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3.妹が雇いたいと言ったので③

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(お腹が空いた……)

 ルルは薄い毛布の中で寝返りを打つ。秋の終わりともなれば毛布一枚では寒い。それでこの時期になると数人くっついて暖を取って眠るようになる。だが、寒さは和らげられても空腹はどうしようもない。ルルは夜中に目を覚ました。

(お水を飲んで誤魔化そう)

 一時凌ぎではあるが、このままでは眠れそうにない。ルルは仕方なく起き上がって台の上の水差しを手に取る。が、水差しは空だった。

(なによ、もう)

 おそらく小さな子が飲んでそのままにしたのだろう。ため息をついて、部屋から出た。昼間に汲んだ水が残っていたからそれを飲もう。ついでなので水差しにも補充をするため、それも持っていく。この孤児院は使われなくなった屋敷を改装したそうで、水場は一階に集中している。子供達に割り当てられたのは二階の部屋だが、その中でも日当たりの良い部屋はシスターが占領していた。だがその部屋は階段から離れていて、不便だなんだと愚痴をこぼしていた。子供達の部屋は逆に、階段のすぐ脇の部屋だ。文句があるならこっちの部屋にしたらいいのにと、ルルはそう思っていた。
 板張りの廊下をそろそろと歩いて、階段に差し掛かった時だ。ルルは一階から話し声がするのに気付いた。夜中に子供が歩き回るのを嫌うシスターは、見つけると激しく怒鳴りつけてくるから、ルルはビクッと肩を揺らした。
 そっと身を屈めて、階下から見えないように、覗き込む。明かりの漏れる部屋を確認して、ルルは最悪だ、と思った。明かりが漏れているのは厨房だ。水があるのはあそこ。このままでは水を取りに行けない。

(どうしよう、出直そうかな)

 そう思っていったん体を起こすと、耳に男の声が入ってきた。司祭の声だ。

「まずいことになった。手を打たないと」

 その言葉にルルは耳を澄ませた。司祭の声色で、良くない話だと直感したのだ。

「どうしてこんなことに?」
「わからん。陛下の考えということだが」

 陛下。王様のこと。王様が、なに?

「どうするのです。ことが王に知られたら」
「なんとか隠すしかあるまい。それか、その前に片付けてしまうか」

 片付ける? 何を?

「全部で六人ですよ。そう上手くいくかしら」
「手段を選ばなければ、どうとでもなるだろう。あの方も手を貸すと言っているし」

 六人、という言葉でルルの全身が粟立つ。それは、この孤児院にいる子供の数と一致する。では片付けるとはなんのことだろう。まさか、と思ったが、それを裏付ける言葉が司祭から語られた。

「下の子からにすると、上が騒いだら鬱陶しい。一番上からにしよう。あの子、——なんと言ったか」
「一番上だとルルね。十二になった頃よ」
「なら、丁度良い年齢だろう。その歳なら金のある男が買うさ。どういう趣味かはわからんがな」

 どくん、とルルの心臓が跳ねる。

(売られる……?)

 そんな、まさか。 
 シスターは感情の起伏が激しいが、それでも多少は子供の世話をしてくれる。最低限でしかないし、生活するのに必要なことは全部子供達任せだが、少なくとも敵ではない。司祭は、数ヶ月に一度様子を見にくるくらい。時折新しい子を連れてくるが、孤児の引き取り手が現れたと連れ出すこともある。だから真っ当なのだと思っていたが。どうしてだろう、その連れ出した先が真っ当ではない可能性を、ルルは考えたことがなかった。
 嫌だ、と思った。ずっとこのままここに居られるとは思っていなかったが、少なくとも行き着く先は最低限、人の生活が送れる場所だと思っていた。それがルルの頭の中の幻なのだと、この時はっきりと自覚してしまった。この国では孤児はしっかり保護されてはいるが、出自のはっきりしない孤児がまともに就ける仕事は少ない。教育が不十分なことが多いから。世間擦れしているのも要因の一つかもしれない。擦れた目で世間を見る者は、その世間に馴染めない。孤児には苦労したものが多いから、それで敬遠されてしまうのだ。
 だがそれでも、少なくとも売られてしまうほど、ルルは悪い事をしたわけではないはずだ。それに、そもそも人の売り買いは禁止されている。経典にそのように書いてあったではないか。それを何故、説いた者が行うのか。
 震える体を水差しごときつく抱き締めて、ルルは息を殺していた。見つかったら即売られるかもしれないと、そう思うと怖くてたまらなかった。

