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1.娘が絨毯が綺麗と言ったので②
しおりを挟む「オルオポリス織り、というの? とても素敵ね」
三十センチ四方の織物を手に、ぱっと顔を上げた少女は、アルベルトに眩い笑顔を向けた。きらきら輝く瞳、紅潮した頬。形の整った唇は紅を差していなくても鮮やかで、今は口角を上げて笑みを浮かべている。アルベルトも釣られて笑む。最愛の娘の微笑みほど尊いものがこの世にあるだろうか。
本当に素敵だわ、と彼女が眺めている織物は、今はもう新しいものは手に入らない。ここにあるのは懇意にしている商人から渡されたもので、たまたま手に入ったとかで話の種として購入したものだ。偽物であることも考えられたが、そもそもアルベルトの手元にそんなものが紛れることはあり得ない。なのでこれは確かに本物なのだ。もっとも、手に入れたのはずいぶんと前のことだが。
何十年かぶりに引っ張り出してきたのは、娘に教えた通りオルオポリス織りと呼ばれるもので、とある地方でごく僅かに作られていた伝統工芸品である。その意匠の繊細さから模倣品が横行し、輸出の規制なんかもあったが、結局後継者不足と原料の入手難、国勢の変化により失われた技術となってしまった。そのためこの僅かな大きさの織物でもとんでもない価値がある。
なぜそんなものを倉庫から出してきたかというと、娘の部屋の模様替えをするためだ。ここの所浮かない様子でいることが多く、何か気になる事でもあるのかと問えばそんなことはない、という回答しか返って来ない。侍女にも探らせたのだが、本人もうまく言葉にできないようだ、ということだった。そんな彼女の気分転換になればと、雰囲気を変えてみることにしたのだ。
突然父親が織物を手に駆け込んで来て、よく分からない事を叫ぶものだから驚いたようだったが、模様替えをしてみないかという言葉になんとなく察したようだ。そうねえ、と呟いて、それから織物を見て——ああ、その表情の変化は、まさに蕾が綻ぶ瞬間そのもの! 美しい花が開くその様を、アルベルトは心から喜んだ。
倉庫から持ち出したこの織物は、同じものは手に入らない。なので、似たような別の物を探す事になるだろう。それでも雰囲気の参考にはなる。意匠のサンプルに良いものはないかと、そう思っての倉庫の大捜索を行ったのだ。
そして今、アルベルトの想像以上にリリアンはその織物がお気に召したようだ。頬を紅潮させ、最近の浮かない様子が嘘のように笑みを浮かべ、何度も綺麗、素敵、と呟いている。
そんな娘の姿に、アルベルトの心の中は大荒れだ。
(これほど喜ぶとは想定外だ。あの時の私よ、良くやった。ああ、リリアン。普段から当然可愛いが、喜びに沸く姿は一層可愛いらしい。いや、可愛いなんて生易しいものではないな。この姿、まさに天の使い、すなわち天使!! リリアンのこんな姿を見られるとは! 買っておいてよかった!!)
それを表情には出すことはないが。アルベルトの心の中はたいへんうるさい。
にこりと大人の節度の範囲の柔和な笑顔に留めて、アルベルトはリリアンに歩み寄った。
「気に入ったかい、リリアン」
「ええ、とっても! 特にこの赤が素晴らしいわ。深みがあって、古いものなのに褪せていないなんて。染色の技術が良いのね」
色褪せが無いのは保管の状態にもよるものだが、技術が良かったのはその通りなので、アルベルトはさすがリリアン、素晴らしい観察力だと手放しで褒め称えた。
「お父様、それは褒めすぎよ」
リリアンはさらに頬を紅潮させ照れるように言ったが、ふっと表情を翳らせた。
「でも、これを作る技術は失われてしまったのでしょう? 残念ね」
「リリアン……」
しゅんとする娘リリアンに、アルベルトもつい声のトーンが落ちてしまう。栄枯盛衰は世の理ではあるが、それによってリリアンが悲しむのは看過できない。
とはいえオルオポリスの織物が作られなくなって、ずいぶんと経ってしまった。当時のことを覚えている者が残っているとは到底思えない。思えないが、アルベルトはちらりと視線を控えている執事へと移した。長年仕えてくれている彼は意図を察し頷いて寄越した。きっと良いようにスケジュールを組んでくれることだろう。
(残念がるリリアンの姿も美しいが、やはりリリアンは笑顔を輝かせてこそ。それに勝るものはない以上、何もせずにいるのは悪手というもの)
他にも、珍しいものではないが、保管している織物があった。持ち出したそれらを手元に引き寄せて、リリアンに渡す。
「気に入ったものがあればお父様に教えておくれ。リリアンの気に入る最高のものを準備してあげるからね」
「ええ、わかったわ」
良い子だ、とリリアンの頭を撫でると、アルベルトはその場を離れた。
ぱたん、とドアが完全に閉まり廊下に出ると、執事のベンジャミンが近付いてくる。視線を向けずにアルベルトは問い掛けた。
「技術者はいないはずだな?」
「はい、間違いなく。地方を治めていたのも今では別の国です」
「原料は」
「無くはないかと」
「そう、か」
屋敷の長い廊下を進みながら会話を続けるが、決定的な情報があるわけでもない。いかんせん情報が少なすぎる。なにか手立てを考えるにも不足しすぎている。それでだろう、優秀な執事は提案を持ち掛けてきた。
「レイナード様を呼び戻されますか」
「今日の予定は?」
「いつもの時間には戻るそうです」
「だったら今はいい。夕食後に執務室へ来るよう伝えろ」
「畏まりました」
「それまでに資料を集めろ。できる限り」
「心得てございます」
それでいい、とアルベルトは言って、執務室に消えていった。
(リリアン。お父様が必ず、オルオポリス織に匹敵するものを見つけてあげるからな!!)
