘が歩き出した時、その視線の先をなんとなく見て——娘が何をしようとしたのかを、瞬間的に察した。親特有の一種の予知かも知れない。慌てて会話を切り上げて、駆け寄った時にはもう遅かった。後方にいたアルベルトに察知され、セレストの右手は凍りついた。
 アルベルトがリリアンの周囲に気を配らないはずがないのだ。子息も妹に付いているし、だから不埒な真似を犯す者などいないと思っていた。それがまさか自分の娘になろうとは、シュナイダーは思ってもみなかった。
 なんと愚かな真似を。最もやってはいけない方法で、最も怒らせてはならない男の逆鱗を、セレストはものの見事にぶち抜いたのだ。謝罪を受け入れて貰えない可能性もある。

(……とか思っているんだろうがそうじゃない! いや、そうなんだが、そうではない!)

 アルベルトは二度目の超常的な観察力を発揮し、シュナイダーの考えを読み取った。
 リリアンに対し、不埒な真似をする輩を見逃しはしないが、子供の嫉妬からの嫌がらせを許さないほど狭量ではない。ましてや未遂だ。
 そう、未遂なのである。リリアンは今、一切の被害を受けていない。その相手をここまで怯えさせていいはずがない。だからアルベルトはここまでするつもりはなかった。加減を間違えたせいでとんでもない事態に陥ってひたすら焦っている。
 一方のシュナイダーとセレストであるが、彼らにできるのは、アルベルトが気の済むまで頭を下げることだけであった。なぜなら、保護者であるシュナイダーの教育が行き届いておらず、娘が短慮を起こしたのだから。そのように判断されるから。そんな娘を社交場に連れるという、貴族としてあるまじき失態。それは、シュナイダーに責任がある。だがその弁明も不要だ。非は一切がセレストとその保護者にあるのだから、今更それを言う必要がないのだとそう思っている。
 今すぐにでも震える娘を抱きしめてやりたいが、シュナイダーは動かなかった。それは公爵家の当主としての矜持でもあるし、何より人の親としての責任から、それからアルベルトが許さない気持ちも分かるから、できなかった。可愛い娘が嫌がらせを受けて喜ぶ父親は居るまい。未遂であったとしても、だ。
 互いが互いに考えを巡らせた結果、事態は硬直してしまっている。格好つけて怒った顔を作らずに、すぐに氷を解かしてしまえばよかったとアルベルトは後悔した。

(ああー! 誰か! 助けて!!)

 アルベルトは頭を下げ続ける親子を前に、ちらちらとレイナードに視線を向けていた。だが目が合った後に逸された。これはおそらく「自力でなんとかしろ」ということだろう。薄情な息子である。
 その横で愛しのリリアンがこちらを見ているのがわかった。リリアンは珍しく眉間に皺を寄せていた。

(リリアン、違うんだよ、ちょっと加減を間違えただけで)

 そう念を込めてアルベルトはリリアンを見るが、視線が合うと、更に表情を厳しいものにする。

(……待て。そんな、リリアン、違う!)

 アルベルトの焦りは最高潮になる。焦って、目を見開いた。

(違うんだリリアン、こいつがお前に飲み物を掛けようとしたから、だから私は)

 小さくふるふると首を横に振るが、リリアンは知ったことではない、とでも言うように、そっぽを向いて兄を伴ってすたすたとどこかへ行ってしまう。

(あああ!! リリアン!! 違うんだ、リリアン!)

 絶望したアルベルトは脱力して、魔力を拡散させた。それで冷気はすっかり消えた。
 今すぐにでもリリアンの元に駆け付けたいが、目の前の状況を放置しておくわけにもいかなかった。

(ぐっ……こうなったら……シュナイダー君!)

 視線を下げたままのシュナイダーが気付くよう、さり気なく靴の先をスッスッと左右に動かした。ぴくりと彼がそれに反応する。と、様子を伺うようにアルベルトの顔を覗いてきたので、アルベルトは視線を合わせた後で目線を右の方に頻繁に動かす。

(もういい、もういいから! 下がってくれ頼む! 早くリリアンの元に行かないといけないんだ!)

 アルベルトの眼球はぎょろぎょろと動く。絶望感溢れるシュナイダーの顔は、すぐにその異様さに「なんだこいつ」というものに変わった。それくらい眼球の動きがすごかったのである。
 ともあれ付き合いの長い間柄であるから、アルベルトが何かを訴えていることは把握したようだ。アルベルトの目線の先、彼の右側にはシュナイダーが支える娘がいる。それではっとしたように息を呑んだ。当事者のセレストからの謝罪がされていない。
 シュナイダーは娘の肩を抱き抱え直し、

「セレスト。お前からも閣下にお詫びを」

とそう告げた。
 セレストもそれで気付いたようだ。慌てて頭を下げる。

「あの、ヴァーミリオン公、申し訳ございませんでした……」

 アルベルトはそれに歓喜する。

(ナイス! ナイスだシュナイダー君!! なんかちょっと勘違いされているような気がするが!)