「あの方に連絡してお願いしよう。ルートは任せてくれと言っていたから」
「わかったわ。では私は、子供達に悟られないようにしなくてはね」
「うむ。あとは書面か」
「大丈夫よ、あれはきちんとしたものだし」
「それもそうか。時間がない。くれぐれも悟られるなよ」
「わかっているわよ」

 ルルはそっと立ち上がった。音を立てないように、声を漏らさないように最大限の注意を払った。部屋のドアを少し開けておいてよかった。ゆっくり水差しを床に置くと、静かにドアを閉める。
 そうして寝床に戻ると丸くなった。心臓の音がうるさかったが、代わりに空腹は感じなくなっていた。それでも聞いたことを反芻すると、とてもではないが眠れる気がしない。
 結局ルルが眠れたのは、日が登り始めてからだった。


◆◆◆


 孤児院を訪れてから五日後、リリアンは馬車に揺られ街道を行く。侍女のシルヴィアがバスケットの中の包みを確認してくれていた。

「大丈夫なようですね」
「もう、シルヴィアったら。出発する時にも確認したでしょう?」

 くすくすとリリアンは笑う。包みの中はリリアンお手製のクッキーだ。今日はあの孤児院へ、もう一度向かっている。今日はレイナードは行けないからと、万が一のための護衛は前回の倍の四人に増やされた。侍女を伴うこと、決して護衛から離れないことを条件に再訪が許可された。なんならアルベルトが同行する、と言い出したがそれは断った。断られたアルベルトは絶望して、リリアンが屋敷から出ることを禁止しようとしたものだから、大人しくさせるため急遽クッキーを焼いて差し出すことにした。そのクッキーを独り占めしようとしたから、リリアンはシルヴィアに言って、こっそり孤児院の子供達の分を隠しておいたのだ。

「お父様にも困ったものだわ」
「それだけお嬢様を愛していらっしゃるんですよ」
「ええ、わかっているわ。でもあの態度はどうかと思うの」
「わたくしには肯定できませんので、黙っておきますね」
「ふふっ。そうよね」

 シルヴィアはリリアンが生まれた頃から仕えてくれているから、姉のように気安い。それでついリリアンも砕けた言い方になる。もっともシルヴィアは幼い頃、リリアンを初めて見た時に、あまりの愛らしさに「天使って本当にいたのね……!」と衝撃を受けて以降、リリアンという天使に仕えることを無常の喜びとしているので、シルヴィアの方には距離があるのだが。
 一番近いところでリリアンを支えることのできる喜びに、日々感謝しているシルヴィアには、何よりリリアンが第一である。なのでどちらかというと、アルベルトよりもリリアンの言ったことの方が優先される。雇い主は当主であるアルベルトなのだが、そこはもう気にしていない。なぜならアルベルトですらリリアンのことが最優先だからだ。それで、当主に渡すべきクッキーは一部シルヴィアの手元にあるのだった。

 その頃屋敷のアルベルトは、リリアンのクッキーを額に入れて飾ろうとして、ベンジャミンに止められていた。

「いいだろ一個くらい!」
「一個でも二個でもダメです、黴びさせる前に召し上がって下さい!」
「せっかくのリリアンの手作りのクッキーなのにか!?」
「だからです! 食べずに駄目にするよりはマシでしょう!」

 ……というやり取りをしているのだが、そんなことはつゆ知らず、リリアンは街並みを楽しんでいる。そんな姿を見られずに済んだアルベルトの父親の威厳、というものが守られたかどうかはわからない。

 からからと車輪が鳴る。大通りは馬車が行き交って、その両サイドの人通りは賑やかだ。道沿いのお店にはショーウィンドウがあるものが多く、大半の人がそれを眺めて入る店を決める。そういう買い物の仕方は裕福な庶民に多く、貴族の大半は皆贔屓の店があって、そこから人を呼びつける。だからリリアンも、街を歩いてショーウィンドウを眺めて買い物したことはない。そうやって買ったり買わなかったりすることをウィンドウショッピングと言うらしいが、リリアンはいつかやってみたいと密かに思っている。まあ、この人通りでは無理だろう。人にぶつからずに歩ける自信がリリアンには無かった。
 しばらく眺めているうちに、人の流れが時々止まる場所があるのに気付いた。何かしら、と注意して見ていると、すれ違いざまにその中心が見えた。子供が人にぶつかっているのがわかった。