◆◆◆
「よくやってくれた。ご苦労だったな」
翌朝、執務室のデスクには紙束が積み上がっていた。一晩でかき集められたオルオポリス織に関する資料である。
これを集めたのは執事ベンジャミン、アルベルトの息子レイナードと、協力を申し出たリリアン付きの侍女シルヴィア、そして彼らの腹心の部下達である。息子はともかくとして、協力してくれた使用人達には特別報酬を渡さねばならない。かの地の歴史書、管理者の一覧、奉公人の証言をまとめたメモ、口伝で残っていたという技法の一部。そのどれもが貴重なものだ。
だがしかし、決定的な事柄は見当たらない。
「まあ、おおよそ予想通りだな。ややこしい政治的な不安要素が無くて拍子抜けするくらいだ」
資料から目を離し、率直な意見を述べると、正面に立つ息子が僅かに口角を上げている。妹の為と言って、定時で仕事を切り上げて帰り、夕食後真っ先に屋敷から出て行ったレイナード。アルベルトと違ってほとんど表情筋が動かない息子は、表情が動かないだけで感情の振り幅は父親似だ。そうですね、とだけ言って、メモを広げているが、その実彼の集めた情報が一番多い。
にっと笑って、アルベルトは息子を労った。
「よくこの短時間で集めたじゃないか。諜報は使っていないんだろう?」
「ええ、まあ」
「なにか分かったか?」
レイナードは頷いてみせた。
「はい。ごく自然に技術が失われているということがわかりました」
「ごく自然に、か」
「ごく自然に、です」
なるほどなぁ、というアルベルトの呟きはその場にいる全員の総意だった。アルベルトもレイナードもベンジャミンもシルヴィアも、あまりにも自然すぎる、と感じていたのだ。
まず、人気が出たために模倣品が横行した。質の悪いものばかりだったので取り締まりが強化され、正規のものには品質の保持のために出荷制限と受注の制限がかかった。そうなると何が起こるか。価格の異常な高騰だ。まともに店頭で買えないので購入先は主にオークションになる。価格は消費者が勝手に釣り上げる。中には絨毯一枚とそれを使う豪邸とが同じ価値、というものまで出てしまった。
早くから国が介入していたが、人気は留まるどころか加速する。そのうちに敷物一枚を目当ての強盗事件が起きてしまったから大変だ。犯人は捕まり正当な処罰を受けたが、人々の間で不安視する声も多かった。同じ事件がまた起きるのではないかという不安だ。その心配はもっともだろう。
そんな中、機織りの工場で大きな火災があり——技術も、在庫も、何もかも燃えてしまった。
事業には国が介入していたから復興させようとしたそうだが、職人に口伝でしか技術が伝えられていなかったこと、火事の際に被害者が散り散りになっていたことから、うまくいかずに頓挫したそうだ。
ごく自然に、そうなるのは当然で、自然とそうならざるを得ない。そんな消失の仕方をしている。
「意図的に消したか」
「おそらくは」
そうなると話が違ってくる。何かしらの意図をもって技術を伝えなかった、それもこの規模となると権力者が動いているはずだ。なぜならこの織物は、かなりの高額で取引されていた。国内外問わずだ。それをわざわざ消失させようというのだから、生半可な家ではできないだろう。場合によってはどこかの王家が出てくるかもしれない。
どんな目的でそうしたのかはわからないが、なにが起こったのかがわかればそう難しいことはない。アルベルトは数ある資料の中から目的の一枚を引き抜くと、三人に向き直った。
「ではこれを確認しよう。それで片が付く」
そこに書かれていたのはとある商家の家名。件の織物を取り扱っているとか、そういう話は一切無い。それでも一連の資料に名前があるのは、それなりに理由あってのことだ。
レイナードが溜息を吐いた。
「我が家が声をかけるには格式が足りませんよ、父上」
「うん、そうだな」
「……あまり感心しません」
「そうだな。私もそう思うぞ、息子よ」
「それでもですか」
「勿論だ。なぜならこれは現在、我が家で最も優先される事柄だからな」
アルベルトはにやりと笑んで椅子から立ち上がる。
「リリアンのためだ。躊躇うことなど何一つ無い。可愛いリリアンのためだからな」
そうですか、という言葉のあと、思わずレイナードは目を細めて「今二回言いましたね」と漏らすのだった。
◆◆◆