 そうして再び親子共々頭を下げたのだが、すぐにアルベルトからの圧力がふっと消えたのがわかった。

「次は無い」

 その言葉と同時に、セレストの右手からしゅわりと音が上がる。氷の重量を失ったハンカチがその指に触れた。かつかつと靴音が通り過ぎていく。それが聞こえなくなるまで、シュナイダーは姿勢を崩さなかった。



「リリアン!!」

 リリアンはバルコニーに居た。会場から漏れる明かりがドレスの宝石に反射して、暗がりにあるとより星のような煌めきをしている。そんなドレスを揺らして、リリアンはやってきたアルベルトをきっと睨み付けた。

「お父様、セレスト様に意地悪しないで!」
「いや違うんだ。あれはあの子がリリアンに嫌がらせをしようとしていたから、それでだな」

 ツン、とリリアンはそっぽを向く。

「あんな事するお父様は嫌いです」
「そ、そんな! 待ってくれリリアン、誤解だ!」
「意地悪なお父様なんて知りません!」
「待ってくれリリアン! リリアーーーン!!」

 縋り付くことすら許されなかった。背を向け、リリアンは足早に去って行ってしまう。アルベルトはもう、立っていられなかった。膝を付き項垂れる。

「そんな……こんな事があって許されるのか」

 お終いだ、何もかも。そう呟くアルベルトは、さながら神に見放された憐れな信奉者であった。いや、アルベルトからして見れば比喩でもなんでもない。まさしく言葉の通り、彼は彼の女神から見放されたのだ。
 絶望に打ち拉がれる父の姿を、レイナードは冷ややかに見ていた。

「なにをしているんですかあなたは」
「違うんだ、これには深い訳があるんだ……」
「はあ……」

 呆れるレイナードにアルベルトは言って聞かせた。セレストがリリアンにジュースを掛けようとしたこと、それを止めようとしたら魔法の出力を上げ過ぎて思ってた以上に冷やし過ぎて震え上がらせてしまったことを。

「馬鹿ですか」
「父親に向かってなんだその口の聞き方は!」

 こんな時に父親を強調されても、とレイナードは一層冷ややかな目になる。

「父上ともあろう方が加減を間違えるなんてあり得ないでしょう?」
「いや、その、直前まで無意識に放出してたみたいで……その分を考慮し忘れたというか」
「やっぱり馬鹿ですか?」
「お前なぁ! 傷心の父親になんてこと言うんだ!」
「自業自得というか、自爆というか」

 鋭い言葉のナイフで父親をズタズタにするレイナード。もうアルベルトはこれ以上引き裂かれてたまるかと、どうしたらリリアンに許して貰えるかとそちらに注力することにして思考を巡らせた。だがそれも、先程の去って行くリリアンの後ろ姿が鮮明に残り過ぎていてすぐに四散してしまう。どうにも考えが纏まらず、焦りからくる苛立ちでむかむかする。どうしてこうなったかと思い返し、行き着いた顔があった。
 そうだ、あの時、ルーファスがリリアンに声を掛けたのが始まりだ。
 アルベルトはその時の様子を思い出す。なんかちょっと距離の近い王子が、やたらと大きな動作でリリアンの気を引こうとする場面を。

「くそ……これも全部あの第二王子のクソガキのせいだ……」
「父上、さすがにそれは大人げないです」

 アルベルトはがばりと立ち上がる。

「いいや。あいつがいつまで経ってもリリアンを諦めないのが悪い。婚約者がいながらその前で他の女に言い寄るだと? 男としても王族としてもあるまじき行為だ。だから全部あいつが悪い」
「色々過程をすっ飛ばしすぎている上に責任転嫁だと思いますが、まあ、あれはどうかと思います」
「そうだろう? だからあいつを泣かせようと思う」

 なにが「だから」なのか。レイナードはもう呆れ返って半目になった。

「……そんな事をすれば、リリアンは余計に怒りますよ」
「ぐぬぅ!!」

 正論を返され、アルベルトは唸り声を上げた。

「じゃあどうしろと言うんだ!」
「まずは普通に謝りましょうよ……」

 そう言うとアルベルトは「それだ!」と言って走り出して行った。レイナードはそれを目で追って、さっきのアルベルトとは別の意味でがっくりと項垂れる。

「あれで歴代で最高の能力と言うんだからな……」

 能力と人柄は比例しないものだろうけれど、もう少しなんとかならないだろうか。
 娘に一直線過ぎて不安になるが、その娘は父親と違ってかなりのしっかり者だ。リリアンにしっかり手綱を握って貰わなければと、レイナードはのろのろと父の後を追いかけた。
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