「……とめて! 馬車をとめてちょうだい!」

 咄嗟にシルヴィアが反応して、御者へ伝える。馬車は急停車した。
 それを確認して、リリアンは飛び出す。「お嬢様!」とシルヴィアが叫ぶのを背中で聞いて、リリアンは子供の元へ駆け寄る。その子はぶつかった拍子に座り込んでしまっていた。

「ルル! どうしたの!?」

 そこに居たのは孤児院にいるはずのルルだった。リリアンの顔を見たルルは驚いた表情をするが、その顔は青褪めている。どこか焦点が合っておらず、明らかに異常だ。
 リリアンは改めてルルの姿を確認する。着ているものは前に見たものと同じ。足元はどうしてか泥だらけで、歯の根が合っていないのが何より気になる。

「ルル、……ルル。どうしたの? 何かあった?」

 肩を抱いてみると震えていた。これはどうやら怯えているようだった。しきりに後ろの方——孤児院の方角を気にしていて立ち去ろうとする。すると、シルヴィアがお嬢様、と声を掛けてきた。

「なに?」
「この場を離れた方が良さそうです。とりあえず、その子を連れて戻りましょう」

 有無を言わさない様子のシルヴィアに、リリアンは頷いてルルの手を取った。シルヴィアがさり気なく孤児院の方への道を塞ぐように移動する。ショールをルルに巻き付けて、護衛の一人を呼び付けて馬車に運ばせた。

「もう大丈夫ですよ、お医者様に診て貰いましょうね」

 気分の悪くなった子を運ぶ、という風にしたのだろう。シルヴィアは少し声を張って、ルルに話しかけている。急に馬車が止まったことで、人の目が集まっている。どうあってもこれは目立つ。
 リリアンはちょっとだけ、ルルが気にしていた孤児院の方を見た。大通りから一本入って、そこから更に歩くから孤児院まではまだ距離がある。だが人波の向こうの方に、周囲を見回す修道女の姿があった。あれはもしかしなくても、ルルのいる孤児院のシスターではないだろうか。
 そう思った瞬間、急いでリリアンは馬車に戻った。

「お嬢様」
「急いで戻りましょう。シスターが居たわ。ルルを探しているのかも」

 シルヴィアは頷いて、御者へ出発するよう伝えた。ショールを被ったままのルルはシルヴィアに膝枕された状態で座席に横たわっている。顔色は悪い。険しい表情で、目を閉じている。

「乗り込んで気が抜けたのか、倒れるように眠ってしまって」
「酷い顔色ね。眠れていなかったのかしら」
「そうかも知れません」
「お医者様の手配を。目が覚めたら話を聞きましょう」

 そうですね、とシルヴィアは答える。それを聞いてリリアンは、ルルの頭を撫でた。顔色が悪くて、目の下には隈ができている。こんなになるまで恐ろしいことがルルを襲ったのだと思うと胸が張り裂けそうだった。

「可哀想に……」

 リリアンのことは、父アルベルトを始め、兄と執事、それから侍女に護衛にと、たくさんの人が守ってくれる。だがルルにはそれがない。シスターにはぶたれて、司祭はあまり子供達に関心が無さそうだった。たった一人でこんな風に堪えることができるのだろうか。
 これは、なにもルルだけの問題ではない。真っ当なシスターも司祭もいるだろうが、孤児の多くが守ってくれる大人がいない中生活をしている。リリアンは、自分はなんて恵まれているのかと思わずにいられなかった。
 情けないやら悲しいやらで泣きそうになる。でも、泣いても憐れんでいる自分の心を慰めるだけ。ルルの為にはならないし、誰かを救うための行為でもない。

「わたくしにできることなんて無いのね……」

 ぽつりと言って、リリアンは絡んでいるルルの髪を梳かしてやった。お嬢様、というシルヴィアの声はそれ以上は続かず、またリリアンも何も言わなかった。
 からからと、馬車は来た道を戻るのだった。