屋敷の前に豪奢な馬車が停まったのは、昼を前にした頃である。この区域にあまり見ない様相で、どこの家の物かを示す紋章が入っていないことから、それは身分を隠したいどこかの貴族のものだとわかった。当主付きの執事だと言う男が降りてきて、責任者に会いたいと言い出したから、彼はこの屋敷が商家のものであるということを知ってやってきたのに間違いなさそうだ。
店番がやってきてその様に聞いたカミラは、仕方なく席を立った。その際に傍らに立つ秘書に目を向ける。実際の経営は、彼の手に寄るところが大きい。どういった話かはわからないが、彼に同席して貰ったほうがいいだろう。年若い女であるカミラは、商売の席になると侮られることが多い。それも秘書を伴う理由のひとつだった。
カミラはブランケットを羽織ると、階下へ降りていった。
「お待たせしました」
商談を行う応接間にいたのは、中年の男だ。だががっしりとした体格なので、年齢の頃よりもずっと若々しく見える。隙のない目付き顔付きをしているわりに、とっつき難い雰囲気は無い。重厚な雰囲気をした、役人のような、軍人のような男であった。彼はカミラを認めると、その場で丁寧にお辞儀をした。それでカミラは、教育の行き届いた貴族の家の使いなのだろうと、そうあたりを付けたのだった。
「私が代表のカミラと言います。こちらの彼は、私の秘書です。同席をお許し下さい」
「承知致しました」
席を勧め、向き合うと、彼は早速ですがと切り出す。
「当家の主人が、是非にと願っているものがございます。こちらでしか取り扱っておられないということですので、伺いました」
「それでわざわざ? 失礼ですが、どちらからのご依頼でしょう」
男は、紋章の無い馬車でやってきた。カミラが名乗っても、話を切り出しても、どこの家の者かは言ってこない。自身の名がベンジャミンであると言うばかり。どうしても警戒心が頭をもたげる。身元の分からない相手に取引を持ち掛けられて乗る商人は、普通いない。
店の者が紅茶を運んで来てもそれを手に取らず、ただぴしりと姿勢を正した男は、問い掛けには答えず、カミラが思ってもいなかったことを告げた。
「オルオポリス織り、それによく似たものがこちらにあるとか」
カミラはひゅっと息を呑む。秘書も、雰囲気を固くした。男が口にしたその名前は、彼女達にとって特別なものだからだ。
カミラの中で警戒心が高まる。
「それは……一体、どういう」
「当家のお嬢様が、かの織物をとても気に入られまして。ですがその織物はもうすでに手に入らない。技術もそれを受け継ぐ者も喪失してしまったとか」
「そう、なのですか」
「ええ」
男はなんでもないことのように続ける。
「こちらの屋敷の織物は、オルオポリス織りとよく似た意匠なのだそうですね。それを知った当主が、是非織物を購入させて貰いたい、と」
カミラは黙ってそれを聞いていた。
普通なら、商機と見ても良さそうな話であるが、男が言ったかの織物に似た物があるという部分、これを肯定もできないカミラは、どのように言うべきかを考える。下手に言って興味を持たれたくはない。ちらりと秘書を見れば、彼も硬い表情でこちらを伺っていた。
だから言ったのだ、家の者しか入らない所ならともかく、他人の目に触れるような場所に置くべきではないと。カミラはここには居ない、伯母を恨めしく思った。
それを思っても何の解決にもならない。カミラは言葉を選んで、ともかく相手の興味を削がねばならなかった。
「申し訳ありませんが、そういった織物は、うちでは取り扱いがございません」
「そうなのですか? この部屋の絨毯は、まさにその『よく似た織物』のようですが」
男が、足元に視線を落とす。応接間の絨毯は、毛足の長い贅沢なものだ。客人を招き入れ、商売の話をするのに、みすぼらしいものでは体面が悪い。それで良いものを使っているが、オルオポリスによくある特徴を含んではいなかった。どういう意図で男が言い出したのかわからず、訝しんでいるカミラに、彼は視線を戻した。
「この赤は、オルオポリスとほとんど同じに見えます」
「……!」
男の声は、ほとんど断言していた。どうやってかは知らないが、この男は現物を見た事があるようだと、そう思わされる。
分かりやすく動揺してしまったカミラは、ぎゅっと手を膝の上で握った。どこの誰の使いかはわからないが、これ以上探られては困る。多少強引でもお引き取り頂くしかなかった。カミラでは、この御仁の相手は荷が重い。
「……申し訳ありません。こちらのものは、先代がどこからか入手したもので、私も由来は存じ上げないのです」
「おや、そうなのですか」
「ええ。それに、かの織物についても、それに似たものについても、私にはなんのことか……」
「それは残念です」
男はまったく残念そうに見えなかったが、執着するような素振りも見せなかった。どう足掻いても、彼がどこの家の者かを聞き出す事はできなそうだ。それだけの場数の違いを感じる。
カミラが男から目を逸らせずにいると、秘書が「失礼します」と断って、カミラに耳打ちをした。もちろんこれは振りだけだ。この場を切り上げる為のよくある手段である。
男は不機嫌になることもなく、その様子を見ている。カミラは秘書に頷いて見せてから、男に向いた。
「申し訳ありません。実は、この後他の商談がございまして」
カミラの言葉に、男は「ああ」と呟いた。
「それは、仕方がありませんね。残念ですが、これで失礼致します」
「ええ」
彼はさっと立ち上がって、一礼して去って行く。それを秘書が送っていった。
なんだったの、と思わずにいられないが、それどころではない。カミラはテーブルに乗った紅茶をぐいっと飲み干すと、使用人に急いで使いを出すよう指示をした。
「ワーゲンおじ様と、あとは伯母様にも。今日中に来て下さいと」
「かしこまりました」
慌ただしくしていると秘書が戻ってきた。彼は眉間に皺を寄せて難しい顔をしている。が、カミラも似たようなものだった。
「困ったわ。どこの誰かしら。かなり高位のように見えたけど」
「お見送りの際に馬車を見ましたが、検討がつきません。ああいった方は身の隠し方もご存じのようですね」
秘書の言葉に舌打ちをしたくなる思いで、カミラは顔を顰めた。あの客人、どこかの貴族の執事だそうだが、その主人が誰なのかまったく分からない。カミラはそこそこの商家の代表ではあるが、爵位のある身ではない。そんな彼女の立場では、通常関わりがないくらい、地位の高い家ではないだろうかと感じたが、実際のところどうなのかは分からなかった。
それよりも、と焦った様子でカミラは秘書を振り返る。
「ばれていると思う?」
「どうでしょう、まだなんとも」
「用心に越したことはない、か」
カミラは視線を下げる。その先にあるのは、絨毯だ。この家を象徴する物と言っても過言ではない。
これは何よりの財産であるが、何よりも厄介の種であることは間違いなかった。それを思ってカミラの口からは、自然ため息が溢れる。
「ともかくおじ様達に相談するしかないわね」
だが、あの姦しい伯母がなんと言うだろうか。それを考えると、最早頭が痛くなってくる。
とにかく、伯母達が揃う前に、途中の書類を仕上げてしまおう。いや、それよりもまずは差し出す手紙である。カミラは重く感じる足取りで、一度部屋に戻った。
◆
屋敷の屋根に人影が現れたのは、夜もずいぶん遅い時間のことだった。高い壁をよじ登って来たとしか思えないその影は、少しの間ゆらゆらと揺れると、ふいに姿を消した。狙いを定めた窓のひとつに向かって降りていったのである。
窓枠を嵌め込む為の出っ張りに足をかけ、両開きになっている窓の中央に手をかざす。中に人の気配は無いから、もちろんそこは施錠されている。引いても押しても開くことはない。それを確認したように、人影は一旦窓から手を離した。が、どうしたわけか、手が離れたと思うと、キィとわずかな音を立てた窓が、外側へ向かって開いた。開いた隙間から、人影はするりと室内へ入っていく。
たふ、と毛足の長い絨毯に、男の靴底が触れた。毛足が長い絨毯は靴音を消してはくれるが、その内に細かな粉塵を含んでしまうから、下手を打てば痕跡を残すことになる。もっとも、対策をしているのでそんなことは気にしていない。男がなにを気にして足元を見ているかと言えば、それはその絨毯に他ならなかった。
細かな紋様を織り込んだ上等なものだ。毛足が長いと必然的に原材料を大量に使うから高価になるが、更に様々な色の毛糸を使い、これだけの図案を織るとなると、その価格は跳ね上がる。腕の良い技術者が相当な時間をかけて作るそれが、生半可な値段で流通するはずがない。
そろそろと潜む必要のない室内を進み、僅かに扉を開いた。廊下に人気の無いことを確認すると、男は部屋を出た。その廊下にも、あの絨毯が敷き詰められている。月明かりの中、それを見た男は、そっと口角を上げた。