 レイナードは叩き台で書類をまとめあげ、マクスウェルに提出をした。マクスウェルはざっと見ただけで「んじゃ宜しく」と王太子の印を押して書類をレイナードに戻す。どういう事があって、いつ何をするのか。それを王都の各孤児院へ配布したのが三日前、それから反発もなく調査が始められたのが二日前。王命とあってか異例なくらい迅速に進められた調査は、中央騎士団と呼ばれる彼らの手によって行われている。中央騎士団のトップは王太子と決まっている。だからこそ素早く行動に移せたと言っていい。これをやるために、王は責任者を王太子にしたのだろうが、当の王太子は「いや、絶対自分でやりたくなかったからだろ」と王の肖像画を睨みつけていた。
 その王太子に現場の指揮を任されたレイナードは、忙しく街と城とを行き来していた。全てに赴く必要はないが、出来る限り自分の目で確認をしたいと、調査の入る孤児院へ行くようにしていたからだ。最初に調査することになったのは方角ごとにざっくり区分された王都の北側にある孤児院で、ここから時計回りに順番に進められる予定だ。今の所、北の孤児院すべてで不正は見つかっていない。
 それで少し早い時間ではあるが、城へ報告してすぐに屋敷へ戻ることにした。毎日通える範囲とは言え、忙しくて家族の夕食の時間には戻れない。朝も早いから時間が合わない。有り体に言って、リリアンに会えていないせいでリリアン成分が足りていない。何よりもリリアンを大事にするヴァーミリオン家の人間にとってこれほど深刻なことは無い。それでレイナードは、馬車を急がせて家路についていた。
 屋敷に着くとほとんど駆け足で玄関をくぐった。出迎える使用人に声を掛ける前に、階段にいるリリアンを見つけた。ファーの付いた外出着を着ているので、外から戻ったばかりなのだろう。名前を呼ぶとリリアンは振り返り、兄が早い時間に帰ったからだろう、驚いた表情で「お兄様」と言った。
 その声に、レイナードは思わず駆け寄ってリリアンを抱き締める。「まあ」と声を出したリリアンは、すぐにくすくすと笑う。

「二日、三日になるかしら? お帰りなさいまし、お兄様」
「ただいまリリー、会えなくて辛かった」
「大袈裟なんだから」

 ぽんぽん、とリリアンに背中を叩かれて、レイナードは姿勢を戻した。これくらいしないと補充ができない、などど言うのだが、抱き締めるのは兄妹のスキンシップにしては熱烈なので、年頃になったリリアンは恥ずかしい。妥協点がこの「背中を二回軽く叩いたら終わり」なのだが、それはそれでリリアンに撫でて貰えると解釈をしたレイナードは受け入れている。ちなみにアルベルトも数日リリアンに会えないと同じことをするが、離した後もその日のうちはずっとリリアンに付き纏う。いい加減にしなさいと、それを引き剥がすのはレイナードかベンジャミンの役割だった。
 レイナードはリリアンの姿を見下ろすと、「今戻ったのか?」と襟巻きに軽く触れた。

「本当はもう少し遅くなる予定だったのですけれど。……道中でルルを見つけたんです」
「ルル……あの子が?」

 ええ、とリリアンはレイナードの手を取った。そのまま「こっちです」と引いて誘導する。階段を降りて客間へ行くと、ドアを少しだけ開けて隙間から中の様子を伺う。

「今は眠っていますね。起こすと可哀想なので、このままで」

 リリアンは少し身を引いて、レイナードが見やすい位置へ動く。そこから見ると確かに、ベッドにルルが横たわっていた。

「慌てた様子のルルを見つけて、駆け寄ると様子がおかしかったものですから。シルヴィアの助言で連れ帰ることにしたんです」
「そうか。医者はなんと?」
「眠って、ご飯を食べればすぐに元気になるだろう、と。緊張から来る寝不足みたいです。それと、少し栄養が足りないとか」

 静かにドアを閉めて、二人は話しながらエントランスまで戻ってきた。リリアンが階段にいたのはこれから部屋に戻って着替えるためだったのだろう。リリアンの襟巻きと上着を外し、侍女に渡したレイナードはサロンへお茶を持ってくるよう指示をして、そのままリリアンの手を引いてサロンへ向かった。リリアンが伺うようにしていたので「お前も顔色が良くないよ」と言って、椅子を引いてリリアンを座らせた。