男——アルベルトは確信した。己の推測は正しかったのだ。
ひたりと目的のドアの前まで辿り着くと、そこでしゃがむ。木製の扉に掌を当てて、目を瞑って集中した。するとアルベルトの耳には、部屋の中の会話が届いて来る。
まず聞こえたのは、どういう事なの、と叫ぶ女の声だった。
◆
「どういう事なの。詳しく話して頂戴!」
カミラは、きんきんと響く伯母の声に、こめかみを押さえた。
「今から説明するから。まずは、静かに聞いてくださる?」
さっきからそう言っているのに、いちいち突っかかってくるのはやめて貰いたい。お陰で話が進まないと言わんばかりに、そのままこめかみの辺りを揉みほぐす。唯一残った肉親とは言え、癖の強い伯母は、カミラの頭痛の種だった。
カミラの要望通り、貴族の使いを名乗ったベンジャミンと言う男がやって来た当日の夜、カミラの伯母マルガレーテと、血縁関係には無いもののカミラの一族と深い関係のあるワーゲンがやって来た。どちらも遠方に住んでいるわけではないが、それぞれ予定があったことだろう。すぐに駆け付けてくれたことは有難いけれども、叫ばないで欲しい。
血気張る伯母とは対照的に、落ち着いた様子の壮年の男は、カミラの言葉に頷いてみせる。
「昼間、来客があって、それが絨毯を検分していた。そして、〝オルオポリス織り〟の名前を出した。手紙にはそうあったのだけれど」
「ええ、その通りよ、ワーゲンおじ様」
カミラは頷く。それを、「それで?」と繋げたのは伯母だった。
「まさかとは思うけれど。オルオポリスとこの家の絨毯が同じだとでも言ったの?」
でなければ、こんな急ぎの招集はしまい。伯母はそう続けたが、その顔には焦りともとれる表情が浮かんでいた。それは、ワーゲンも同じだった。彼の方は丸い眼鏡を何度も掛け直して、カミラの言葉を待っている。
「はっきりと、断言はしていなかった。けど」
カミラはぎゅっと唇を噛んだ。
「どうしてかは分からない。でもなんだか、同じものなのだという、確信があるように見えたわ……」
伯母もワーゲンも、愕然としたように脱力して、椅子にもたれ掛けた。俯いてしまっているカミラにも分かるくらいだったから、きっと思っている以上に驚いているのだろう。
三者の重苦しく吐いた息が重なる。
「疑わしいのであれば、最悪の可能性を考慮すべきよね……」
伯母の言ったことは、常日頃から彼女達が意識していることであった。幼い頃から染み付いた防災意識のようなものである。だから、カミラも基本的にはその意見に同意であった。
「もしも勘付かれているのならまずい。早急に行動を移さないといけない」
ワーゲンの言葉に硬直していると、伯母はカミラの秘書に視線を向ける。
「ミゲル。あなたが見た様子ではどうなの」
ミゲルという男は、カミラにとって歳の離れた兄のような存在だった。元々はワーゲンの部下だったのだが、商才を見込まれてカミラの母の代から商売に携わっている。その為カミラよりもずっと場をこなしているから、伯母もワーゲンも彼を頼るのは当然だった。
ミゲルはいつもより硬い表情で伯母を見返している。
「私もお嬢様と同じように感じました。煙に巻くのは難しいでしょう。我々では太刀打ちできないような、そんな威圧感のようなものを感じました」
「君がそう言うのなら、難しいのだろうね」
ワーゲンは再び眼鏡のつるを押し上げる。
「拠点を移そう」
ワーゲンのその言葉に、また重い息を吐いて、伯母は仕方ないわねと首を振った。
「ええ……出来る限り急ぎましょう。ここを棄てることになるのは、とても残念だけれど」
覇気は無かったけれど力強く言い切る伯母には、ある種の覚悟が見えた。カミラは、そうした方がいいことは理解できたが、まだ踏ん切りがつかなかった。カミラは生まれ育った場所を、危険が迫っているかもしれないという可能性の話だけで切り捨てられるほど、大人に成りきれていない。この場にいる他の三人とは違って、まだ希望があると、そう思っている。
「でもおじ様、伯母様。そこまでしなくても大丈夫かもしれないわ」
「そうだとしても、万に一つの可能性でもあるのなら、この国を出た方がいい」
「それはそうだけれど」
カミラ、と呼ぶ声は、母親が子を嗜める色を含んでいた。いつになく冷静な伯母の声に、カミラは言葉を詰まらせる。
「ここで楽観視して、あなたを危険な目に遭わせるわけにはいかないの」
「でも、ここには父さんと母さんのお墓があるのに!」
反射的に叫びになった。まだ新しいそれは、カミラにとっては手放すことのできない、家族の縁そのものである。
「それでも、よ。私達がオルオポリスに関わっていると、貴族に知られるわけにいかない」
カミラは息を呑んだ。これが、普段あれほど我の強い伯母なのだろうか。普段からこうならば、カミラももっと伯母を頼ることができたのに。
僅かな希望と、絶望に似た喪失感。伯母に対して怒りを感じるのは、八つ当たりだろうか。
ぎりっと握り締める掌に痛みを覚えるが、振り払えない。この家を、土地を、振り払う決意が湧いてこないから。これを振り払ってしまえば、あとはもう、脱出の算段に移ってしまう。
ぎりぎりと拳を震えさせるカミラに、伯母が手を伸ばした時だった。
「——話は聞かせて貰った!」
どばん!と音を立てた珍入者が現れたのは。
◆
「それでも、よ。私達がオルオポリスに関わっていると、貴族に知られるわけにいかない」
良し来た!
聞きたかったことをその耳で聞いたアルベルトは、うむ、と頷くと、ドアノブに手を掛ける。そのまま回そうとしたが、内側から鍵がかかっていた。なので、この屋敷に侵入した時と同じように鍵穴に手を添え、ちょちょいと魔力で風を操った。内側のつまみを回すタイプの鍵ならば、これで簡単に開けられるのである。もっとも、単純な構造の鍵に限るが。
風が渦を巻いてつまみが回る。かちゃんと小さな音を確認したアルベルトは、勢いよく扉を開け放った。
「話は聞かせて貰った!」
と、その様に叫んだのは、一刻も早く話を始めたかったからである。これ以上待てなかったのだ、彼の目的を達成するのに、かの織物は必要不可欠。早くそれを入手する算段をつけたかった。それは紛れもなく、娘リリアンの為である。彼はそれだけの為に生きているのだから。
どばん、と扉が開いて、カミラ達は一斉に音の方向へ視線を向けた。玄関もこの部屋にも、家中確かに鍵を掛けている。使用人も店の者もすでに建物の中には居ない。今この屋敷の中にいるのは、カミラを含むこの場の四人だけだ。だから、部屋に誰かが入ってくることはあり得ない。なので単純に扉が開いたことに驚いたわけだが、そこにいた人の容姿に、カミラは目を剥いて驚きに悲鳴を上げた。
「ぎ、銀髪!?」
——王族だ!
その声が叫びにならなかったのは、あまりの出来事に誰もが喉を引き攣らせたからだ。闖入者が現れただけでも驚愕なのに、それが王家に連なる者であったのは、蒼天の霹靂としか言いようがない。
跪くべきか、いやあれは侵入者である、けれどもこのままでは不敬ではなかろうかとカミラ達が身動きできずにいる中、かのお方は足取りも軽く、ごく自然に空いた椅子に腰掛けたものだから、更に困惑は深まった。「いやあ、遅くなってすまんすまん」とでも言い出しそうな自然さであった。
どの様に対応すべきか、カミラが狼狽えている間に、伯母マルガレーテが青い顔をしてその方に向いた。
「……アルベルト・ヴァーミリオン公爵閣下とお見受けしますが、相違ございませんでしょうか」
ひゅっ、とカミラの喉が鳴る。その名前は、貴族社会に疎いカミラでも知っているくらいの有名人のものだ。残念なことに、その人物の特徴と、カミラの目の前の人物とでは特徴が一致している。認めたくない、カミラはそう思った。
「ああ、合っているな」
それをこうもあっさりと認められては逆に疑いたくなるが、偽りではないのだとカミラは納得してしまった。何故ならば、目の前の彼は、明らかに常人ではない雰囲気を纏っていたからだ。高貴、という言葉で表される雰囲気というのはこういうものなのだろうと、漠然と受け入れてしまう何かが彼にはあった。
だからカミラは受け入れた。彼は間違いなく、ヴァーミリオン公爵本人なのだ、と。
ただ、公爵様ともあろう方が、こんな時間にこんな場所に居る理由がわからない。だいたい不法侵入でもしなければ、ここに居られないはずである。そうまでして、何の用でこんな所にやって来たのだろうか。それを訊ねていいものなのか、そもそも直接口を聞いていいものなのかわからず、カミラは視線を彷徨わせる。マルガレーテもワーゲンも、戸惑いの表情で高貴なお方の様子を伺っている。
そんなカミラ達の困惑を知ってか知らずか、アルベルトはにこやかに話し出す。
「君達はオルオポリス織りの正統な継承者だな?」