「そう、か。ルルが、売られてしまう、と」
「ええ。シスターと司祭様の話を聞いてしまったと、そう言っていました」

 お茶が運ばれてくるまで、リリアンはルルから聞いた話をレイナードに伝えていた。
 屋敷へ連れてきてすぐのルルは馬車の中で眠れたのがよかったのか少し顔色が良くなっていて、医者が到着するまでぽつぽつと事情を話してくれたのだ。夜中にシスターと司祭の会話を聞いてしまったこと、いつ売られるか分からず怖かったこと、なんでもないように振る舞うので精一杯だったこと。診察が終わって、リリアンが大丈夫だと何度言っても寝付かなかったので、シルヴィアがホットミルクとリリアン手製のクッキーを持ってきた。それを平らげるとあっという間に寝てしまったから、きっと自分でも制御ができなかったのだろう。

「正直言って、費用の着服くらいはしているだろうと思っていたが……」

 レイナードは孤児院での二人の様子を思い浮かべる。シスターも司祭も、そんな大それたことをやるようには見えなかった。第一ルルに会話を聞かれている時点で迂闊だろう。そういうのはもっと密室でやらないと。

(ルルの言っていた見知らぬ貴族という、そいつが関わっているのか?)

 子供を欲しがっている家との仲介は別におかしいことではないが、そういう場合「売る」という言葉は使わないだろう。だからきっと言葉の通り人を売り買いしているのではないか。もしもその貴族が絡んでいるとしたら、そいつを手掛かりに、先の事件の犯人との繋がりがある可能性がある。

(それよりリリーだ。顔見知りになったルルが売られそうになったというのがショックなんだろう。好きな茶葉で淹れさせた紅茶を飲んでも一向に表情が良くならない)

「リリー、大丈夫だ。僕に任せてくれ。あの孤児院については、きちんと捜査するから」
「ええ、お兄様、……ありがとうございます」

 力無く微笑むリリアンにレイナードがいっそう眉を下げると、サロンに「リリアンが帰ったと聞いて!」とアルベルトが入ってきた。

「お父様。ただいま戻りました」
「おかえりリリアン、早かったじゃないか! レイナードもずいぶん早いな」

 ん?と首を傾げる父に、レイナードは「リリーに会えていなかったので」と添えて戻りの報告をした。リリアンのクッキーを食べたアルベルトは元気いっぱいだ、少し鬱陶しい。
 リリアンの異変に、入って一瞬で気付いたアルベルトは、鬱陶しいくらいの方がリリアンの為になると、そう判断したに違いない。現にレイナードに視線で「なにがあった?」と説明を求めている。実は、とレイナードが説明を始めると空いた席に腰掛け、耳を傾けていた。
 経緯を聞いたアルベルトは一言、「迂闊すぎないか?」と言った。

「まあ、尻尾を掴ませてくれるのならそれに越したことはない」
「裏はこれから取りますが。それまで泳がせた方が良さそうですね」
「そうだなあ」
「あの、お父様」

 リリアンが二人の会話に割って入るのは珍しい。アルベルトは努めて柔らかく笑んで、リリアンに視線を向けた。

「なんだいリリアン」
「お願いがあるのですが」
「いいぞ」
「ま、まだ何も言っていません!」
「私が、リリアンのお願い事を断るわけがないだろう?」

 得意げなアルベルト。さすがのリリアンも呆れた顔をしているが、すぐにハッとして表情を引き締める。そんな姿も可愛い、と鑑賞しているが、リリアンの表情は険しいままだ。

「その、ルルを我が家でメイドとして雇って、匿えないでしょうか」

 続いたリリアンの言葉に、おや、とアルベルトは眉を上げる。レイナードと視線を合わせるが、そのレイナードも意外そうな顔をしている。

「だめ、ですか……?」

 顔を見合わせる父と兄の姿に不安になったらしいリリアンが、上目遣いになって呟いた。

(ぐわああああああ! 可愛い! 無理! 可愛い!! なんだこれは現実か!? リリアンの貴重な上目遣い、そ、それもこの至近距離……! まずい駄目だ、あまりの可愛さに気が遠くなりそうだ……いや待て私がここで倒れたら今後誰がリリアンを守るというんだ深呼吸をしろ息をするんだ、私は……生きねばならない!!)

 まずい、まず過ぎる。リリアンは真面目に申し出ているというのに、ここでアルベルトが表情を崩してデレデレするわけにはいかない。例えリリアンが小悪魔的な可愛さで悩殺してきたとしてもだ。

とうとっ……んんん!!」

 アルベルトは自分の意志とは無関係に「尊い」と言葉を発しそうになった口を認識した瞬間、魔力を口に集中させて筋肉を強制的に動かし、閉じさせた。危なかった、舌を噛みそうだったし、リリアンを更に不安にさせるところだった。
 まだ正気に戻っているとは言い難いが、アルベルトはリリアンに向き直す。

「駄目ではないよ、リリアン。うちで匿うのが一番だし、雇うことにすれば彼女に賃金を与えられる。だからこその提案なのだろう? ただ、リリアンからの提案だったのに驚いただけで」
「浅はかでしたでしょうか」
「いいや? 現実的で的確だ。あの小さかったリリアンが、ここまで考えて提案出来るくらい大きくなったんだなと、そう思っただけさ」

 大きくなったね、と頭を撫でると、リリアンは照れくさいのかちょっと赤くなってむくれた。そんな場合じゃないのにと、そう思っていてもアルベルトの言葉がくすぐったいのだろう。むくれるリリアンもやはり可愛いから、一粒で二度美味しいと、アルベルトはご満悦だ。レイナードの表情も柔らかい。レイナードもきっと、アルベルトと同じことを感じていたのだろう。

「じゃあ、ルルをメイド……では身分も年齢も足りないから、見習いとして雇うよう、手配をしよう。父上、それで宜しいですか」
「ああ。手配は任せる」
「わかりました」

 そう言って、レイナードは席を外した。
 それを見送るリリアンは、レイナードがドアを出てしばらくしてから、アルベルトへ改めて向き直した。

「お父様、もうひとつお願いが。……お兄様はとっても優秀だわ。失敗なんてしないだろうし、無理もなさらないと思う。でも、危険なことがないか、心配なの。お兄様が危ない目に合わないように、手を打つことはできる?」
(危なくないように、か。そうなると……そうだな、大元を潰してしまえば、危険なことは起こらないよな)

 リリアンの憂いを晴らすことだけが重要である。それになにより、リリアンに頼られたのだから、アルベルトはやる気が爆発している。当然、頷く以外の返答は存在しない。

「もちろんだ。お父様に任せておきなさい」



 その日は久しぶりに——と言っても三日ぶりなのだが——家族三人揃っての晩餐となった。会話の内容はほとんど孤児院の話だったが、目を覚ましたルルはすっかり元気になっていたこと、メイド見習いとして働けることになったと聞いた時には仰天していたことを楽しげに話すリリアンに、アルベルトもレイナードもふわりと笑んでいた。
 父と兄に相談できたことで安心できたのだろう。食後の様子からも、リリアンは普段の調子を取り戻したようだった。夜もいつも通りの時間に寝付いた。最近はいつもより遅い時間まで付いていた明かりは落とされ、それを確認したアルベルトはそっと庭に出る。
 そこには簡素な服装のレイナードが、供も付けずにいた。当たり前のように、レイナードはアルベルトの姿を見付けると「では、行ってきます」と言う。
 アルベルトはうん、とだけ返した。