「!!」
カミラは目を見開いた。それは、カミラ達が何よりも秘匿せねばならない事柄である。
ワーゲンがあわあわと首を振った。
「い、一体なんのことだか」
「とぼけなくていい、調べはついている。東国で潰えた製法は、極秘に受け継がれていたのだろう? それとなく歴史から消えたことにして、技術は残し、そうとは知られないよう、ごく僅かに織り込むだけに留める。そうやって表舞台からは抹殺しつつ技術だけは継承し遺した。目的は、そうだな、利用してきた連中への意趣返しといったところか。ただ、製法だけは失くしたくなかったと、そういう事だろう」
息を呑んだのはワーゲンとマルガレーテ、それとカミラとミゲル。つまり全員だ。さらりと述べられた見解は、ほぼ事実そのものだったのだ。
彼がどのようにしてそれを調べ上げたのかは分からなかったが、公爵ともなれば造作も無いことなのかもしれない。得てして権力の前に、庶民は無力である。今まで露呈しなかったことが幸運だったのであろうと、マルガレーテはぎりっと奥歯を鳴らす。不敬なのは承知で、美貌の男を睨み付けた。
「であれば、ご存じでしょう。我々がオルオポリス織りを作る事はあり得ません」
「それは困る」
「困る、とは?」
「娘が欲しがっている。あれでなければ駄目なんだ」
娘、と呟いて、カミラははっと顔を上げた。昼間のあのベンジャミンという貴族の使い、彼が言っていた。「お嬢様がオルオポリス織りを気に入って、当主が似た様なものを欲している」と。その当主というのがヴァーミリオン公、お嬢様というのは彼の娘なのだ。
カミラはどういう事だという表情をするマルガレーテを差し置いて身を乗り出す。
「昼間来た、ベンジャミンという方は、閣下の使いでしょうか」
「そうだな。この屋敷の織物にオルオポリスの特徴があるらしい、という噂を確かめさせた。うちにある織物と同じだった、と言っていたな。私も確認した。間違いなく、この赤はオルオポリスと同じ赤だ」
カミラは、眉間に皺を寄せる。カミラの手元にも、祖母やその他の職人が織ったという現物はあったから、比較はできる。かと言ってそれが素人目に同一かどうか分かるかというと、厳しいはずだ。
でも、この自信の溢れる態度。きっと見極めたのだろう。そういった術を持っているのかもしれない。
ただそれでも、はいそうですかわかりましたと返答することはできなかった。
「とは言われましても、あれを世に出すことはできません」
「なぜ」
「なぜ? そこまで調べているのであれば、ご存じでしょう。私達はもう、利用されたくない。利用されて搾取されるわけにいかない。オルオポリスと同じ悲劇を起こしたくないのです!」
アルベルトはきゅっと眉を寄せる。
「何を言っている? 私は娘が欲しがっている、と言っているんだが。それ以上は必要ない」
その言葉にカミラの眉間の皺は深くなる。
「ええと……大量に売り出して利益をお求めなのでは」
アルベルトは、今度は首を傾げた。
「私が利益を求める理由が無いな」
それで、ワーゲンとミゲルははっとした。カミラも気付いた。この国にはまことしやかに囁かれる噂があった。周辺諸国の中でも豊かなこの国の産業には、ほぼ全てにとある方が関わっているというものだ。あまりに規模のおかしな話であるがゆえに、市民達は笑って冗談としているが、商売に関わる者は特に言い聞かされることである。カミラも先代の母に聞いた時には冗談だと思ったものだ。だが取引のある商会や貴族達は、ごく真面目に言ったのだ。その噂は真実である、と。
この国の現在の繁栄はかの方——ヴァーミリオン公の尽力あってこそのものである。流通しているもので、ヴァーミリオン家の手が入っていないものは、この国には無いという。
目の前の本人の様子から、噂は本当で、彼が真に財を成すことに興味が無いのだと感じた。
けれども、だからと言って、信用して良いものか。言われるがまま織物を作って、また同じ事になったら。そう思うとどうにも返事が出来なかった。
ただ、ワーゲンと、それからマルガレーテは、不安に思う事があった。このままひっそりと商売をしていく事に限界があるのでは無いかと、そう思っていたのだ。まだ若いカミラだけが技術を受け継いでいるこの状態で、継承者という存在を秘匿しつつ、織物を遺し、次代へそれを繋げていく——。それをやるのに、自分達だけではカミラを守ることは出来ないかもしれない、と。彼女の両親、マルガレーテにとって妹と義弟となる彼らが事故で亡くなったりしなければ、なんとかなったかもしれない。けれども彼らを失ってしまった今、どこかの権力のある人物の庇護を求めるのは、そう悪い事とも思えなかった。ましてや今回の相手は、国内でも随一の財を誇る公爵家である。この手を取るのは、一族を救う事になるかもしれない。
だが大きな権力は怖い。ひとつ下手を打てば、破滅は一瞬である。それを考えると、やはりどうしても言葉は出て来なかった。
沈黙する四人の中、うーん、とアルベルトは首を捻る。
「君達にうんと言って貰わないと困る。不安要素があるのなら話を聞くが。何が障害になっている?」
その言葉に、マルガレーテがおずおずと答える。
「オルオポリス織りの時と同じ事になるのを防ぐ為、私達はひっそりと技術を継承するだけに留めているのです」
「では、ヴァーミリオンで囲おう。それならばどこも、そう手出しはできまい」
一族と、それに関わる者全てをヴァーミリオンの名の元に庇護しようというのである。確かにそれならば、国内の貴族から横槍を入れられることはあるまい。
それでも人の口に戸を立てることはできない。カミラ達が継承者で、その存在が漏れる可能性は十分にある。マルガレーテはそれを口にした。
「けれど、どこで誰にばれるか……」
「ならば、うちで技術を再現した事にしよう。成果は君達の功績にならないが、少なくとも足跡を追うことは出来なくなる。公爵家に探りを入れるような輩は居ないぞ。全て潰したからな」
ぐっ、と言葉に詰まったのはマルガレーテだけではなかった。ワーゲンもミゲルも、カミラも仰け反った。権力というのは恐ろしい。この御仁は、当たり前にそれを行使しているようだった。
カミラ達は、名誉とか称賛が欲しいわけではなかった。ただ、当時の技術者が懸命に編み出したあの色を、その方法を後世に残したいだけだ。だから功績がどうとか、そういうのには興味が無い。アルベルトの提案は悪いものではない、のだが。
どうにか諦めて貰おうと、マルガレーテは懸命に言葉を続ける。
「げ、原材料の入手が……」
「ヴァーミリオンの財があればどうとでもなるはずだ」
「技術をお渡しするつもりはありません」
「それについても心配無用だ、技術が欲しいのではない。技術は君達だけが知っていればいい。オルオポリスのあの赤を継承した織物が欲しいだけなのだよ、私は」
当初の姿勢から変わらず、ほいほいと提案するアルベルトに、いよいよマルガレーテは何も言えなくなる。すっかり大人しくなったワーゲンも青ざめるミゲルも、ただそのやりとりを聞くだけだ。なにしろ、条件だけ聞けば、従うしかなさそうだったのだ。
なんでもない事のようにアルベルトは続けた。
「君達が言うだけ材料を準備しよう。工場も、必要ならこちらで建てる。信用できる者にのみその場所を共有して、君達の居場所を探れないようこちらで手を打とう。安全の為に、ヴァーミリオンの領地に移って貰う事にはなるが」
カミラはそれを聞いていて、眉間の皺を深める事しか出来なかった。
「そうまでして、何が目的なのですか」
「始めから言っている。娘の為に、オルオポリス織りが欲しいと」
「それだけ、ですか?」
それだけではないはずだ、とカミラは思った。カミラの大叔母が織った大きな絨毯は、当時の貴族のタウンハウスと同じくらいの値段がついたこともあった。それを復活させて、自分の領地でだけ作ろうというのだ。それがどれだけの利益になるか。
だがアルベルトはくいっと片方の眉を上げる。おかしなことを聞くものだ、と首を傾げた。
「それだけだが? リリアンの部屋の模様替え、それに必要な分を揃えるのに必要だと言うなら、工場のひとつやふたつ準備する。それに何か不都合があるとは思えないんだが」
他に何があるんだ、と言うアルベルトの姿に、カミラは脱力する。そこに一切の下心を感じなかった、気がしたのだ。
はあ、と気の抜けたため息を吐き、カミラは本来直接口が聞けないくらい高貴なお方に向き直る。
「……どういった意匠の物をお探しですか?」
目の前の美貌の男が、ぱあっとその表情を輝かせて——机を取り囲む四人は、あまりの眩さに目を瞑ったのだった。
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