「リリアンを悲しませるような真似はするなよ」
「するつもりはありませんけど?」

 きょとんとするレイナードに、アルベルトは笑い声を上げる。

「そうか。なら、いい。気を付けろよ」

 はい、と言ったレイナードの姿はあっという間に闇に紛れる。頼もしくなった息子の姿に満足して、アルベルトは屋敷に戻った。



 虫の声もしなくなったこの時期、長時間外に出るのが少し辛くなってきた。吐息が白くなるのはまだ先だが、夜半も過ぎる頃となると暖房が恋しくなる。レイナードは冷えた指先を擦り合わせて、ひたりと壁に掌を当てる。
 ここはルルのいた孤児院、その二階だ。都合のいいことに目的の部屋の下は物置があって、レイナードに足場を提供する形になっていた。子供達が全員眠っていて、シスターが留守にしていることを確認したレイナードは、シスターの部屋に忍び込む為単独で孤児院へやって来たのだ。
 石造りでなくてよかった、とレイナードは内心思っていた。石だとちょっと面倒くさい。煉瓦の建物が一番、レイナードにとって都合が良い。
 壁に当てた掌に、魔力を流す。と、次の瞬間、ざらりと壁が消失した。正確には砂になったのだ。レイナードの足元には、煉瓦色の砂が山になっている。
 レイナードの使う魔法は土。一つの属性に特化したレイナードの魔法はアルベルトをも凌ぐ。その彼に土製の壁は無いものと同じだ。煉瓦の砂の山を崩さないよう、できた穴から部屋の中に忍び込んだ。
 室内に怪しいものは特に無い。ベッドと、机と椅子があって、この部屋には暖炉があった。もっと贅沢な趣向品があると思っていたが、そういう華美なものは見当たらなかった。
 と、ベッドと壁の間に、小さな金庫があるのが目に入る。国営とは言え少なからず金の動きがあるから、金庫があること自体はおかしくない。他にめぼしい物もないので、レイナードは金庫に近付いた。屈み込んでみるとシンプルなダイヤル式のものだったが、暗証番号が必要なタイプだ。開けるには手間がかかって面倒くさい。滞在時間が長くなると見つかる危険性も高くなる。たいへん面倒くさいこともあって、いったん出直そうか、となんとなく金庫をまじまじと見ていると、床の板の色の違う箇所があるのが目に入った。金庫をずらしてみると、長期間動かされたことがなかったのか、床板は金庫の形に焼けている。床板におかしなところはないから、金庫の裏に暗証番号でも貼り付けてあるのかと思ったが、壁に一箇所、煉瓦をくり抜くように削った場所があって、そこに文箱が突っ込んであった。
 レイナードはそれを手に取る。からくりの木箱のようで、どこにも蓋が見当たらない。
 だがレイナードはそれぞれの面の板を少し指で押さえ板の遊びを確認すると、するするとそれを解いていった。レイナードは知恵の輪とかからくり箱とか、そういったものが特に得意なのだ。小さい頃王城の解いてはいけない類の仕掛け戸を開けてしまって、大人達を困らせたことがある。慌ててそのあとすぐ手順通りに閉めたからそれは無かったことになっている。が、子供心にレイナードは「これはやってはいけないことだったんだ」と冷や汗を流した。あの時は非常に焦った。
 レイナードに開けられない扉、というのは存在しない。仕掛けなら解いてしまうし、土属性の魔法を使えばもっと簡単だ。
 あっという間に文箱を開けたレイナードは、中に入っていた手紙を手に取った。中身を読んでみて愕然とする。

(これは……そうだったのか。奴らは無関係なのか)

 ともあれ証拠は見付けた。あとはこれを騎士団が抑えれば、そこから調査が進むだろう。
 確認したかったものに近いものを見付けたので、これ以上の長いは無用だ。レイナードは手早く手紙を戻し、文箱を閉じて壁のくぼみに戻すと、金庫を戻す。極力振動を起こさず、音も立てないよう注意を払うのを忘れない。ちょっとずれた位置に金庫を戻して開けた穴から外に出ると、レイナードは崩した煉瓦の砂の上に手をかざす。魔力に反応した砂は、ふわりと巻き上がって渦を巻いたと思うと、一気に壁の穴まで吹き付けてまとまっていく。そうして次の瞬間には、すっかり元通りの煉瓦の壁が現れた。ちょっと色味が変わっているかもしれないが、大きな傷や欠けはなかったからそう気付かれることはないだろう。
 レイナードは周囲に人影が無いことを確認すると物置の上から飛び降りて、そのまま裏手の林に駆けていった。靴跡は残らない。アルベルトが様々な用事に都合がいいよう、靴底に加工を施した特別な靴は、レイナードも愛用している。特にこういう夜には持ってこいだ。それに加えて、魔力で大地を均せば痕跡を残すことなく立ち去れる。
 レイナードが立ち去った後には、いつもと何も変わらない景色だけが残っていた。
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